第二章 阪大生協事件の経過と内容

    第一節 団地風景

 昭和四十二年(一九六七年)七月のとある日、ここ大阪府豊中市にある東豊中第二団地の昼前は、あつい日ざしに木々の緑はむせかえっていた。会社勤めのサラリーマンを都心におくりだした朝のあわただしさも、その帳をおろし、ほっとしたのもつかの間、あつい沈黙におしつぶされそうな気配がただよう。団地の壁の白さも陽炎にゆれ、アスファルトの道路を横ぎる犬も気のせいかよたよたとしている。
 つと、そこへ生鮮食料品をつんだトラックが静寂をうち破るエンジンの音を響かせてきて、とまった。やがて運転台から一人の男がでてきてハンドマイクを片手に団地の建物にむかって叫びはじめた。
「ええ、野菜、果物の販売をいたします。今日仕入れたての野菜、果物を団地のみなさまにお安くおわけいたします。新鮮な野菜、果物です。種類もたくさんございます。ピーマン、じゃがいも、トマト、なすび、種なしぶどう他豊富にとりそろえております。お値段を申しあげますと、……」その男はなんどもなんどもくりかえした。
 団地の主婦達はスピーカーから流れでる声をきいて、またいつもの野菜の行商人だな、と思った。だからことさらに買う意欲もおこらず、外にでてみようともしなかった。ただ、いつもなら気づかないうちにきては去っていくのに、今日はしつこく宣伝をしていてうるさいな、と迷惑げに窓から顔をだす者もいた。そして、今きている行商人はここへははじめての人間だと思った。
 「誰もこないなあ」とその男は一人つぶやいた。それでも、せっかくきたのだから、そう少し宣伝をしつづけようと考え、トラックから少し離れ、建物により近づいたところで、さきほどの言葉をくりかえした。
 一人の主婦が市場からの帰り道、このトラックに近づいた。彼女はさっき買った種なしぶどうとここに並べられる種なしぶどうを見くらべ、即座に「安いわ」と一人ごちた。そして買う衝動にかられたのである。
 「この種なしぶどうを少しわけて下さいな」
 「はい、ありがとうございます」
 その男はいった。ありがとうございます、なんて言葉はこの男には似つかわしくなかった。言葉としてはぎこちなかったが、しかしいきいきとしているなにかが、そこにはあった。客はその主婦一人だった。三十分ほどして、その男はそこを去っていった。
 翌日、その男は再び同じ場所にあらわれた。今度は二人の客があった。その次の日は四人、その次の日は八人と、まるで計算されたかのように買う人の数は増えていった。「とにかく、安い」これが団地の主婦にとってはなによりの魅力であったのだ。彼女らには売っている人が誰であるかを詮索する気持などなかった。彼女らが生鮮食料品を買うのは「安い」「それにもかかわらず新鮮だ」以外の理由は考えられなかったのである。
 男は最初は一カ所で販売していたが、三カ所に増やした。一カ所では広い東豊中第二団地のすべてを対象にすることは不可能だと考えたからだ。それとともに、生鮮食料品を買う主婦の数が増えて、とても一人では処理しきれるものではないと考え、かねて用意のヘルプ要員を使うようになった。
 それから一ヶ月、車によるこの生鮮食料品の野天販売は、すっかり、東豊中団地の人気者になっていた。車も最初の一台から二台に増え、一日にさばける生鮮物の量も相当な程度に増大していった。しかしそこまでいっても、団地の主婦達はこの野天販売がどこの誰によって営まれているのかを尋ねようともしなかった。それに販売を行っている男たちも積極的にあきらかにしようとする意志もなかったのか、当初は黙っていた。ただ、車の横にしるされた「大阪大学生活協同組合」という文字をみて、彼女達は「学生さんのアルバイトかもしれない」と心の中で思った程度だろう。
 しかしながら、生鮮物を販売する男たちには目的があったのである。それは団地を中心として一連の消費組織をつくりあげること、そのために地域の住民の消費生活についての意識の向上をめざし、消費者としての連帯を図ることであった。この考えは自分の所属する大阪大学生活協同組合のもつ消費組合としての理念と本質的に合致するものであったし、且つ今こうして団地の住民に生鮮物を販売するのも、地域住民と一体となって消費者運動を推進していこうとする阪大生協の一つの方針の具体化であり、その布石の一つであるときかされていた。
 彼らは生鮮物を販売する中で一つの変化のおこるのを待っていた。彼らは生鮮物を販売するときは「これはあなたたちが自らしなければならないことなのですよ。私達は当分の間それを代行しているにすぎないのですよ」とよく口にしていた。それは消費者に、ある意識をめばえさせるためのプロパガンダであった。そしてついにその瞬間がきた。わずか二、三人の男たちの手では一度に数十人の主婦達の需要に応じきれないのをみて、いくにんかの主婦が、自分達が販売の手伝いをしよう、といいだしたのである。「あなた達は品物を仕入れてくるだけでいいですよ。あとはすべて私達がしますから」彼女達はそういった。
 このとき以来、彼女達はなにかしら連帯した意識、同じ仲間であるという心のつながりのようなものがめばえてくるのを各々の心の中で感じとったのである。そこには自然に自治組織のようなものが発生し、未熟な委員会制の形態がうまれてきた。彼女達は「大阪大学生活協同組合」名入りの自動車がくると、ただちに行動を開始し、机を用意し、秤をならべ、買う人と世話をする人とにわかれていく。すべてがセルフサービスで、買う人はめいめいにほしいと思う品物をえらび、自ら買物かごにいれ、世話をする人の前で代金の支払いをする。次のときになれば、世話をする人は買う人と交替し、代金を払うために長蛇の列の中にならぶ。それは東豊中第二団地ぐるみの行動であり、大阪大学生活協同組合の自動車がきたときは、さながら昔の野天市場のごときにぎわいぶりにわき、主婦達の生活は熱気に満ちていた。
 この状態は近所の市場の妨害、いやがらせにもかかわらず、むしろ主婦達の参加人数の次第に増大していくところとなり、商業新聞に「団地の市場は大はやり」「青空市場は大繁盛」のセンセーショナルな見出しにはじまる紹介をうけ、物価の値上がりにそなえる消費者の自衛対策として注目されるにいたった。
 商業新聞に報道されるや、東豊中第二団地におけるこの運動は他の団地の人達の触手をさそい彼らは販売のにない手である阪大生協に働きかけ、同じ東豊中の第一団地や、豊中市の隣の市である池田市の五月ヶ丘団地等も生鮮物の団地販売をやってもらいたい旨の意思をあきらかにしたのである。そしてその中で生鮮物の販売をするという単なるくりかえしの状態を脱皮し、真に団地の消費者の消費生活につながる物資をはば広く供給できるような状態をめざそうとの観点から牛乳の販売、日常家庭用品の販売もやることにまでなった。当時の模様を朝日新聞は次のように伝えている。
 
 この春生まれた豊中市東豊中第二団地(千三百五十世帯)では約一月ほど前から大阪 大学生活協同組合の出張販売車が姿を見せ、団地内の駐車場で毎週二回、野菜、果物な ど生鮮食料品の青空市場を開いている。同団地には住宅推せんの市場「東豊中市場」(二十三店舗)があるが、生協の方が二割余も安いため主婦に歓迎されなかなかの盛況ぶり。同団地には「団地内の露天行商はおことわり」という規制があるため自治会としては公 然と応援していないが黙認の形だ。同生協は十月一日から十六円牛乳を持ち込む計画で 各むねごとに申し込みをとっており主婦と直結して地固め中である。
 同生協は池田市の五月ヶ丘団地でも十九日移動青空市場を開く。今月は毎週火曜と金 曜日の二回団地内を巡回、野菜などの生鮮食料品を売る。同生協では「産地直送などで 市価よりかなり安く提供できる」と話している。
 同団地自治会では「すでに他の業者もトラックで出入りしている。阪大生協はしばら くの間、試験的にやってみるという話だが、消費者にとって安いに越したことはない」 と好意的だ。(一九六七年九月一九日付)
 
 一方、この生鮮物の団地販売をはじめた阪大生協の担当者は団地住民の反応があまりにも大きいのに感動した。新聞にも記載されてあるように、自分達はほんの試験のつもりで団地販売をやってみたのである。それが生産物を販売して二月もたたないのに、団地の住民が主体的に行動するようになってきた。消費者が物価の値上がりにいかに苦しんでいるかを正しくしめしているこんな例は他にないのではないだろうか。彼らはそう考えた。とはいえ、この試験的な行ないがすでに地域住民の自主的な運動にまで発展するに及んでは彼らとしてはこちら側も組織的な対応をする必要性を感じはじめた。そこで、阪大生協自身としては「地域化委員会」を設け組織的にこの問題にとりくむ一方、団地の住民に対しては、彼らのこのとりくみが阪大生協の側面的な援助がなければ、まだまだ消費者運動として発展させていくに不充分である事実を認識させ、従って今後は生鮮物の販売による住民の意識の向上と連帯とを媒介にして「地域生協」の設立の方向にむけさせることが確認された。
 かくて団地住民と阪大生協との協同の仕事として、生鮮物販売、そしてあらたに牛乳販売は続けられていった。その中で阪大生協の提起する「地域生協」設立の運動の理論も団地住民の積極的なうけいれ体制とかみあって、現実性をおびるようになってきた。しかしながら「地域生協」がいつできるのかは未知の問題だった。団地の住民の主体的な働きと社会の状況がうまくかみあえば、すぐにでもできるかもしれない。だが同じ生鮮物や牛乳を販売しながら組織づくりをし、十年もかかって、やっと地域生協をつくったという先例もある。団地の住民も、又その人達をささえる大阪大学生活協同組合の関係者も、今後は共に協力して地道な歩みをつづけていくことがなんども確認された。彼らにはそのねばり強い行為だけが課せられていたのであった。
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 この事態をかたわらでじっとみつめていたものがあった。大阪大学の中で、比較的勢力をのばしていた「デモクラティック学生同盟」という学生の政治組織であった。この「デモクラティック学生同盟」つまり「デ学同」がなに故にこのことに関心をもったのか。消費者運動の一環として行なうこの生鮮物の団地販売そのものに関心があったからであろうか。いや、そうではない。実はそれに関係していた大阪大学生活協同組合の担当者に関心があったからなのである。この担当者は、「デ学同」の理論とは、まっこうから対立する理論の持主であったのだ。「デ学同」はこの生鮮物の団地販売がその担当者を阪大生協からパージするに恰好の材料になると考えたのである。


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