第一章 阪大生協の歴史

  第二節 事件の紹介


 ここで「生協」とよばれるのは、詳しくは「消費生活協同組合」のことを意味し、一定の地域の住民や同一の職場の人間によって営まれる事業体であり、日常の消費物資を「より安く」手にいれることを目的として作られた組織である。運営のイメージとして、生協は会社や寮などにみられる「給品部」、「物資部」とよく似ていると思ってまちがいないであろう。ただし「給品部」や「物資部」が会社などの厚生事業としてあるのに対し、生協は利用者が運営主体となっている。売手対買手の関係ではなく、売手イコール買手の関係である。自分達で仕入れた商品を、自分達でわけあうシステムをもつからである。それによって小売店のとり分に相当する利益が自分達の利益になるから、それだけ品物が安く手に入れられる勘定になるのである。
 骨格だけをいえば、生協とはざっとそんなところである。この組織は大学という組織のなかにもみられ、全国の大学数約四百の内、百余校が生協形式で消費物資の供給が行われており、今や大学生協は大学の厚生事業の欠くべからざる要素にまで力をたくわえてきているといっても過言ではない。阪大の生協も、各所に食堂や売店をもち、現在では年間十億円の売り上げをしめしている。
 ところで「阪大生協事件」は「自分達で仕入れ自分達でわけあう」当の本人(阪大人)が「そのための仕事をやってもらう」ために雇いいれた人間(外部の者)の一人にクビをいいわたしたことからおこった。「自分達で仕入れ自分達でわけあう者」の数が約八千名、「そのために雇われた者」の数が約百名。この百名がその八十倍に相当する人間を相手にして、三六○日をうわまわる死闘を大学内にてくりひろげたのである。常識では考えられないことだ。
 然り。われわれは阪大生協の争議行為を普通の会社にみられる争議行為と考えてはいけないのである。事態は、一見、解雇問題を軸にして発展しているかのようにみえる。だが解雇問題はあくまでも建前にすぎなかった。実際、労働者の解雇をめぐる争議が長びく場合、争議の本質が一人の労働者を不当にクビきる「意図」に隠されていたりするものだ。そして、その労働者が「好ましくない」というただそれだけの理由で解雇されている場合が実に多いのである。その場合、経営者に経済的損失を与えたからとか、法律をおかしたからとかいうのは、あとからつけたした人間の奸智である。つまり「真に人間は平等である」という近代的観念に保証された労働者の権利を無視した経営者の、自己の利益に目のくらんだ思いあがりが争議をおこさせ、又長びかせるのである。
 「阪大生協事件」も実はこういった類のものであったのだ。しかしここではさらに、経営者個人の行為が正しいとか間違っているとかの問題ではなく、そう対応しなければならない「生協」の特殊性が原因してもいたのである。即ち「自分達で仕入れ自分達でわけあう」人達と「そのために雇われた」人達との個人的対立の次元の問題をこえた、「生協」を基盤にするが故に生じたイデオロギー的対立がそこにあったのであり、むしろ両者の人間は、個人的立場からいえば、それの犠牲者であったのである。
 今回の「阪大生協事件」が読者によく理解されるためには、この点は忘れられてはならないだろう。従って本題に入る前に、筆者は次節及び次々節のタイトルのもとに二つのテーマについて展開することをお許し願いたいのである。


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