伝説紀行 書きかけのお題目 佐賀市(大和町)
|
| 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
|
血染めの宝塔 佐賀市(大和町)
大和町の川上峡岸に「宝塔山親正寺」なる寺院が建っている。急階段を登って本堂の裏手にまわると、そこには身の丈よりはるかに大きな岩がどっかと座っていた。岩には何やら文字が彫られてある。よくよく見ると、「南無妙法蓮華経」と読めるのだが、真ん中の「蓮」の字が完全に彫られていない。しかも、「華経」の文字とは、明らかに別人の書である。 清正公:加藤清正の尊称 寺の由緒には、上段が日蓮宗の日親上人のものであり、下段の「華経」はあの有名な加藤清正の筆になると記してある。 百姓が殿さまに呼び出され ときは文禄元(1592)年の秋も深まった頃。河上村の茂平の家に、突然顔中髭むじゃの武将が入り込んできた。
巨岩に不思議な題目が 茂平は、河上川(嘉瀬川)の川原に張られた陣幕の中に通された。幕の外では、鎧兜の立派な 作者は室町の岩窟王 「実は…、150年以上も前のことだそうでございます」 書き足した清正公 「そこにも追っ手が迫ってきて、お題目を彫り上げることができなかったのか?」
頷きながら茂平の話を聞いていた加藤清正は、「有り難いお題目をこのままにしておくのはもったいない。あとはこの清正が…」と、槍先で次なる「華経」の文字を付け足した。 文禄・慶長の役:1592年(文禄元年)・97年〜98年(慶長2〜3年)に、豊臣秀吉のもと2度にわたった朝鮮侵略戦争のこと。秀吉は大陸征服を企て、李氏朝鮮が明侵入の道案内を拒絶したのを怒って出兵。宇喜多秀家を総帥、加藤清正・小西行長を先鋒として平壌(ぴょんやん)まで進出。民の援軍を碧蹄館の戦いに破り、講和となった(文禄の役)が、秀吉は明の国書中に『日本国王に封ず』とあったのを怒り、97年再び開戦となった。 お題目を書きかけのままで退散した日親和尚について:佐賀県小城町のバイパス沿いに建つ松尾山光勝寺は、日蓮宗の鎮西総本山として、文保元(1317)年に日祐という京の僧が開山したといわれる。西日本に初めてお題目の信仰を広めた古刹である。その後衰退した寺を再興すべく、京都からやってきたのが弱冠27歳の日親和尚であった。日親は、時の将軍足利義教から厳しい弾圧を受けても怯まなかった根性の持ち主として知られる。弾圧で焼けた鍋を頭に被せられても、転向しなかったことから、「鍋冠日親」ともうたわれた。 加藤清正が豊臣秀吉の命を受けて、肥後隈本(熊本)から呼子(唐津市)の名護屋城に馳せ参じるコースを地理上で点検してみた。熊本を出発してまず有明海沿いに出る。大川市か城島(現久留米市)あたりで筑後川を渡り佐賀平野を経て川上峡へ。そのあとは古湯温泉から山道の杉山地区を通って浜玉−唐津にいたると考えるのが自然である。その意味では、宝塔山の「書きかけのお題目」と清正の因果は、極く当たり前の設定であった。
冒頭の写真の巨岩とお題目を目の当たりにしたとき、胸が高鳴るのを覚えた。それほどまでに、岩肌と文字の迫力が心に迫ったのである。日蓮宗など、特定の宗教には興味を示さない筆者も、歴史的に残る自然石と文字には感動を覚えずにはいられなかったのだ。しかも「書きかけ」とくれば、その謎に挑みたくもなる。 |