Yakkoのページ  この地球の上で&四季の台所 2005年

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この地球の上で(ベアテの贈りもの)(2005年12月)

60年前までの女たちは、家父長制家族の中で、人間としての権利を奪われて生きていた。

結婚は自分の意志ではなく父親の決定に従わねばならなかった。夫には、妻の財産を管理する権利が与えられていた。受け取った金額の領収書を発行したり、保証人になったり、不動産の取引、訴訟行為、和解・仲裁行為、相続の承認などの行為を行うときには、夫の許可が必要で、許可なく行った場合は、夫が取り消すことができた。つまり、妻は法的に責任無能力者として定められていたのだった。姓は夫のものに変えなければならず、夫の「家」の人間として生きることを求められた。「小さい時は(父)親に従い、結婚したら夫に従い、老いたら子(長男)に従う」人生。男たちが作る共同体を自分を犠牲にして支え、次に担う男を育てるための人生が求められていた。そしてその共同体=国家は戦争への道を歩んだ。

もちろん、女はこれらを定める政治に参加する参政権もなかった。

戦後、新しい憲法が制定される時にGHQが草案を作ったのは、周知のとおりだが、女性条項を当時22歳だったベアテ・シロタ・ゴードンさんが担当したことはご存知だろうか。1923年ウィーン生まれ、5歳の時にピアニストだった父が山田耕平に招聘されて来日した。しかしナチが台頭し第2次世界大戦が始まったため両親はその後17年間日本で過ごすことになった。ベアテさんは戦争直前に米国に留学しタイムス誌に勤務していたが、戦後両親との再会のためGHQ民生局の一員として来日する。日本国憲法の草案委員会のただ一人の女性として人権委員会でさまざまな項目を提案した。日本に住んだことのあるベアテさんは戦前女性が圧迫されていることを自分の目で見ていた。自分の好きな人と結婚できないこと、妻はいつも夫の後ろを歩くこと、お客さんが来てもサービスするだけで自分は加わらないことなどを知っていた。彼女は各国の憲法を読みあさり、社会福祉や女性の権利を提言するが、最終的に性差別禁止規定の第14条と第24条の男女平等が採択された。

その24条が戦後どのように実を結んでいったか、女性史としての映画「ベアテの贈りもの」が12月11日(日)松本市中央公民館Mウィングで上映される。GHQによる押し付け憲法であるから改正するという意見がある中、ベアテさんの言葉「他の人に何か押し付けるとき、自分のものよりいいものを押し付けないでしょ。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから押し付けとはいえないと思います。」のように「贈りもの」と呼ぶのがふさわしいように思える。

昨年6月に発表された自民党憲法調査会の論点整理(案)では、家族や共同体の価値を重視する観点から個人の尊厳と両性の平等を定めた24条の見直しが提案されていた。今年11月の新憲法草案では、24条に手はつけていないものの、いたるところで、「公共の福祉」の言葉から「公益および公の秩序に反しない限り」という言葉に代わっているのが気になる。一人一人の人生が一人一人の意思で自由に決定されることよりも、公益=国家の利益が優先される社会、その最たるものは戦時体制だと思うが、そこまでいかなくても障害者自立支援法や介護保険改正のような弱者切捨ての政策を公益とする社会が優先させられようとしている。公的な福祉が、家族の中に戻されるような気がする。男女共同参画が推進されているようにみえるが、家族の中では、まだまだ高齢者の介護も障害者の介護も育児も女が担っているというのが、現実だ。

憲法改正に向かっている今、24条からでも現憲法を見つめ直してみよう。

四季の台所 (冬支度)(2005年11月)

こんなに朝晩寒いと、冬支度をせねばと心がはやる。

今年は灯油が高そうだし、どうやって倹約しようかと一応は考えるけれど、これ以上は節約の仕様がない。「お母さん、薪ストーブにしよう」「でも薪を買わなくっちゃいけないよ、薪を拾ってきてくれる?」「いいよ。」と気軽にいいよ、なんてどうして言えるのかわからないけど、憧れの薪ストーブは今年も無理だと思う。ごうまく(←松本弁・ごわごわしてうっとうしい感じかな?)でも厚着をして、体が温まるものを食べて乗り切ろう。

キッチンガーデン(何回も書いているかもしれないけど、猫の額ですからね)の片付けは少しずつ暇をみつけてやっている。一昨年はトマト、去年はインゲン、今年はトウモロコシを作った。夏の間はトウモロコシの陰になって小さくなっていたバジルがトウモロコシを引き抜いた後にどんどん大きくなったので、先日オリーブ油・クルミ・にんにくと一緒にミキサーにかけバジルペーストを作った。冷蔵庫で保存すると、来年のバジルが育つまで使える。空気に触れる部分の色が悪くなったり、かびるので、オリーブ油で覆っておく。バジルソース・スパゲティの大好きな子がいるので助かる。まだ使い切れないで残っているが、バジル・トマト・モッツァレラチーズ・オリーブ油の絶品、カプレーゼサラダは私んちには贅沢でいつでも食べれるものではないしね。

こぼれ種で増えたシソは、しその実をさらしの袋に入れて味噌漬けにした。これは子どもたちは嫌いなので、お母さんだけのお楽しみ。

片つけて空いた土地に、ほうれん草を遅らせながらまこうと近くのスーパーの種売り場を覘いた。日本ほうれん草を播こうと思った。何種類かを手に取り、どれにしようかと袋の裏を見ると「生産地アメリカ」の表示と交配種であることが判明。ついに日本ほうれん草もグローバル企業の手に落ちたかとがっかりして帰途につく。在来種の種ばかりを扱っている「芽ぶき屋」(改名して、今は光郷城)さんという種屋さんが静岡県にあったことを思い出し、ウェブ検索をしてみると在来種ほうれん草を扱っている種屋さんを松本に発見!早速買いに行った。でもこの袋の裏にも「生産国デンマーク」。腑に落ちない私が店の人と話してわかったことは、今はほとんどの種の生産を外国にまかせている、かつては地域ごと−例えば谷ごとに同じ品種を作付けしていたものが、いろんな品種を作ることになったことで簡単に交配してしまうことや農に携わる人が少なくなって種取りの人手がないことなどで、交配する心配のない外国で作っているということだった。事情はわかりその場では納得したものの、地道に在来種を自家採集している人もいることや、前にイラクの小麦占領で書いたように交配種の権利権のことなどを考えると複雑な気持ちになる。

昨年もらったブラックベリーは今年の実を付けた枝は枯れ、新しい蔓性の枝をたくさん伸ばしてくれた。ラズベリーと同じで、新しく伸びた枝に翌年実が付くらしい。さぁ、蔓をどうしよう。フェンスに這わせるのが一番よさそうだけれど、庭の前のフェンスはお隣のもの。フェンスを作る予算はないし、自分で作るのはたいへんそう。そこで畑トンネル用の1本120円の支柱を10本横に並べて蔓を麻紐で結んでみた。これで来年のブラックベリージャムが楽しみになる。地面に付いた枝から根が生えていたので、簡単に増やすこともできそう。引越しの時に持ってきたラズベリーは、今は藪状態になっているので、狭い庭には蔓性のブラックベリーの方が適しているかもしれない。来年以降のお楽しみでまた報告することにしよう。

 冬支度も次には春が来るからだ思うと楽しい。チューリップの球根もそろそろ植えなくっちゃ。

四季の台所 (実りの秋)(2005年10月)

パリッと齧ると、甘酸っぱい果汁が本当に口いっぱいに広がった。

今年一番の「千秋」はすごく新鮮!

今年一番のりんごは、例年通り「津軽」で始まったわけだけれど、9月は写真報道誌「DAYS JAPAN」の編集長でありフォト・ジャーナリストの広河隆一さんの写真展と講演会・非戦フェスティバルなどの企画が1週間以上続き、なんだかとても忙しくて「津軽」を味わっている余裕なんか全然なかった。

 「ジャムにしてね、パイにしてねとこんなにたくさんもらったよ」と子どもたちが嬉しそうに渡してくれたいただきものの「津軽」は冷蔵庫の中で眠っている。企画のほうは決算が済むまでは気が抜けないけれど、そろそろりんごでおやつを作ってあげようかな。そのうち「紅玉」が出始めるとジャム作りもしなくっちゃいけないし、「フジ」なんかが出始めたらもうすぐ冬だ。

私が子どものころは、青りんごの「祝い」からスタートして、黄色い「ゴールデンデリシャス」赤い「スターキングデリシャス」ピンクがかった「印度りんご」ポピュラーな「国光」がお馴染みだったけれど、いつのまにか店頭から消えてしまった。

実は、「津軽」はゴールデンデリシャス×紅玉、「むつ」はゴールデンデリシャス×印度、「王林」はゴールデンデリシャス×印度、「ふじ」は国光×デリシャス、(「千秋」は東光×ふじ)というように最近の品種の親になっているのだった。ボケやすい国光やデリシャスからボケにくいフジが生まれるなんて、親りんごとは全然似ていないところがなんだか不思議。

柿も色づき始めた。引っ越した家には柿の木はないのだけれど、毎年いただきものの渋柿で干し柿を作ることができるのでありがたいと思う。

渋柿は未熟のものや落ちた柿を砕いて水に浸して漉すと、柿渋が作られるらしい。私の母は柿渋で漬物樽の防水をしていたし、最近古民家を買って改装した友人は柱に柿渋を塗ったと話してくれた。

広河隆一写真展会場に、来た人が写真を見るだけでなく自分も表現をして参加できるように、藤蔓に立てかけた板に描きこんでもらった木片を貼ってもらうという参加型オブジェを設置した。このオブジェを作った造形作家のおおえわかこさんは、農業用寒冷紗を柿渋でいい色に染め上げ、中にススキやヨシの穂を詰めた草の香りのする敷物を作ってくれた。この上に座り込んで子どもたちがお絵かきをしたり、大人も木片に絵の具をペタペタと塗りつけていた。

採りきれないで、食べきれないで、朽ち落ちる柿の木を見ると心が痛むけれど、柿渋にすればまだまだいろいろな使い方ができるかもしれない。

実りをもたらしてくれる自然はありがたいし、それを活かしてきた先人の知恵もすばらしいなぁ。

四季の台所(台所の草木染)(2005年9月)

 今年も楽しみにしていた夏休みは、あっという間に終わってしまった。暑い暑いといっても、お盆が過ぎると朝晩はもう秋風。

小5の子は夏休みに一人一研究で草木染をやりたいといっていたけれど、仕事やら、仕事の休みの時はプール当番やら会議やらでまとまった時間がとれず、おやおやの夏休みにいっしょにやろうということになっていた。

「何を染めたい?」「花や葉っぱや何でも。どんな色になるか知りたい」という会話から始まって、今回の染めの基本姿勢として@台所にある道具を使う・・秤、鍋、菜ばし、ボールAご飯を作る台所で安心して使える媒染剤を使う・・漬物用ミョウバン、鉄水B身近に手に入る材料を使う、ということにした。

いきなり染めに入るというわけにはいかず、予め準備が必要だ。まず、鉄水(かね)を作り始める。少し前だったらどこの家にもあった古釘を作るところから。塩水で煮立てた鉄釘を2、3日空気にさらして錆びさせる。できた古釘を酢水に2、3日浸しておく。

もう一つの準備は、植物繊維である木綿を染めやすくするためのもの。伝統的には、大豆の呉汁に浸すのだけれど、牛乳を水で2倍に薄めたものでもOKだというので、今回は牛乳を使うことにした。C手軽にとりかかれる、というのも基本姿勢に追加。さらし木綿をこれに1時間浸し、しっかり乾かすために2日間干す。(ただし、経験者から玉ねぎ染めは何もしないほうがきれいに染まるとアドバイスを受ける)

さぁこれでいよいよ染めに。ためておいた玉ねぎの皮を布の重さの半量から同量、鍋で30分程煮出す。ザルで漉した液に布を入れて20分の煮染めの後、ミョウバンをお湯でとかした媒染液、あるいは鉄水を薄めた媒染液に30分浸ける。(ドキドキの、色が変わる瞬間だ。)鉄媒染はこれでおしまいにして水洗い。ミョウバンのほうは、さらに20分煮染めして水洗い。

2日間に分けて、ラベンダーの干した茎(花蕾だけとった残り)、赤玉ねぎの皮、庭の桃の葉、友人から分けてもらった桜の樹皮を同様に染め上げた。台所でぐつぐつ煮ていると、それぞれの香りが立ち込める。

「桃の葉っぱはアセモに効くんだよ。ラベンダーは心を落ち着かせるよ」「お母さんて魔女みたいだねぇ」薬草を部屋いっぱいに吊るし、大鍋で煎じ薬を作り、近所の人の病気直しをしている『魔女の宅急便』のキキのお母さんの姿を思い浮かべてウフフ。でも、まさか『ハウルの動く城』の荒地の魔女じゃないでしょうね。

染め上がった布は夏の熱い空気の中ですぐに乾き、アイロンがけをしてでき上がり!ラベンダーのやさしい色、桃のうすい黄緑、赤っぽい桜は鉄水でグレーに、赤玉ねぎは玉ねぎとは一味違う色に。「きれいだねぇ」「不思議だねぇ」自然がそれ自体持っている色なのに、人間が手を貸すことでさまざまな色合いに姿を変える。

 最後にはっきり色が染まった玉ねぎ染で作品作りをした。いくつもビー玉をタコ糸でくくりつけ染め上げるとからし色っぽい黄色に、白い輪模様がついた絞り染めのハンカチとガーゼさらしのスカーフのできあがり。

 最後の模造紙に研究をまとめ上げるのは、自力でやってくれた。やれやれ。

 私の夏休みはどこにも行けず、草木染のお手伝いで終わってしまったけれど、子どもより私のほうが楽しんだくらいだから、よい夏休みだったといってもいいかな。

 もう少しで夏も終わりだ。 

この地球の上で(2005・7月の出来事について)(2005年8月)

7月7日にロンドンの爆破事件があったばかりなのに、エジプト・シャルムエルシェイクで7月23日にまた同様の出来事があった。高級リゾート地での爆破で外国人観光客を中心に88人が死亡と伝えられる。

ロンドンで、エジプトで、起きた出来事を聞いてパレスチナ紛争のグローバル化のような錯覚が襲う。つまり、パレスチナ紛争には明らかに原因があり、それが解決されないがために泥沼化しているように、アメリカのイラク攻撃と占領が大きな原因のひとつとして解決されないまま起きた出来事だと思うからだ。

パレスチナ紛争においては、ヨーロッパで迫害されたユダヤ教徒がユダヤ人自身の国を作ることを決意したこと、そしてそれが第一次世界大戦時にドイツと戦っていた植民地主義の大英帝国が戦費を調達するためにユダヤ系財閥から借金を申し込むためにパレスチナ人の住む土地を勝手にユダヤ人の国を建国することを許可してしまったこと、国連もヨーロッパのホロコーストの犠牲になったユダヤ人の贖罪のためにパレスチナを分割することに決めてしまったこと、に端を発している。無人の土地に国を作るのではけしてなく、パレスチナ人が住んでいた土地からパレスチナ人を組織的な暴力を使って追い出し、1948年5月にイスラエル建国。イスラエル建国によって当時80万人いたといわれるパレスチナで70万人以上が難民となり60年近くがたとうとしている。国連が希望する難民が即時に戻ることができるという決議を採択しているにも関わらずイスラエルは帰還を認めないし、大国アメリカはイスラエルを支援したままだし、なんら解決の糸口が見えない中、国家としての戦力を持つイスラエルに対し自爆攻撃という抵抗運動に走るしかない者が生まれている。

ありもしない核兵器疑惑で世界一の戦力で攻撃され、民主化どころか破壊と死者と混乱しかもたらさなかったイラク戦争に対して自爆という形でイスラム社会から抵抗する者が生まれることはありえることだ。

そして「テロとの戦争」「テロリズム撲滅」が新たな「国家テロリズム」の口実となっていく。この「国家テロリズム」という定義は、フランスの哲学者ジャック・デリダが「国内法ないし国際法を侵害する人命に対する犯罪という定義に準拠すればテロリズムは民間人と軍人の区別ばかりでなく、政治的な目的−国の政治をそこに住む非戦闘員を恐怖させることで変えようという目的−に関与することになる。したがって、こうした定義は『国家テロリズム』を排除するものではない」(「テロルの時代と哲学の使命」―鵜飼哲「友の足音」の引用より)によって使うものである。

原因を問うことなく、「テロとの戦争」のためにアメリカとの軍事同盟を強化することははたして、私たちが選ぶ道なのか。歴史的事実を正しく認識することを常にしながら問いを放っていきたい。

四季の台所 私の好きな魚のメニュー(2005年7月)

暑い日が続く。6月25日は、6月としては1898年の観測開始以来の最高気温、35.9℃を記録した。(編注:松本市) まだまだ夏はこれからが本番。夏バテなどしないようにしっかり食べよう。
 今回は、おやおやで扱っている冷凍魚を使った夏向けの献立。
 なぜ魚かというと、小学生までは普通に魚を食べていた子どもが中学生になったら、魚はスルメとしそちりめんとまぐろのお刺身と海老フライしか食べなくなり、魚が食卓に上がるのは月に数回。もっと魚が食べたい!と願う私の好きな魚のメニューの紹介です。

いわしの丸干し・・・一手間かけてオイル・サーディンにしてみましょう。

 イワシをバットに並べて30分ほど蒸し器で蒸す。余分な水分を捨て、ひたひたのサラダ油を注ぎ、ベイリーフ、粒胡椒を加えさらに30分ほど蒸す。トーストにのせたり、ピザの具などにどうぞ。

紅鮭・・・さっぱりとお寿司にします。

 焼くか蒸した鮭をほぐし、すし飯に混ぜる。冬は小松菜を入れるのだけれど、夏はきゅうりのスライスがいい。錦糸玉子、刻みのりはもちろん、青ジソやみょうがも散らして。

むきエビ・・・いろいろに使える便利なむきエビですが、ベトナム風生春巻きを作りましょうか

 まず巻き込む中身を用意する。むきエビは茹でる。きゅうりは千切りに。サニーレタスや青ジソ、ニラ。それから「月庵」のふみちゃんからは大根のなますがあると味に深みがでると教えてもらった。これをさっと水につけて柔らかくしたライスペーパー(ごめんなさい、おやおやにはないのでスーパーで買ってください。破けにくく扱いやすいのは、ユウキ食品のベトナム産のです。)に海苔巻きのように巻くのですが丸いので両端は中に折る。エビの赤と野菜の緑が透けて涼しげ。
 ナンプラー(これも他で買ってね)、唐辛子、酢、砂糖、水で作ったたれで食べると暑くてよかった、と元気が出てくる。
 ちなみに赤唐辛子を酢漬けにしておくといろいろ使えて便利。

もう一品。一年中ある生しいたけの傘の裏にむきエビの叩き潰したのを塗りつけた天ぷらを添えたら、サッパリ素麺もご馳走になりそう。

寒サバ・・・エスカーベッシュはどうですか。

一口大に削ぎ切りしたサバは小麦粉をつけて揚げる。スライスした玉ネギ、ピーマン、さいころに切ったトマなどと一緒に酢、サラダ油に漬け込みます。翌日食べてもおいしい。サバに塩してあるので味見をしながら、塩を加えてください

下ごしらえ済サンマ・・・秋とはいわずに夏にも。

サンマの蒲焼。鰻は鰻なりに、サンマはサンマなりにおいしい。3枚におろしたサンマに小麦粉をふりフライパンで両面焼く。味の母と醤油を加えて軽く煮詰める。熱々のご飯にのせて。

3枚におろしたサンマを一口大に切って、小麦粉をふって揚げたものに、生姜醤油をからめたものは冷めてもおいしく、お弁当のおかずにもいいです。

生いわし・・・これも夏向け

3枚におろす。大きめのイワシも入っているので、そんなのは2つに削ぎ切りしてもよい。皮を下にして身の上にシソの葉をのせ巻きます。爪楊枝で止め、小麦粉をつけ、揚げ立てをゆずぽんでどうぞ。

この地球の上で(日本国憲法「改正」)(2005年6月)

 憲法「改正」が日程に上がってきている。次期国会には「改正」のための「国民投票法」が出されるという。この「改正」の最大の焦点は9条だ。

日本国憲法第九条

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、これを永久に放棄する。
 前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 特に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」の戦力不所持の項が現状に合わないから、変えるという。1946年憲法が公布されたときには戦力はなかった。1950年米ソの対立・朝鮮戦争の中、自衛隊の前身である警察予備隊(戦力だとはいうことをごまかすために戦車を゛特車と呼んでいた)が生まれ、現在では世界第2位の戦力を持つまでになった。「改正」して自衛隊から自衛軍に、そして、国の交戦権の否認を削除しようという。

9条があるがために自衛隊はイラク戦争において米国に出兵を要請されても「非戦闘地」にしか行くことができなかった。イラクに非戦闘地域があるのではなく、「自衛隊のいる所が非戦闘地(小泉首相)」なのだから、他国の軍隊に守られた防護壁に囲まれた非戦闘地域を作らねばならなかった。国家にとっては、実情に合わない不都合な9条だろう。

しかし憲法とは何か。日本が国権の発動たる戦争に参加しようとする時に、戦争をしてはならないと制限するのが憲法だ。憲法とは「国民が守るもの」ではなく、大きな力(権力)を持つ「国家が守るべきもの」である。(これを近代の立憲主義という)国家が不都合と感じるのは当然のことだ。9条があるがために戦後60年間、直接的には戦闘に参加せず他国の人々を1人も殺さなかった事は誇らしいことではないだろうか。

太平洋戦争でアジアの人々を2000万人以上殺したこの国の9条は、アジアの人々にとって日本はもう二度とあのようなことをしないという謝罪としてみられている。これを「改正」するというのはどういうことを意味するのか。先の反日デモ等から近隣諸国の日本への不信の声を聞き取とるべきではないだろうか。

そして、実情に合わないから憲法を変えるのではなく、なし崩し的に再軍備を進めてきた現実こそを憲法に合わせるべきではないのか。国際紛争を解決する手段として武力をもちいないことは人類の理想だ。戦争によって解決どころかますます泥沼化しているし、その実例があまりにも多すぎる。あまりにも多くのいのちが奪われすぎている。9条の理念を世界に広げることのほうが大切ではないか。

憲法を「改正」する前になすべきことはたくさんあるはずだ。一国覇権主義・米国の同盟国として軍事行動を一体化する道(集団的自衛権)を選ぶのか、武力を放棄して、対話や人々の交流による平和構築は可能かの論議。軍隊は国際貢献するのかの論議。エイズ、マラリヤ、飢餓、地球温暖化、災害救助、貧富の格差・・・今緊急に国際社会が必要としている国際貢献のどれ一つをとってみても軍隊は必要ないものばかりだと加藤周一氏はいうがそのとおりだと思う。武力で脅威はなくなるのかの論議。白装束集団の報道のようになぜ?と問うことなく、マスコミは脅威をあおりたててはいないだろうか。何のために北朝鮮は核武装しようとしているのか。日本が軍備を強化することが解決になるのか。こうだから「改正」と差し出されるものに一つ一つ丁寧に考えていきたい。

四季の台所 洗濯 (2005年4月)

待ちこがれていた花々が開き始めた。ついでに杉も花盛りでこっちの方は、早く花盛りを過ぎてほしいと日々願うばかり。だが、家計のほうはまだ4月だというのに花盛りが過ぎた・・・つまり今年度分の予備費を使い果たした。それはこんなこと。

 先日洗濯が終わり脱水槽のふたを開けると、上まで目いっぱい水が溜まっているではないか。前々から底に水は溜まっていたが、ここまで来るとお手上げだ。1ヶ月前に脱水機が動かなくなって修理をしてもらった時に水が溜まることを告げると、部品の取替えで更に1万5000円ほど必要だという。とりあえず脱水機が回れば使用可の状態であったので、それはそのままにしておいた。それがついに限界を超えたというわけ。

直すべきか、短時間に(なぜなら、洗濯の途中であったから)一生懸命考えた。

 古い家で冬場に洗濯機が凍った時にエマージェンシー(緊急)として、コインランドリーを利用した。何故こんな少ない水で洗濯ができるのだろうと、そこのドラム式洗濯機をよく眺めていたものだった。二槽式洗濯機で、オーバーフロー(流しっぱなし)ですすぎをしている水の量の何分の一ですむのかしらと。今度買うならこれだなと憧れていた。そして、何年か先だと思っていた「今度」が目の前に現れて。しかし貧乏な私が高価なドラム式洗濯機を買うには、決意がいる。

 まず家電製品量販店にパンフをもらいに走る。説明書によると全自動に比べドラム式は水が半分以下で済むらしい。二槽式(店頭からも姿を消しつつある)との対比は書いてないがもっと少ないことは確かだろう。店頭で「表示価格からさらに値引き」に掛け合うと5万円のプライスダウン!購入決定。この決断が正しかったかどうかはこれから先何ヶ月かの水道代で検証するとしても、本当に少量の水で洗濯が行われている。粉石けんも少なくてすむ。ドラム式はドラムの回転で衣類を上から落とす「たたき洗い」なので少量の水で洗濯ができるということだ。

 この洗濯機でも「粉石けんフレンド」を使いたいと思った。地域の障害者の人たちが廃油をリサイクルして作っている石けんを支えたいこと、値段の安さ、洗浄力を高めるアルカリ助剤の炭酸塩が使われていること(注:ウール・絹には石けんのみのEM粉石けんや液体石けんを使ってください)が大きな理由。難点はしっかり溶かすためにはコツがいること。でも石けんは水の温度が高いほど溶けやすく洗浄力が上がるということを知っていれば大丈夫。私は注ぎ口のついた1ℓのカップを買ってきて、計量した粉石けんに熱湯を注ぎ、靴ブラシでシャカシャカとよく溶かして洗濯機に入れ、お湯の蛇口を開けることにした。液体石けんより一手間かかるけど、後は全部機械がやってくれるのだから、これくらいのことはしなくてはいけないような気がしている。

ランニングコストが低い=家計が嬉しい=エネルギーを使わない=地球環境への負荷が少ない、ということになるけれど、ランニングコストのかかる旧式を修理して使うか、ランニングコストは低いが生産のためにエネルギーを使ったニューモデルを買うかという選択は、はて?どちらがいいのかはよく分からないでいる。

この地球の上で(イラクにおける小麦占領)(2005年3月)

ピースパンの講師をすることになった。2年前の3月20日は世界中の人々の声を無視し、大量破壊兵器があるという疑惑を作り上げイラク攻撃がなされた日。疑いがあるというだけで先制攻撃がなされるという、民主主義が根底から崩されたその前日に松本でも「イラク戦争は始まりから間違いだった!3・19WALK」を行う。ベトナム戦争の中で反戦のシンボルとして生まれたピースマーク(鳩の足跡の形)を形作ったパンを持って歩こうと呼びかけた人がいて、私はパンを作れる、と名乗りを上げてしまい生まれて初めてパンの講師をすることになった。このパンは天然酵母と国産小麦で焼くことにこだわっている。

戦後学校給食ではアメリカ援助の小麦のパンと脱脂粉乳が持ち込まれ、「パンを食べると頭がよくなる」と宣伝され、そのかいあって今ではこの国は安定的な小麦市場になった。小麦の89%が輸入でまかなわれ、そのうち半分以上がアメリカからだ。そして長い間、国産小麦はグルテンがあまり多く含まれていないからパンには不向きと言われ続けてきた。そんな中で、国産小麦で焼くことにこだわってきた人々のおかげでおいしい国産小麦のパンが根付きはじめている。グルテン含有の多いハルユタカが不足気味だったりするが、国産小麦の近年の需要からパン用小麦の品種改良が各地で盛んで、インターネットで軽く検索しただけでも、十数種類も見つかった。嬉しい兆しだと思う。

小麦の原産地はイラクのあたりだ。メソポタミアの肥沃な三日月地帯で紀元前8500年から8000年頃に、人類は初めて小麦を栽培した。それから10000年も小麦を栽培し、交配しながら品種改良を重ね、その気候風土に最適の小麦の品種を選んで作ってきた。今日世界で、20万を越える小麦の品種があるという。これは、長い年月の中でその土地にあった小麦を育ててきた農民たちの働きと知識の共有と伝達のおかげだ。

小麦のふるさとイラクで今なにが起ころうとしているか。

イラクに「民主化」をもたらした前暫定占領当局は「主権委譲」を終えて去った後もイラク法体系を再構築するための、100の指令を残した。そのうちの「指令81」によってイラクの農民は法に決められた登録新品種の種子の再利用を禁じられた。

アメリカは1万年の歴史を無視して、イラクの復興支援をよそおって、アメリカ型企業農業に作り変えようとしている。イラク全土に800エーカーの実験農場があり、「高収量品種」の栽培法を教える1億700万ドルのプロジェクトが始まっていると言う。モンサイト、カーギネル、ダウ・ケミカル、シンジェンタなどの「高収量品種」の遺伝子組み換え種子の次に来るのは殺虫剤、殺菌剤、除草剤の農薬。穀物種子の特許登録品種開発の業界トップの全世界小麦会社も「イラク農民に使ってもらうための小麦種子100ポンド(450キロ)を提供する事になっている。」与えられた種は以前の種よりいかに優れているか教える、そしてもっと欲しければ、お金を払えというのだ。1万年続けられた自家採取は禁じられているのだから。こうしてイラクの農民を世界経済に組み込こんでいく。

多様な在来種というのは、ある品種に病害虫が発生しても、他の品種が耐性を持っているために全滅する事はない。しかし、途上国の零細農民の前に立ち現れた一握りの多国籍企業の限られた種子のために、何千年もかけて培われた何千という品種が見捨てられたことか。メキシコでは1930年からトウモロコシの品種の80%が失われ、中国では1949年以降、小麦9000種が失われたという。そして、これからイラクでは?

食糧主権―自分たちの食糧・農業政策を選択し、国内の農業生産と通商を保護・規制し、食糧生産の方法や地域で生産すべきものと輸入するものとを決定する住民の権利がある。しかしアメリカは、イラクの農業が確実に「占領下」にとどまり続けるようにした。

武力による戦略はいわずもがな、いのちの糧である食べ物も経済戦略として使われていく。自分の食べものを自分で選ぶ行為がグローバル経済に抗する力につながるものでありたい。

    

この地球の上で(耳を澄ます)(2005年2月)

 耳を澄まさなければ聞こえてこない声がある。マスメディアの一方的な音声からは聞こえてはこず、自らが耳を澄まさなければ聞こえてこない声、音。

2月5日、そんな声の一つを聴くことができた。

アジア太平洋戦争の戦時下の日本で労働不足にあえいでいた政府は1942年閣議決定で中国人労務者の導入を決定。1943年から1945年にかけて中国から3万8935名を日本に連行し、鉱山、地下工場建設、発電所建設、港湾労働等につかせた。劣悪な労働条件下で6830名の命が奪われ後遺症を負った人も少なくない。

長野県では、松代大本営地下壕、松本里山辺地下壕などで強制労働が行われたいたことをご存知の方もいると思う。季洛妙さんは、天龍村・平岡ダム建設のため強制連行・強制労働をさせられ、損害補償裁判の原告として証言するために来日した。81歳。

「寝ているところを頭を殴られて連行された。日本への船は石炭の上に筵を敷いて乗せられた。臭かったが、がまんするしかない。朝早くから暗くなるまで働いた。食事はふすま入りの饅頭一個だけ。水も出ず、のどが渇くと川の水を飲んだ。服は一枚しかなく防寒着もない。セメント袋を揉んで柔らかくして体に巻きつけるしかなかった。小屋は地面の上に稲わらと筵を敷いただけ、窓の隙間風を塞ぐために藁を詰めた。風呂場はあったが入ってはいけなかった。何人かが、栄養失調で衰弱して下痢をして亡くなっていった。」

 強制連行や強制労働を禁止した条約、国際慣習法に違反したことで損害賠償請求、強制労働についての賃金未払い要求など日本国と企業の犯罪行為を訴える長野での訴訟が1997年から始まっている。加害の責任が問われている。

 季さんが「よそを訪ねる時はお土産を持っていくものなので、持って来ました。こんなにたくさんの人がいるとは思わなかったので少なくてごめんなさい。」という落花生と干ナツメを話が終った後主催者の方から一つずついただいて、お礼が言いたくて季さんに駆け寄り「ありがとう、謝謝」といっているうちに涙が溢れてきた。畑仕事で黒く日焼けした温和な顔の季さん、辛いことを話してくれてありがとう。見ると、季さんもハンカチを取り出していた。

耳を澄ますということ。

「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ」というドイツのユダヤ人思想家ヴァルター・ベンヤミンの言葉で始まる鵜飼哲「友の足音」(信濃毎日新聞文化欄に連載中)の中の言葉―私たちの平時の耳には「友の足音」は聞こえないかもしれない。「夜」の中で私たちははじめて問い始める。これまで本当に耳を澄ましたことがあったのか。「耳を澄ます」というのはどういうことなのか―

民主主義を蹂躙する憲法改変への動き、アメリカのイラク攻撃を支持し、ついに海外に出てしまった自衛隊、沖縄のおばぁやおじぃたちが基地の移転に反対している辺野古、持てるものが持たざるものを軍事力や経済力で押し付ける世界。そんな「夜」の中で、私たちが耳を澄まし発光するにはどうしたらいいのか、鵜飼哲さんに松本に来ていただき、お話を聞き論議を重ねたいと思う。「友の足音」読者の方、興味をもたれた方の参加をお待ちします。

「友の足音−抵抗の思想」講演:鵜飼哲 (一橋大学教員・フランス文学思想)
3月5日(土)14:00〜17:00 松本勤労者福祉センター
後援:信濃毎日新聞 参加費:500円 
お問合せ:0263−27−4020(村井)090−4153−7749(八木)

四季の台所(2005年1月)

 四季の台所が好きだ。春には味噌作り、ジャム作り。夏にはトマトソースやバジルソース。秋には干し柿。冬には火をたくさん使ってパンやケーキを焼いたり、煮込みをしたり。四季折々にするべき仕事がちゃんと待ちかまえていてくれる。そして、一日中台所にいて幸せ、と思う。

その四季の台所の幸せは、「住」の部分を担当してくれる人がいたから、「食」の部分に専念できたのだと、このごろ思う。

今年に入って2日目の朝の冷え込みでうちの水道管が破裂した。蛇口をひねって出てくるのは台所の水のみ。洗面所、洗濯機、お風呂場、全てダメ。(トイレはOKだった)外は凍結防止ヒーターがあるから多分大丈夫なはずで、家の中で凍ったのだと思う。昨年凍った時には、洗面所と風呂場にストーブを持ち込み1時間以上焚いたら溶けたので、今回もそうした。さて、どうなっているかと見に行くと、洗面所はいうに及ばず廊下が湖。玄関にも湖の水が滴り落ち始めているところ。源泉は洗面台の下とみて、バルブを回すと給水はされなくなった。冬休み中でよかった。子どもたちの手助けがなかったらすっかりめげてしまうところだったもの。でも、「これくらいの浸水で文句をいっちゃいけないよ。十二万人の人が亡くなったことを思ったら。あっ、でも、こんな言い方はルール違反だった。もっとひどい目に会っている人がいるから、がまんしなさいという言い方は、差別を生むからね。」なんて、雑巾をかけながら御託を述べられる子どもたちはいい迷惑だったかな。

ストーブで溶かす、というのは前の古いうちからの得意技。洗濯機がほとんど外同然のところにあったので、排水ホースの水をよく払ったつもりでも凍ってしまい、熱湯をかける+ストーブを持ち込む、で乗り越えてきた。(洗濯用の蛇口がなかったので台所からホースで給水していた。ホースの水を払うことも忘れてはならないことだった。)

洗面所が使えないのは不便だけれど、破裂した管から溶け出した水はとりあえず止まり、風呂場も洗濯機のお湯も出たので、お風呂に入り洗濯もすることにした。明日また凍らないという保障はないもの。お湯で洗濯をして、さてすすごうとしたら(二層式洗濯機です)、ガーン!み、みずが出ない!夜中の12時近くにお風呂からバケツで洗濯機に水を運ぶはめになってしまった。

2年前に引っ越してきた少し新しいこの家では、古い家での「恐怖の凍結地獄」とおさらばできるはずであったが、甘かった。古い家での「恐怖の凍結地獄」や様々な家のトラブルは、大工仕事、電気工事、水道工事、と「住」に関することだったらなんでもできる連れ合いがいたから乗り越えてこれた。私は「住」に関しては何もしなくてよかったのに、今は私1人でなんとかしなくっちゃいけない。

翌日、蛇口用の凍結防止ヒーターをさっそく、洗濯機用の蛇口に取り付け、「明日の朝の最低気温」のチェックを心がける事にした。ちなみに水道管の修理代は、5250円だった。

住まうための、初歩的なことについて知らないことばかりだ。

ガスレンジの自動点火用の電線が切れて、小中学校以来初めて直流電流用の細い電線のビニール被膜をはがさすはめにおちいり、どうするんだっけ?ハサミで切れ目をいれるつもりが全部切ってしまい短くなってもう繋げない。電気屋に電線を買いに走った。

 外の配水管のふたから水があふれだし、知り合いに聞いたら、「ふたをとって掃除せよ。」なるほど、網がついていて、そこには雑菌の巨大な菌体が成長していた。ここは定期的に掃除をすべきだということを知る。―こんな類のことばっかり。

 私が頑張ってみてもできないことは専門家に頼むしかなく、土中の排水管の修理に12600円、隣にはみ出して苦情が来た庭木の剪定に10000円・・・こんな出費はうちの専属修理屋さんがいた頃には絶対なかったもの。子どもたちには、「壊さないでね、お母さんには直せないから。」ビデオデッキにおもちゃを入れて壊さなくなっただけ大きくなったから、まぁいいかな。


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