第四章 事件の終末とその背景

     第二節 背景その一 
                       ─日本共産党の意図─

 とはいえ、今ここでわれわれは阪大生協事件が解決したという推理小説の結末のような言葉は簡単には使えないかもしれない。阪大生協事件は解決したのではなく、種々の圧力の前に動きが鈍ってしまったにすぎないともいえるのである。もっと端的にいうならば、「生協」の理念を否定するグループと肯定するグループとの戦いがあって、大阪大学においては、前者の生協の理念を否定した後で学内販売機関というぬけがらだけは大事にしたいという連中の考え方が支配的になっただけかもしれないのである。
 デ学同とて、もともと反権力的人民的組織を志向する左翼組織であっただろうし、現在でもそうであろう。だが、当時のデ学同は勢力拡張の手段としてか、あるいは理論上からか、体制のもつ権力の存続性を認め(ある意味では当然のことなのだが)それを前提にした運動論を展開し、それが故に時にはそれに足をひっぱられる傾向性をもっていた。つまり行動においては、戦術的にかあるいは内在的にか、まま体制内的になることがあったのだ。それはおそらく、体制内的であっても真に解放された人民のための社会の建設が可能であるとのかたい信念に裏打ちされているからであろう。
 このような考え方は現在の日本共産党の中にもみられるであろう。このような組織にとっての第一の課題は多数の人達の支持をえることによって、自らの勢力を温存し拡張することである。(なんのためにそうするかと問われれば、彼らはためらいもなくその勢力を反体制的方向にむかわせるためというであろう。)
 実にこの「阪大生協事件」は、ある意味では、彼らのそのような目的のために起こされたともいえたのである。読者諸兄は今まで表に出てこなかった「日本共産党」が、実は、この事件に大きくからんでいたと聞かれて驚かれるかもしれない。しかし、実際そうなのである。
 周知のごとく、戦後の日本共産党はまもなく彼らのいう「民主勢力」を拡張するために力をそそぎ、そのためにあらゆる大衆組織の主導権をとることにやっきとなるようになった。大学生協はそのかっこうの場でもあった。すでに全国の大学生協の状況をみても、全体の四分の三が日共系の傘下にはいっているのである。読者諸兄は一九七○年前後の大学紛争の中でその波が京大に及んだとき、いわゆる日共系といわれた学内組織で結成された「五者会議」の中に生協理事会及び生協労組が入っていたのを記憶されているかもしれない。彼らは大学内の影響ある一勢力として公的にも認められているのである。
 ところが、当時、大阪地域だけはまだ彼らの血に染められていなかったのだ。なるほど大阪外国語大学、大阪府立大学の生協組合員数の少ない大学生協では支配していたが、大阪大学をはじめ大阪市立大学の国公立大学を含め、関西大学、関西学院大学の私立大学、いわゆる中単協から大単協といわれる大学生協では日共系の反対勢力が主導権を握っていた。その中にあって、大阪大学生協は東大生協、京大生協に次いで是が非でも自分達日共の傘下にしたい拠点であった。彼らには大阪大学生協を手に入れることは、大阪地域での主導権を得ることに通じていた。
 彼らの調査したところによれば、大阪大学生協は、理事会、総代会、組織部についてはデ学同が支配し、営業部門についてはトロツキストが支配していることになっていた。しかしながら、それぞれにおいてそれなりの体制ががっちりしかれていて容易に入りこめない状況であった。彼らにとれば、デ学同は日共系から脱落していった分裂主義者であり、トロツキストは不倶戴天の敵である。デ学同とトロツキストはお互いにいがみあっているとはいえ、阪大生協では奇妙な均衡状態を保っている。その状態が続く限り、且つ両者に野心がない限り、阪大生協は日共系の人達には不落の城のようにみえた。それをいかにくずすか。そのためには、じっくり待って均衡状態のくずれる機会をねらえばよかった。
 やがてその機会は訪れた。彼らに二つの幸運がころがりこんできたからである。一つは、阪大生協が設立当初の不安定期から業務組織基盤の安定期に入った頃、デ学同が、阪大生協の勢力の二分されているのに気づき、独裁化の野望をもちはじめたこと、二つは、日本共産党を除名された人間を中心とする「日本共産党・日本人の声」が結成され、すでにその前から日本共産党と決別していた学生組織、即ちデモクラティック学生同盟がそれと結びついたのであるが、やがてその「日本人の声」そのものが再び日本共産党に復党したいという気持をもちはじめたことである。
 実はこの後者の問題等をめぐって、デ学同は内実は分裂しており、「日本人の声」を上部機関とするデ学同右派と、「共労同」を上部機関とするデ学同左派との二つの勢力になっていたのである。阪大ではその内、デ学同右派、つまり筆者がこれまでいってきたデ学同が主流をしめていた。従ってこの復党問題は阪大のデ学同同盟員にとれば自己の政治生命の方向を確定させる試金石であったのだ。(もっとも、下部の同盟員にはこの事実はあまり知らされておらず、且つ彼ら自身、かなり日本共産党には反発していたので、事件がおこってからもデ学同右派の中にも相当の動揺があったのは事実である。)
 今回の「阪大生協事件」の契機は「外販問題」であるというよりは、本節の立場からいえば、おそらく、一日本共産党員がデ学同幹部に、本心からか、あるいは策略的にか言ったであろうと思われる次の言葉「復党したければ、阪大生協からトロツキストを追いだしてくれ。それを条件に復党問題は考えてやらないでもない」といった日常会話の一つが発展したものとも考えられるのである。つまり、それを聞いたデ学同幹部が阪大のデ学同活動家のトロツキストぎらいの傾向を利用して、計画したのではないかとも推察されるのである。
 しかしこの日本共産党による阪大生協の最終的支配の伏線は当事者のみならず、大学当局にも関知されていたのだ。即ち筆者の手に入れた資料によれば、大学当局がこの阪大生協事件について、「生協問題の要因と背景の概要」と題して文部省に宛てた報告書には、「その要因と背景はデ学同理事会による三派系一部従業員粛清が真因であり、更に背後には民青同による最終生協支配という伏線があるという複雑な学生運動に直結し、デ学同が三派系を排除した上で生協の指導権を握ることによって日共に復帰できるとも伝えられている。そのために学生理事はロボット的存在ですべてデ学同組織からの指令で動いている」なる内容のものが記載されてあったのである。
 デ学同が学生理事を使って、一名の仕入担当者の解雇を決定し、トロツキスト追放作戦の第一歩が踏みだされてから、日共系であるといわれる大学生協連は内心よろこんだ。というのは、いよいよ自分達の進出の可能性がでてきたのであり、しかも、デ学同と労組にたたかわせておき、自らは労せずして、最終的には阪大生協を手中にできるのだ。まことにありがたいデ学同の生協一元的支配計画であり、「日本人の声」の幻想的復党問題である。
 やがて、阪大生協に一人の男が大学生協連から派遣された。彼は大学生協連組織部長のヒラナカ氏であり、表向きはともかく、実際はデ学同が一刻も早く勝利するために来たのだった。事実彼は阪大生協の学生理事にいろいろ指導したり助言を与えたりして、実質的には支配した。彼は阪大に常駐し、デ学同のいう「我が同盟の断固たる再建案を採択さすべく一月斗争勝利の環である」総代会には阪大生協組合員にまぎれて参加していた。
 ヒラナカ氏は以前からデ学同学生理事に対して、デ学同が暴力問題、不正問題を理由に労組の人間を大量に処分しても、業務的破綻を防ぐ人材の用意はしてあると伝えていた。だからデ学同が総代会で自己の野望を果たすべく大いに活躍してくれることを期待していた。もともと人事派遣の要請は学生理事の方からあった。思うにそのことがヒラナカ氏らをして阪大生協をまるがかえをしての乗っとりを考えつかせたのである。具体的にそれは大学生協連の組織的方針としてある人に伝えられたのだが、それによると、次の三点があげられていた。
一、大学生協連からの人事派遣として十九名を東大、東北大、同志社大生協から集め、彼らを阪大生協の専務理事をはじめ、業務、総務、書籍、購買の各主任級のポストを中心に業務活動部分の重要ポストに充当する。
二、業者債務については、大学生協連の力をバックにして一五○○万円の棚上げを要請する。
三、そのための準備資金として、三○○〜五○○万を用意する。

 閑話休題。もちろん、いうまでもないことだが、大学生協連そのものは一般の消費者によって組織された市民団体の連合であり、日本共産党の一組織ではない。しかしこのときの大学生協連は誰の目にもあきらかなような日本共産党のもつ党派性をあらわして阪大生協にあたってきたのは確かなことであった。したがって、少なくとも当時の大学生協連の言動は日本共産党のそれであるかのように筆者が考えてもまちがってはいないのである。
 さて、既述のように、この大学生協連の方針も総代会での教職員理事の辞意表明という思わぬハプニングによって、実現されるにはいたらなかった。ヒラナカ氏の予定では、総代会以後の最初の理事会でいわゆる民主的合法的に事がうまくはこばれることになっていたのである。ヒラナカ氏は総代会で教職員理事が辞意表明するとは考えていなかったのだ。唯一の誤算であったが決定的なそれであった。これも総代会でデ学同があまりにも強引すぎたからであった。それがかえってマイナスに作用したのであった。そう思うとデ学同の連中の無能さに腹だちさえ覚えた。それでも彼はせっかくうちたてた組織方針であったので、気をとりなおし、機能マヒした理事会にではあっても、先の三点を「業務再建案」になるとして働きかけることにし、秘密文書の形でそれを二月四日付で大学生協連から阪大生協理事長宛で送った。(当然のことといえば、そうであるのだが、大学当局はその写しを保管していた。)
 さらにヒラナカ氏は個々の学生理事に対しては、労組分裂の計画を実行させた。二ヶ月余りも続くストライキで従業員は給料をもらっていないのであるから「給料問題」でゆさぶれば、労組の結束もゆらぐであろうというのである。はたして、八人の労組脱退組があらわれた。ヒラナカ氏にとってありがたいことには、その中には党員の家族の者が二名いたことであった。それは日共の組織方針を貫徹するには十分利用価値のあるものであった。
 最後に彼は阪大内のシンパの学生活動家に対しては、大学生協連で知るかぎりでの阪大生協の情報を提供し、トロツキスト追放のおさきぼうをかつがせたりするなど、表面にはでなかったけれども、裏ではたえず糸をひいていたのであった。
 しかしヒラナカ氏の計画はどれもうまくはいかなかった。これには種々の原因が存していたが、その最たるものは、予想されたことながら、大学当局の陰からの操作であった。即ち、案の定、大学当局は日共、大学生協連の組織方針の具体的な内容まで知っていて、大学に白紙委任をした教職員理事をして、結果的にはヒラナカ氏らの計画を妨害するような行動をとらせていたのであった。入手資料によると、二月はじめに行われた生協問題に関する大学当局のある会議では、「デ学同が民青同に合流するという、いわゆる特定政党が阪大内に公然と入るような不測の事態が予測できるのに、大学が傍観するのは問題があるとし、それを排除して行かねばならない」と決められていたのである。
 そうこうする内に二月末になった。阪大生協事件の隠れたる端緒であった「日本人の声」の日本共産党への復党は実現できなかった。まさか、阪大生協から未だにトロツキストを追いだしていないというのが原因していたわけでもなかろう。それについていえば、「日本人の声」の復党問題はもともと個人的な願望に起因し、又理論的にも両者の違いははっきりしており、それに感情的にもしこりが残っているので(もっとも、両者は本質的には同じ穴のムジナかもしれないので、いつかは一緒になるかもしれないが)ここ当分はうまくいける見通しなどはじめからなかったという方が正しかったのである。
 従って、それ以後は大学生協連から派遣されたヒラナカ氏はデ学同学生理事を利用することはできなくなってきた。それと同時にヒラナカ氏自身にも焦りが生じはじめていた。即ち大学生協連の金で関西に派遣され、且つひそかに阪大生協のトロツキストを追いだせとの組織からの指令をうけているにもかかわらず、二ヶ月たっても有効な成果を上げえないのは、彼自身の責任問題にもなるからである。とはいえ、彼は彼自身の個人的な能力では処理できないことを自覚していた。大学生協連も又、彼だけに任せるのではなく、組織全体の問題として動く必要性を感じ、大学生協連の業務部長、それに専務理事までも関西に派遣するなど、より活発な動きをしめしてきたのである。
 特に日共、大学生協連が最後に期待をかけたのは阪大の「教科書問題」であった。彼らの当面の重要な課題は、なんとしてでも自分達の息のかかった人間を阪大に送りこむことであった。「教科書問題」は大学生協連の介入できる唯一残された方法であった。なぜならば、書籍の取次店と大学生協連は契約をかわしており、個別には阪大生協と取次店との取引きということであったが、形式的には大学生協連と取次店との取引きの形態になっていたからである。大学生協連はそれを利用した。即ち阪大生協から注文のあった教科書の納品を取次店に通達しストップさせたのであった。同時に阪大生協理事長宛に三月二十日付の秘密文書(これも大学当局の手にわたっている)にて新たに三点にわたる脅迫的な通達を行なった。その内容の要点は
一、阪大生協の大学生協連に対する債務一六○万円(購買物資の代金)の強制的なとりたてを考えている、
二、大学生協連の共同仕入先である書籍取次店と交渉し、最悪の場合、阪大生協への納入をあきらめてもらうことになるかもしれない、その場合、大学生協連は何らかの方法によって、直接阪大の学生に手わたすことを考えている、
三、二月四日付の大学生協連の提案を再考慮し、三月二十五日までに返事のない場合は提案を拒否されたものと判断し、それ相応の処置をとる、
であった。
 阪大生協の書籍担当者が取次店にでむき、その内容をきくと、取次店では、今までの未払い分六○○万円を支払ってもらうか、大学生協連の保証があれば教科書を納入するとのことであった。そこで書籍担当者が労組と相談し、教科書販売という阪大生協の大使命をはたす意味から、従業員に支払うべき給料を少し延期してもらってでも取次店に資金をまわしてもらう旨の了解を労組から取り、それでもって理事長に取次店と再交渉してもらった。
 すると取次店の話では、阪大生協の現在の業務の状態は不安定だから、さらに教科書納入分の前払い二○○○万円をしてもらうか、大学生協連の保証がなければだめだといいなおしてきたのである。この点に関しては、取次店サイドからは独自の商業的理由もあることであり、ある程度はうなづけるものの、この背後には3・25通達にみられる意図を確実に実行した日共系であるといわれた大学生協連のある種の策動があった事実をわれわれは看過してはならないだろう。このときの大学生協連の戦術は、はじめからみたされそうにもみえない条件をだしておいて、とどのつまりは2・4文書の提案をのむことで阪大生協をして大学生協連の保証を願い出させるというところに追いこむことであったらしい。 それでも阪大生協理事長は生協組合員に教科書を手渡さねばならないという使命感から祈らんばかりの思いでねばり強く交渉したところ「保証してやってもいいが、三人の人事派遣を認めるという条件をのまなければだめだ」というのが最終回答であった。(大学生協連が阪大生協の上部組織であるのなら、従業員の協力をあおいでまでも資金を調達しようとする阪大生協を理解してやるのが常識であるだろうに。)
 阪大生協理事長は、正直なところ、もうどうにでもなれという気持になっていた。もしこのとき、大学当局から理事長に「大学生協連の保証のもとに書籍を入れてはならない」という指令が届いていなかったら、ふらふらと応じていたかもしれない。そして大学生協連からの派遣を理事会決定ということで認めていたかもしれない。結局、阪大生協は2・4文書の見出しにもある大学生協連の「困難な事態に対する提案と要請」を断ったのである。これが取次店のある責任者をして「阪大生協は大学生協連の傘下にある。親会社が子会社の保証をするのは当たり前だし、大学生協連の保証を阪大生協がいやがる理由がわからない」と言わしめた真相なのである。
 一方、大学当局の方では、理事長に大学生協連の保証を断らせた後、ただちに次の対策を講じた。即ち、教官に教科書対策の委員会をつくらせると同時に、大学生協連に対しては、阪大生協に教科書を販売させず、大学生協連独自で阪大の学生に販売するといっても、大学はそのための場所の提供の許可は与えない旨の通告を間接的に行ない、教官の連帯保証なら文句はあるまいと、その委員会に教科書納入を行わせるようにしむけたのである。大学生協連は独自に教科書を阪大の学生に販売するとの気勢をあげた以上、たとえそれが大学当局に邪魔されたとはいえ、手をひくわけにはいかず、教官の連帯保証つきの教科書納入の要請をうけざるをえなくなった。かくて阪大生協から注文された教科書は大学生協連が中に入ったことによってまさに傘下の阪大生協には納入されず、大学生協連から直接大学当局に納入されるという異例の事態となって、その問題の幕がおろされたのである。 日共、大学生協連がうった大芝居はこれまた大学当局によって失敗におわった。大学生協連にすれば阪大生協理事会、とりわけ理事長が大学当局にこれほどべったりとは予想していなかっただろう。彼らの常識、あるいは他大学生協の例から考えて、そんなことはありえないことであったからである。
大学当局は教科書を大学生協連をして阪大生協に納入させないことによって日共勢力の阪大への進出を防ぎ、大学当局それ自身に納めさせ阪大生協に販売させないことによって、阪大生協の存立基盤をおびやかしたのである。事実、阪大生協の書籍部は教科書販売が不可能になったことで、あらゆる意味でいろんな打撃をうけ、回復するまでには数年を要したほどであった。(その間、大学当局はそれを機会に書籍における業者導入の準備を行なったが、それは失敗した。)
 この間の事情について、大学当局の意図によって全く舞台の外におっぽりだされていたデ学同学生理事、生協組織部は、教科書問題については、「解雇者の居すわり─それが教科書が購入できなかった原因である!」(生協組織部4・25発行ビラ)とあいかわらずの主張をくりかえしていた。
 この問題をさかいにして、日共、大学生協連は阪大生協に対する政治的な介入を積極的には行わなくなり、いわゆる大学生協連としての公的な行政的経済的機能をはたすだけとなった。


     TOPへ 阪大生協事件・目次へ 次へ