・・・ 十条にあった陸軍の残り物 ・・・

 東京都北区十条、ここには仕事の都合でよく訪れていますが旧日本陸軍の施設があったことを示す 痕跡がいくつか残っているということで気になっていました。現在、 十条のこの地は防衛庁の駐屯地になっていますが、明治の昔から銃砲製造所など 軍事関係の施設があったところでもあり、ずっと戦争とかかわり続けている地ということになります。

 日露戦争中の1905年、明治政府はここに兵器工場を開設しました。その後、 日本の相次ぐ戦争への参加で工場は増設され、最盛期には赤れんがの建物が約20棟並んだそうです。 太平洋戦争後は米軍に接収され、ベトナム戦争時には負傷した米兵を治療する病院としても使われました。 その中の建物のひとつが元東京第一陸軍造兵廠275号棟です。多くの血を流したであろう鉄砲の弾や その火薬はここで、この建物の中で作られていました。

 沢山あった赤レンガ建物も防衛庁施設の建てかえにより次々と無くなってしまい、 風景はすっかり変わりました。ただ275号棟だけが残っています。 (十条編へ)

(2005年8月記)

 その後、旧陸軍の残り物は北区十条ばかりでなく、 隣の板橋にもあることが分かりました。火薬庫から始まり、兵器補給廠や造兵廠などの軍事施設が次々と設置され、 その間に軍用鉄道網がめぐらされていたといいます。太平洋戦争中においては十条に東京第一陸軍造兵廠、 そして板橋に東京第二陸軍造兵廠がおかれていました。
 石神井川沿いの東京家政大学から帝京大学(医学部)にかけての一帯は東京第二陸軍造兵廠があったところで、 今でもいくつかの痕跡を見ることができます。 (板橋編へ)

(2009年9月追記)


(画像をクリックすると拡大できます)

【十条編】 
 造兵廠の“造兵”とは兵器製造のことで、“廠”は軍直轄の工場を意味します。

 東京第一陸軍造兵廠、通称「一造」の場合、十条で小銃などの小型の弾丸を、 また滝野川で軍刀や銃弾、着火性の高い火薬を製造していました。

 王子本町2丁目の都営アパート内のゆるい坂道脇に陸軍用地であったことを示す標柱が残っています。 風化が進んでいてはっきりとは読み取れないのですが確かに「陸軍用地」と刻まれていました。 なぜここだけ残っているのかはよくわかりません。

 十条台1丁目の自衛隊駐屯地の南側、北区中央公園内に文化センターがありますが、 この建物は戦前の東京第一陸軍造兵廠(兵器工場)の本部でした。

 昭和5年に建てられたもので、雰囲気のある外観と内部階段が残されています。
 一時期米軍に接収されていましたが、昭和46年に日本に返還され文化センターとして生まれ変わっています。

 自衛隊の十条駐屯地は、近代的なビルに建て替えられています。その駐屯地のすぐ東側には 取り残されたような古い赤レンガ造りの建物が1棟ひっそりと立っています。

 元東京第一陸軍造兵廠の通称275号棟です。太平洋戦争の敗戦まで、銃の弾薬を作る兵器工場でした。 大正8年に建てられ、戦後は米軍も使用したそうです。その後、最近まで陸上自衛隊が使用していたものの 現在は駐屯地の敷地外となって、北区へ移管され取り壊しを免れています。 (区立図書館として再生する計画が進められているようです。)

 かつてはこのような煉瓦作りの重厚な建物が多数建っていたらしいのですが、 いま残っているのはこの275号棟のみです。昭和33年に日本政府に返還され、 防衛庁が「タイヤ再生工場」として平成元年3月まで使用していました。

 現在の自衛隊がある十条駐屯地の正門ゲートには取り壊した建物の煉瓦が再利用されています。 このレンガ塀の右側には次のように書かれたプレートがはめ込まれていました。
 「この煉瓦は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年この地に建設された 東京砲兵工廠銃砲製造所に使用されたものの一部を保存したものです。」

 このほか十条中学校の北西角からJR埼京線の線路に沿って続くコンクリート塀は造兵廠の外塀でした。 コンクリートが剥落した所や十条中学校の校舎側から見ると、内部は煉瓦造りであることがわかります。 (クリックしてみてください)

 現在、275号棟は北区が土地ごと建物を購入し、 公園の中に新しく建設する予定の図書館の一部として活用する計画になっています。


【板橋編】 
 石神井川沿いの東京家政大学から帝京大学(医学部)にかけての一帯は 旧東京第二陸軍造兵廠があったところです。東京家政大学構内に残る建築物については こちら(キャンパスに残る廃なもの)に掲載しました。

 東京第二陸軍造兵廠、通称「二造」は火薬の製造所であり、火薬はもちろん機関銃や大砲、 風船爆弾などの製造も行われていたといいます。旧加賀藩下屋敷の広大な敷地に作られました。

【愛誠病院内】
 東京家政大学の南、石神井川との間に挟まれた所にある愛誠病院では二造の建物が再利用されています。 塗り替えられてはいますがこの形は間違いないと思います。他にも何棟かそれらしい建物がありました。

【理化学研究所】
 愛誠病院と石神井川との間には細い路地が一本ありますが、 そこに「理化学研究所板橋分所」とプレートのかけられたレンガ造りの建物がありますが、 これも二造の建物だったものです。

【愛歯技工専門学校】
 その路地を西に向って突き当たったT字路に愛歯技工専門学校がありますが、 その構内の建物も二造のものです。火薬庫であったとされ、万一の事故の際、爆風を上に吹き飛ばすため 壁を頑丈にし、屋根を弱く造ったとのことです。

【加賀前田家下屋敷跡】
 少し戻って石神井川の対岸に向うと「加賀前田家下屋敷跡」という加賀公園がありますが、 この公園内のちょっとした小高い築山の一部に製造した弾丸を試射するための標的があります。 ここで火薬の種類や量を変えた多くの弾丸の速度などが測定されました。
 下屋敷は屋敷の中を石神井川が流れ、本国兼六園の約7倍というほどの広さがありましたが、 現在残っている面影はこの公園に残る築山の一部だけです。

【野口研究所】
 その弾丸はどこから撃ち込まれたかというと、フェンスに囲まれていますが隣の、 今は野口研究所となっているところからです。その標的に向って長さ十数m、直径約70cmの 「弾道検査管」があります。研究所内にはほかに火薬研究所時代に使われていたという 「試薬用火薬貯蔵庫」や「防爆壁」、 そして当時の建物と思われるものがありました。 国有財産のため取り壊せないのだそうです。
(野口研究所の許可を得て見学させていただきました。)

【トロッコ線路敷跡】
 加賀公園の中段から金網を隔てた野口研究所の構内に伸びる一見道路のような部分は、 火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷き跡です。現在でも埼京線の十条台橋の南側に コンクリートの土台が残されていますが、これも電気軌道の跨線橋跡で1905年(明治35年)に 建設されたものです。

【レンガパーク】
 石神井川に架かる緑橋のたもとの小さな空間(みどりばし緑地)に平べったく、横倒しにされた状態で 二造の建物の一部がモニュメントとして残されています。 あらかた取り壊されたレンガ造りの建物を保存するためということですが、 本物は上部中央のほんの一部のみで、あとは模造品です。

【加賀西公園】
 「二造」の前身は古く明治のころから火薬製造が行なわれていた板橋火薬製造所です。 加賀西公園内には「圧磨機圧輪記念碑」が残されていますが、これは板橋火薬製造所の創設者が幕府の命により ベルギーから輸入したもので1876年(明治9年)から実際に火薬製造(黒色火薬)に使用されていたものです。 またこの圧輪を回転させる動力には石神井川の水が利用されたそうです。 なお記念碑の中央には東京砲兵工廠の円を重ねたようなマークがつけられています。 (上の画像の建物の最上部にも同じマークがあります)

【金沢小学校校庭】
 「二造」の正門は加賀西公園の入口付近にあったということです。
 そして金沢小学校の校庭には陸軍の星のマークの入った消火栓が残されていました。 (校内に入れないため老人ホーム側通路から撮影)

【板橋五中】
 板橋第五中学校の南側角地には「陸軍省」と彫られた境界石があります。 かつてここには陸軍工科学校の板橋分校がありました。加賀公園の南側道路沿いに「工科学校板橋分校跡」碑が ひっそりと建てられています。碑には「花匂ふ桜ヶ丘 永遠の平和を祈る」と刻まれていました。

【板谷公園ほか】
 境界石といえば他に加賀2丁目の住宅地の中の個人のお住いも陸軍用地の境界石がありました。 ちょっと古そうなコンクリート壁の下に3本もあります。
 また、付近を歩いていて気になったのですがコンクリート塀の支柱だけが複数見られました。 「二造」に関係があるのかどうかは分かりませんがこれらを結ぶと「二造」の境界になるのか気になるところです。
 そしてもう一つ、これは全く関係ないのですが、昭和12年開園という 「東京市板谷公園」がありました。 なんと右から左への横書きです。個人の寄贈によるもののためそのままの名前が残っているようです。なお、 当時付近一帯は「三合の原」と呼ばれていたようです。(公園由来板より)
 
 【参考図書】
 (1) 知られざる軍都 東京(洋泉社MOOK)
 (2) TOKYO軍事遺跡 (交通通信社:飯田則夫)
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