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第一章 親と子 眉目秀麗、才気煥発の男子を優雅人として帝に近侍させたいと、そのための養育に腐心してきた母の嘆きようはひととおりではない。 「唐の都からよう生きて帰ったと喜んだのもつかのま、右大臣の所存を私は理解できませぬ。どうして正五位上というこれほど高い位階を賜ったお前をお上のご威光が及ばぬ辺境の国司だなどと。手塩にかけた我子をこの世の果てに追いやるようなもの。稗田阿礼と申す語り部によれば、彼の地はまつろわぬ蛮族、あらぶる神々、魔性の者たちが跋扈するそうではないか。聞くだにおそろしげなる………」 旅立ちを前に、漏れ聞こえる倭武命の東征伝承に息子の末を重ねる心痛の繰言はつきない。 「母上、それは遠い遠い昔のしかも確かなもののない言い伝えでございましょう。むしろ肥沃な耕地と山海の産物に恵まれ、人々の暮らしも豊かに、不老不死の桃源郷と申しますぞ。風光明媚なること、女人の情がふかいこと、歌詠みどもの評判もことのほかにて、3年の赴任にはわが歌の道もさらに深まるのではないかと、どうか母上、ご心配なく」 子を思う親の心をもてあそぶように、放蕩息子はからからと大笑した。 藤原宇合(うまかい)。後に翰墨の宗とも言われ、一流の歌人として名を連ねる。文武天皇の難波宮行幸に従駕して詠んだ歌 ―――玉藻刈る沖へは榜がじしきたへのまくらのほとり忘れかねつも――― 『懐風藻』等記載の年齢によれば13歳の作という。 目下朝廷にある最高の権力者・右大臣藤原不比等の三男。やがて藤原式家の祖となる英傑である。母は蘇我連子の女娼子。初め名を馬養としたが、遣唐使副使の任を終えて帰朝後宇合に改める。 政を私物化している大豪族蘇我一族を滅ぼす。この70余年まえ大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)等は蘇我入鹿を宮中にて謀殺し政治の実権を奪った。孝徳天皇を立て、都を難波に移し、翌春、私有地・私有民の廃止、国・郡制による地方行政の朝廷集中、戸籍の作成や耕地の調査による班田収受法の実施、租・庸・調などの税制の統一、これら4綱目からなる大化改新の詔が公布される。天皇を中心とする中央集権国家建設の胎動である。しかしまだ詔は先進中国の制度を模した理念を述べたに過ぎない。たとえば天皇家一族をはじめ豪族らが私有地を素直に国庫に移転するはずはない。財政の基盤である私有地の廃止は畿内においてすらいっこうに進展する気配はなかったのである。 父鎌足の遺志を継ぎ、その理念の実現が己に課せられた天命であると覚悟した不比等の前にたちはだかる、守旧派の抵抗、既得権益にあぐらをかく彼らは引き続き強大であった。 ………力が欲しい。私利私欲のためではない。隣国と互して競える新国家を建設するために、圧倒的な力が欲しい……… 不比等は切望した。 父・鎌足は娘たち(不比等の姉妹)二人を天武天皇の夫人とし、それぞれは皇女、皇子を生んでいる。不比等はここに始まる天皇家との強力な婚姻関係をさらに不動のものとする。蘇我連子の女娼子を妻に迎え、この間に武智麻呂・房前・宇合が生れている。それぞれは後世藤原4家といわれた南家・北家・式家の祖となり、これに異母弟の麻呂の京家が加わる。さて不比等はこれら男子とは異腹の娘・宮子を文武天皇の夫人とし、そこに誕生した首(おびと)皇子・後の聖武天皇にはさらに異腹の娘・光明子をいれるという二重の楔を天皇家に打ち込んだのである。他族を排したこの閨閥形成によって不比等は強大な政治力を掌握したのである。 これより先の前年暮れのことである。唐より帰朝したばかりの宇合は父不比等から緊急の招請をうけた。すでに宇合は遣唐使副使報告書において中国、朝鮮の王朝史をなぞればこの倭が未熟な弱小の部族集団に過ぎないことを指摘していた。ようやく「国」・「国家」という概念が政権の中枢に限って浮上しつつあったころである。 ………こやつ唐におるあいだ仏法はおろか律令も受講せず、巷で無頼の徒、娼妓たちにまじって遊びほうけたとの悪評にあきれ返っていたが、どうやら大きくなりおったようだ……… 父は内心で舌を巻いていた。 ともに壮大な野心を抱いた父と子がこの国のあるべき姿を論じた夜は、灯心の香油は燃え切れ、やがて東の空がしらじらしてきたという。 二人は沈黙した。やや長いときが流れた。 やがて不比等に鋭いまなざしが戻り、論をむすぶときであると告げた。 |
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「さてわれらが共通に描いておる国づくりであるが、その過程は多様である。といえども、目下の時局を俯瞰して、さて地勢上の要衝を唯一挙げるとすればいずこになりや。これに書いてみせよ。われも書かん。」
書写に用いられる二枚の竹簡が用意された。息が詰まる一瞬をおいて筆を撥ねる。 二枚の竹簡には、墨痕鮮やかに、同じく「常陸国」と記されていた。 腹の探りあいに終止符をうった二人はお互いの存念に差異がないことを確認し膝をたたいたものである。 「して そのこころは」と尋ねられた宇合は即答した。 「陸奥(みちのく)経営」 「なに、陸奥経営であると」 それは不比等ですら思いもかけぬ飛躍した返答であった。かっと目を見開いた不比等はしかし瞬時にその底意を汲みとったのである。更なる問いは不要であった。 「異存なし。帰国入京して日の浅いことであるが年が変わればそちに常陸国国司の下命があろう」 ………国家創建のために一国司としてなにをなすべきか。われにはもはや全国統治に専念する寿命はない。苦労をかけることになるが、どうやらわしの後継に国造りの舵をとれる男は宇合だけのようだ……… 「さてもそちが常陸国とは。これ宿縁とも言うべきか………」 不比等は、ひとり去来する万感の思いに深く長い吐息をついた。払暁の寒気にそれが白くけぶるのを宇合はみた。 「これは我が胸一つにおさめておくべきことなれど、常陸国を治めるとなればそちには伝えおかねばならぬ」 と不比等は重そうな口を開いた。 「真は常陸国こそが鎌足公生誕の地である」 だれもが代々宮廷の祭祀を司る占部一族に繋がる大和在住の中臣御食子(なかとみのみけこ)の実子として疑うものはないがこれが養子縁組であったというのである。 めったなことではものに動じない宇合もあっけにとられたものだ。 「常陸国鹿島神宮の神官、同姓の中臣氏の娘がその腹である」 幼少の時からその天分を見せた鎌足は儒教を学び、仏教に通じしかも堂々たる体躯の少年に成長する。同じ祭祀をあずかる大和の中臣御食子がこの噂を伝え聞きその身を引き取ったのがこの進取の気性にとむ少年の中央進出への始まりであった。 「そうでしたか。なぜあのような僻地にある社がわれらの氏神とされているのかこれで得心いたしました」 不比等は元明天皇が平城京遷都の折り鹿島が遠いということでこの鹿島神を大和国三笠山の麓に勧請して春日神社を創建している。春日大社は以降藤原氏の氏社として長年にわたる繁栄を続けるのだが、春日社の四祭紳のうち筆頭(一座)に鹿島神がおかれているのはこのためである。二座にあるのは下総国香取神宮の香取神であり、いずれも鎌足との深い関わりから真相を伏せつつ不比等がなした計らいであった。 なお12世紀の初めに成立した歴史物語『大鏡』には次の記述がある。 「その鎌足のおとど生まれたまえるは、常陸国なれば、かしこに鹿島といふ所に、氏の御神をすましめたてまつりたまひて、その御代より今にいたるまで、新しき帝・后・大臣たちたまふ折りは、幣(みてぐら)の使いかならずたつ。帝、奈良におはしましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山にふりたてまつりて、春日明神となづけたてまつりて、今に藤氏の御氏神にて………」 「父上、これはことによってわれら一族にとって重大な瑕となりかねませんな」 天皇家はむしろ近親婚姻でその純血を保守するむきがある。 新興の藤原一族が蘇我を滅ぼしなお残る阿部、紀、大伴ら有力氏族をおさえる。その手段として強引に宮家の外戚の地位を確保し、着々と強化しつつある不比等であって、血縁にひそむ傷は深い。 「それだけではない。秘中の秘であるが、鎌足公はおん自らその種は不明であるともおおせられた。高貴の百済人かもしれぬ、あるいは夷狄の種かもしれぬと」 鎌足の誕生に白狐に姿をかえた茶吉尼天(だきにてん)が枕元に立ち鎌を与えたという吉兆伝奇があるがこれを鎌足その人は否定もせずむしろ認めていたけはいがあるのは怪しい素性を世間の耳目からはぐらかす遠謀であったというのだ。 「鹿島神宮はわれらにとって獅子身中の虫。さればこそ箝口の見返りは高くつくものよ。格式をたかめ財の支援厚くし、氏神として崇敬し、祭り上げるは苦肉の策である」 常陸国統治にはこの一件夢忘れるべからずと言い置いて父は席を立った。
………奇怪な話を聞いたものだ。俺には百済か夷狄の血が混じっているかも知れぬのか。しかし、唐の国では異種交合が優秀種をつくると言われているではないか。祖父鎌足公といい父上といい混血児ゆえの天分であろうか………
宇合の懸念は父とは別のところにある。 ………父上は政権の中枢にあってその理想を追い、途半ばにある。一族の政治権力伸長のためわが娘を皇家に嫁がせ外戚の地位を確保せんとする策はよし。しかるに、大宝律令・養老律令と国政の規範作りに唐の真似事一辺倒では歯がゆくてならん……… 高邁な理念を夢想するよりも現実の変化を促すことに血が騒ぐ男である。 ………血の秘事を守らんとして財を費消するのも見方を変えれば汲々として保身をはかる堕落の兆候。藤原一族の権力を一族のために使うのではかつての仇敵蘇我と五十歩百歩。 そうではない。決してそうであってはならない。父上も老いたものよ……… 養老3年(718)如月、旧暦二月は春たけなわである。都大路に風が吹く。平城京の春風はことのほか荒れる。満開の桜の花びらが地を舞う。 「輿は不要 馬を引けい」 舞い散る桜花に霞む都をあとに馬上の人、24歳は堂々たる偉丈夫である。 第二章へ |
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