南房総に残されている東京湾防衛のための戦争遺跡を訪ねました。 始めに@大房岬の要塞跡を、 次にA館山海軍砲術学校跡、 B館山海軍航空隊の地下壕跡、 C128高地「戦闘指揮所」地下壕跡を、 そして最後にD洲崎に残る砲台跡を紹介します。 |
(2007年11月記) (2016年12月C追記) |
【大房岬の要塞跡】 この画像は「大房岬(たいぶさみさき)自然公園」のビジターセンター内にあったジオラマを 撮影したものです。東京湾に突き出したこの岬に砲台が据え付けられ、探照灯格納庫や弾薬庫などの 要塞施設がありました。 |
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【館山海軍砲術学校跡】 館山市佐野、国道410号線沿いの房南中学校から東の一帯に館山海軍砲術学校の跡地があります。 田畑の広がるなかにぽつんとあるのがこの「平和記念の塔」です。 平成3年にこの学校にゆかりのある人たちによって建てられたものです。 |
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【館山海軍航空隊の地下壕跡】 続いて同じ館山市の海上自衛隊館山基地の近くにある戦争遺跡、赤山地下壕と掩体壕を紹介します。 海上自衛隊館山基地の場所には元の館山海軍航空隊が置かれていました。 1930年(昭和5年)のことです。そして1945年(昭和20年)、終戦直後の9月3日、 この基地の東北端に米軍が上陸しました。わずかな期間(4日間)でしたが軍による統制が行われたということです。 |
【128高地「戦闘指揮所」地下壕跡】 海上自衛隊館山基地から南の山側に向かっては周辺とは異なる直線の道路があります。 館山海軍航空隊の施設や滑走路だと思われます。そしてそのはずれの山の中腹には「128高地」と言われた 戦闘指揮所の地下壕があります。 (なお、現在この場所は福祉施設の敷地内のため一般公開されていません。 NPO法人安房文化遺産フォーラムの学習により入場しました。) |
【洲崎(すのさき)の砲台跡】 明治のころからの東京湾防衛のため、館山では早くからその要塞強化のため洲崎第一砲台と 洲崎第二砲台が設置されました。 洲崎第一砲台は1932年(昭和7年)に完成し、西岬小学校の裏山にあるはずですが 民家の中のようなので見るのは諦めました。洲崎第二砲台は1927年(昭和2年)に完成したもので、 坂田(ばんた)地区に多くの遺構を見ることができます。 |
この洲崎第二砲台につきましては、たまたまその行止まりにおいて 民家の方がおられましたのでお尋ねしたところ、快く案内していただけたものです。 もしおられなければ門柱以外は何一つ見ることはできなかったものです。この場を借りて感謝すると共に、 厚く御礼申し上げます。 |
東京湾の要塞建設については明治30年代に富津岬と観音崎との間に3つの海堡を築くことと、 三浦半島側に横須賀軍港を始めとして、走水、観音崎、久里浜、三崎の各地区に、 また房総半島側に富津、金谷、大房岬、洲崎の各地区にそれぞれ東京湾口を射程に入れた 多数の砲台を築くことで実施されました。これは日露戦争の際のロシア艦隊から 首都防衛のためにとられたいわゆる分散型要塞です。 しかし各要塞に配備された砲塔は、ワシントンで行なわれた海軍軍縮条約の調印によって 艦船の保有量が制限されたために、やむなく解体の決まった主力艦の砲塔を陸上用に改修したものでした。 【参考文献】 (1) 知られざる軍都 東京(洋泉社MOOK) (2) 学校が兵舎になったとき(千葉県歴史教育者協議会:青木書店) (3) 館山まるごと博物館(NPO法人安房文化遺産フォーラム) |
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