第四章 事件の終末とその背景

     第一節 事件の終末

 阪大生協事件が起こって丁度一年たった昭和四十三年(一九六八年)の十二月のなかば、ここ大阪大学の本部のある松下会館の中へ阪大生協労組の役員と解雇決定者、及び阪大職員組合の生協問題合同委員三名が入っていった。松下会館とは日本の産業界の大物、松下幸之助氏が地元大阪の発展のために大阪大学に寄附した四階建の豪華な建物であった。
 労組の人達はこれから会うのは生協の理事会ではなく、大学当局の中枢、文部省の直轄人事である阪大の事務局長であると、調停者の職員組合の人達から聞かされていた。もはや労組の人達が相対するのは理事会でもデ学同でもなかったのだ。
 事務局長は調停役の職組の人を通じ解雇決定者とすぐにでも会いたい旨を伝えた。だが労組の人達は、わかりきった結論をおためごかしにいうであろう権力者に喜んで会おうなどという気持は毛頭なかった。それに「大学当局に白紙委任をした」K理事長やO教官理事が事務局長に影のごとくくっついているのかと想像するだけで、いやな気持におそわれた。
 労組の人達、なかんずく解雇決定者は疲れきっていた。解雇問題を第三者機関にまかせると確認してからなんと多くの日々のたっていることか。だが敗北は敗北だった。労組は紛争の解決を第三者機関にまかせるといった瞬間から、すでに敗北していたのである。たしかに、二月二十九日の理事会と労組の団交のときに、労組が第一回目の「第三者機関の設置」案に同意したのは、「確認事項」の中に次の点、即ち「理事会が第三者機関に委託する以上、理事会としては権限放棄になり、結論が出るまで処分は棚上げとみるべきである。従ってその間は就労は認める」という労組案に理事会が認めたからであった。
 しかし理論的にはそれが理事会にとってのある種の権限放棄であるにしても、それとは無関係に、この労組の同意は労組にとっても実質的に解雇白紙撤回へむけての斗争を放棄し、敗北の第一歩をふんだ行為といえたのである。事実、この直後から理事会は「確認事項」などなかったかのようにふるまいだし、問題の解決をまたも遅らせたのである。
 とはいえ理事会がそういう態度をとらなかったとしても、もともと労組には「学内の第三者機関」などなかった。仮にあるとすれば、せいぜい、現在の理事会、総代会が改選された後の理事会、総代会がそれにあたると考えられていた。後に、生協の取引業者の納品ストップという圧力によって第二回目の「第三者機関の設置」が確認されて労組が指定した第三者機関、即ち阪大職員組合も、阪大生協労組に対しては四名の解雇決定者の排除を認める意向を前々からあきらかにしていた。ただ理事会のように冷酷な処遇ではなく、将来の生活保証を別の形で考えてやるとか、金銭的解決を図ってやるなど、やや道義的であったに過ぎなかった。
 このときの解雇決定者の心境はすべて一致していた。自己の政治的野望のために「労働者を『いけにえの羊』に仕立て…た民主的かつ左翼的組織」デ学同が全般に幅をきかせる阪大学生運動戦線、その支配下にあってロボットのごとく従う生協学生理事、自己保身のために大学当局に身をまかせ大学当局のいうままに動いて救われようとする教職員理事、上司として従業員の立場を支持したものの理事会から解任され身動きのとれなくなった阪大出身の無能な専従理事、同じ労働者の組織ではあるがすでに偏見をもっている阪大職員組合、そして反大学的行為、反体制的行為をする人達の存在を恐れ、排除しようと考えている大学当局等々、まさに労組のいう「阪大ナショナリズム」によって学内には適切な第三者機関など存在しなかったのである。
 さらにこういった人達の指導のもとに築きあげられた体制下にあっては、阪大生協の従業員は大学内に市民権をもたぬ外様的存在、彼ら大学人、生協組合員に単に雇われた奴隷的存在であったのだ。それが無関心層ないしは阪大ナショナリズムに依拠する大学人には、紛争の火種になるものはいてもらいたくない、という排外的態度にもなり、陰に陽に阪大生協労組に対する異端視的ムードをかもしだしていた。それ故に労組が学内の第三者機関を選定するのは、当時の状況下にあっては、自殺的行為であったともいえたのである。
 しかるに労組が業者による斡旋案の提示されるに及び、第三者機関として阪大職員組合を指定したのは何故なのか。それは解雇者個人の犠牲において生協の主体性の回復、組合員主権の回復を願う抗議の意思表示と同時に、現在偏見をもっている労働者組織、即ち職員組合、及び阪大学生のすべてに対して、権力の独断的考え方や圧制的行為に対する抵抗の必要性を思いおこさせる告発のためである以外のなにものでもなかった。それについて労組は次のようにいっている。

 学内で、大学自治、生協発展の土台としての労働者の統一を考える際、教職員組合と生協労働者の連帯はとくに重要である。今回の生協<紛争>はかかる連帯にキッカケを与えたものとして、我々はこの契機を持続させる責任がある。従って(解決そのものに関していえば必ずしも本来の道ではないにしても)紛争の解決にあたって、職組を労働者が<第三者>に指定することはきわめて重要な転換であると言わねばならぬ。

 そして労組は職組に対し次の三点を要望するとともに、それらがうけいれられたので、職組を第三者機関として指定する旨の発表を行なった。
一、業者のとりたての現実性に直面して、生協擁護、生活保障の為にのみ戦術転換をあえて選択した労組の立場が充分に理解されること
二、十二月以降、労組があらゆる妨害、デマにも屈せず斗い抜いてきた成果、生協危機とその解決すべき主体の提示、を無にするような斡旋であってはならないこと(形式的にではなく実質こそが眼目である)
三、労働者の生活を基本的に保障するものであること
 労組のこの悲痛な叫びも、結局は大きな権力を前にしての敗北の別表現でしかなかった。職員組合も又、大学当局という巨大な権力を前にしては萎縮せる小羊であった。
 「K理事長がどうしても四人を解雇するといいはって困っているんだ」ふともらした職組の一人がいた。
 「K理事長としてではなく、K大阪大学法学部教授として働くことによって、大学への白紙委任のあかしをたてているんですよ」と一労組員がぶっきらぼうに答えた。
 事実、K理事長は理事会と労組が第三者機関にまかせる確認をしてからの動きの方がいきいきとしていた。どういうものか彼の職組への働きかけは積極的であるというよりは異常であった。
 そしてそれだけの成果があったのだ。職組の考え方は、やはり当初の考え通り、四人の排除を前提にしていた。それはデ学同の考えていたことであり、K理事長をはじめ理事会の考えていたことであり、大学当局の考えていたことであり、そしてそれらを摩擦なく終わらせようと考えていた職組の考え方であった。そしてそのための保証人に大学当局そのものがなったのである。
 かくて、阪大生協の労組員と解雇決定者、及び阪大職組の生協問題合同委員の面々が松下会館内に入っていったのは、事務局長を代表とする大学当局とその最後のつめを秘密裏に行うためであったのである。
 ひとときがすみ、労組と解雇決定者及び職組は建物を出た。労組の人達の顔は屈辱にみちていた。こうなることを承知の上で職組にまかせたのだし、職組の人達が申しわけなさそうにしたところで、どうなるというところのものでもなかった。
 数日後、理事会と労組の間で次の確認者がとりかわされた。

 確認書
 大阪大学生活協同組合と大阪大学生活協同組合労働組合は昨年十二月以降の両者間の紛争に関して意見が一致するに至ったので下記のとおり協定する
                 記
一、理事会および労組は阪大生協が大阪大学教職員ならびに学生の自主的、民主的組織であり、その生活の向上のために不可欠のものであることを認識し、また同時に両者は阪大生協の発展により生協従業員の生活を確保するためにこの紛争を完全に打ち切ることを確約する。
二、理事会は過去において管理の不備のあったことを反省し、今後生協内部の綱紀をひきしめ正常化につとめる。
三、労組は暴力等過去の行為を深く反省し、理事会の正常化措置に協力し、生協の発展のために努力する。
四、理事会は今後の正常化措置と生協の発展のために協力する従業員は今回の事件を理由に差別しない。
五、理事会は解雇(一月二十七日付)した、K(仕入係)、K(主任)、S(労組委員長)の三氏に対して解雇予告手当を支払う。労組および上記三名は今後一さいこの問題について争いを起さない。
六、理事会と労組は相互尊重の上、一層の協力をすることを確約する。

昭和四十三年十二月二日
           大阪大学生活協同組合労働理事長     K 慎一 ,
                       同      理事     O 郡次 ,
                        同   労働組合委員長 S 順次 ,
                       同   労働組合書記  N 英夫 ,

 上記の協定を確認する。
                     調停者            H 一郎 ,
                     同               T 昭二 ,
                     同               N 信男 ,

 さらにそれから、1ヶ月たった昭和四十四年一月、今度は一般向けにK理事長名入りの次のような声明文が出された。

 生協組合員および利用者の皆様へ
  ─生活協同組合の解決について─
 
一昨年十二月外販問題をめぐって、労組との間に、紛争を生じ、昨年二月まで豊中地区における業務が停止し、組合員ならびに利用者の皆様には、多大の御不便をおかけいたしました。その後労組との間に解雇問題については、学内第三者の仲介に委せるとの話合いがつき、三月初旬より食堂部門の営業を再開いたしました。同時に取引業者との関係につきましては、約三ヶ月に及ぶ業務の停止による仕入代金の未払いにつき、返済の要求がなされておりましたが、数次の折衝の末業者の協力をえて、未払債務については、一時棚上げし、新規取引分については、確実に支払いを行なうということで、取引を継続し、昨年九月からは、購買部門も再開できるようになりました。しかし解雇問題の解決および未払債務の処理についての、根本的解決が棚上げされたままの営業で、不安定の要素を内包しており、理事会といたしましては、これらの問題の解決に努力いたしてまいりましたが、このたび、大学内各方面の御協力、御援助により、解決をみるにいたりました。
 すなわち、第一点の解雇の問題につきましては、豊中地区四職組の生協問題合同委員会および院協をはじめ、各方面から種々あっせんの労をとっていただきましたが、長らく話合いがつかないままになっておりましたところ、昨年十二月十二日にいたり、三教官より解決案が提示されまして、労組との間に合意が成立し、確認書をとりかわし、解決をみるにいたりました。それにより労組側は解雇を承認し、今後、生協の再建に協力するということになりました。第二点の取引業者に対する未払債務の問題につきましては、その総額が二千万円をこえる膨大なものであり、生協の再建に重大な支障になるとの考えから、大学側も、その処理については、種々検討されまして、昨年十月頃よりあっせんの労をとってこられました。その結果、大学の融資あっせんにより、債務の半額を支払って一切の債務を決済するとの話合いが大多数の業者との間に成立し、年末三十日に多額の債務者の大部分の決済をすませその他の債務者についても、早急に支払をすませるということで、解決をみるにいたりました。以上のような次第で一昨年以来の生協紛争に伴う根本問題は、大学内各方面の御協力と、御援助により、一応解決をみることができ、営業の業績も徐々に上がっております。今後は、理事会と従業員の協力により一途再建への道を進まなければならないと考えております。
 現在購買部門については、九月の中央売店再開後、基礎工、薬学部、理学部の売店を順次再開し、一応旧来通りとなりましたが、今後は内容の充実に努めなければなりません。また、書籍部門につきましては、先日来業者と協議いたしておりますが、教科書販売を優先し、早速その準備にとりかかっております。したがいまして、一般書籍の販売業務は、やや先になる予定です。なお工学部支部ならびに中之島支部の業務は紛争中も継続して行われておりましたが、工学部の吹田移転にともない、同地区においても購買、書籍、理髪等の業務を開始し、順調に進んでおります。今後の問題としてましては遅れております総代の改選とその開催ならびに再建のための新理事会の選出を早期になさねばなりません。しかしこのためには、約一ヶ月の期間を要しますので、学年末試験、入学試験なども考慮し決定したいと考えております。
 長らく、生協問題につきまして、教職員ならびに学生の皆様にご心配をおかけし、又解決のための御協力をいただきました。深く感謝の意を表したいと存じます。今後は再建のために、一層の御協力、御援助をおねがいいたします。
 昭和四十四年一月
                                大阪大学生活協同組合
                                 理事長 K 慎一

 こうして、デ学同の政治的野望は、大学当局の助けをうけてはたされたわけである。ここにいたってデ学同の大学当局に対する再三の要望はききいれられたのだ。そのかわり、経営的にいうならば、大学当局はぼろいもうけをしたのである。デ学同には恩義を与えたし、教職員理事を大学に従順な下僕にしたし、要するに生協から反体制的攻撃的な牙をぬいたし、そのおかげで一つの食堂施設を生協からとりもどしたのであるから、そのことを考えれば、大学当局が学園からデ学同の敵、生協理事会の敵、大学当局の敵を追いだすための資金を調達してやったということは、結局は、安い買い物をしたことになったのである。


    TOPへ 阪大生協事件・目次へ 次へ