八王子市は北条氏照が戦国時代に築いた八王子城名が市名の由来となっていますが、
行政区としての八王子町ができたのは1889年(明治22年)のことです。
この時点ではまだ神奈川県に属していて1893年(明治26年)に東京府移管となり、
1917年(大正6年)に八王子市になりました。
そのころの八王子に関係のある“廃なもの”のコレクションを鉄道ネタに絡めて紹介します。
@八王子の煉瓦工場 A東浅川宮廷駅 B市内の路面電車 C高尾駅の銃弾痕 |
(2009年7月記) |
【八王子の煉瓦工場】 |
中央線の前身である甲武鉄道が新宿〜立川間で開通したのは八王子誕生のとき、 1889年(明治22年)4月のことです。 そしてこの先の八王子に向って多摩川を渡るために橋脚を造る必要があり、 日野宿字下川原、現在の日野警察署北側付近で「日野煉瓦製造所」が創業しました。 |
「日野煉瓦製造所」は1888年(明治21年)から稼動し、そこで造られた煉瓦が橋脚に使われました。 そして4ヶ月後の1889年(明治22年)8月に八王子まで開通したのです。 もちろん開通当初は現在の上り線のみの単線で、そこには今でも開通当初の煉瓦橋脚を見ることができます。 ところが「日野煉瓦製造所」は1890年(明治23年)に創業者の死亡で廃業してしまいました。 そのあとの明治30年になって「八王子煉瓦製造株式会社」ができたのです。 甲武鉄道の八王子〜上野原間は1901年(明治34年)に開通していますのでその区間に多く見られる煉瓦構造物、 例えば水路や道路を跨ぐ橋や湯の花トンネル、小仏トンネル (この画像は西側坑口)などはこの工場の製品が使われたものと勝手に想像しています。 (根拠資料はありません) |
この京王線を跨ぐ煉瓦工場への引込線ですが、 横浜線から分岐して約1.5km先の工場に向っていたとされているものの、 この橋脚のほかにそれらしい遺構は全くありません。 1951年(昭和26年)当時の地図(地図で見る多摩の変遷:日本地図センター)を確認し 下記のように追記してみました。 |
煉瓦の歴史は紀元前というくらい古いようですが、
日本で煉瓦が構造物として初めて用いられたのは江戸時代末期(嘉永〜安政)の反射炉のようです。
そして明治初期のころになって各地に煉瓦工場ができ、建築資材として多用されました。
特に鉄道施設にも多く見られます。そしてその後の「八王子煉瓦製造株式会社」ですが、
業績不振により何度か買収され名前が変わった(注)あと、1932年(昭和7年)の火災によって工場が全焼したため
閉鎖されてしまいました。(注:関東煉瓦 大阪窯業)
なお、煉瓦の材料となる粘土は京王線を隔てた都立長沼公園付近の山から採取してトロッコで運んだそうです。 (参考資料:「八王子千人塾レポート集」より) |
【東浅川宮廷駅跡】 |
大正天皇の御崩御に伴い、その墓所である多摩御陵の造営によって
八王子の町は大きく変わりました。鉄道関係では大葬列車終着駅のための仮設駅として、
高尾駅(当時は浅川駅)の東に東浅川駅が造られました。新宿御苑で行なわれたいわゆる葬儀のあと、
多摩陵に埋葬されたのが昭和2年2月8日のことです。ちなみに近畿地方以外に天皇陵がおかれることになったのは
このときが初めてでした。
多摩御陵への一般人の参拝が認められたのは昭和2年2月13日からです。 そして昭和3年11月に浅川駅からの現在の甲州街道が完成しました。 また、その参拝客を当て込んで武蔵中央電気鉄道の路面電車が甲州街道を走ったのが昭和4年11月、 さらに京王御陵線が営業を開始したのが昭和6年3月のことです。 |
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【市内の路面電車】 |
昭和6年に営業を開始した京王御陵線も、 路面電車廃止後の昭和20年に営業を休止し、その後に廃止となっています。 なお、意外なことですが高尾山のケーブルカーはこれらよりも早く昭和2年1月21日に開業しています。 |
【高尾駅の銃弾痕】 |
1945年(昭和20年)、終戦の年の7月8日、高尾駅は米軍機による空襲を受けました。 そして現在でも1,2番線ホームの中ほど(柱番号31:左の画像と柱番号33:右の画像)に 被弾した跡が残されています。駅側の配慮であえてペンキを塗っていないのだそうです。 (2006年7月) |
また同じ年の8月5日、終戦の10日前のことですが裏高尾の湯の花トンネルで、 新宿発長野行きの419列車が空襲を受け、たいへんな数の犠牲者が出ました (湯の花トンネル列車銃撃事件)。 そのときの銃弾の跡がこのトンネルにも残っているようです。 |
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