終章 ある専従役員の手記


 

「一九六七年から一九六八年にかけて起こった『阪大生協事件』について当事者としての当時の心境や意見を聞かせてくれ」との依頼の話を聞いたとき、最初わたしは断ろうと思った。あの事件はすでに人々の忘却のかなたに消えさってしまったできごとだし、わたし自身、あの事件が原因となって生協理事会から解任されるという屈辱的な体験をしているところから、あの事件のわざわざの回顧によって忘れられていた当時のいまわしい思いがわたしの胸をおしつけてき、そのためにわたしは新たな悲憤と妄想にとりつかれてしまうからである。
 しかしながら、そう思ったあとで、ふとわたしは、当時の阪大生協の業務の責任者の立場にあったわたしに対する様々な誤解とデマゴギーが第三者をして誤った事実をねつ造させ、それがまたそのまま歴史的事実になってしまいはしないかと心配になり、それを避けようとする気持の方がさきほどの思い以上に強くなってきているのに気づいた。その意味から、はじめの断ろうとした意志を思いとどめ、あえて当時のわたしの立場と見解とをあきらかにして、それを第三者の評価と見くらべたりして、もって、わたし自身の変革のための布石としてみたいと思うようになった。従って、ここで当事者としての見解をのべるのは依頼に応じたからだけではなく、自分自身のためでもあるということをあらかじめいっておきたいと思うのである。
 あの事件はわたしにとれば、まさに自己変革の可能性をわたしがもっているかどうかを試す試金石となっていた。たしかにあの事件によってわたしは従来の自分のたっていた基盤に警告を与えられ、自分にたえず問いかけては反省する厳しい姿勢の欠如をまざまざと思いおこさせた。それは、いったん獲得したもの、思想、地位、名誉、その他いかなるものに盲目的に依拠し、その不動性と絶対性を安直に信じて怠惰な生き方に安住してしまうわたしのごとき小ざかしい人間の行為に対する挑戦となっていた。
 そしてあの事件は政治的権力の交差する舞台の中で、わたしをふくむ数名の人間がその権力の論理によってパージの宣告をうけて、自由のようにみえてあらゆる抑圧のいきかう路上にほうりだされたわけであるが、もしわたしが従来の基盤に立脚し、安住を願う気持から、なにもしないで、ただ強者の恩寵を待ちつづけるような態度をとるか、あるいはそれ以上に自らすすんで強者の飼い犬となり、不正と暴力のラク印をおされるいむべき野良犬と称せられる者に対して法と正義のミハタをふりかざすだけの態度をとっていたならば、未熟ながらも人間として生きることの問いかけだけは忘れないでおこうという気持をもちつづけたり、富や権力にいぎたなくこだわるまいという信条を保持しつづけたりはできなかっただろう。大げさにいわせてもらえば、失われた物質は大きかったけれども、腐らんとしていた魂に生の息吹を吹き込んでくれたのがあの事件なのであった。
 とはいっても、正直なところ、あの「阪大生協事件」の背景にあった政治的葛藤は、当時のわたしにとっては何の縁もゆかりもないできごとであった。わたしはある特定の政治的信条の信奉者でもなければ、いわんや政治組織のメンバーでもなかった。この世界の言葉でいえば「ノンポリ」であった。ただ生活協同組合という比較的左翼的な考え方を土台にして成り立っている組織にいたところを見るに、全く政治的においのしない人間であったのではなく、むしろある意味では政治的関心の大いにあった存在、今はやりの言葉でいうならば「ノンセクト・ラジカル」であったといえようか。
 ところが、わたしのような人間は政治的セクトをもっている人間からすれば、「優柔不断で、態度のはっきりしない」かすんだ存在であった一方、党派の色にそまっていないだけに、政治的セクト的主張が一般的意見であるかのように見せかけるために利用するのに、かっこうの存在であったらしい。ただし彼らに気に入られなくなると、わたしのような人間は常に定まった評価を与えられているようである。
 たとえば、わたしとともに解雇されたK主任はわたしのことを「無能で、右翼的で、官僚的な」人間であるといったりしている。もっとも、この表現は怒ったときに相手によくいう彼個人の口ぐせであるといってしまえばそれまでであるが、一面の真理をついていることだけは確かである。事実、同じようなことを理事会に与する政治的セクトからもいわれたことをわたしはよくおぼえている。
 いずれにしても「ノンポリ」あるいは「ノンセクト・ラジカル」は政治的セクトに固執する観点からすれば、本質的に、にてもやいてもくえないとまどいをおこさせる存在であったのである。こんどの場合、本質的にそんなわたしが事件の当事者から疎外されながらも、わたし自身の性分から、事件に関わっていたというわけである。手記をはじめるにあたって以上のような前おきを書きしるしておこうと思う。


 

さて、話は本題にもどるのであるが、G・H氏より事件のいきさつをこまかく書いた原稿をみせてもらったとき、そこにはわたしの立場がある程度理解されて紹介されてあったと思われたので、ここでは、いきなり事件の核心にふれるところから話をはじめようと思う。
 理事会と労組とが解雇問題をめぐって対立し争議に入っていったとき、専従理事として業務の担当をしていたわたしはこの問題にどう対処していってよりよき解決の道をみいだすかなどというぜいたくなハムレット的な悩みに身をまかせるわけにはいかなかった。事態は今すぐにでも、理事会側につくか労組側につくかの態度をきめさせるのっぴきならぬ性急さをもっていたのである。
 最初のころの理事会への参加を許されていたときでも、対象にあげられた従業員の解雇には反対であるとする理事としてのわたしの発言がただちに理事会を裏切り労組側にはしったと誤解されるほど、殺気をおびていたのである。デ学同という左翼の学生組織に所属する学生理事はある特定の考え方をもつ従業員の解雇にそれこそ自らの運命をかけていたようだった。理事会での学生理事のわたしに対する中傷は陰に陽になされていた。事情のなにも知らない教職員理事にわたしが理事会を裏切り労組と密通しているさまをさも見ていたかのように伝え、M専従が労組側についているのは労組の中の暴力的分子から脅迫されているからだとか、あるときは敵意をもって、又あるときは同情のポーズをみせてカン言するなど、その場の雰囲気に調子をあわせながら、良識的ではあろうが政治的かけひきにおいては赤子同然のあわれなオセロー達を利用した。
 思うに、はじめからの敵に対する憎しみよりも、味方だと思いこんでいた者にじゃけんにされたときに生じる相手に対する憎しみの方がより強烈であるらしい。あの事件がおこるまで、わたしは彼ら学生理事と一緒に阪大生協の業務、組織のいくつかの方針をたて、実行してきたのであった。わたしも又大阪大学卒業の先輩であったし、後輩の学生理事とともに仕事をする喜び、先輩後輩の関係から生まれてくる情緒的親近感にみたされながら、なんの違和感もなく、これまでやってきたのだった。
 とはいうものの、なんの違和感もないというのはわたしのあきらかなあやまりであろう。表面上は波風のたたない間柄にも、潜在的になんらかのわだかまりがあったのであり、それが図らずもあの事件によって顕在化したにすぎなかったのである。そういえば事件のおこるかなり前の常任理事会のときから、わたしやわたしよりもっと重責にあったS専従理事と彼ら学生理事との会話に時々ためいきまじりの沈黙がおこることがよくあり、両者の意味深長な苦笑にうながされて、議題を先にすすめたものだった。その苦笑の中ではあきらかにおたがいが「お前らの考えていることはよくわかっている。茶番はよそうじゃあないか」の合図を発信しあっていたのであった。
 こういう事態になったのも、たしかクズノとナカヤの両君が阪大生協に理事として参画しだしたころからではなかったかと思う。彼らが生協に入りだしたころのわたしは、生協運動に興味をもち且つ精力的な活動家の払底した時であったので、むしろ有能な人間の参加をえられたという意味で好意的でさえあった。彼らも又生協の再建に真剣にとりくんでいた、とわたしは考えていたが、ときおり見せる政治的セクトのかげりを見いだしたとき、将来の不吉をばくぜんと考えたものだった。
 純粋に政治的セクトの観点から見れば、彼らのわたしに対する扱いは究極的に信頼をよせてはもらえない不幸をもつ気のどくな前科者に対する偏見ある扱いとならざるをえなかった。なぜならば、わたしが過去において生協の業務に関係させた人間は彼らの属する政治的セクトとは敵対する者であったし、それゆえにわたしはその行為の責任者であったという原罪をもっていたからである。なぜ生協の業務に当時ときめく阪大学生戦線の猛者達から毛ぎらいされるような人間を配置したのかときかれても、わたしにはじめから特別な理由があったわけではなかったから答えようがない。ことのなりゆきでそうなったにすぎないとしかいいようがないのである。
 はじめにも断ったように、当時のわたしはセクト間の争いに興味をもっていなかったし、従ってどのセクトがわたしの考えに近いかなどと考えることもなかったから、生協の業務に真面目に従事するかぎりは、個人としてどのようなセクト的考えをもっていようが、わたしにとってはそれほど重要なことではなかったのである。だから、具体的に「どうして君は××派の人間を生協にむかえたのか」と問われれば、「他意があったわけではない。結果としてそうなっただけだ」と無責任ともうけとれる答えをするしかないのである。
 また、後にわたしは阪大生協を根底からゆるがす事件の背景が「セクトの政治的野望」であったことを知った人達、とりわけ阪大の教職員の方々から「君もあのとき、もう少し慎重であったなら、こんな事態にはなっていなかっただろうに」と非難ともつかない回顧話をきいたことがある。しかしわたしはそのような考え方には反対である。この後からの忠告は一見、事態の正しい認識をしえなかった者に対する批判となっているようにもみえるが、問題を個人の責任に帰することによって、自らを含む全体の課題を放棄しようとするある意味では無責任な、日和見的な考え方であるようにも思える。こういった考え方をする人達が心の中でいっているのは「もし君が阪大の学生戦線の多数派の人間を生協の業務に入れていたならば、阪大にとってこんな不名誉なことにはならなかっただろうに」に違いないのである。いわば権力におもねり、穏健を好む権力者、支配者に都合のよい考え方をわたしにすすめていることになっているのである。


 

 そういえば、昔からわたしには権力に対しなにか反発する気持があった。それは気障からではなく本心から自分が被圧迫者、しいたげられた者の仲間の一人であるとの意識がそのような反発心をおこさせたのかもしれないし、あるいは自分はどっちみち人生の裏街道しか歩めない力量の持主でしかないというひがみ根性がそうさせたのかもしれない。まあ、どっちにしても、それが権力一般の否定の精神を生み、どんな権力者でも否定したがるあまい傾向におちいっていたのである。それゆえに、阪大生協の組織づくりに関わるにあたっても、わたしが阪大の学生戦線の多数派に迎合しないで独自にやりたいという考え方のもとに、結果的に反学生理事派の人達を迎えいれたというべきであろう。そして後になってそれが自分も反権力的な立場の人間でありたいと願う気持のあらわれであると思いこむようになった。
 ところが、このような反権力的な立場を志向するつもりのわたしにも、このとき、大きな盲点があったことにわたしは気がつかなかったのだ。それを思いおこさせたのは、K主任らを中心にしてだされた「主任声明」であった。これは事件のおこるおよそ一年前のできごとであり、内容はクズノ君達がわたしを業務部長に擁して自ら業務の中枢に位置しようとした策謀に対する主任達の抗議の意思表示であった。もうそのころには学生理事達の政治的介入の仕方が露骨になってきており、わたし達二名の専従理事の力ではどうにもできない時点にまできていた。もっとも、それでも彼らは長年生協に関係してきたわたし達までも完全に無視することはできなかったらしく、彼らが業務の一元的支配の策謀を計画したときも、わたしなどをかつぎださざるをえなかったのである。
 さて、その「主任声明」の中で文責者であるK主任がわたしをさして「官僚的な人間」ときめつけたのである。即ちそこには次のように記されていたのである。
「およそ、現場の状況に精通しているとはいいきれない人間がたとえ役員であっても、たとえ生協『経験』がいかに長くとも業務の部長に就任することには絶対反対である。ましてや、現在の運営スタイルはすべてにわたって『天下り方式』でおし通されている。そのうえ、いま対象になっているM氏は…きわめて官僚的な人間、つまり生協にふさわしくないスタイルの持主ではないか。業務部長という肩書きよりももっとふさわしい部署がありやしないか、と考えざるをえないのである」(一九六六年九月三○日付)
 また阪大生協労組はその声明文を支持するとの立場に立った理事長宛の要望書にはわたしのことについて「M氏は現場での信頼性、指導力ect皆無の状態で厚顔無礼にも、自ら無内容、無方針の業務部を構想している」(一九六六年一○月一日付)と手きびしくこきおろしているのであった。
 この主任声明及び生協労組の要望書は、反権力の立場を志向していたわたしの矛盾を見事についていた。わたしがそのとき、従業員の側からみれば、生協の役員という権力者の立場にいたということ、しかも一瞬たりといえども権力者のみが味わう美酒に酔いしれていたということを思いおこされたとき、わたしは自己嫌悪の激しい感情におそわれざるをえなかった。クズノ君達の生協役員への横すべりの事件は政治的セクトが阪大生協の業務に対して最初の介入を行って失敗したそれであるというよりは、わたしにとっては、むしろ自分の内部に巣くっていた権力者意識の残りかすをすっかりぬぐいとってくれ、権力者や支配者のもつ醜い本質をわたしの経験の中に見せてくれたものとして意義深かった。


 

 そしてあの事件がおこったのであった。事件の発端であった十二月一日の理事会決定はおこるべくしておこった、とわたしには思われた。その二、三ヶ月ほど前から学生理事とわたし達二名の専従理事との間には和解しきれない溝が次第に深まっていくのが手にとるように感じられた。学生理事による「従業員の中の不良分子を追放し、民主的な生協組織をつくるのだ」という意味の主張が常任理事会の席上でしばしばなされるようになり、わたしの心の中にさえ彼ら学生理事が次の来るべき総代会にすべてをかけようとするその思いあがった態度にわだかまるなにかが頭をもたげてくるのをおさえることができなかった。
 もっとも、最初のころは彼ら学生理事は専従役員であるわたし達にまでは対決の姿勢を示してはいず、しきりに「もっと専従理事はしっかりしてくれないと困るなあ」とか「僕達は専従役員までどうこうするって気持はないんだ。あなた達が僕達の考えに協力してくれるなら、いつでもあなた達を支持して業務をもりたてていくつもりだ」とわたし達を懐柔しようと努力していた。とにもかくにも、わたしたちをまず味方にひきいれる、というのが彼らの阪大生協支配一元化計画の当初の予定であり、その予定が実現されたあかつきには、わたし達が少しでも反抗的になった機会をとらえて、わたし達をも追放する、そして、阪大生協を完全に自分達のものにする。これが彼らの所属する政治組織のねらいであったのだ。
 それはともかく、さきほどわたしは学生理事による二従業員の解雇提案、内一名の解雇決定がおこるべくしておこったといったが、まさかこの十二月一日の理事会で彼らのいうところの「不良分子」を実際に追放する計画がねられていたとは夢にも思っていなかった。というのは、なにかと問題になっている「外販問題」が常任理事会の段階で最終的に決着がつけられていなかったし、かりに解雇提案を彼らがするとしても、理事会への議題提出の責任をもつ常任理事会でまずするであろうと考えていたからであった。
 だがその常任理事会における彼らの政治的意図が露骨であったことはまがうことのない事実であった。その一週間ほど前から連日のごとく、ある場合には会議場をわたしの家にまで移し夜を徹して開かれた常任理事会では、表面上は「阪大生協の発展とのその方法」をめぐっての真剣な討議がなされているように見えたが、実際は「なんとかしてじゃまな人間を排除したい」と考える学生理事と「それを防ぎたい」とするわたし達専従役員との隠されたもくろみのぶつかりあいであった。そしてその最後のころは、生協発展の論理とか崇高な生協理念とかは影も形もなかった。学生理事はわたし達の論理に負けると沈黙し、反応しなくなる。そう思って了承してもらったのかと思うと又もとの話をむしかえしてくる。そして途中、わたし達の説明にいささかでも不明確な点があると、そればかりをついてきて、肝心の話をそっちのけにしてしまうのである。わたし達はそのとき、学生理事の「不良分子追放」の主張が理事としてふるまうべき彼らの正義感から来ているのではなく、彼らの所属する政治組織の野望の忠実な遂行であるのだとはっきりと認識したのである。
 明日が理事会というその前の日の十一月三十日にもわたし達は常任理事会をもった。わたし達は学生理事の前で最後のカケをする意味で次のようにいった。
「君達が自分らの政治的野望から外販問題をタネに誰かを処分しようとしていることはよくわかった。この外販問題は業務をあずかるわたし達の責任の問題だ。地域化、同盟化の問題についてはずっと以前から議論をしつづけてきたが、結局、永久にかみあわないことがよくわかった。だがこの問題でだれかを処分するとしても、従業員を処分してはならないぞ。外販問題については常任理事会の責任の問題とすべきであり、それならばわたし達二名がその責任をとろうではないか。だから常任理事会として理事会で処分問題をもちだすのであれば、従業員についてではなく、わたし達常任役員についてしてくれ。それならば喜んでその責任をとろうじゃないか。これがわたし達の最終の考えだ」
 わたし達二名の専従役員の意識としては、正直なところ、もうやとわれマダム的なカイライはごめんだ、という気持であった。多数派の中で思うようには動けぬ少数派の悲哀がよくわかった。わたし達がこの多数派の中で勢力の均衡をたもっていたのは、わたし達が学生理事に不足していた業務知識に精通していたこと、彼ら学生理事が阪大における先輩として生協に従事していたわたし達の功績を少しは認めてくれていたこと等によった。しかし、それは所詮わたし達に対する多数派としての寛容であり、自己の政治的運命にかかわる事態を前にしては、その寛容も海に消えるモクズ状態だった。
 彼らはわたし達のこの提案にも沈黙を守っただけだった。あいかわらずの沈黙戦術だなと感じとれたが、「わたし達が責任をとってやめる」と表明したのだから、のちのち従業員までは処分することはあるまいとたかをくくっていたのであったが、結果はわたし達の考え方が完全にまちがっていたのであった。なんと、わたし達のこのせいいっぱいの表明をせせら笑うかのようにその翌日の理事会では彼らは今まで出席もしていなかった学生理事までも総動員し、常任理事のナカヤ君の個人提案としてK仕入係、K主任の両名の解雇提案を突如にして行ない、今までの理事会で行われたことのない採決方式でもって彼らの野望を実現しようとしたのであった。
 今から考えて全く奇妙な話だが、このとき彼らは、K主任の場合は解雇条件がそろっていないという教職員理事の提案をうけいれ、K仕入係のみを解雇決定したのである。しかもその理由はK主任については専従役員の指示に従っていると考えられるということだった。なぜ彼らがそれを認めたのかは今だもってわからないし、それ以上にわからなかったのは、あのときわたし達がいくら動転していたとはいえ、この教職員理事の考え方がK仕入係にもあてはまるということに気づかなかったことである。
 常識からいって外販活動がK仕入係の独断でやれるわけがなく(そのことはG・H氏の文章からでもあきらかであろう)、直接的にわたし達専従役員が業務会議で「外販活動」をやる旨の指示を与えていたのであった。(正直なところ、この指示によってわたし達は両名に対する約束をはたしてやったことになるのである。なぜならば有能な人材を当時の貧弱な阪大生協に招きいれるためには、阪大生協が将来において発展的であることを確約し、その一環としてまず外販活動をやる意向を伝えたからである。)それ故にこの点が後に「新事実」としてK仕入係の解雇の執行停止の理由になったのだ。
 しかし、このような筋論と反省で決着がつけられる道理ははじめからなかったといえるかもしれない。後になって学生理事はやみくもに自分達の政治組織の同盟員として行動し、当時の理事会では寛容にも解雇決定を保留したK主任を含む、彼らの敵視するところの、いわゆる「不良分子」を理事会決定であるということによって解雇したのであったから。


 

 学生理事達が「業務の大混乱」を覚悟の上で、あえて従業員を処分した時点において専従役員としてのわたし達の役目は完全に終わっていたのである。こうなったら、個人としてのわたし達には何もできるところではないということで、かねての言明のごとく、S専従はすぐに辞表をだしたが、わたしは「後始末をするつもりで」辞表をのばした。
 この後始末をするつもりで居残ったのが、いつのまにか労組側の人間としてみられるようになり、ずるずると事件の渦にまきこまれていったのである。そのくせ、前にもいったように、紛争中は事件の真の当事者にもなれないで、疎外された状態でまきこまれていったのである。
 わたしが学生理事と完全に決別したのは十二月一日の理事会があって三日後、まだ労組がストライキに入っていない日だった。その日の夜、学生理事であり且つ常任理事でもあるクズノ、ナカヤ、ヤマミネ君達がわたしの家にきた。彼らがきた目的は、一日の理事会でわたしが解雇に反対し、学生理事と対立することになったが、そのことで学生理事はわたしを敵とは思っていないという点を伝えることであり、さらにS専従がやめたあと、業務の最高責任者になってくれれば学生理事として全面的に支持していくことをのべたあと、理事会決定であるK仕入係解雇の執行に協力してくれとの要望をすることであった。いな、それはいんぎんなポーズで隠されたあきらかな強制であった。
 彼らがなぜわたしの家にまできて、このわたしを説得しようとしたかは、はっきりとはわからない。わたしの考えによれば、もともとわたしが彼ら個人にはなんの悪い感情ももっていなかったし、従ってわたしを利用できるのではないかと考えたのではあるまいか。というのは、以前にわたしがK仕入係やK主任から「主任声明」でもって業務担当の役員に横すべりをしようとした学生理事とともにたたかれているから、必然的にわたしがK仕入係やK主任を憎み、その結果学生理事には協力してくれるにちがいないと簡単にきめつけてしまったとも思えるからである。
 しかし、わたしとてそんな単純な人間ではなかった。彼らはわたしが個人としての人間を憎めないタイプの人間であると見ぬいた点はさすがであったが、わたしが権力に対してアレルギーをもつある種のアナーキストであるというところまでは気づいていなかったのである。わたしが彼らの要請に対し、断りの意思表示をすると、彼らはそのまま帰っていった。
 だが、その翌日からは、彼らはわたしが労組の人間であると広言するようになった。わたしは理事会があっても召集されなくなり、そしていつのまにか解任されたことになってしまっていた。理事長であるK教授は、そのことについてわたしが労組と相通じ、理事会の秘密事項をもたらしたからであるとの理由をつけていた。
 もっとも、はじめの頃は、理事会の秘密事項をもらしてはならないという理事長の命令をわたしは馬鹿正直にも守っていたのである。しかしながら学生理事が自己の所属する組織から理事会方針をきめられ、ロボットのごとくに動き、教職員理事も又大学当局と密接に連絡をとりあう中で、理事会の秘密事項といわれるに値するものとは一体なんであるのかを問いかけていくうちになんだかばからしくなってきた。つまり、不良分子といわれる従業員の解雇を支持する側にたって行動するのは理事会を裏ぎることにはならず、逆に解雇反対を主張することは労組に情報をもたらすことにもなり、理事としてはふさわしくないというのである。そしてわたしがなにかにせきたてられるようにしてとってしまった、いわゆる理事長の「理事会の秘密をしゃべった」として批判する行為は、学生理事が政治組織に、教職員理事が大学当局に理事会の秘密事項をもらすのとはわけがちがうというのである。
 前にものべたように、結果的にわたしは労組の人間のようになってしまった。だが、形のうえだけではあるにしても専従役員であるというわたしの身分はわたしを労組の人間として行動を共にすることを許さなかったし、労組もまたわたしを完全に受けいれることはなかった。
 わたしが処分の対象になった従業員の解雇にまで反対であるのは、彼らが解雇にあたるような行ないを断じてしていないというわたしの業務上の判断があったからであるし、その上に、多数派を誇るセクトが自らの政治的理由と権力によって敵対者を強引に解雇しようとする専横的な姿勢をみたからにほかならない。わたしはそこに権力者のみにくい姿を再確認すると同時に、権力に対しては従順な者に共通な自己保身的な態度にも又憎悪の念をもった。そこからわたしは団結してわずかな力でも大きくしてそれ以上に大きな力に対し抵抗しようとする労組の考え方には賛同せざるをえなかった。
 そして権力なき存在に与えられた抵抗権が美辞麗句でもって言葉上保証されてはいても、実質は様々の抑圧によって規制され、それに基づく行為が犯罪視されても文句のいえないような、波うち際に書かれた砂文字に等しいことが、身にしみてわかった。被支配者の抵抗する権利とはなんであろうか。又彼らの自由の存在はいかにして獲得されるのであろうか。このような問いかけは眠れるわたしの怠惰を根底からゆさぶりおこし、従来のあまいわたし自身を破壊してくれた。そのあかしとしても、わたしは専従役員という理事の身分にありながら、完全には受けいれられなかった従業員、労組の立場にたって行動することを決意する必要があったのである。
 さて、阪大生協の業務をいかにして守っていくか、その問題は従業員の側からすれば自らの生活を守り、日常の糧をえるために真剣に考えなければならないさしあたっての重要な課題であった。阪大生協の従業員としての彼らには今回の理事会の解雇決定は単に不始末をした一従業員の処遇の問題にすぎず、自分達とは無関係の問題であると考えるわけにはいかなかった。解雇理由は「外販活動」であり、しかもそこにはある政治組織が暗躍していて理事会を動かしているきらいがあるという。自分達もいつかその政治組織の利益のために同じような目にあわないともかぎらない、という不安と恐怖が従業員全体をおおっていた。
 「外販活動」は従業員の夢であった。大阪大学という限られた空間で、限られた仕事を黙々と続ける夢のない活動に一生を託するより、もっと広い世界に場を求めて、生協運動を推進していくことは、それに従事する彼らの将来の目標であり、現在の仕事のはげみであった。特に男子従業員の中で生協運動への従事を自分の将来をかけた天職として自覚するものほど、その感が強かった。せせこましい大学の枠を破り、未開拓の地域に発展させる生協運動を展開していこう、この気持なくして、彼らを現実的に支えるなにものも阪大生協の中にはなかったのである。
 しかるに阪大生協理事会の態度とはなにか。理事会と従業員との板ばさみに苦しんで辞表をだしたS専従理事はある文章の中で次のように書いている。
「今の理事会の阪大生協の指導の原則、路線が最も危険な経営主義の迷路の中に行方を見失っている…。阪大生協の従業員に対する指導の理念は、それでは何だったのか?若干の歪曲を許してもらえば(僕自身はそう思いたくないが既に従業員の多くはそう受けとっている)『組合員の利益のためにもっとサービス(奉仕)しろ』という支配者意識ではなかったか?もしそうでないとすると『なぜ努力して業務活動における改善をはからねばならないか』を語る必要がある。又もしそうであるとすると、そこからは従業員の支配者に対する無限の抵抗と、限りなき(組合員の利益とは無関係な)賃上げ要求に拍車をかけるのである。僕自身の六年間の経験からしても、組合員が始めから、生協の組合員とはなりえないのと同じく、従業員においても、まず労働者としての意識から構築し始める。そして『生協とは何か』『生協運動に参加することによってどんな展望を持ち得るか』については、正に指導の問題であり、真先に理事会が語らねばならない。少なくとも専従職員の中の指導的部分において、この展望がない限り、部下に対して何を指導すべきかわからないのは当然であろう。(人間そのものが無原則的に命令に従って何でもするという奴隷的存在であると理解すれば別だが)」
 このS専従理事の主張は従業員すべての気持をあらわしていた。阪大生協の理事会はその従業員の夢、信条を「外販活動」の中止、その担当者の解雇でもって無惨にも打ちくだいてしまったのである。


 

 いわゆる「新事実」の出現によって、K仕入係の解雇の執行停止が行われ、労組もストライキをといた十二月十五日の夜、阪大生協のほとんどの男の従業員がわたしのところへきた。丁度、学生理事がわたしを説得するためにわたしの家にきたあのときの雰囲気と同じで、彼らも又わたしを説得にきたのであった。彼らの話を総合するとこうだった。
「今、わたし達は業務を再開しているが、学生理事ら政治組織は今まで以上の処分をするつもりでいる。わたし達は業務をたてなおし発展させていくためには現在の従業員を結束してやっていかなければならないと考えている。外部から人を導入することには反対である。外販問題はいずれ決着をつけられる問題である。わたし達の提起する外販問題は全従業員の将来の生活の保証の象徴としての意義をもっている。その保証に値する従業員対策を理事会が他にもっているのなら話は別だが、そうでない限りは、外販問題はわたし達自身が将来の生活のためにうちだす自衛措置である。わたし達は現在の生活をかけてこのことを理事会に要求する。わたし達は現在のもっている力で、他の力を借りることなく、将来のわたし達の生活を守るための斗いをする。そのためにあなたが必要である。あなたはすでに学生理事派への非協力ということで排除されるおそれがある。エスカレートしてきた政治組織の文章をみてもあきらかである。それへの抗議の意味をも含めているので、どうかわたし達とともに斗かってもらいたい」
 わたしは最初は彼らが冗談をいっているのではないかと思った。話をしているうちに、ある程度、彼らの態度の中にまじめさが見いだされたので、今度はわたしの方が猜疑的になり「学生理事と同じようにわたしを利用する気かな」と思ったりした。そこで「わたしが今この阪大生協に残っているのはただ事態の最後を見とどけるためだけだ。この事件が片づけば阪大生協から永久に去るつもりだ」とその真意をつげた。
 すると彼らは「わたし達も、今のような理事会の態度だと将来の見込みもありそうにないので、やめたい気持でいっぱいだ。だがわたし達は最後の賭のつもりで、もう一度理事会に期待をかけてみることにした。そこでわたし達は生協の理事会が真にわたし達の将来のことまで考えてくれているかを問うてみようと思う。わたし達はあなたを中心に生協の業務を遂行していくこと、それ以外にはわたし達の生きる道はないと思っている。ぜひこれに賛同してくれ」と重ねて要請した。
 わたしがさらに断ると、彼らは「わたし達はM業務体制ができあがらなくては意味がないと考えている。わたし達はここにあなたとともに阪大生協をもりたてていこうという誓約書を書こうと思う。そしてここに集まった男すべては署名、捺印をしてわたし達の決意が固いことをしめそうと思う」と答えた。
 ここに至ってわたしもついに折れた。ただちに「M専従の業務体制に協力していくことを誓い、M体制が敷かれない場合は、全員、生協をやめることとする」なる内容の誓約書が作成された。そこに集まっていた生協に命をかけようとする人達、業務の主任達をはじめ、中堅幹部、若手を問わず、すべての人はその誓約書に署名し捺印したのである。(結局、後にいたって、この誓約書通り、署名、捺印したものはすべて辞めていったのである。)
 こうした背景があって労組はいわゆる「五項目要求」を理事会につきつけ団交を申しこんだ。周知のごとく、それは一方的且つ思いあがった要求として即座に拒否され、労組は泥沼と化す第三派抗議ストライキに突入したのであった。


 

 この一件があって、わたしは完全に労組とともに行動せざるをえない破目におちいった。わたしの運命は労組とともにあり、労組の敗北は必然的にわたしの敗北につながっていた。理事会はわたしに召集をかけてこなくなったし、わたし自身、理事として積極的に動く根拠を失ってしまっていた。そして、ある種のもどかしさを感じながら、時による解決を待たなければならなかった。なにもしないでいることの精神的苦痛は、やりすぎることからくる肉体的疲労よりも強かった。ここからわたしは、自己の能力のおよびもつかないできごとは無数にあるのであり、それが故に自分の仲間達とともにそれをのりこえていかなければならないのであり、そのために仲間の一員としての自覚をもち、究極的にも仲間を信用しなければならない、という教訓を身をもってえたのであった。
 とはいえ、その間わたしは何もしなかったのではなかった。味方になってくれそうな教官に事態の解決のための打診をうったり、総代会で一応の発言をしたりした。そのためにわたしが労組の仲間だということになり、例の一月二十四日、学生理事派の人達による生協施設のロックアウトのとき、暴徒と化した彼らによって、K主任とともに、長時間つるしあげられたこともあった。(この点に関し、わたしは今複雑な思いと痛みにうちひしがれている。このときの彼ら学生達はその後なにごともなかったかの如くに大学を卒業し、なかには現在いわゆる一流会社といわれる組織の幹部になったり、著名な、大学の先生になったりするというめぐまれた環境でなに不自由なく世の中をすごしているというのに、彼らによって職を奪われた人達、とくに政治的意図もなく、ただその日一日だけをせいいっぱい生きようとする世なれぬ人達は未だに抑圧された生活をおくっているのである。)
 だが、わたし自身にとれば、この期間に与えられた精神の糧は多大であったともいえたのである。わたしはこの阪大生協事件の背後になっている政治の流れや、学生理事らの所属する政治組織の理論、既成左翼の考え方、それに新たな勢いをもちはじめた新左翼の価値観等を知るために与えられた資料や論文をむさぼるようにして読んだ。また教職員理事として従事する教授や助教授の論文を読んだりして、彼らの考え方や人格や行動の規範のなんたるかを知るための努力もした。それらは今まで傍観者づらをして読んで得たものとはまったく異なった世界をわたしに提供してくれたのである。
 政治の世界のダイナミズムは人を情熱のもえたぎりの中になげこみ、老朽化した勇士をおしのけ、腐敗した正義に怒りの声をあびせかける。そしてたえず前進の合言葉をとなえ、それに呼応せぬハムレットに別れのキスさえもおくらぬ非常さをもっている。わたし自身も意識が先鋭化してくる自分をおさえることはできなかった。また先生方の論文はこの生協問題とは直接関係なかったが、今の大学当局の体制にのっかる微温的な考え方を反映しているように思われた。彼らの論文は大阪大学にとってもっともふさわしいものであった。
 教職員理事の言動についていえば、わたしは忘れることのできない一つの事件に遭遇した。それは自主的組織である大学生協の理念を放棄し、理事としての権限を大学当局に売りわたしたことであった。その頃のわたしは理事会に出席できなかったから、理事会の状況をまったく知らなかった。だから奇妙な話だが、わたしは理事会の決定事項を知ろうとするときには、大学の学生部にさぐりをいれにいくのだった。学生部のK課長はわたしに利用価値があるとみたのか、わたしとよく会ってくれた。K課長は職務上かあるいは戦術的にはっきりとはいってくれなかったが、話の推理から、わたしは教職員理事が大学生協に白紙委任をしたと判断したのである。K課長のセリフそのままでいえば、「これからは生協の理事長としての見解はなく、大学学生部の見解が生協理事長の口を通して発表される」のだ。なんというおそろしいことなのか。それが意味するところの重大さに少しも気づかず、教職員理事は、事態収拾の能力がない、というただそれだけの理由で、生協を大学権力に売りわたしたのだった。
 その証左が次にみられる。後に労組が「理事会が事態を収拾しえず、権限放棄をするのなら、生協の組合員に対してのみ可能である。従って、理事会を解散し、総代選挙を行って、新総代会、新理事会のもとですべてを決着せよ」なる要望を行ったとき、理事長が消極的であったのは、それを望まぬ大学当局の意向が働いていたからなのであった。実際、大学当局は理事長をはじめ、教職員理事を手ばなしはしなかった。利用しうる限りは手元において利用しようとするのである。それに教職員理事は抵抗しようとしなかった。抵抗しなかったどころか、むしろ大学当局に協力的でさえあった。というのは、自分達は元々大学当局の一員であったのに、よけいな浮気心を出して生協に関係したので、それにまきこまれてしまっただけの犠牲者にすぎないのだという意識の方が強かったからである。
 そういえば昔から教職員理事の言動には自己保身的、傍観者的、無責任的な態度があった。わたしが彼らと話をするとき、よくでてくる三つの言葉があった。
 曰く「君、大学権力、国家権力とはおそろしいものだよ。だから、あまりさからわない方がいいよ」
 曰く「君、なぜもう少し早くそれを言ってくれなかったのかね。そのときなら、なんとか僕もできたんだが。事態がかわった今となっては、もう僕にはなんともしようがないね」
 曰く「僕は自分の本職でないできごとによって、責任をとらされるなんてごめんだね」
 こういった教職員理事の意識が大学への白紙委任となってあらわれたのであろう。もともと教職員理事には生協の組合員であるという自覚が欠如していたので、わたしが彼らにある種の期待と信頼とをかけていたこと自体があやまりであったのである。おそらくその背後には大学当局が操作するところの職制上の、あるいは慣行上の規制が働いていて、自己防衛の意識が頭をもたげていたのであろう。しかしながら、少なくともそういったこととは関係のない生協の専従であるわたしにとれば、彼らの大学への白紙委任は不信をよびおこすなにものでもなかったのである。


 

 それからしばらくして、大学当局より、二月末日までにかたをつけなければしかるべく措置をとる旨の、なかば脅迫的な勧告がだされた。あわてた理事会は今までスポイルしていたわたしにまでも召集をかけて会議を開き、解雇問題を第三者機関にまかせるとの従来の教職員理事の提出案の採決を理事会の最終的決定としてとることになった。そのときわたしは棄権の意思表示をした。わたしはそれまでの理事会の内部の事情などまったく知らないし、それにK課長を通じて教職員理事のある部分が中心となって大学当局へ白紙委任をした事実を知っていたので、「教職員理事には裏がありそうだ」と感じ、賛成票を投じなかったのである。すると思わぬハプニングがおこったのである。わたしの棄権は結果として教職員理事の否決につながっていたので、おそらく大学当局から一札をとらされていたと考えられる理事長は、自分の主張が理事会で通らなかったくやしさから悲鳴ともつかない声を出してうなりだすや、歯をきりきりさせながらわたしの方にとびかかってこようとし、やっとのことで同僚の教官理事に抱きかかえられた。また、理事長の悪徳弁護士と労組からあだ名されたある教官理事はその理事長にすっかり同情して、わたしの前にある机をこぶしでどんどんたたきながら「よう、どうなってんだよ。どうしてくれるんだよ。このろくでなし!」とまるでヤクザの脅迫の口調さながらにわたしにかみついてきたのである。彼らに詰問されながら、わたしは「この人達はすでに大学への白紙委任をしてしまっているのだ」と自分に語りかけながら、どうしようもない事態に一種のとまどいと悲しみと、そして奇妙なことには怒りをさえ感じていた。しかしまじめな教職員理事(おそらく白紙委任の計画に参加していなかったと思われる)の説得やO教官理事の「教職員理事を信用してくれ」の話にわたしも再び信用する気になり(わたしもこのとき興奮していたので、いつもの思慮に欠けていた。このO教授の「おれを信用してくれ」にわたしや労組がなんどだまされたことか。彼の本質は事なかれ主義であり、その場をきりぬけることのみに重きをおき、後々のことは考えていないのである。)もう一度採決をとったときは教職員理事案に賛成票を投じた。このとき、理事長が心の底から「ありがとう」とくりかえしいって頭をさげた光景はある意味ではわたしには感動的だった。このできごとは教官が人間の本心をさらけだした姿をみせた事実としてわたしには忘れられないものとなった。なんといったって自分がいちばんかわいいのだし、そのことは大学の教授とて例外ではなかったのである。
 そして以後、理事会があってもわたしに召集をかけてこなかったし、聞けば、わたしは理事を解任されたとのことだった。そして、理事長のわたしに対する憎しみは相当なものだっただったということを、後になってわたしは知らされた。
 わたしの教職員理事に対する危惧はあたっていた。労組発行の『阪大生協事件』にものべてあるごとく、「(1)生協擁護、(2)従業員の生活保障、(3)組合員の生協批判が理事会批判に集約される条件をつける(組合員次元と外的な問題として理事会と労組の対立があるのではなく、理事会ヘゲモニーの貫徹を図りうる条件を醸成する)」ことのために、労組が戦術ダウンを余儀なくされた結果、第三者機関に紛争の調停がまかされることになったが、その際、学生理事は勿論のことではあったが、教職員理事までもが、第三者機関の具体的選定には消極的であったし(それなりの理由があったのであろうが)、業者の納品ストップの異常事態が生じて、再び第三者機関への委任が促されたときは、逆に積極的になり、彼らは、特に理事長は解雇を前提にして調停するべく圧力をかけどうしだったといわれている。教職員理事は生協の理事ではなく、いかなる場合でも大学の教官であり職員なのであった。


 

 以上、わたしはこの紛争の期間中にわたしのまわりに生じたできごとについて、わたしの思いつくままに文脈もなく書きならべてきた。この事件の背景にはある政治的組織のセクト的介入があるといわれているが、関係者のいみじくもいうように、もう少し専従役員であるわたし達がしっかりしておれば、このように大阪大学をゆるがす大事件にならなかったかもしれない。いや、事件の発生を未然には防ぎきれなかっただろうけれども、もっともスマートな形で事が処理できたかもしれない。その意味ではわたしにも大きな責任があったのであり、悠長にするなんてことは許されないかもしれない。
 とはいうものの、この事件はあきらかに自分の力をこえるものであった。しかしこの結果、この事件は、重大な事態を前にしてどのようにわたしは処すべきなのか、また自分よりも大きな存在を前に相対するときなにが自分の行動を決定するのかについて教えてくれたように思える。いわば、この事件はわたしに精神の革命をもたらし、わたしを救ってくれたのである。失った物質にこだわる悲哀は、みかえりに得られた精神の歓喜となってあがなわれた。しかし、わたしと同じ運命にあった人達、大きな権力と野望の流れの中で必死に抵抗し、はりつめた弦がきれたように敗北し、うちすてられていった仲間のことを思うと、再び新たな怒りとなって、今もなお、わたしの胸をかきみだすのである。
                                                         完


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