・・・ 江戸の水道・玉川上水 ・・・

 江戸の暮らしを支えた水の道の一つに玉川上水があります。多摩川上流の羽村に堰を設けて取水し、 四谷大木戸(現在の新宿区内藤町)までフルマラソンとほぼ同じ43kmを 武蔵野台地の標高差わずか92mを利用して導水したものです。 このほど羽村取水口から新宿までの玉川上水をたどってみましたので紹介します。
 アバウトにいえば@羽村取水口から小平監視所まで は現用の水利として利用されており、A小平監視所から高井戸まで は掘割として残されたところに再生水が流されています。 そしてB高井戸から新宿まではほんの一部に開渠部分が見られるだけで あらかた道路や公園などに埋め立てられています。
 (当ページでは“廃もの”にふさわしく、高井戸〜新宿間を主に記述しました。)
 
(2008年2月記)
(2009年2月追記)

 【羽村取水口から小平監視所まで】
 玉川上水は多摩川の水を水源としました。現在でも小河内ダムとその上流、 山梨県丹波山村の水源林一帯は東京都水道局の管理になっています。

 初回のウォーキングは、玉川上水の羽村から高井戸までの間で遊歩道のないのは福生市内のみということから 「福生にも遊歩道を」と願い、考える会が主催したウォーキングイベントに参加する形となりました。 実際にその通りでいくつかの場所では上水に添って歩くことはできず、 民家の裏や車道を迂回しなければならない状態でした。

 羽村取水堰の広場には江戸幕府に命じられて開削工事をつかさどった玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門兄弟) の像があります。それは今から350年以上前の1653年(承応2年:四代将軍徳川家綱のころ)のことですが、 重機もないのにわずか半年で掘り進み、1年5ヵ月後に通水できるようになったというから驚きです。

 流れている水は現用の水道用水として利用されるため背丈ほどの柵で囲まれています。 水量はかなり多く、掘割いっぱいに、そしてほぼ歩く早さと同じ速度で流れていました。 (このときの水は数週間前の台風の影響で濁っていました)
 途中、水喰土(みずくらいど)公園のところに当初の開削工事の跡が残されていて、 この場所で地中に水が吸収されてしまうため少し北寄りにルートが変更されたということです。

 (初回ウォーキングは拝島駅で終了したので、2回目は同じ場所から西武線鷹の台駅までを独自に歩きました。)
 多摩モノレール線玉川上水駅の少し下流に東京都水道局小平監視所があり、 ここでほとんどの水が東村山浄水場へと流れてしまいます。残りは野火止用水と新堀用水に流れ、 玉川上水のこれより下流には一滴も流れません。



 【小平監視所から高井戸まで】
 明治になって淀橋浄水場ができてからも玉川上水は利用されていました。 その後浄水場の移転に伴い一旦は廃止されたましたが、 清流復活事業により上水跡の掘割にわずかながらも水が流されています。

 ここからは多摩川上流処理場、つまり下水処理の再生水が流されています。 再生水といっても高度に処理されたもので鯉が泳ぐなどなんら問題はないとのことです。 淀橋浄水場の機能が東村山浄水場へと移った昭和40年からここの流れは途絶えていましたが 昭和61年に復活したものです。

 そしてこの玉川上水の中で唯一、掘割の底まで降りていかれる場所がここにありました。 もちろん水量が少ないこともあり、そのように造っているのですが。

 小平監視所からの遊歩道は左に新堀用水、右に玉川上水を見ながらのコースとなります。 フェンスは低く変わってはいますが堀は深く、植物が覆いかぶさるようになっていて、やりっぱなし、 自然のままという感じがしないでもありません。

 もしここに小平監視所までの上流で見たような水量が流れていたら、 当時「人喰い川」といわれていたようにかなり危険であったと思われます。落ちたら助からないということですが、 太宰治をはじめ身投げする人も少なくなかったようです。

 (3回目のウォーキングは鷹の台駅から高井戸手前の富士見駅までとしました)
 時はちょうど紅葉の季節、赤や黄色の光に映える木々を見ながらのウォーキングとなりました。 小金井公園、境浄水場を経てJR三鷹駅の下を暗渠でくぐり、井の頭公園の脇を抜けて開渠部分の終点、 浅間橋にたどり着きます。この間ずっと遊歩道が整備されていて快適に歩くことができます。 そしてコース沿いには山本有三、太宰治、国木田独歩など著名な文学者ゆかりの場所や詩碑があります。

 人見街道と交差するところ、三鷹市と杉並区の境に牟礼橋がありますがすぐ隣に レンガアーチの古い牟礼橋がみられます。すぐそばに「どんどんばし」と刻まれた石柱があります。 激しい流れが橋にぶち当たる音からこのように名づけられたそうです。古くからある橋ですが それでもこれは1849年(嘉永2年)に架けかえられたものだそうです。
 浅間橋までくると開渠部分の終点となりすぐ先には中央道の高架があります。 ここまで来た復活水はここで神田川に放流されているとのことです。



 【高井戸から新宿まで】
 高井戸から先の玉川上水は大部分が埋め立てられているものの、公園や緑道などによって その跡ををたどることができます。そして一部ですが貴重な開渠部分が残されている所もあります。

 4回目のウォーキングは高井戸から新宿までをたどってみます。 浅間橋から先の玉川上水は中央道高架下になってしまいますが、京王線上北沢駅の北側付近からは高架下を外れ、 埋め立てられた玉川上水第二公園、第三公園、永泉寺緑地として整備されています。 地図を見ればその細長い公園に上水の跡が重ねられます。

 明治大学和泉校舎前からも細い玉川上水公園になりますが、井の頭線を跨ぐところは太い鉄管となっています。 そして和泉給水所のところで一旦道は途絶えてしまいます。淀橋浄水場への水路はここから分岐していました。 その跡は「水道道路」として都庁まで続いています。 ところで、鉄管で跨ぐ前、つまり井の頭線のできる前の状態がちょっと想像できません。

 玉川上水は首都高の下をくぐり代田橋駅北の甲州街道のところで開渠部分が復活します。 ここに流れる水は細々としたもので、地下水(湧き水?)を流しているようです。
 

 京王線の線路をくぐったすぐ南に玉川上水のイメージを残している「ゆずり橋」がありました。

 ゆずり橋より先は暗渠となり玉川上水緑道となってしまいますが細い歩行者専用通路で 環状七号線の下をくぐります。この通路は上水の堀そのもので、大原橋という橋が架かっていた場所です。

 再び開渠部分となり、笹塚駅南で急カーブして南下し笹塚橋まで続きます。 この間の開渠部分は合わせても600m以下ですが、しかし何故かほっとするような風景です。

 さらに五條橋から北に向きを変え、玉川上水第二緑道となって以後、常盤橋、山下橋など 地名に多くの橋の名前を残しながら甲州軌道に沿って初台へと近づいていきます。 緑道上には他にいくつもの橋の遺構やモニュメントが残されていました。

 首都高4号線をくぐるあたりから代々木緑道と名を変え文化服装学院の前を通って、西新宿に出ます。 右の画像は文化服装学院の前におかれた玉川上水ゆかりの地であることを示すモニュメントです。 新宿駅の地下を通した暗渠の部分をモチーフにしているとのことです。
 このあたりの地下には京王線が走っていて時折ゴーッという音が聞かれます。 この京王線を玉川上水の跡地を利用して地下にもぐらせたのは昭和37年のことです。

 玉川上水は新宿御苑の北側に沿って四谷大木戸に至ったと思われます。なお、 四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋で地下送水されていました。

 四谷大木戸の場所は現在の四谷4丁目交差点のところです。近くの四谷区民センターの東の端に 「四谷大木戸跡」と刻まれた石碑が立っています。地下鉄丸の内線工事のときに出土し、 実際に使用されていた石樋を利用したものとなっていました。なお、 この場所には玉川上水水番所もあったそうで「水道の碑(いしぶみ)の記」と共に説明版が置かれていました。

 以上、秋から冬にかけての4回のウォーキングで先人たちの残した歴史遺産、 玉川上水全区間をたどりましたが、整備された遊歩道ではなく消えかけた痕跡を探しながら歩いた4回目が 一番面白いものでした。


 【参考@:淀橋浄水場のこと】
 江戸時代からの玉川上水は明治になってからも東京市民の飲料水として使用されつづけました。 しかし多摩川の水をなまで運んでいたため大雨の時にはにごり、また上流の人口増加による水の汚染や汚濁が 深刻な問題となりました。このような状況の中で、あるとき伝染病(コレラ)がはやり、 浄水場の必要性が高まったのです。
 そして明治32年、淀橋浄水場は完成し、70年近くにわたって東京の近代水道を支えてきたのですが 東村山浄水場にその機能を移した昭和40年に閉鎖されました。
 淀橋浄水場へは玉川上水の水が引かれましたが、今の和泉給水所の位置からこれも 今の淀橋給水所(西口ビル郡の西南端)の位置までまっすぐに新水路を掘って導かれたのです。 後にこの水路は鉄管に置き換わって廃止され、現在は「水道道路」と名前のついた直線道路となっています。
 (その後の淀橋浄水場についてはこちらを参照してください。)



 【参考A:東京都水道歴史館】
 玉川上水についての詳細は 「東京都水道歴史館」(文京区本郷)で見ることができます。

 江戸の長屋と上水井戸の風景を再現した様子も展示されていました。



 【参考B:馬水槽とは】
 JR新宿駅の東口広場に馬水槽というものがあります。 大勢の人ごみの中であまり目立たない存在ですが新宿区指定有形文化財です。

 元は有楽町の都庁前にあったものを移設したものです。 赤大理石製で明治39年(1906年)ロンドン市より寄贈されたものです。
 馬が水を飲むためのもので、その下に犬・猫用、裏側に人間様の水飲み場があります。



 【参考C:残堀川との立体交差】
 玉川上水が立川市内を流れるところで同じく市内を南北に流れる残堀川と交差しますが、 このとき水の流れが立体交差している不思議な光景が見られます。 小さな用水で互いの水面に差がある交差は見たことがありますが、 これはほぼ同じ水面(どちらかといえば水量の少ない、残堀川のほうが下)での立体交差で、 玉川上水が残堀川の下を潜るようにして流れています。
 

 場所は西武拝島線、武蔵砂川駅近くの上水橋のところです。歩行者用の橋には「すずかけ橋」と 名前がつけられて残堀川を渡ります。このすずかけ橋と平行するように玉川上水は残堀川の下をくぐって 反対側にうまいこと抜けています。(この画像の手前から下にもぐって奥の方向へと流れ、また地上に出てきます。)
 ところで、この付近の地図を見てみると残堀川は天王橋を避けるように大きく迂回しています。 ネット検索で調べてみたのですが、もともとは天王橋付近で玉川上水の下を通していたようで 昭和38年に今の位置で立体交差するようになったと思われます。



 【参考D:暗渠部分の謎】
 残堀川との立体交差の場所より約1km上流には高井戸までの現役玉川上水では唯一の暗渠部分があります。 長さにして300m程ですが、上水路を覆っていて緑地帯になっています。なぜここだけ暗渠になっているのか。 それはこの上水路を横切って軍用機の滑走路を作る計画があったからなのだそうです。 このため鉄筋コンクリート造りで30トンの荷重に耐えられるほど頑丈な構造のようです。 実際、昭和14年頃には上水の南側に長さ1200mの滑走路が造られました。 さらに上水路以北に延長する計画があったそうですが、終戦とともにその計画は消えてしまい、 ただの蓋ではない頑丈な暗渠だけが今に残ってしまいました。
(2001.8.31付朝日新聞多摩版「流れ覆う幻の滑走路計画」を参考にしました。)
暗渠部
分
 暗渠部分の南に広がるゴルフ場は昭和飛行機工業鰍フグループ企業が運営するものです。

 昭和飛行機工業は大型の軍用輸送機を製造するにあたり、 飛行場を併設した工場を現在の昭島市に建設しました。終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造したそうです。 敗戦によって米軍に接収され、航空機事業が禁止されたため会社存続をかけて事業の多角化を行ないました。 接収施設である飛行場地域が全面返還された跡地にゴルフ場を開設したのもその一環です。 つまり暗渠部分は大型輸送機の滑走に支障のないようになっていたのです。

 

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