・・・ 稲城と田奈の弾薬庫跡 ・・・

 稲城市の市立病院の奥にはフェンスで囲われた米軍施設があります。旧日本陸軍多摩火薬製造所 であったところです。

 そしてもうひとつ、横浜市と町田市の境にある“こどもの国”も旧日本陸軍兵器補給廠田奈部隊で、 ここでも弾薬が作られ貯蔵されました。
 (田奈弾薬庫はこのページの後半です) 
 
(2006年8月記)

 【稲城の多摩弾薬庫跡】
 JR南武線の南多摩駅を降りて市立病院の先に進むと「Tama Hills Recreation Center」と書かれた門が あります。ここは「在日米軍多摩サービス補助施設」といって横田基地などに勤務する米軍家族のための レクリエーション施設で、ゴルフ場やキャンプ場などがあります。
 通常ここに入ることはできないのですが、年に一度「稲城フェスティバル」という イベントが催されるときに限って立ち入ることができます。そしてこの機会にかつてここが 多摩弾薬庫であったことを示す何らかの遺構を確認したいと思い立ち入って見たのですが、 結論から言うと肝心の弾薬庫跡への通路は規制されていて進むことができず目的を果たせませんでした。

 今から40年ほど前、川崎街道が是政橋から府中方面へと分岐する大丸から関戸方向に登っていく 細い道があったのですが、聖蹟記念館のあたりまで来てやっと人家に出会えるような寂しい道でした。 それというのも米軍の多摩弾薬庫があったためで、現在では敷地の一部が返還され、 片側2車線の立派な道路となっています。
 さらにさかのぼって1938年(昭和13年)、多摩弾薬庫は旧陸軍造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場 として開所されました。そして戦後の昭和21年に米軍により接収され、弾薬庫として長く使用されていたのですが 昭和42年以降、弾薬の製造は中止され、代わってレクリエーション施設としての整備が進められました。 乗馬施設やキャンプ場、ゴルフ場などがあり、昭和52年に「多摩サービス補助施設」と名前を変更したようです。
 

 この年の稲城フェスティバルは例年より早く7月30日に開催されました。 稲城市のホームページを早くからウォッチングし、入場を待ちかねていたものです。
 暑い中、11:00の開場を並んで待ちました。ゲート内に入ると市側の係員により そのままフェスティバル開場へと導かれ、会場以外への道や、会場のさらに奥への立ち入りはガードされていました。

 ゲートから入って右手の方向に約200mほど進んだところの乗馬クラブの手前の広場が フェスティバルの会場になっていました。
 会場の雰囲気はすっかりアメリカンです。バンド演奏用のステージと子供用遊具、 バーガーやステーキなどの売店がありました。

 この売店でのビール(350ml)の価格は1.5ドル。日本円でも買うことができ200円でした。

 さて奥の方は・・・、と様子を見ていると市の係員に混じって迷彩服の米兵がパトロールをしています。 そのような状態なのでやむなく道路のコンクリート土手に歴史を感じてみたり、 望遠でそれらしいところを撮影してみたりするしかありませんでした。

 

 会場への通路脇の山側にあるテニスコート奥にそれらしい建物があるので近づこうとしたのですが ここにも入らせてもらえませんでした。稲城市の資料によれば倉庫のようです。 手前には多摩火工廠のころからの火防の神様を祀った「TAMA SHRINE」があります。 


 そして道路わきにあるもう一つの小さい建物もやはり倉庫なのだと思います。→

 この施設の敷地は約200ヘクタール(東京ドーム約43個分)の広さで、その半分はゴルフ場です。 残りの雑木林はそのままとなっていて、開発の手は加わっていないと思われます。
 
 正面ゲートから直進するこれより奥が当時第一工場と呼ばれていたエリアです。 そして先ほどのフェスティバル会場の先が第二工場のエリアと記録されています。第一工場と第二工場の間には トンネルがあるようになっています。なお第三工場のエリアはゴルフ場になってしまいました。
 正門ゲートの外側から南多摩駅への道路に沿っては女子工員寮や軍人官舎、 さらに稲城長沼駅にかけては軍属官舎や男子工員寮があったとのことです。
 多摩地域の人は「陸軍造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場」の長い名称を略して「多摩火工廠」と呼んでいました。 多摩村連光寺の土地は軍により強制買収されました。昭和16年には2千人以上の従業員がいたとされています。 かつ、戦争末期には大学や中学の学生、女学生も勤務していたそうです。(多摩市史より)

 小説「日輪の遺産」(浅田次郎)にある財宝の隠し場所はこの場所であるとされています。 地理的にも歴史的にもとても興味深く描かれていてました。(2011.8)

 周囲の多摩丘陵が開発されどんどん切り崩されていく中で、手入れはされていないが 多摩の植生が残る貴重なエリアでもあります。したがって、いっそこのまま返還もされず、 開発の手が入らない方がよいのかもしれません。

 というわけで今回は当時の弾薬庫の遺構を観察することはできませんでしたが、 いずれ機会に恵まれることを期待したいと思います。


  (注)稲城市民に限っては過去に何回か見学会に参加できたようです。 (市民団体:「稲城の里山と史跡を守る会」)
 その際のレポートも大変参考になります。東京を代表する戦争遺跡として今後、 より広く公開されることを願ってやみません。



 余談ですが、南多摩駅の近くには珍しい川の立体交差があります。川といっても小川、用水、 疎水の類ですが、互いに交わることなく下流へと流れていきます。
 立体交差であることを表現できる適切な撮影位置がなく、わかりにくいと思いますが画面を流れているのが 多摩弾薬庫側からの谷戸川、踏み切りの名前も「谷戸川踏切」です。 この下に線路と平行に多摩川から取水した大丸用水が右手から流れています。
 (南武線の高架化及び府中街道の整備に伴いすでに見ることはできなくなっています。(2012.8))



 【田奈弾薬庫跡】
 通称「田奈弾薬庫」といっているのは正しくは「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所」のことで、 1941年(昭和16年)にこの地に発足しました。戦争終結後、 米軍に接収され引き続き弾薬製造が行なわれていたのですが、1961年(昭和36年)に返還されました。 下の図は返還される以前の地形図です。 (「こどもの国協会」御提供、作成者=永野達代、 1997年に制作した復元鳥瞰図:詳細は【参考文献】(3)による)(クリックで拡大できます)。
作者名=永野達代、1997年に制作した復元鳥瞰図

 そして1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日にこの「こどもの国」は開園しました。 開園に当たっては皇太子殿下(現天皇陛下)のご結婚を記念して全国から寄せられたお祝い金などが元になっていて、 こどもたちの健全育成のための施設として整備されました。 児童福祉法に基づく児童厚生施設ということで「社会福祉法人こどもの国協会」が運営しています。

 (このほど、「こどもの国協会」のご好意により弾薬庫全体像の説明と内部見学の機会を得たので ここにこれを記録いたします)


 「こどもの国」の入口は横浜市にあるのですが、奥の白鳥湖付近は町田市になっています。 いわゆる商業遊園施設のように派手なアトラクションがあるわけでもなく、 あくまでも自然を重視した施設になっています。儲け主義に走って次々と遊戯施設が開発されることもなく、 逆にこのことが戦争遺跡を保存することに幸いしていたといえます。

 正門を入ると正面に土手のような部分があり、その先に中央広場が広がっています。この土手は 中央広場をより広大に見せる効果をねらって後から作られたもので、もともとは平坦で引き込み線が奥まで 入っていました。現存する長津田駅からの「こどもの国線」はそのときの線路を活用したものです。
 ついでですが東側の駐車場のある牧場口の所にも引込み線はありました。
 ちなみに「こどもの国線」は開園当初からあったものではなく、1967年(昭和42年)に開通したもので 現在はみなとみらい線と同じ横浜高速鉄道の路線となっています。(ただし運行は東急電鉄が行なっています)

 中央広場を境に西側エリアで弾薬が製造され、東側エリアの弾薬庫に保管されました。
 混雑時には臨時駐車場にもなるという多目的広場の場所は田奈部隊本部のあった場所です。 終戦の日、この場所でも玉音放送が流されたといいます。ここにある大木は当時からのものとのことで、 つまりは樹齢70年以上ということになります。
 米軍はこの場所を知っていたのかどうかは不明ですが、東京大空襲をはじめとするB29による爆撃からも 免れたそうです。そしてその後米軍により接収され朝鮮戦争時に大量の弾薬が製造されています。 

 園内の内周道路を反時計方向に回ると第1トンネルがあります。当時のままのトンネルですが、 出口から先の道は新しく作られたもので当時の道はサイクリング用道路にあるトンネルを経て 今の牧場側に出ていました。

 園内には冒頭の地形図を見るとわかるように33基の弾薬庫がありました。しかし現在確認できるのは 10基程度で、あとは埋められたり湖底に沈んだりしています。左の画像のような入口が見られます。


 1基の弾薬庫につき入口は2つペアになっています。またトラックへの積み下ろしのための 段差があります。トラックといってもバッテリーで動く電動のものだったそうです。
 ただ園内にはこの段差のない入口もいくつか見られるのですが、 それらは倉庫や浄化施設などに転用されたときに車両が中に入りやすいように改修されたためです。

 弾薬庫の上には換気口があります。たいていは2本セットになっていますが6本のもあったようです。 園内を歩くとさまざまな形や大きさの換気口がいたるところに見られます。



 係の方により弾薬庫の扉が開けられました。

 入口部分の壁、天井とも板が張られていたと思いますが、いずれもぶら下がるようにして 剥がれ落ちていました。

 足元を良く見ると弾薬庫らしく薬キョウが散乱していました。

 これら弾薬庫は人力のみによって作られ、1000人ほどの朝鮮人労働者が従事したとされています。 そういわれて天井や壁をよく見るとコンクリートをコテで塗った手作業の跡が見られます。 下のほうには湿気防止とのことで黒くコールタールが塗られていました。

 この場所では換気口は6本あったということですが、上にサイクリング道路ができてつぶされています。
 右の画像は説明のとき使用された弾薬庫の見取り図です。内部は約200平米(60坪)、 天井は高いところで6m位です。

 内周道路をさらに進むと第2トンネルとなり、中央広場に戻ってきますがその間に弾薬庫の入口はいくつも、 しかも普通に何の違和感もなく目に入ってきます。

 そのうちのひとつにこどもの国らしくボーイスカウトの像が置かれている弾薬庫がありますが、 これは「無名戦士の像」といって傍にその逸話を表したレリーフと説明版があります。 曰く、一人の重傷を負ったアメリカ兵が倒れ、そこに日本兵が来ました。その日本兵は「三指の礼」を見て その兵士を銃剣で刺すことなく、手当までしてその場をはなれました。「三指の礼」はボーイスカウトの挨拶です。 その後おそらく戦死したであろう日本のスカウト戦士、日本の武士道をたたえたものです。

 ほかに換気口だけがあって入口のふさがれている弾薬庫もあります。また、牧場のてっぺんには まさしく弾薬庫の屋根部分と思える部分が見られました。



 ところで、現在の園内のプール西北側にはなぞの空間があります。いかにも弾薬庫のような扉が2つあり、 加えて排気口まであるこの空間なのですが、実は有名な彫刻家である日系アメリカ人のイサム・ノグチ氏により 設計された施設で弾薬庫とは何の関係もないものです。そういえば当時の地形図を見てもこの部分はありません。 一方、開園後の1974年(昭和49年)の航空写真によると 今とは少し違うもののそれらしい施設が見られます。



 開園したのは1965年(昭和40年)5月5日ですから、このあとにイサム・ノグチの 遊戯施設は造られました。1966年、イサム・ノグチ61歳のときでした。しかし現在、 園の案内でこのことについて触れているものは何もないのも不思議なことです。

 プールの奥には「椿の森」という園内最高地点があります。その場所は木々に覆われているものの 高射砲の台座跡があります。


 また、園の入口正面右側にはかつての一般工員の休憩所があり、少し高くなったところには 勤労女学生の休憩所がありました。ここから整列して作業に向かい、また昼食に戻ってきたといいます。 その休憩所跡の土台わきに「平和を祈る」と刻まれた記念碑が建っています。
 「神奈川高等女学校の学生であった私たちはこの工場で砲弾を作る作業につきました。 その砲弾が地球上の誰かを傷つけたのではないかと思うととても恐ろしい気持ちです。 戦争を再び起こしてはなりません。この思いをこめて平和を祈る碑を建てました。 平和な世界の中で子供たちがのびのびと育ちますように」(抜粋)



 またまた余談ですが、こどもの国線の恩田駅近くには貨物引込線であったころの名残が残されています。
 小さな川を渡るところに古い橋げたがあり、現用線路に沿って旧線路の空間が残されていました。 この橋桁と手前にほんの少し残されたレールだけが引込線のわずかな遺構ということになります。

   【参考文献】
 (1) 知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社MOOK)
 (2) こどもの国「歴史を訪ねて」イベント説明資料

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