第一章 阪大生協の歴史

   
第四節 事件前の阪大生協

 だが阪大生協の初期の頃はそれほど政治的特色及びセクト的特徴がみられなかった。終戦後の悪性インフレの中に生協の設立運動がおこり、新制大学の制度の施行された昭和二十四年に任意団体として阪大生協が発足したのであるが、内実は会社の給品部のごとき安売り機関にすぎなかった。「自分達で仕入れ自分達でわけあう」ことは小売店の利益だけ安くなり、困窮する当時の学生にとってはありがたいことにはちがいなかっただろう。しかしなんのために「自分達で仕入れ自分達でわけあう」のか。
 この反省を忘れる場合「自分達で仕入れ自分達でわけあう」のが、いつしか「自分達の仲間の一人がアルバイトとして仕入れたものを自分達が買っている」にかわり、そして「自分達の学校に他より安い所があるから買っているにすぎない」という風になってしまうのである。つまりは、消費者としての自覚が欠け、自分達を苦しめる者に対する働きかけを常に行う批判的姿勢が失われてしまうのである。かくて阪大生協は発足当時の怒れる気持もいつしか消え、日常性の商行為に埋没し、ほそぼそと眠れるごとき生を保ちつづけていたのである。
 阪大生協が眠れるごとき商行為をつづけることは大学の管理者にとっては歓迎されるべき事ではある。しかも利用者としての生協組合員が生協の存在意義を考えることを忘れ、単に生協の施設を利用しているだけとなると、大衆運動をおこして大学にいちゃもんをつけたり、支配者階級打倒などとやる気づかいはない。あとは万一の場合を考えて、生協の経営状態が思わしくないときに乗じて、生協そのもののもつ危険な芽をつみとってしまう機会を待っていればよいのだ。しかも大学にとって幸いなことには、阪大の学生運動は同じ学生で構成されている生協の運動には関心がなかった。大半の学生自身も、いわゆるおとなしく物わかりがよかったのである。
 実際のところ、この傾向は阪大生協の発足の当初から「阪大生協事件」のおこる最近にいたるまで存在していたともいえるであろう。学生自治会が阪大生協に関心を抱かなかったのは、阪大生協が物質的な助けは勿論、精神的な助けにもならなかったからであろう。街の小売店にも劣る施設で、その日ぐらしの供給活動をするのがせいいっぱいの生協が、理念としてすぐれたものをもってはいても、現実の姿がこんなざまでは、と考えられたからであろう。そのせいか、阪大生協にはその運営に命をかけるいわゆる生協活動家なる者も出なかったのである。
 もっとも、大阪大学がもともと運動家的タイプの人間の育つような土壌をもっていないというのもその原因の一つであろう。これは、大阪大学の学生対策の巧妙さもさることながら、経済的感覚の発達した大阪人の気質の反映が学問の府である大学にも及び、いわゆる「儲かる話」でなければくいつかない学生のぬけめのない様をあらわしているのかもしれない。いずれにしても、阪大生協がその連動体的特色をもたないでいることは大学にとってはありがたい話であった。
 阪大生協が「自分達で仕入れ自分達でわけあう」者の運動体としてミコシをあげたのは、皮肉にも、大学が生協運営の食堂を一方的にとりあげようとした昭和三十三年(一九五八年)であった。学生達は生協がなくなるという危機を迎えて、はじめて生協が自分達のものなのだ、と気づいたのであった。
 阪大の学生であり、デ学同の最高幹部の一人であったワイ氏は次のように総括している。「当時、北校当局(筆者註・その頃の阪大は北校と南校の二つをもっていた。)は生活協同組合の弱体化を理由に食堂の業者移管の方針を学生に、一方的に押しつけてきた。北校自治会では、問題をすぐさまとりあげ、他大学の協同組合食堂を視察して食堂の生協経営が、明らかに学生の利益にかなっていることを事実をもって学生大衆に宣伝する一方、勤評反対の要求と並行して学生大会で、生協経営を続行すべきである、との決議を行った。こうした大衆行動を背景にして自治会協議会へ結集した、各自治会代表も含め、学生部長と執ように交渉を行い、業者経営に移した場合学生の負担が大きくなることを認めさせた。その結果、生協経営の続行と、食堂施設改善費用の獲得に成功した。この斗いは、学内問題を大衆斗争で斗った最初の斗いであり、この経験はその後おこった新館食堂生協化斗争において完全に生かされ、後に見る様なすばらしい成果を収めたのである」
 ワイ氏のいうごとく、阪大における最初の学内問題斗争が大学による生協食堂とりつぶしの反対斗争であったかどうかは別にして、少なくとも、学生自治会のイニシァティヴのもとで阪大生協が学内で大衆運動をおこした点は特筆すべきであろう。たしかにそれ以後の阪大生協に、単なる安売り機関であってはいけない、運動体として消費者の利益を守るのだ、との認識が生まれてきたのであった。実にそこに阪大生協が誕生して十年の歳月が費やされていたのである。
 ここで筆者は阪大生協の発展を記すにあたり、先程のワイ氏についてふれなければならない。ワイ氏は昭和三十四年度に阪大の工学部に入学し、その翌年のいわゆる「六十年安保斗争」においては教養部自治会の委員長として活躍した人である。なぜワイ氏について述べる必要があるかといえば、この「阪大生協事件」の陰の重要な人物であるからである。ワイ氏は大学の一、二年の頃は、学生運動の闘士であった。理論的構築の分野においてはさほどのチミツさはないにしても、学生大衆を組織し、運動へともりあげていく技術のすばらしさは他の追従を許さなかった。
 彼は学生運動の立場から、生協の存在意義を認めた最初の人でもあった。そして自らは生協運動に直接は関わらなかったが、阪大生協の動向にはたえず注意をはらっていた。昭和三十五年、当時大学は北校と南校にわかれていたのを北校に統合し、豊中地区(通称石橋地区)を定めたのを機会に、増大する学生の厚生施設対策に新しい食堂建設をすすめていた。当然、大学当局はこの食堂経営を生協に委託する考えはなく、食堂開設の三十五年四月期にはある業者を指定していたのである。ワイ氏はこの事実を察知するや、自治会執行部として彼は先頭にたって猛烈な反対運動を展開した。同様に、彼は次のように総括している。
「阪自連(大阪大学各学部自治会の連合)はこの新館食堂は生協が経営できる様、要望する方針を決定し、各自治会で同趣旨の決議を行い当局に申し入れた。ところが一九五九年末から六十年にかけて厚生課(大学当局)は秘密のうちに業者経営の計画を進めていた。自治会は学生部長から『学生との話しあいがつかない限り、食堂は開かない』『個人としては白紙還元に努力する』との言質をとり、さらに安保統一行動と結合して、学生部に大衆的にデモンストレーションをかけ、新館食堂運営委員会を学生代表を交えてつくり、業者の選定も、そこで決める事に成功した。この斗争に於いて、学生部厚生課は文化系学部の一部教授を通じて食堂の生協経営反対の宣伝を教官の中におこしていった。一方、文学部教職員組合は、事態の明確な把握、検討なしに自分らの目先の利益より、新館食堂の早期開店(業者でも生協でもよい)を望む声明を出した。自治会は、開店が遅れるのは当局の一方的な業者決定の仕方など官僚的な行為に責任がある事を暴露し厚生課長を孤立化させていった。この様に、教職員と学生部、厚生課、一部教授の間の立場等を分析し、その間の矛盾をたくみに運用した事が斗争を成功に導く大きな要因となった」
 かくて、新館食堂は学生大衆の組織的な運動によって生協運営にいたったのである。この新館食堂獲得斗争は、今まで単に利用者としての意識しかなかった学生が「生協は自分達のものだ、自分達の運動体だ」と自覚して生まれた昭和三十三年の大学による旧館食堂のとりつぶし政策反対斗争をうわまわる大きな成果をおさめると同時に、生協が大学当局からいみきらわれている存在であり、いつも規制され、とりつぶされる危険性にさらされていることを学生大衆に認識させたのである。
 この斗争を契機に阪大生協の脱皮がみられるようになった。それまでの阪大生協の活動家は活動家といっても名のみで、アルバイト意識で生協の仕事に従事していた。生協の利用者を自覚ある組合員として組織することは勿論、一定の情宣活動を通じて、大衆運動の中へひっぱりあげようとする運動体的活動など皆無であった。少々の計算力と、仕入業者との応待技術さえあれば、阪大生協の生協マンとして十分に通用した。ところが、学生自治会が中心となって展開された新館食堂獲得斗争を経験した生協マンの中に、阪大生協に組織的な力のなかったことを痛感する者がでてきたのだ。
 だが彼らが独自の力で生協組織の強化を図るために、当時抱いた感情がこの事件の波紋をつくっていたとは、誰が予想できただろうか。彼らは新館食堂の生協化に協力してくれた自治会に感謝してはいたが、そうだからといって生協に対するいささかの介入も好まなかった。
 というのは当時の生協マンは党派性をもたない政治的無色であることを信条としていたからである。従って特定の政治的同盟の影響下にある学生運動活動家に指導権を握られている学生自治会に対しては警戒的であった。実際、昭和三十五年以後の阪大の学生運動はデ学同の天下であった。生協マンにとって、例え彼らが生協に対して政治的セクト性をださなかったとしても、なんとなくいやな感じだった。
 それなら、自分達で生協の組織強化を図ろう。自分達がそれを直接できなかったとしても、それをすることのできる代わりの活動家を自分達でみつけてきて、育成しようじゃあないか。生協マンの意地は奇妙なところで、当時の自治会活動とは直接関わりのなかったMという学生を生協の委員に加え、生協独自の姿勢を保とうとした。このMが後に専従役員となったM専従であった。Mが生協に入って活動しだしたのは、昭和三十六年の暮だった。新館食堂獲得斗争のおわってから、一年目のできごとである。
 思えば、このMの存在が今回の事件の疫病神を招くことにもなったのであるが、それはともかくとして、彼の最初の仕事は生協機構の中にあってそれまでなかった組織部をつくることであった。生協組織部というのは、「自分達で仕入れ自分達でわけあう」者を単にその場限りの利用者にとどめるのではなく運動体的生協の一員として、連帯の意識を喚起させる生協組織の一つの大きな要の役割をはたすところである。今までの阪大生協は販売活動のみをやっていたのだ。彼は組合員にパンフレットをだし、新聞をたえずだしたりして、情宣活動をおこたらず、精力的に組合員の組織強化の仕事にあたった。
 Mを含む生協マンは今後の阪大生協の発展には三つのことが必要であると考えていた。一つは従来の任意団体としての生協を発展解消させ、法人格を取得し、生協の社会的経済的信用を高めること、二つは学生の片手間の仕事では業務的発展が認められないので、事業体的側面をいかすためには、業務だけを仕事とする専従制を完全に施行し、生協の業務を代行するシステムをとること、三つは学生の中から有能な人材をみつけ生協の組織部にいれて、組織部活動の体制的恒常的保証を考えることであった。
 その内一番目の生協法人化の問題はM個人の問題ではなく、当時の生協に関心をもつ者すべての課題であり、Mはそのために貢献した一人にすぎなかった。が、二番目、三番目の問題は特にMに期待がかけられておりMの任務は大きかった。なぜならば、組織運営において比較的大きな比重をしめる人材の育成の問題がからまっていたからである。
 そしてMが集めた人間が奇しくも政治的には反デ学同、ないしはデ学同傘下の自治会の活動家とは縁遠い人間であったことは特筆すべきである。彼が組織部活動のためにひっぱってきた年長ではあるが後輩のSは反デ学同系のサークルに入っていたし、業務の専従であるK主任は某国立大学出身の反日共系、反デ学同系の考えをもつ人間であった。
 デ学同王国を築いていた阪大の中でMが結果として反デ学同系の人間を生協マンにした行為を、どうして当時のデ学同は許していたのだろうか。思うに、このことがデ学同をして「阪大生協事件」というやっかいな仕事にその政治生命までかけさせたのであるのに。
 デ学同のワイ氏は生協に関心をもってはいたものの、生協を自治会の力より数等劣る微力な存在と過小評価していたのではあるまいか。彼を含めデ学同が生協に文字通り不干渉であったのは次の事による。
 一つは、生協にいるMは政治的にノンポリであったこと、従って生協が政治的偏向をだすとは考えられないし、彼がつれてきたSにしても、反デ学同の仲間とは関係してはいたものの、反デ学同としての政治的行為には関与していなかったことをみれば、生協が反デ学同的になることは万が一にもない、と判断したこと。
 二つは、生協が全学的な組織であるといっても、とるにたらぬ勢力であるし、仮に生協に反デ学同的立場の人間がいたとしても、阪大においては反デ学同的勢力はひとにぎりの異端者であり、とてもデ学同にかなうものではないと考えられたことである。ワイ氏によれば、生協の今の課題は業務的基盤の確立であり、それさえしっかりしておれば政治的意義は二義的に考えていても、後になればとて、いくらでも生協は利用できるので、当分の間はMやSに生協をまかせていても大丈夫であったのである。だから、わざわざデ学同系の人間を生協におくりこんで勢力の維持を図るまでもなく、むしろ、それよりか、自治会等に優秀な人材をおいておく方が阪大の政治戦線には有利であると考えられていたのである。
 ところが阪大生協はワイ氏の思惑とはうらはらの方向に進みだしていたのである。前述のように、昭和三十八年に業務専従制の確立の第一歩として、業務幹部に反デ学同系のK主任が採用された。このときデ学同としてはなんら反応をしめさなかったが、ただワイ氏だけは個人としてMに対してK主任が政治的セクトの強い人間だと難色だとしめしたが、Mは「今は政治的偏向がどうのこうのいうよりも、生協の業務的基盤の確立の方が大事である。だから、たとえ彼がセクトをもっていたとしても優秀な人間である限りは、採用して、阪大生協の発展を考えるべきだ」とワイ氏の持論を逆手にとって、どうにかおしきってしまったのである。
 続いて昭和三十九年、M及びSの後継者の払底した組織部の人材補充に反日共系、反デ学同系の学生が数名、採用された。この時になって、デ学同のワイ氏は生協が知らぬままに反デ学同の人間の集団になっていることにはじめて恐れをいだいた。昭和三十五年の新館食堂獲得斗争は自分達の活躍で勝利をえたのではなかったか。いわば阪大生協は自分達のものであったのだ。それが今では牙をむきかけている。しかも、あろうことか、反デ学同勢力として。もし生協が発展して、とてつもなく大きな力をもつようにでもなれば、とんでもないことになってしまう。ワイ氏は生協にクサビをうつ必要を感じた。
 そこでワイ氏は総代会を利用した。総代会は生協の最高議決機関であり、いわば国会に相当するところだ。彼はここでなら合法的にやれると考えたので(また彼自身も総代であったので)配下の総代を使って、M及びSがつくりあげた組織部体制をなんなくぶちこわしてしまったのである。つまり、反デ学同系の組織部員すべてを解任し、新たにデ学同の息のかかった人事体制をこしらえあげてしまったのである。そして理事に立候補したMに対して、ワイ氏は「もう、勝手なことはできないぞ。いつもわれわれの目が光っていることを忘れないでくれよ」と威嚇し、その証拠として、Mに対する理事反対の票をいれたりした。これはワイ氏があらかじめ、Mにおどしをかける意味で他の総代にはMの理事立候補に賛成の票を投じさせ、自分は反対票をいれると、きめてあったものなのだ。
 政治的運動にともなう特徴の一つであるセクト争いが、阪大生協の場合でもここからおこってきた、といえなくもないであろう。この総代会を契機にして、デ学同は生協の組織部における主導権をにぎるようになった。
 しかしワイ氏の展望にも見あやまりがあった。ワイ氏の考えは、いわゆる「でる釘はおさえる」式で、反デ学同系の組織部への進出はおさえるにはおさえたが、今後具体的にどうしていくのかという点においてはまだまだ甘かったのである。彼は組織部にデ学同の政治経験のあさい者をおくりこんだ。彼はこの若輩を周囲から援助すれば、組織部の運営は不可能ではないと考えたのである。はたしてこの若輩は次第に大きくなる生協の組織を指導していくことはできなかった。
 一方、昭和三十五年の学舎統合以来、生協組合員数も増え、施設の充実、供給高の増大は常に人の予想をこえていた。従ってM及びSはこの総代会以後は組織部の強化よりも、業務体制の確立により多くの力をさかざるをえなくなっていた。業務面においては彼らはまだ実質的に人事権をもっていた。そこで彼らは業務における専従体制の強化を当面の課題とし、K主任とともに、その任にあたった。主としてK主任の個人的努力で、業務幹部が配置された。当然、これらの人達は思想的にはデ学同とはあいいれない考え方をもっていた。しかし彼らは阪大生協に従事する労働者としての自覚のもとに阪大生協の発展につくそうと考えてはいたのである。
 他方、デ学同は組織部や理事会に新人活動家をおくりこんだのは失敗であったと考えはじめていた。その結果、デ学同の中堅どころを配置して、てこいれをはじめた。理事会は月一回、総代会は年二回、定期的に開催され、しかも彼らは多数派をしめているので、いつでもそのようなことができたのである。そこで彼らは「阪自連」の旧執行委員や「大阪府学連」の旧委員長等、デ学同の猛者連を理事や組織部員にしたてた。
 しかし、この時には、デ学同にとっては遅すぎたのである。阪大生協の業務機構はちっとも自分達の思い通りにはならなかったのである。「せっかく自分達が生協をつくったのに、自分達の思い通りにできない生協になるなんて、一体これはどういうことなのか」デ学同の人達はこう考えたのにちがいない。
「それは業務上の権限をやつらににぎられているからだ」そう判断したデ学同は、今度は業務専従になることを画策しだした。
 同じ頃、M及びSは阪大を卒業して、すんなり業務専従になっていた。Sはそれまでの功績がみとめられて専従理事に、Mはある事情から書籍部主任(後に専従理事になるが)にそれぞれなっていた。
 しばらくの間はなにごともなく、時が経過したが、いつともなくS専従とM専従の二人は理事会でもっていた当初の権限が次第に縮小されていく事態を深刻にうけとめていた。従来、自分達の意図で業務執行がスムーズにいけたのが、デ学同がこうも露骨にくちばしをいれてくると、実際の業務にまでさしさわりがでてくると不安に覚えた。ことにデ学同の学生が理事の権限で人事権に直接介入してきた段階において、自分達の理事会における主導権の発揮もおぼつかなくなったと覚悟せざるをえなかった。
 そして昭和四十一年の終わり頃に、例の大阪府学連旧委員長を含む二名が、専従理事として、直接業務にタッチするといいだしたその時は、もはや自分達の個人的な力の限界をこえた時期の到来をひしひしと感じた。この時は、組織の力で動いているともみえる学生理事や組織部員のかたくなな態度に、両専従の良心はなんらなすすべを知らなかったが、それによって重大な影響をうける、生協のメイン地域である石橋地区の業務主任による「主任声明」によって、デ学同の計画は失敗におわった。
 しかし、デ学同はあきらめなかった。とりわけワイ氏の執念はすざましく、彼は外堀をうめることからはじめるのが一番と考えた。デ学同は彼の計画を忠実に実行していった。そして、とうとう昭和四十二年のはじめ頃には、生協の支部である東野田地区や中之島地区を業務的にも完全に自らの支配下にいれることに成功するや、再び本部の生協業務にも次第にデ学同の組織的な介入をやりはじめたのである。デ学同は今度は慎重にも「阪大生協に対するデ学同五カ年計画」なるものをこしらえあげ、阪大生協に従事する好ましからざる業務幹部すべての首切り、S専従やM専従の理事解任のお膳立てまで用意していたのである。そして、鷹が獲物をねらうように、その機会をじっと待っていたのである。


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