はじめに

 二つの国立大学を対照させるにあたり、昔は東の東大、西の京大と羨望まじりにいわれたが、現在では東の筑波大、西の阪大とヤユまがいにもいわれている。これを解くに、一方は最高の頭脳の持主を集めて最高の教育をなしうる二つの大学であり、他方は時代を先取りして最新の教育を念願する二つの大学であるとも考えられるし、別の観点からは、一方が国の権力者養成の二代表校であるのに対し、他方は国の権力に従順な小ヒツジ養成の二代表校であるとも考えられる。
 これらの解釈の検討は是非なされる必要があるとしても、読者諸兄にこれからお知らせしようと思うのは、その中の大阪大学内で、うるう年の一九六八年を中にして起った、学内厚生機関の一組織内の政治的葛藤について事実をもとにして記録した、いわゆる「阪大生協事件」である。
 「阪大生協事件」とは大阪大学内に設置された学生・教職員の自主的消費組織である「大阪大学生活協同組合」の一従業員の解雇問題に端を発した労働争議である。それは普通の労働争議のように経営者と従業員組合との対立といった単純な斗争ではなく、一部左翼組織の政治的圧力、及び国家権力の反動的意図が背景になって展開されたために、後では解雇問題は二の次の問題になってしまったという変った労働争議であった。
 その意味では、この事件は左翼運動として展開される葛藤の一つのパターンをしめすものである。歴史はこの事件を大阪大学に生じた単なるエピソードであり、やがては笑いのうちに忘却される芝居にすぎなかったとみるかもしれない。あるいは逆に、大阪大学のもっているあらゆる恥部をさらけだすことによって眠れる大阪大学を一時的にでもゆさぶりおこした警鐘であった、とみるかもしれない。
 いずれにしても、この事件は、当時、誰の目にもまがうことなき事実としておこったのであり、しかも当初は、「阪大生協」内の問題であったにもかかわらず、ついには、それを包摂する「大学」全体の問題になるまで発展したのである。各新聞社は連日のごとくその事件について書きたてたし、大学内では日に一度はどこかの機関がその事件についての討議を行なった。
 とどのつまりは、各部局の長によって構成される「部局長会議」、各学部教授の代表による「評議員会」、各学部の「教授会」、「助手会」、文部官僚による「部局長・部課長会議」、学生の厚生補導を担当する「生活委員会」等、大学の直接運営の機関をはじめ、大学人によって構成される各学部の「職員組合」、「学生自治会」、及び各文化サークル、この事件によって自然発生的に結成された団体にいたるまで、あらゆる機関、あらゆる団体が鳩首協議、行動をする有様だった。そしてついには、当時の文部大臣にまで、発言させるにいたったのである。
 なるほど、事はきわめて重要であったのだ。というのは、この「阪大生協」の従業員のストライキによって、大阪大学のメイン地域における食事、教科書、参考書の供給他、文具関係等の供給事業の一切がストップし、厚生機関の機能の大半がマヒしてしまったのだ。それは大学の信用を落させるに十分なものであったのだ。
 それでは、当時、世間の注目をあびたこの「阪大生協事件」とは一体なんであったのか。そして、それはなぜおこったのか。筆者は、歴史家的視点にたって、その進行をすすめてみようと思う。というのは、筆者自身、この事件にいささかでも関わった「当事者」であったからであり、従ってエピゴーネンたる筆者は、かの『ロシア革命史』を書いたトロッキーの手法をまねるものである。しかし、公党といわれる一部政党を除いて、ここに登場するある種の組織及び人物は、現在の姿及びあるべき姿とは異なっているかもしれないという判断や、その他の理由から、仮名もしくは記号で書かざるをえなかった点をあらかじめお断りしたいと思う。
 おそらく筆者は、この編著により、当事者である組織や個人のすべてから(党派心の強い場合は、なおさらに)、事実をゆがめているとの批判をうけるであろう。この種の事件においては、立場の問題が大きな影響を与えるからである。しかし筆者がおそれるのは、結果として事実誤認をした箇所があるのではないかということのみであり、はじめから事実をまげて書こうとは決してしていないつもりである。ましてや、ここに登場する組織や個人を誹謗、中傷する意図など断じてないつもりである。このことは賢明なる読者諸兄にはわかっていただけるものと信じている。
 最後に、この編著にあたり、筆者の意図と立場をよく理解され、数多くの資料と情報を提供して下さった各位に心から謝意を表する次第である。                             G・H


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