・・・ プチ戦争遺跡集 ・・・

 プチなどと表現しては畏れ多いことですが、戦争遺跡として記憶にとどめておきたいものを 集めてみましたので紹介します。
 @スガモプリズン(東京拘置所)跡
 A高幡不動の松脂採取跡
 B東京陸軍少年通信兵学校跡
 C八高線列車衝突事故跡
 
 
(2008年3月記)

 【スガモプリズン(東京拘置所)跡】
 池袋駅の東、サンシャイン60のある場所はかつてスガモプリズン(東京拘置所)のあったところです。 「スガモプリズン」という名前になったのは終戦後米軍に接収されてからで、 それまでは「巣鴨刑務所」と呼ばれていました。ここでの戦争の関わりといえば、 かの極東国際軍事裁判によって裁かれた東条英機や広田弘毅などA級戦犯、BC級戦犯が処刑されたということです。

 サンシャイン60をメインにしてプリンスホテル、水族館のあるワールドインポートマート、 文化会館等からなるサンシャインシティーの長方形のエリアはそっくりそのままスガモプリズンでした。
 そのスガモプリズンは接収解除後、東京拘置所となりましたが1971年(昭和46年)に 小菅に移転したことで刑務所としての歴史を閉じ、取り壊されました。 そして跡地には池袋再開発の中心として当時日本で最も高いビルのサンシャイン60が建てられたのです。

 サンシャインシティーは1978年(昭和53年)に開業し、今年で30周年を迎えます。 ちなみにサンシャインシティは5つのビルからなる複合商業施設であるために右画像のように各エリアごとに シンボルカラーが決められ、わかりやすいようになっています。

 この人通りの絶えないにぎやかなビル街の片隅、サンシャイン60の真下に樹木に囲まれた とても地味な公園(豊島区立東池袋中央公園)があり、そこにこれまた地味な石碑が建てられています。 その石碑の表には「永久平和を願って」とだけ刻まれているのですが、 この場所がまさしく処刑場(絞首台)のあった場所なのです。

 処刑されたのは主にかつての太平洋戦争のあとの 東京裁判(極東国際軍事裁判)によって裁かれたA級戦犯7名とBC級戦犯52名ということです。 「広田弘毅ほか1984年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、絞首刑を執行される」とあります。 (城山三郎『落日燃ゆ』より)

 豊島区は1980年(昭和55年)にこの碑を建てています。 本来なら戦争裁判の遺跡として明らかな文言なり、説明板なりがあってもよさそうなものですが、 それなりのいきさつ(戦犯を美化するようことへの批判)があったらしく、あまりにもそっけない記念碑でした。 (石碑の裏面には「・・・が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため・・・」 とだけ標されています)

 ちなみにフランキー堺さん主演の映画『私は貝になりたい』は、捕虜殺害容疑でBC級戦犯として 逮捕された主人公が絞首刑の判決を受け、この地で処刑されたものを描いています。 主人公はいわば下級兵士。山中に墜落した米軍爆撃機の搭乗員を上官からとどめを刺すよう命令され、 これに従ったものの右腕を突き刺しただけでした。判決に対して死刑になるようなことはしていないと主張し、 減刑を信じたが願いもむなしく刑は執行されました。遺書には「生まれ変わってももう人間なんていやだ。 いっそ誰も知らない深い海の底の貝になりたい」と書き残されたのです。 これは平凡な市民を巻き込んでしまった不条理というものでした。



 【高幡不動の松脂採取跡】
 戦争も終わりに近づくとエネルギー事情は極端に悪くなっていきました。 そこでとられた対策が「松根油緊急増産」でした。松根油(しょうこんゆ)とは 航空機の代替燃料として全国的に生産指示が出され、松の根を掘り細かくきざんで乾溜して精製するものですが、 同じように松脂(まつやに)からも燃料精製の動きがありました。いわゆるテレピン油です。

 日野市の高幡不動尊金剛寺、ここの五重の塔の奥の山には四国八十八ヶ所を模した巡拝の道があり、 その山の中に何本かの松の木があります。

 その松の木の中にはよく見ると幹の皮がはがされてV字型に切り込まれているものが何本かあります。 ゴムの樹からゴムの樹液をとるようにして松脂(ヤニ)を集めた跡です。

 子供のころいたずらで同じように採取し、シャボン玉に混ぜたことがありますが、 その時の経験からしてみてもさほど多くは採取できなかったと思います。 ちなみに野球で使うロージンバッグもこの松脂から作られます。

 一方、掘り起こした松の根は近くの七尾農協の空き地で乾留して松根油を取り出したそうです。 しかし効率は悪く、松の木200本で戦闘機が1時間飛べるだけのものしか得られませんでした。 しかも品質は悪くあまり実用にはならなかったらしいです。 とてもではないが物量で連合国側に圧倒されてしまっています。 (注:乾溜(かんりゅう)とは、固体有機物を空気を断ったまま加熱して熱分解すると同時に、 その分解生成物を揮発性物質と不揮発性物質に分けることです。)


 余談ですが、高幡不動尊から西に数百mほどのところに八坂神社(日野市南平)がありますが、 ここに空襲で受けた傷の跡(コンクリート補修部)が残る鳥居があります。(右の画像)



 【東京陸軍少年通信兵学校跡】
 あまり知られてはいないようですが東村山市富士見町には戦時中、陸軍少年通信兵学校がありました。 通信兵とはトンツートントンのモールス信号を送受信する兵員で、 1942年(昭和17年)に建設されたこの兵学校に全国から少年が集められました。

 上の画像は国土地理院(国土情報WEB)による1989年(平成元年)当時の 富士見町周辺のものですが、この画面いっぱいいっぱいに兵学校の各施設があったはずですが、 このころすでにほとんどの施設は消え去っているように見えます。

 西武国分寺線小川駅から中宿通りを西に行き、野火止用水を超えたところが兵学校の正門でした。 野火止用水に架かる橋の石の欄干が当時の姿を残し、現存しています。

 そして正門を入ってすぐ左、上の画像のAの位置に兵学校の本部建物がありましたが、 現在は明治学院高校の敷地内となっていてライシャワー記念館が移築され建てられています。

 グラウンドの北、現在NTT社宅などがあるあたりに兵学校の生徒舎や器材庫など主要施設が 東西に向けて整然と並んでいました。そのはずれのBの位置には3棟の木造建物(平屋建て兵舎)が 現存しているのですが、参考にした資料によれば「フロ」及び「フロ管理室」であったようです。 戦後、住居として利用されていたらしく、そのうちの1棟はみどり荘と名前がつけられていて、 今まさに取り壊し作業の真最中でした。

 こうして次から次へと取り壊され、他の2棟(月光荘、あけぼの荘)についても住民の退去を待って 取り壊すような雰囲気になっています。
 Cの場所にも同様の建物があったと見られますがすでに更地となっていました。 西側にある南台幼稚園の園舎も兵学校の建物を活用したものではないかと勝手に想像しました。

 少し外れてDの位置には逆“エ”の形をした建物があって医務室とされていますが、 その逆“エ”の上半分は解体されて駐車場になっていました。残されている部分には住人がいるようです。
 つまり通信兵学校であったことを示す確たるものは何もなく、またわずかに残されている建物も このまま近々と消えていく運命にあると思われます。
 (参考資料:「歴史館だより」第26号 東村山ふるさと歴史館)

 東村山ふるさと歴史館では陸軍少年通信兵学校に関する資料が保存されています。 これはその中の一つで、通信兵募集のポスターで、このようなポスターが全国にあふれました。 官費で技術を習得できる上、卒業後は即下士官になれるため応募者が殺到したということです。



 【八高線列車衝突事故跡】
 玉音放送の行なわれた終戦の日から9日後の朝、八高線小宮〜拝島間の多摩川にかかる鉄橋の上で 列車同士が正面衝突し、多数の犠牲者がでました。

 その日は朝から豪雨、そんな中で信号故障が発生しダイヤが大幅に乱れていました。 さらに駅間の連絡がとれない通信途絶の状態となっていたにもかかわらず、両駅からは列車を運行させてしまいました。 相互に連絡のとれない状態において閉塞区間を運行する際の原則が守られなかったことによる事故です。 終戦直後のため、列車には戦地からの復員兵や疎開先から帰る女子学生などで超満員であったといいます。

 両列車とも蒸気機関車が客車5両を引き、ちょうど橋の中央部分で正面衝突してしまいました。 客車は機関車の下敷きになったり川に転落したりで、その衝撃やおりからの増水した濁流に流されたりして、 少なくとも105名の死亡が確認されました。しかし確認できない犠牲者はさらに大勢いたとのことです。

 にもかかわらずこれほどの惨事というのに慰霊碑や供養塔などが一切ありません。 事故後56年の時が経過した2001年(平成13年)になって鉄橋下の中州に錆びついた車輪が発見されました。 まるで“忘れないで”と訴えかけるようにして地表に現れたようにもみえます。

 そして2004年(平成16年)4月、鉄橋の見えるこの場所にモニュメントとして設置されました。 ちなみにこの鉄橋は今もって単線です。

 なお、この鉄橋の数十m下流からはクジラの化石も発見(昭和36年)されていて アキシマクジラと命名され、昭島市のシンボルとなっています。

 
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