Yakkoのページ  この地球の上で&四季の台所 2006年

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四季の台所12月(06年12月)

 干し柿を取り込んだ。去年は干しっぱなしでカチカチにしてしまったから、今年はやわらかいうちに取り込もうと思っていたのに、やっぱり少し固くしてしまったような気がする。でも、まぁまぁかな。うちには柿ノ木がないけど、ご近所2軒からいただいたので、60個ほどの干し柿ができた。何百個、千個と作る人に比べたら微々たる量でしかないのに、余らせてしまうことがある。でもこれくらいの出来だと、友人から教わったクルミの干し柿巻きが作れそうと、ほくそ笑む。干し柿を切り開いて何個か少し重ねて長く並べ、クルミを芯にして海苔巻きのように巻き、ラップで包む。それを小口に切るとなかなか上品なお菓子の出来上がり。

 お天気がよくなくて心配していた切干大根も干し上がった。何人かの方から大根をいただいたので、干した。笊から甘くなった切干をつまみ食いしながら、干すという保存方法を受け継いできた先人に感謝。やはりいただきものの白菜は新聞紙で包んで箱に入れてあるし、ネギは少し干してから倉庫の中で待機中。

 5年前から自給用の畑がなくなってから、保存に追われる忙しさがなくなって、さみしいけれど今年もたくさんの人からいろんなものをいただいた。ありがたいなぁ。

 今流行のmixi(インターネット上の会員制のコミュニティ)のブログ(インターネット上の日記のページ)で、手に入れた音楽CDのことしか書かない友人がいたので、私は焼いたパンとかお菓子などその日に作ったものをテーマにして写真と共に日々の記録を作ろうと思った。しかし、忙しいとそうそう手作りできない。ならば、心のこもったみんなからのいただきものをテーマにしようかと思ったけど、ブログを書き込むということ自体パソコンに向かうのが大大大好きじゃないと続かないということがわかって挫折中。

今年もらったものを思い出してみる。手作りドラム缶釜で焼いた自家製天然酵母パン、コンビニの前で姪と話している時に、偶然通りかかった富士見の天然酵母パン屋「かまねこ庵」からもらったパン、売れ残ったからともらったイラクの医療支援カンパのためのバレンタインチョコとイラクの子どもの絵のカードの小袋、湯沸かし器をあげたお礼にもらった稲藁とトマトジュース、もらった種から芽を出し50センチに育ったアボガド、エレキギターを始めたお姉ちゃんのために声をかけたら持って来てくれたにもかかわらず、気に入られなくて使い手のないさみしいギター、一昨年にもらって今年初めてたくさん実をつけてくれたブラックベリー、年末には蒸篭を貸している友人からのし餅と、教えてあげたのになかなか上手にならないちょっといびつな鏡餅、九州のおばあちゃんが庭で作っている甘夏やかぼす、友人が編集に関わった本「パーマカルチャーしよう!」(自然食通信社)、友人のおばあちゃん牧師さんが書いた子どものための絵本「かみさまおてがみよんでね」(コイノニア社)、市民タイムスに掲載した意見公告「ヴィヴィッドだね いまこそ!憲法9条が新しい!」をポスターにしたもの、丹精込めて作られたじゃが芋、にんじん、里芋、ヤーコン、セロリ、卵、山のきのこ、銀杏、、、今思い出せないものその他多くと、私たち家族のことを気にかけてくれたたくさんの心。ありがとう。

そうそう、来年に持ち越さなくてはいけないいただきものもあった。先日、イラン絵本「ごきぶりねえさんどこいくの?」(ブルース・インターアクションズ)を翻訳した愛甲恵子さんが「イランを感じる夕べ」を開くために来松した時にもらったイランのローズウォーターと柘榴ペースト。今年はイランの女性作家の作品が何冊か出版されたのだけれど、そのうちの一冊「柘榴のスープ」(白水社)はイラン革命時に亡命した3人の姉妹がアイルランドでイラン料理店を開くという小説。その各章にイラン料理のレシピがついている。ローズウォーターを使ったお菓子や、柘榴果汁、ペーストを使ったスープなどが載っている。年内は忙しくてイラン料理に挑戦するのは無理そうなので年が明けてから、「イランを胃袋で感じる夕べ」でも開こうかしら。

新しい年がいい年でありますように。

この地球の上で(核実験) (06・11月)

 北朝鮮が10月9日に核実験をしてから1ヶ月以上がたった。「あの恐ろしい国が核を持つなんて・・・」という声が聞こえる度に、3年前「あの恐ろしい独裁者フセインがいる国なんて・・・」とついにイラクが攻撃された出来事が重なってくる。あの結果は日々報道されているように、いまだイラク市民、アメリカ兵双方の死者は増え続け、イラクの人々の生活は破壊されたままだ。

 もうひとつのイラクを抱え込む余裕のないアメリカは、今回は国連決議で経済制裁という段取りを踏んだけれど、イラク戦争の前にはイラクも経済制裁を受けていた。飲料水の殺菌剤が兵器の原料になるということで輸入禁止品目に入っていたため、下痢や風邪で命を落とす子どもたちが多かったという。今年7月の集中豪雨で作物の被害が大きかったという北朝鮮で、餓死者が出ないだろうか。こんな状況下で、先に死んでいくのはここでもまた子ども、女、お年寄り、貧しい人といった社会的弱者からなのだろうから。

 北朝鮮が核をアメリカとの交渉のカードとして使ったのは、持てる大国のまねをしただけのこと。核は実際に使われたら、世界が壊滅することは持つ国にもわかっているから、持つことで相手を抑制するために使われる。恐ろしいのは、持っているのが100%絶対に間違いを犯さないと言い切れない人間が作り上げた国家であることだ。すべての核は廃絶するしかない。

 1970年に発効された核拡散防止条約(NPT)はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5カ国を「核兵器保有国」とし、それ以外の国には核兵器開発を禁じる代わりに平和利用の権利を保障するというものだ。そしてアメリカは1030回の核実験をして10104発を保有、ロシアは715回の核実験・16000発保有、フランス210回・360発、イギリス45回・200発、中国45回・200発を保有する。つまりこの地球上には2万7000発以上の核兵器があるのだ。(これで地球を何回破滅させることができるのだろう?)NPTは核廃絶・核軍縮のために、正常に機能しているとはいいがたいどころか、保有国アメリカは昨年のNPT再検討会議で、包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准拒否し、今年8月には臨界前核実験を行なっている。要するにこの条約というのは、自分は既に持っている国が自分は捨てずにそのまま持ち続けながら、あんたたち他の国はこれ以上核の脅威が増えるから持つなといっているのだ。実際インドとパキスタンはこんな不平等条約に入らないといってNPTの枠外で核兵器を開発し、それぞれに40〜60発を持つ国になってしまった。それにアメリカの同盟国であるイスラエルが核を持っていてもお咎めなしで、こっちは黙って見逃しても、あっちのイラン、北朝鮮は許さないというダブルスタンダード(二重基準)もまかり通っている。

 そしてこんな中、核が兵器として使われたらどうなるかその悲惨さを61年前に身をもって知ったこの国の政治家から「憲法でも核保有は禁止されていない。核があることで攻められる可能性は低くなる。」という発言がなされた。その後火消しにおおわらわだったけれど、本音の一部が表面に出たと思われる。しかし、世界中が北朝鮮による核実験が、日本を核武装に向かわせるのではないかと懸念し注目している時にこの発言である。この際「核を持たず、造らず、持ち込まず(米軍によって持ち込まれているにせよ)」の非核3原則を法制化すべきではないだろうかと考えていたら、11月8日の信毎・社説執筆者も同じことを書いていた。憲法で禁じられている戦力を拡大解釈して、警察予備隊から保安隊、自衛隊と名前を変え、世界3位の軍事力を持つこの国である。非核のための縛りを法制化しておかないと、いつのまにか核まで持ってしまっていたという日が来ないとも限らない。55基の原子力発電所からは日々原料のプルトニウムは産み出され、技術もあるのだから。

 軍事力とお金のあるものが大きな顔のできるこの世界の中で、貧しい人でも無担保で融資が受けられるマイクロクレジット(小額資金貸付)のグラミン銀行を立ち上げたムハマド・ユヌス氏がノーベル平和賞を受賞したニュースは、寒い日の温かい1杯のお茶のようだった。

この地球の上で (脱構築のファンタジー) (06・10月)

ビデオで「スターウォーズ シスの復讐」をやっと見た。昨年、封切り前に前作のシリーズをTVで放映したのを、すっかりはまって全部見てしまい、劇場で大画面スペクタクルを見るのを楽しみにしていたのに、見損なってしまったのだ。SFやファンタジーは昔から好き。人間の想像力が作り上げる世界で、現実世界では語りきれない物語が見せてくれるものが。

「スターウォーズ」は、未来の銀河系を舞台に嫉妬、怒り、恐れという暗黒面を力(フォース)にして支配する側と、それを倒す正義の力の側の戦いの物語。トルーキン原作のファンタジー「指輪物語」を映画化した「ロード・オブ・ザ・リング」もドワーフ、ホビット、ゴブリン、エルフ、魔法使いのいる世界で悪と正義の戦いが繰り広げられる。「ナルニア国物語」でもね。

善と悪、二項対立の世界はわかりやすい。倒すべきは悪で、平和をもたらすのは善。

が、世界ははたして、善と悪にはっきりと境界がひかれて区分され、片方を倒せば平和が訪れるという簡単な図式で表すことができるものだろうか。二項対立の概念に対して、フランスの哲学者ジャック・デリダは、「脱構築」という考え方を差し出してくれた。脱構築の入門書、哲学者・高橋哲哉による「デリダ」をほんの少しだけ、覘いてみよう。

―内部の純粋さを実現するために決定不可能なものを外部の悪として追放するという暴力的決定がなされる。―純粋な内部(自己)と見えたものは内部にたえず外部(他者)が持ち込まれ内部と外部との差異を決定不可能なまま生み出し続けていく。―内部/外部の境界線は決定不可能なもので、外部は内部の内部にすでに存在する。―

あぁ、ややこしい。難解で、理解できているのかわからないが、こういうことだと思う。こちらは「善」で、あちらの敵は殺してしまわなければいけない「悪」と決め付けることはできるのか。独裁者フセインを倒したアメリカ自身がその内部に独裁者をかかえているのでないか。「美しい国・日本」という内部を純粋化させ固有のものであると境界を作っても、そこには既にアジアという他者は入り込んでいる。私たちの伝統・文化には、なんとたくさんの中国や朝鮮半島の文化が入り込んでいるのだろうか。まったき他者の侵入を許さず他者と出会い他者と向き合うことのない社会、他者の呼びかけに応答しようとしない社会は、他者の排除(抹殺)へと向かう。

今年の夏、公開されたアニメ「ゲド戦記」。アーシェラ・K・グウィン原作「ゲド戦記」は私が20数年来愛してやまないファンタジーだ。若き日の魔法使いゲドは、自分を脅かす「影」に気づく。追いつ追われつして最後に「影」と向き合った彼が、それが自分の内部にあるものであることを理解し、まったき人になる。(第1巻 影との戦い)この物語には追放すべき悪、倒すべき悪は前面に登場しない。人間/竜、男/女、ロゴス(言葉)/大地・体、、、これら階層秩序的二項対立を脱構築する物語のように思える。この点で、残念なことに、アニメ「ゲド戦記」は倒すべき敵を作り上げてしまったことでまるで違った作品になってしまった。

 デリダの高弟、鵜飼哲の言葉を今一度噛みしめる。「他者と出会い向き合っていく中でしか平和はつくられない。」

この地球の上で(「戦争の克服」を読んで) (06・9月)

 2001年9月11日の出来事から5年がたった。この5年間、アメリカは大国のパワーゲームに翻弄されてきたアフガニスタンを空爆し、国際法を無視してイラクを侵略し、自衛隊は武器を携え戦地に赴いた。国際ルールを破っても破壊的な暴力(軍事力)を持って勝ったほうが正義となる世界に私たちはいる。(米議会において旧フセイン政権はアルカイダと無関係だったとする報告がこの9月8日に公表。2004年にはイラクの大量破壊兵器の存在を否定する米調査団による報告が出た。大儀なき「正義」の戦争は見直されるのだろうか?いや欧米型民主主義とグローバル市場経済を採用しない国を脅威とみなし戦争を正当化する本質が変わるとは思えない。)

戦争は克服できないのか?そんなタイトルの本が出た。「戦争の克服」(集英社新書)、フランス文学・哲学者の鵜飼哲と国際法学者の安部浩己と対談思想書の名手、森巣博の対談集だ。論文とちがい対談なので読みやすかった。今回は「戦争の克服」のレポートとしたい。

人類は常に戦争をしてきた。そして又戦争を克服しようとする努力もしてきた。そのために国と国が作ってきたルール、国際法を見てみよう。

ヨーロッパ17世紀初頭の30年戦争を終結させるためのウェストファリア条約が近代国際法の礎となる。「正しい戦争」「正しい宗教」「正しい帝国」は否定された。1907年ハーグ平和会議で採択されたポーター条約によって初めて武力行使を制限することが明文化され、第一次大戦後1928年パリ不戦条約で一切の武力行使が禁止される。第二次世界大戦後の1945年サンフランシスコ条約会議で国連憲章が採択、一切の武力行使はまたまた禁止されるが、例外として「平和の破壊及び侵略行為に関する行動」という章を設け、約束を破った国に対して他の国が力を合わせて鎮圧し(「集団安全保障」39条)、集団安全保障体制ができるまでの間攻撃された国は武力攻撃してよい(「自衛権」51条)とした。今回この国際法を無視したアメリカのイラク戦争は国連安保理決議1483(03・5/22)でイラク占領は侵略であり、占領状態は違法であるとされた。これに対して、国際的な法の裁きはなされないのだろうか。実は人道に対する罪、ジェノサイド、戦争犯罪、侵略の罪を法によって裁くために国際刑事裁判所が2002年7月に発足しているが、侵略した国アメリカも侵略された国イラクもそのための条約に批准していないために有効でないという。ちなみに批准していない国は、他に日本、ロシア、中国、イスラエル等。(さらにちなみに死刑廃止条約に批准していない国もこれとほぼ重なる。)EU諸国、韓国や歴史的に何度も侵略されてきたアフリカ、中南米諸国は批准している。

唯一の超大国アメリカの圧倒的軍事力による「力こそ正義」は戦争を克服しようとする国家間のルールを無視する。日本においては国連主義とつながる憲法を「改正」して、アメリカとの軍事協調をさらに進めようとしている。次期首相として有力視される安部氏は自衛隊海外派兵を随時可能にする恒久法と改憲をめざしているし、米軍再編化の中で日本はアメリカの対アジア戦略の前線に位置づけられようとしているのだから。

こんな中で本当に戦争は克服できるのか?戦争はある、それゆえ平和は創出されねばならぬという哲学者カントのいうように、こんな中だからこそ平和をどうつくるかという命題を解いていくしかないのだと思った。

先の日本のした戦争をアジアの国々と共通の歴史認識をさぐりながら、まずは核のないアジアの地域間平和を創出すること。脅威や危機をあおって異質のものを排除する社会や同質性が求められる愛国の物語からは、戦争は生まれても平和は構築されえないこと。「われわれ」と「かれら」の境界線をひいて敵をつくらぬこと。取り組むべき命題はたくさんある。

「他者と出会い向き合っていく中でしか平和はつくられない」(鵜飼哲)

四季の台所(06・8月)               

まだまだ夏まっ盛り。しっかり食べていますか。

おやおやの夏休み前に、Tさんから家庭菜園のジャガイモをたくさんいただいた。取れすぎたからと時々いただく野菜は、おつれあいさんが出勤前や土日に有機肥料を使って丹精込めて育てた野菜でおいしい。ジャガイモは「きたあかり」という品種だそうで、煮物にすると煮くずれしやすい種類。そういうのは煮る時に最初のほうで調味料を入れると煮くずれしにくいのだけれど、煮くずれする特性を活かした料理にしてみる。ポテトサラダにコロッケ、マッシュポテトは定番。それからこんなのはどうかしら。

【じゃが芋グラタン】
硬めに茹でて、厚くスライスして、玉ねぎとベーコンを炒めたものと、シュレッドチーズとを耐熱皿に重ねて、ひたひたより少し少なめに生クリームを注いでオーブンで焼く。あるいはミートソースが残っていたら、固め茹でじゃがとチーズを重ねて焼くのもおいしい。

【じゃが芋ピザ】 
 じゃが芋は千切り。塩、こしょうしてフライパンで焼く。片面が焼けたらひっくり返してぎゅっと押し付けケチャップ(あればトマトソース)を塗りシュレッドチーズを散らしてふたをしてチーズが溶けるまで焼く。

【ヴィシソワーズ】 
<ジャガイモ500g・長ネギ2本・バター40g・塩・こしょう・生クリーム1/2〜1カップ・牛乳1カップ・アサツキか小ネギ少々>

 冷たい夏向けのスープ。鍋にバターを溶かし、小口切した長ネギを炒め、うす切りしたじゃが芋を加え、ひたひたの水を入れて柔らかくなるまで煮る。熱いうちに裏ごしして冷やしておく。食べる直前に生クリームと牛乳を加えてのばし、冷たい器に盛りアサツキを散らす。

 【じゃが芋パンケーキ】
 じゃが芋はすりおろす。つなぎに小麦粉を加え塩コショウで味付けをする。好みで玉ねぎのみじん切りや卵を入れてもいい。パンケーキを焼くように焼く。

 【じゃが芋団子】 
<じゃが芋600g・片栗粉200g>

 じゃが芋は皮をむき、柔らかく茹でる。冷ましてからマッシュして片栗粉を加え、粘り気が出るまで練る。3〜4cmの棒状にまとめ、5mm厚さに切って茹でる。ゴマだれ、クルミだれなをでかける。バターで焼いてもいい。お餅のように食べてください。きな粉と黒蜜もいいかもしれない。

 【じゃが芋ニョッキ】 
<じゃが芋正味250g・卵1/2個・強力粉100g・パルメザンチーズ大さじ1・塩少々>

 じゃが芋は皮をむき、柔らかく茹でる。熱いうちにマッシュして冷ます。ふるった小麦粉にじゃが芋、バター、卵を入れ耳たぶくらいの固さに練る。2cm太さの棒状にし、2cmほどに切り分ける。打ち粉をしたフォークの腹に親指で押しつけて筋をつける。たっぷりのお湯で茹でる。トマトソースなどで食べる。ジャムをかけるとおやつ向きに。

 【ポテトケーキ】  
<じゃが芋275g・サラダ油1/2カップ・卵2個・洗双糖80g・小麦粉225gベーキングパウダー小匙1/2・重曹小匙1/2・塩少々・シナモン適量・レーズン等>

 じゃが芋は皮をむいて柔らかく茹でてマッシュして冷ます。サラダ油と卵、洗糖をよく混ぜ、マッシュしたじゃが芋を加えよく混ぜる。小麦粉、ベーキングパウダー、シナモンをふるい入れる。型に流してオーブンで焼く。じゃが芋の代わりにかぼちゃで作るとかぼちゃケーキ。

ついでに夏向きのニラ料理もご紹介。お昼にいいです。

【チヂミ】  ニラを3cmくらいに切る。小麦粉、卵、水と混ぜてゆるめのタネを作る。フライパンに流しいれ、ニラせんべいのようにフライパンに押し付けるように両面焼く。コチジャンにしょう油を混ぜた簡単ソースをかける。イカや肉を加えてもいいけれど、あまりいろいろ入れすぎるとお好み焼きになってしまうかも・・・でも、お好み焼きもニラせんべいもルーツは一緒かもしれない。

【ソーメンチャンプルー】  ソーメンはとにかく固めに茹でる。ニラとツナを炒めて、塩、こしょう、しょう油で味付ける。ナンプラー、唐辛子を使うと東南アジア風に。

四季の台所7月(06・7月)

いつの間か一年の半分が過ぎた。冬の間あんなに待ち望んでいた緑もあふれんばかり。我が家のキッチンガーデンは、ラズベリーの収穫がだいたい終わって、ブラックベリーの実が熟すのを待っている。ラズベリーは、さっと火を通して透明なジュースだけを漉して砂糖を加えてシロップにした。(残った実は裏ごしをかけてジャムに)ヨーグルトに、カキ氷にといろいろ重宝するシロップである。今年はレアチーズケーキの上に、シロップを水でゆるめてゼラチンで加えたラズベリーゼリーをのせてみた。手間はかかるけど、白いレアチーズの上に赤いラズベリーがきれいで感動的。シロップは10分間煮沸消毒した瓶に詰めて、また10分間煮沸する。これで1年以上、保存できる。

なにしろ狭いので、あと作っているのはトマトくらい。見切り品1株38円で売っていた苗を4本買ってきて植えたのが5月21日。今36個くらい実を確認していて、これも熟するのを待ちわびている。トマトは連作を嫌う。3年前に作っていたので、もう少し間を空けようと思っていたら、Sさんが、「ニラとトマトはコンパニオンプランツかもしれない、毎年ニラの生えている傍にトマトを作っているけど大丈夫、元気よ。」とおっしゃる。うちもニラの横に(狭いので、とにかくここしかない)植えてみることにしたというわけ。いまのとこ元気に育っている。

バジルは毎年食べきれないのに、また今年も種を蒔いてしまった。食べきれないバジルはクルミ、オリーブ油、にんにくとバジルペーストにして瓶で保存しておく。空気に触れる部分は色が悪くなるのでオリーブ油でフタをする、という技を発見し、冷蔵庫でこれも1年くらいは保存できる。先日、お金のない人たちの集まりがあり、賞味期限の切れたスパゲティを大量にもらってきた人がいた。それと去年のソースを使ったスパゲティ・ジュノバソース(バジルソース)が20人のおなかを満たしてくれた。

毎日こんな風に暮らしていて、引っ越してまだ4年にしかならないこの庭や家がいとおしいと思う。これが何十年、いや代々何百年も住んでいたりする家だったらどうだろう。そしてそこをある日突然出て行けといわれたら。中国で、世界最大規模の三峡ダムが建設中だ。2009年完成予定のこのダムは、100万人を超える人が家・土地の水没のために移住を迫られている。先日上映された映画「淹沒−水没の前に」は詩人李白で有名な四川省奉節(フォンジエ)の町の移転前の人々にカメラを向けたものだった。詩の都には詩はなく、家庭での役場での言い争い、移転先を求め超!高架橋の下の土地を見せられここなら空いているといわれる男、移転費用でもめる教会、犬のような生活を送る苦力(クーリー)・・・そこからは、ある日突然、空港を作るからと立ち退きを迫られた三里塚の人々、1948年ある日突然イスラエルという国を作るからと武力で立ち退かされたパレスチナの人々が私の中に立ち現れてくる。解体のためにビルを爆破した瓦礫の廃墟に小屋がけをして住む人々に、ブルドーザーで家を壊された瓦礫の中のパレスチナの人々の姿が重なってくる。経済発展のために、ホロコーストの贖罪のためにと、なんらかの大義のために人々はある日突然住む家を追われるのだ。大事なのは大義ではなく、一人一人がかけがえなく生きていることだというのに。

思いをよせてやる一つ一つのことが、どこかでつながっていると信じながら、日々の暮らしを積み上げていこう。さてと、梅雨の合間にラベンダーを摘みに庭に出よう。

四季の台所(6月)(06.6月)

 あー、今年も失敗だと、堆肥の山を切り返すというよりベッチョリした塊をほぐしながら思った。以前、伝言板に生ごみ堆肥の正しい作り方を書いた。―含水率が90%もある生ごみは水切りをよくした上で新聞紙に広げて干したり、風に当てて水分を飛ばし60%位にする。コンポスターに入れた生ごみに枯葉や乾いた土を重ねていく。―どうやらひたすら水分の割合を減らすことにコツがありそうだとわかっていても、実際にやろうとすると、生ごみを乾かすのも面倒だし、乾いた土や秋に枯葉を集めてそれを濡れないようにとっておく、なんていうのも面倒だ。結果、台所からコンポスターに直行した生ごみに乾いていない土をかぶせただけなので、発酵ではなく、腐敗させることになってしまう。

 それで今年はEM菌で堆肥を作ってみようと思った。前からおやおやの棚のEM発酵堆肥促進剤「テラC」が買って買ってと叫んでいるような気がしていたし。空気が嫌いな菌なので、蓋が密閉でき、発酵する際にでる水分を抜くための蛇口がついている容器は必須アイテムで、生活用品量販店で1,980円のカラフルな色の容器を買ってきた。三角コーナー1杯の生ごみに大さじ1杯の「テラC」を振り混ぜて容器に放り込むだけ。蛇口から抜いた液肥は排水口に流すといやな臭いはしなくなるし、川を浄化してくれる。花や野菜には1000倍以上に薄めて水やりに使える。臭くないので、台所の片隅においてすぐに処理できることも気に入っている。いまのところ、いい感じ。

 土作りはこれでいくとして、病害虫はどうしていったらいいだろうか。

木苺につく毛虫、オビカレハの幼虫は毎年発生するので、毎朝こまめに見回ってはしでつまんで潰している。知らずに触ってしまうと1週間以上かぶれて痒いので絶滅したいところだけれど、人間の思いどおりにはいくはずはない。化学農薬を使わない以上物理的に退治するしかないとあきらめている。

 ヒイラギモクセイ(いわゆるヒイラギ)の葉が茶色くボロボロになってきた。ここ10年全国的に被害が広がっているヘリグロテントウノミハムシのせいらしい。テントウムシに似た3〜4oのハムシだとわかったので、今年は気味悪がらずによく観察するつもり。飛んで逃げるみたいなので、捕獲はあきらめてエサになる木自体を切るしかないのかもしれない。気をつけてよそのヒイラギを見ると軒並み被害にあっている。微妙な生態系の狂いだろうか。

 葉っぱにうどん粉をかけたように白くなるうどん粉病も発生しやすい。うちでは去年の秋からずーと咲いていたビオラがもうそろそろ咲き疲れたらしくて、うどん粉病が現れた。近くに植えたバーベナにも広がったので、木酢液をスプレーしてみた。初めて使った木酢液は燻製のにおいがして不思議な感じ。本当はにんにく木酢液を使いたかったけど、現在まだ仕込み中なのだ。にんにく木酢液の作り方は<木酢液1000cc・にんにく50gみじん切り・唐辛子50gみじん切り・どくだみ150g干したもの・を3ヶ月寝かせる。使う時は300〜1000倍に水で薄めてスプレーする。>(曳地義治・トシ著「オーガニック・ガーデン・ブック」より)おやおやの木酢液は入浴剤としても使えるように有害なタールを取り除いてあるので、植物にも安心だ。にんにく50gはすぐ手に入るとして唐辛子50gは結構な量になる。幸い私は作ったものの使い切れないで困っていた唐辛子があったのでいいけれど。作りやすく、色鮮やかな赤が楽しい唐辛子の苗を1〜2本植えておくのはおススメだ。それにしても、にんにく・唐辛子・どくだみ入りの木酢液ってすごく効きそうな気がする・・・・!

 何ヶ月後にまた報告するので、お楽しみに。 

この地球の上で(お隣さん組)(06.5月)

 朝6時からお祭りの後片付けだという。5時半には起きて「町内の皆様お集まりください」とアナウンスを聞き届けてから、お宮に向った。6時3分前には到着したはずだが、なんと、既に提灯は積み重ねられ、注連縄は束ねられている。村落部に住む友人から、○時から雪かきをするからといわれ、その時間に行くと既に雪かきは終わっているという話を聞いていたが、ここでもそうだったのか。「夜遅いのはいいけれど、朝早く起きるのは死ぬ思いだった。これって何?」と言い放ち帰っていった人がいた。気持ちはわかるなぁ。私は、平日の朝だったので、6時半には子どもを起こして学校に送り出さなければいけないから今回早く終わったのは助かったけど。

 今年は引っ越してきたこの地で、初めての「組長」のお当番をやることになった。前の住んでいた所では、隣組はうちと生家ともう一軒しかなく、三軒とも役に立たないメンバーとみなされていたせいか街中のせいか、町会の仕事は回ってこなかったし、出なくても文句を言われなかった。

 ところ変われば習慣も変わる。やたらと町会の行事が多い。出不足金付きの年2回の一斉清掃、公園の掃除、公民館の掃除、組長はお祭りの仕事とこれから先、盆踊り、敬老会、文化祭などなどの仕事があるらしい。その上、小学生の子どもは通学している学校の関係で隣の町会の子ども会に所属し、そっちのPTA役員としてそっちの総会に出席したり祭りに参加するので、参加する回数はひたすら多いという今年の状況だ。

 持ち回りの当番として町会行事に参加しているのだが、私の支払った町会費の中から私が信仰していない護国神社にお金が支払われていることや、町会組織を通して広報の配布等の行政の一部を担わされていることに疑問を感じながらの町会活動への参加である。1945年以前の戦時体制下で、町会・隣組組織を使って戦争に協力させた歴史を持つこの国である。無批判ではいられない。国→市町村→町会→隣組→一人一人の私へというお上から下々への命令系統は立憲主義の憲法の下では廃止されている。主権は一人一人にあり、私→(省略)→国と矢印の方向が逆になったのが、現憲法だ。公の権力が個人の基本的な人権を侵すことがないように、公の権力に規制をかけることを立憲主義という。一人一人の思想・良心・宗教・一切の表現の自由は憲法で保障されている(19条・20条・21条)のであるが、これらを押しつぶしながら強制力を持って従わせることは現憲法の下ではあってはならないことだ。

 小学生の子どもが言う。「隣組というと、自分の組じゃなくて、隣の組のことでしょ。変だよ。」そうだね。いっそ戦時体制下の隣組とは違うという意味を込めて、名称を変えたらどうだろう。「お隣さん組」とか「隣人組」とか。「お隣さん組」の方が、やわらかい響きがするので、私は勝手にこれからはこう呼ぼう。学校から帰って鍵を忘れて家に入れない子どもに声を掛けてくれたり、作った野菜を分けてくれるのはお隣さん。認知症が始まった様子の一人暮らしのおばあちゃんのことを気にかけるのはお隣さん。上から組織される隣組はいやだけれど、お隣さんと助け合うのは自然で大切なことだ。「お隣さん組」と「隣組」の折り合いはをもう少し時間をかけて探ってみたい。

この地球の上で(チェルノブイリ原発事故から20年)(06.4月)

 1886年4月26日、ウクライナ(当時ソ連)のチェルノブイリ原発が事故を起こして今年で20年になる。そういえばと、放射性物質が地球を巡り、8000km離れた日本でも食品から検出されたことを思い出す方もいるだろう。原発は大事故を起こしたら封じ込められている大量の放射性物質が私たちの生活圏内に降りそそいでしまう。その後、いのちを育む大地や大気が汚染されたら何のための有機農業かと百姓・八百屋も立ち上がったり、R-DANという放射能検知器による原発事故監視ネットワークが生まれたり、反原発・脱原発の動きが大きく巻き起こった。原発は一度大事故を起きたらたいへんなことになるのはもちろん、事故が起きなくても原発が動いている限り、日常的に放射性物質は環境に放出されるし、使用済み燃料や、やがて寿命が尽きる廃炉は放射能を抱えた巨大なゴミとなるし、原料のウラン鉱採掘の段階から原発の現場で働く労働者にいたるまで確実に被爆者を生み出している。原発はいらない!原発のエネルギーに頼らない暮らしを!脱原発法制定の署名活動まで始まったが、大きな流れを変えるまでには至らなかった。やがて人々の関心や動きは下火になり、原発は止まるどころか増え続け、現在この国には、54基の原発がある。

 人間の習性として、1やっても無駄なことはやめてしまう。2起きるかどうかわからないことで悩むのはよす。3起きたら運命だと思ってあきらめる。−しかしこれは人間の力ではどうにもできない天災への対処の仕方であって、戦争も原発事故も人間の力で回避できるものではないだろうか。あきらめず、やり続けている人々は必ずいる。

こんな中、3月24日、能登半島・志賀原発2号の運転差し止めを認める金沢地裁の判決が出た。地震の多いこの国で、直下型地震の想定が小さすぎる、断層帯を考慮に入れていない等の理由で「耐震性不足」ということであった。いい判決結果だ。志賀原発に限らず、どこの原発の下も未確認の活断層が走っていないとはいいきれない。なのに、近い将来に起こるとされている東海地震の被害想定には、なぜか静岡県・浜岡原発の事故が想定されない。そんなことを想定したら被害があまりにも大きすぎて収拾がつかなくなるからではないだろうかと思う。もちろん、あきらめない人々によって浜岡原発も運転差し止めの裁判中である。

 いいニュースばかりではない。3月31日、青森県六ヶ所村・核燃再処理工場が2007年夏の運転を目指して、農漁業者の反対や岩手県議会の慎重を期する申し入れにも関わらず、ついにアクティブ試験を開始した。再処理工場というのは、原発で使われた使用済み核燃料からプルトニウムを分離・精製する工場のこと。このプルトニウムとウランを混ぜ、再び原発で使う計画だ(プルサーマル計画とよばれる)。プルトニウムは、放射線はウランの10万倍、そして8sあれば核兵器を作ることができるという代物であるし、ウランを燃やすとプルトニウム以外にも様々な核分裂生成物(いわゆる死の灰)が生まれる。燃料棒の中に閉じ込められていたその放射能は、抽出作業の工程の中で一気に飛び出し、一部は気体となって大気中に、液体として海水中に拡散していく。環境への放出の総量規制はなく濃度規制だけという、毒も薄めればそれでよしの原発の規制も再処理工場にはそれすらも適用されない。プルトニウムを抽出した後にも、とてつもない量の放射能が残るが、この高レベルの放射性廃棄物の最終処分地はまだ決まっていないので、見切り発車状態での操業になる。原発で電気を作り続ける限り、CO2は出ないけれど放射能のゴミは貯まっていく。再処理工場の運転を中止して1995年以降新たに原発を建設せず脱原発の道を歩むドイツのようにこの国も進んでほしい。原発はけして核の平和利用ではないのだ。

 この地球の上で(ノルウェージャン・フォレスト・ポン・キャット)(06.3月)

 去年の12月25日クリスマスの日、その子はうちにやって来た。赤いリボンと緑の首輪をつけて。友人であるシタール(インドの弦楽器)弾きの夫婦は、生後2ヶ月の子猫の貰い手を捜すために某大手スーパーの前に立っていたら、こんなことをされては困ると追い出され、思いついてうちに来たそうだ。ふわふわの長い毛のオスと短い毛のメス、小さくって可愛いいその子たちを、子どもたちはもう抱っこしてしまったので、母さんは観念した。

 何年も前に「Story Of Mu」(むうちゃん物語)を読んでくれた方がいると思うけど、あのむうちゃんが旅に出ていなくなってから猫を飼うのはやめていた。前の古い家は、障子と木の扉だらけだったので、家から外へ、部屋から部屋へ、本人(本猫?)が好きな時にいつでも勝手に出入り自由だったけれど、今の家はサッシで勝手に猫が出入りできないし、他の猫に噛まれたり、交通事故にあったり病院に行くことがあっても、車がないので動物病院に連れて行くのもたいへんとの理由で、猫が飼いたい!とうるさい子どもたちにNOといい続けていたのだった。でも、子猫がうちにまで来て、この手に抱いてしまった。。。

 2匹を10日間預かった。避妊手術をするにしても、飼うにしても、うちの経済状況から2匹は無理。選び難かったけれど、オスのほうをうちの子にした。もとの飼い主のつけた名前「ポン太」もひき継ぐ。

 やさしい子で、子どもたちがとりあいっこしたり、抱きっぱなしでもけして怒らない。ポンちゃんと呼べば、とんで来る。庭に出しても、しばらくすると中に入れてちょうだいとガラス戸の外で待っている。性格がいいのだと思う。このままでいて、怒りんぼの飼い主に似ないでね。

 さて、この子の母さんは、多産系で、年に3,4回お産すること10年以上。その度に貰い手を捜している。毎年クラフトフェアでも子猫の貰い手を捜しに来ているから、見かけた方もいるかもしれない。結果、私の友人・知人のところにもきょうだい猫がいることになる。その一人Hさんが、この子達は「メインクーン」の子孫ではないかという。ペルシャとシャムとアメリカンショートヘアと日本猫しか知らなかったのだけれど、調べたら犬ほどではないが、猫にもたくさんの種類がある。メインクーンはアメリカ原産のアライグマとの混血という伝説もある長毛の尾がふさふさの猫。一番大きな猫でオスは10キロを超えることも珍しくはないそうだ。ネットであちこち見ているうちにポンちゃんは、「ノルウェージャン・フォレスト・キャット」によく似ている。フサフサな首周りの毛としっぽが特徴。ノルウェーの愛と繁栄を司る女神フレィアの車を引いていたという伝説を持つノルウェーの森の猫。厳しい寒さから身を守るために長くて分厚い毛に包まれた猫。しかし、親猫は多分ほったらかしなので、その子どもたちは雑種のはず。それで、中学生のお姉ちゃんとポンちゃんに「ノルウェージャン・フォレスト・ポン・キャット」と命名した。

 そして、「ノルウェージャン・フォレスト・キャット」は「メインクーン」の祖先だといわれているので、Hさんちの子は「メインクーン・○○」と命名すればいいかもしれない。

 しかし、ポンちゃんを「ノルウェージャン・フォレスト・ポン・キャット」と呼ぶと、下の子がポンちゃんはポンちゃんだといって怒る。何の種類であろうと、ポンちゃんはポンちゃん、そのとおり。可愛くって、いい子で。ただ、私の足に襲いかかるのだけは、やめてね、ポンちゃん。

この地球の上で(グリーフ・ワークの個人的体験)(06.2月)

 Kenの6回忌が巡ってきた。5年前のこの日は、これから小5になる子とやっと小学校に入学する子と3人だけで生きていくスタートの日だった。小さな子どもがいる日々は立ち止まって悲しみに沈む暇を与えてくれない。子どもたちがいて本当によかったと思う。

 それから半年が過ぎ、9月11日のあの出来事が起こった。世界の人々に大きな衝撃を与えたように私にとってもそれは大きなものだった。これから米国はどのようにふるまうのか、世界はどうのように受けとめていくのか。マスメディアには載らない人々の声が聞きたくて、壊れたままになっていたパソコンは捨てて新しいパソコンを奮発して買い、ダライラマ法王のメッセージを捜し当てたりした。報復の戦いを始めてはいけないというメッセージがweb上に溢れていた。そんな折、目に入ったのが、新聞の「WAR IS NOT ANSWER―戦争は答え(解決)ではない」というメッセージボードを掲げ持った一人の若い女性の小さな写真。たった一人でも意思表明をすることができると勇気づけてくれるその写真を切り抜いて壁にピンで留めてみた。後で、同じようなことをしていたという友人が何人かいたことを知る。

 そのうち、どこにあるか正確に知らなかった国アフガニスタンに攻撃が加えられようとしていること、その国はただでさえ長い戦闘状態の中、食糧難によって多くの人の命が失われそうな状態にあることを知り「アフガンの人々のいのちを救おう!空爆反対!」キャンペーンの募金活動を始めた。集まったお金はペシャワール会、国境なき医師団にカンパされた。そしてそれは、自分たちでアフガン音楽をCDにして募金活動をし、直接現地に届けることで、武力を用いず国境という枠組みをこえて人と人がつながっていこうという<シャマーレ・アフガニスタン>の活動に発展していく。さらには長い経済制裁で輸入が禁止された医薬品や飲料水の消毒剤がないために風邪や下痢程度の病気で命を落とす子どもたちや、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾のために白血病、小児癌にかかる子どもたちが増加しているイラクに対して不当な理由による攻撃の準備が進められていった。有志たちと松本駅前で毎週木曜日に、ある時は「この子たちを殺さないで!」と白血病で治療中のサファちゃんの写真を掲げ、ある時はキャンドルナイトを催すなど抗議の意志表明をしてきたり、上映会、写真展、講演会をしたり、次から次へと起こる戦争という暴力に抗して行動する休む間のない5年間だった。

 グリーフ・ワーク(grief work−愛する人を亡くした悲しみを癒す作業)がこの次から次へと立ち現れる忙しさの中で済んでいた、と思っていたら、近頃少しおかしい。子どもたちの養育は私一人が負わねばならにことが心に重くのしかかったり、水が漏れた、出ない、何かが壊れるその度に修理を頼むと前はKenがなんでも直してくれたのにとため息が出てしまったり、「私は一人」という厳として変えられぬ現実を前に不安で何もしたくなくて鬱に陥ってしまう。忙しさの中に単に片隅に追いやられていたものが顕在化してきたのか、一人で頑張るという気負いに疲れたせいなのか。

 今は「さみしい」「困った」「悲しい」という感情にもう一度しっかり浸かって、そこからこの現実を受け入れる作業をもう少ししなければいけないような気がする。おもいきり泣く、ダメな自分の話を否定せずに聞いてくれる人に話す、こんな風に文に書いてみるetc.実際タイミングよく命日のために訪ねてきた友人に「悲しくて、不安で・・・」と泣きついて、認知症の母親を苦労しながら看ている彼女と思い切り話したら、気持ちが上向いてきた。まぁ、人生こんなものさ、と折り合いをつけていくしかないと自分でわかることなのだろうと思う。夕食後に突然友チョコを作り始めるような娘たちに付き合わされる母さんは、立ち止まってばかりいられない。

四季の台所(06・1月)

 この冬の冷え込みはいったいなんだろう。各地からは大雪のニュース。1m、2mを超える積雪で雪下ろしがたいへんだったり、中には家が倒壊したり亡くなられた方まで出ているようで、雪の少ない松本はありがたいのだけれど、この寒さにはほとほとまいってしまう。地球規模の長期の変動から見ると、氷河期に向かっているという説が前にあった。温暖化で今まで相殺されていただけなのかな。

 水道が凍るのが一番つらい。風呂場の蛇口が凍った。近くに銭湯はないので(行くとしても自転車は帰り道凍りそうなので1時間に1,2本というバスに乗っていくしかない。)高価な灯油を焚いて溶かすことにした。ストーブを持ち込んで4時間焚いたら開通!しかし、蛇口から水漏れがしているので、たぶん取り替えてもらわなければいけないだろう。混合栓は高いから、お財布                                  の中もこれで冷え込むだろうな。洗濯機の蛇口にはヒーターが付けてあるが、給水ホースが凍っていた。この分だと排水ホースも凍っているはずなので、洗面所にもストーブを持ち込んだ。こちらは1時間で溶けて洗濯完了。台所は遅くまで暖房しているからだろう、まだ凍っていない。

 なんでこんなに苦労しなければいけないかと溜息をつきながら、子ども時代を思い出す。17歳のときに建替えるまで住んでいた家は土蔵造りであったとはいえ寒かったはずだ。しかし、台所には夏は冷たく冬は暖かい自噴の井戸水がいつも流れていた。その水は床下に作られた木の浴槽みたいなところに流れ込み、栓をして床に座布団を敷けば台所で野沢菜が洗えるという優れた構造に作られ、しかもモーターで汲み上げて水道の蛇口からも水がでるようになっていた。水を汲むために時には並ばなければいけないほど人気のある「源智の井戸」が台所にあったのだから、なんて贅沢だったのだろう。大きなビルが林立するにつれて自噴の井戸水は出なくなり、本当に今では贅沢なものになっているはずだ。

お風呂は薪で焚いていた。風呂焚きは私の仕事。焚き口は戸外ではなく扉の中で台所とつながっていて暖かく、漫画を読みながらできるので、けっこう楽しみだった。灯油の匂いが嫌いな明治生まれのおばあちゃんがいたので、ストーブはめったに焚かなかった。火鉢と炭のおこたが大事な暖房だった。物置には火持ちのするカタ炭と細くやわらかいボヤ炭が冬支度として用意されていた。朝の掃除が終わると4つある炬燵の灰からオキ火をとりだし、ガスコンロでおこしたボヤ炭と一緒にきれいに組んだカタ炭の上に置いていく。カタ炭が熾きるまで炬燵布団は上げたまま。夜は、早早と炬燵の周りに布団を敷いて、すきま風を防ぐために屏風を立てる。炭のおこたは暖かく、火鉢ではチンチンとお湯が沸いて、おばあちゃんは居眠りしながらTVをみたり雑誌をみたり。私は宿題。寝巻き(パジャマを着るようになったのはかなり大きくなってからだ)はおばあちゃんが炬燵で温めてくれてある。―なんだか、ぬくぬくと暖かいという記憶だけしか蘇ってこない。子どもでもジャケツとモモヒキをしっかり着せられ、厚着もしていた。

国内産の炭を焼く人や林業に関わる人はだんだん減っているから、炭と薪の暮らしはノスタルジーでしかないだろうか。今、国内産業を衰退させ地球単一の自由競争社会を目指す構造改革が推し進められている。自由貿易で価格の安い輸入品が入ってくれば、国内産業は衰退する。世界銀行の経済構造調整プログラムが開発途上国で何をなしてきたかもっと私たちは知る必要がある。便利さや安さは何を与え、何を奪ってきたかを振り返る必要がある。

「澄心静慮」中学生の娘の書初めの言葉。年の初め、この冷え込みの中で私たちはどこに向うのか、心を澄ませ静かに慮(おもんばか)ろうとした。


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