政治闘争に関連してもう一つ『悪霊』執筆の契機となったネチャーエフ事件があります。

学生運動が社会改革、革命運動の先頭に立つのはなにも戦後の日本、中国、韓国だけではなかったんですね。ネチャーエフはペテルブルグ大学の大学紛争に加わり学生運動の革命化をすすめた。「目的のためには手段を選ばず」をモットーにした過激派だったようです。架空の世界革命同盟(架空のというところはやはりこの小説の秘密結社の曖昧なところと同じですね)の代表を名のり、実際に秘密結社も組織した。ところがあまりにも教条的なところから内部で動揺が起こる。そして裏切り者の学生が殺害された1869年の事件です。当局は関係者300人を拘禁するのですがネチャーエフ自身は国外に逃亡する。あきらかにこの事件を『悪霊』は取り入れています。

このようにドストエフスキーはいくつもの革命運動を経験し、そこにあった絶望的な人間性の破壊を見てきたわけです。

ところで小説の本文をまえにこんなまわりくどい「研究」めいたことをやっていると読書にある新鮮な味わいが薄れてしまうのかもしれませんが、これだけの濃密で多様な味付けがある古典というものは生半可に手をだすものではないことを実感しますね。
さらりと読んだ時にはこの物語にある地方都市で起こった数人の若者による革命騒動などたんなる騒動にすぎないではないかと矮小化して見てしまったのですが、それは間違った印象であったと気がつくのです。たとえ田舎町であっても、いつロマノフ王朝が倒されてもおかしくないとだれもが認識しているようなここまで騒然とした社会状況があれば、実体は不明であっても、この町にも革命組織の「細胞」が動き始めたのではないかとの風説にこれを積極的に歓迎する一群の熱狂とこれを封じ込めなければならない階層にあるものの焦燥、さらに第三者的立場を装う人たちの不安と好奇心が入り交じった精神の昂揚が狂気の熱風と化して吹き荒れる。これと関わる登場人物の群像、、当時の社会精神をそれぞれが代表するのであろういくつもの人格をつかみだしてそこにある心の揺らぎを細密に描がく。それは退屈になるどころか、むしろ読み手として臨場感をもってのめり込むことになりそうなのです。

こうしたゲリラ的に散発した革命へのエネルギーは氏の死後まもなく共産主義政権の樹立へと現実的に姿をみせる。歴史の流れの中で『悪霊』の誕生は実に劇的ですね。そして政権内部の抗争と血の粛清。つまり小説とは比べようがないほどの規模の「悪霊の世界」が誕生する。
飛躍しますが、私らの世代の記憶にはまだ残っている、連合赤軍の「総括」という名で実行された大量の裏切り者リンチ殺人事件がまさに「悪霊の世界」ではないか。

まあ、未来を予見したかのような連想が生まれるだけの重たい題材を活かした文学なのだが、待てよと、私はもう一つの重たい題材、宗教論にある「悪霊の世界」を勉強したいと思っています。

自分から言うのも気が引けるところがあるのですが、シロウトなりに勉強してみる価値はまちがいなくあります。

2005/10/14
キリスト教的悪霊

『悪霊』の巻頭には二つのエピグラフが付せられている。その一つがルカ福音書からの次の引用である。イエスが顕す奇跡である。
そこなる山べに、おぴただしき豚の群れ、飼われありしかぱ、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。
イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、
その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起りしことを見るや、
逃げ行きて町にも村にも告げたり。
人ぴと、起りしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、
イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。
ルカ福音書 第八章三二ー三六

悪霊どもとは西欧から渡来した無神論思想のことであろう。ロシア人の内部に潜んでいたこの悪霊をキリスト教が糾弾しし、悪霊が敗北する意味のように見える。
岩波文庫(上)のキャッチコピー
豚の群さながらに、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織した青年たちは、革命を企てながらみずからを滅ぼしてゆく

を象徴しているエピグラフである。

わたしも彼らの末路を象徴したものだとは思う。

ただそれがキリスト教信仰による浄化作用を言っているのではない………と思う。
『罪と罰』ではラスコーリニコフの魂は信仰によっては救われなかった。
迷えるロシア社会、絶望的ロシア人の魂がキリスト教信仰によって救われるとの発想はドストエフスキーにはないのだろう。

参照『罪と罰』

2005/10/16

日本の愛すべきカミサマたち

「宗教というものはキリスト教にしろ仏教にしろ人間の生き方を教え諭すところがあるものなのにどうして神道にはそれがないのでしょうか」
数年も前のことでしょうか、結婚式場、貸衣装、レストランを経営している神社の宮司さんにたずねたことがあります。宮司さんが答えてくれた記憶はありませんが、今思うにこれは愚問でした。キリスト教の神と神道の神(日本人が古くから信仰している土俗のカミサマを含めて)全然異質なものでカミ合わないものなんですね。

私の故郷は茨城県で広大な関東平野にもっこりと見える唯一の山らしい山は筑波山です。そこにはこんなカミサマたちのお話しが伝わっています。
あるときたいへん偉いカミサマが富士山のカミサマに一夜の宿をお願いしたところ、収穫祭の最中であるとかいろいろと理屈をつけられ断られてしまった。そこでこの偉いカミサマは恨み泣きし大声で「それなら、お前の住んでいる山はお前の命ある限り、冬でも夏でも霜や雪が降り、寒さが幾たびも襲い、人々はだれも登らず、酒や食べ物を供える者はないであろう」と呪いをかけるわけです。
今度は筑波山へ登られ、また宿を請いました。筑波のカミサマは「今夜は新嘗の祭りをしておりますが、あなた様のお言葉をお受けしないわけにはまいりません」と、食事を用意し、うやうやしく拝し、謹んでおつかえしました。偉いカミサマはたいへんお喜びなされ、歌をうたわれました。
とこしえに人民集いことほぎ
飲食豊かに いつまでも絶えることなく
日に日にいや栄え 
千年万年も楽しみは尽きない


ここにでてくるカミサマ達はたいへんに人間的なというより人間そのものですね。いじわる、非礼、思いやり、悦び、悲しみ、怨み、祟り、恩返し。人間はみんな死ぬとカミサマになってしまう、祖霊信仰のわけですから。それから山にも河にも海にもカミが宿っている。動物にも植物にも石にだってカミ(タマというのが正しいらしいですが)今風に言えば精霊が宿っているのです。
人間がお祭りをして一緒に喜んでくれれば、五穀豊穣をもたらしてくれる。気分が悪ければ日照りになっちゃう。農耕共同社会といったいになっていらっしゃる。もちろんいたずら、意地悪もすればヤキモチも焼く。たたりもすれば人だって殺す。愛すべきカミガミよ。


豊かな森と豊かな海と豊かな大地を支えてくれる。稲作という持続的・定着的な文化・文明。自然を征服するよりも自然と共生する。カミとヒトとの協調。そこにはそもそも人間を何らかのルールで従わせようとする発想はないのですね。ましてや個人的救済というものはなく、共同体がお祈りをすれば自然現象で応えてくれるカミサマです。

それは唯一の神に対する絶対の服従、人間社会における基本的な道徳律を強制するキリスト教とは全く違うのです。キリスト教から見れば、日本型の信仰は殲滅すべき邪教であり、そこにいるカミサマたちはまさに悪霊なのですね。
ついでながら、キリスト教では人間は神(カミ)になれないない。仏教では人間は仏(カミ)になれるんです。むしろ仏になろうとする人間の生き方を教えているようなところがある。

日本では歴史的にキリスト教を受け入れなかったから日本人のどこかにまだ愛すべきカミガミの形跡はあるんだけれど、ロシアでは殲滅されてしまったのだろうか。

2005/10/18

スラブ民族のカミガミ

スラブ民族にも10世紀ぐらいまでは日本民族と同じようなカミサマがいました。スラブ民族は9世紀以前には文字を持たなかったためにこういう神話が記録としては残っていないようです。

神殿があって、雷神ペルーン、家畜と富の神ベーレス、太陽神ダージボグ・トホルス、火の神スバローグ、風の神ストリボーグ、女性労働の守護神モーコシ、 七頭神セマールグル などが祀られていたようです。
また魔女ヤガーばあさん、不死のコシチェーイ老人、寒さのモローズ爺といった昔話に登場する存在や民間信仰に現れる自然と文化の現象にちなんだ多くの精霊(水の精ボジャノーイ 、森の精レーシー 、家の精ドモボーイ、水と森の精ルサールカ など)もスラブのカミサマ世界を構成していた。

日本のカミガミににていると思うのです。ただし、日本のカミガミは渡来したのが仏教で、仏教は一神教ではありませんから、宗教のテーゼによって徹底的に掃討されるということはありませんでした。

ところが、9世紀から12世紀にかけスラブ人の居住する各地でキリスト教の布教活動が進んでいく。絶対の神をいただくキリスト教への改宗によって伝統的信仰は邪教とされた。カミサマ達は悪霊=悪魔に貶められ、破壊されていったのです。

ただキリスト教への改宗の過程では伝統的信仰の一部は日本で言えば神仏混淆と同様に姿を変えながら近代の民衆生活において崇拝の対象として根強く保存されていました。またカミサマ達と作り上げてきた農村共同体の生活・慣習・文化、それを包括した思考姿勢、あるいはそれらへの愛着、憧憬、ノスタルジーになってしまったのかもしれないけれど、底流にあってなお生き続けた。ロシアの悪霊達は近代国家を作り上げていく側からすると桎梏であったでしょう。
しかし一方では「ロシア的なるもの」とよく言われる、曖昧模糊としたロシア人のアイデンティティーの根幹にあるものではないだろうかと、少なくともそこのコンフリクトから生まれるいかんともしがたい混沌が『悪霊』の大きなテーマであろうと私には思えるのです。

愛すべき悪霊たちよ。

2005/10/19

ロシア的悪霊

巻頭に付せられているもう一つのエピグラフはプーシキンの詩です。

うあがいてもわだちは見えぬ
道踏み迷うたぞなんとしょう?
悪霊め(オニめ)に憑かれて荒野のなかを
堂々めぐりする羽目か
………………………
あまたの悪霊め(オニめ)はどこへといそぐ
なんとて悲しく歌うたう?
かまどの神の葬いか
それとも魔女の嫁入りか?

A・ブーシキン


江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書)に著された著者の見解はたいへん参考になりました。
プーシキンの詩に登場する「悪霊たち」は名前こそ同じだが、あまりにも色濃くロシア的であった。
雪のロシアの平原を、鈴音をひびかせながら旅人が馬車を走らせる。ひどい吹雪で、馬は疲れはて、馭者はしきりと愚痴をこぼす。
事実悪霊たちは、馬を谷底に落とそうとしたり、里程標に化けて馭者をたぶらかそうとしたりする。吹雪はますますつのり、馬はおびえる。ふと目をやると、まっ白な雪の平原のただなかに、数知れぬ悪霊たちが群れ集い、11月の木の葉のように舞いくるめいている。旅人は感傷を誘われる。
やがて悪霊たちは、空に高くかかる雲の間を縫って、ひと群またひと群れと飛び去っていく。悲鳴にも似たその哭き声、叫び声に、旅人の胸は張り裂けないではいられない………。
これがプーシキンの詩である。明らかにこの「悪霊たち」は、豚の群れに入った「悪霊たち」とは似てもつかないものであった。たしかにこの「悪霊たち」も、人にわるさをし、旅人を迷わせようとする。しかし、彼らの存在はあまりにも悲しく、哀れであり、なにより「ロシア的」である。

かつて民間信仰の対象であった「森の霊」「水の霊」「家の霊」などのカミサマはいまでは邪神・悪霊にされてしまった。ただ彼らは悪霊というよりルビつき悪霊=「オニめ」なんです。
こうみてくれば、零落し、いまや無力となったかつての異教の神々に、いわば土着の怨念のようなものが宿っていたとしても、少しも不思議ではあるまい。プーシキンの詩に歌われた悲しみは、そこにこそ由来するものであった。


『悪霊』をこれまで読んできたかぎりで、この地方都市を混乱させた行動派の革命家群像にはキャッチコピーや一般の解説にあるような邪悪な破壊性を感じませんでした。 むしろどこかに共感できるところがあり、また滑稽であり、終末にはむしろ哀れさを覚えたものです。

江川卓は
(ドストエフスキーは)「悪霊」に憑かれたピョートル=ネチャーエフとその「五人組」の中にさえ、反正統の異教精神とロシア土着の怨念の存在の存在を感じとり、ひょっとしてそれに市民権を与えてしまうかもしれない「小説の成り行き」予感していたのである。

と述べる。

このような宗教や社会体制に関連するものだけではなく、『悪霊』には様々な「対立」が描かれています。世代間、男女間の対立もある。そして実は私にはドストエフスキーの価値観、白黒をはっきりさせる尺度を判然とは理解することができません。むしろドストエフスキー自体が混乱していたのではないかと思っています。

さてこの物語を象徴する二つのエピグラフと江川卓の『ドストエフスキー』のこの部分は私にあったもやもやとしたところを整理しきれないままですがストンと落ち着く場所を用意してくれた気がするのです。それは今生きている日本社会にドラマティックに突き進んでいる旧来の秩序の解体プロセスとそこから生まれる政治・経済・文化の大混乱に共通性が感じられるのからですね。

「ヒルズ族」のホリエモンや楽天の三木谷社長、村上ファンドが仕掛ける大買収、徹底した株式資本主義の実践があります。小泉首相が仕掛けた自民党守旧派の解体劇がそうです。そして背景としてアメリカが進めているグローバルスタンダードという「真理」の貫徹があらたな神の布教活動とだぶってみえるのです。。新旧価値観の衝突は経済活動や政治の舞台だけではなく私たちの生活全般にわたっています。
なにが神か悪霊かオニめらかはわからない。わたしは創造的破壊という言葉に魅力的に感じてしまう俗っぽさがあるわけだが、いざとなれば「ヒルズ族」たちのやり方はおかしいといっている。会社はだれのためにあるかと聞かれれば他人様の金を糾合しただけの株主さんのためにあるのです、なんて答えることはないのです。


先日テレビの報道番組には楽天の三木谷社長とセブン&アイ(イトーヨーカ堂)CEOの鈴木会長たちが参加していた。突如大株主として登場し、TBSに楽天との持ち株会社設立を強行しようとしている三木谷氏はいまや世界に通用する新・資本の論理を貫徹している。いっぽう、受けて立つ側はかつて経済界のニューリーダーとして新しい経営スタイルで国際的にも成功してきた日本企業経営のベテランであったが、三木谷氏に対してはお説教をした程度でそこに説得力ある論理は見受けられなかった。
そして語るに落ちたとの表現が適切じゃないかと思われることを口走っていたのが印象的でした。
「しかし、君ねぇ。マックスヴェーバーの言う倫理ってもんが………」

そりゃあ、鈴木氏は株式公開をすればこういう運命があることは百も承知、それが「真理」であることは充分わかっておられる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引き合いに出してこれが的を射たものか一瞬ためらったに違いない。だからこの舌足らずの発言はそこまでになってしまったのでしょう。

アメリカからやってきたあらたな神の原理が日本の既成秩序を倒壊させつつある。ところがわれわれはこれに対抗できる日本的なるもの=独自の原理を見いだせない。混乱のままに漂流する日本人なのですね。でも私は鈴木氏の「土着の怨念」的発言のほうに気持ちを寄せます。

スタヴローギンの登場を期待する当時のロシア、『悪霊』の世界がなんとなくわかってくるような気がします。

2005/10/23

若者たちの企てた「革命」とは?

ペテルブルグから少し距離のある地方の県庁所在地で若者たちは「革命」の烽火をあげることを意図するのであるが、はじめに通読した限りではだれがなんのためになにをしたのかががアタマに入りませんでした。
そこでこの骨格だけは整理しておく必要がありました。

わかりにくかった最大の原因はキャッチコピーなどによる誤った印象にあります。なにしろ悪霊の化身として紹介されいるわけですからスタヴローギンが「革命」の中心人物だと思いこんでしまいます。ドストエフスキーも語り手の「私」もあらゆる事件を陰で操る首謀者として読者にはすぐわからないように、しかしそれらしく臭わせながらストーリーは進んでいるのだと早飲み込みしてしまったのです。端から裏読みをしたくなるのはミステリー好きという人種の悪癖ですね。
ニコライ・フセヴォロドヴィッチ・スタヴローギンはここで起こる事件の首謀者ではありません。

ピョートル・ステバーノヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキー(27歳)がその人です。

しかし、ロシア文学はまず登場人物の名前で苦労させられますね。彼の場合、ピョートルと呼ばれたり、ヴェルホーヴェンスキーと書いてあったり、愛称のペトルーシャとされたりします。それに登場人物一覧なんて便利なものがありません。一筋縄ではすまない重要な人格がわんさと登場します。まぁ経験から今回は人物メモを紙切れに作っておきましたが、役に立ちました。

ピョートルはこの町で暴動を起こすことを企てている。彼の「革命」の下地にある現状認識は私が学生時代、周囲にいたものが熱っぽく語っていたこんなようなことでしょう。
「いまや、体制内の矛盾は露呈し、大衆への弾圧はますます拡大しつつある。そして抑圧された大衆の怒りはふつふつと煮えたぎっている。しかし、無知な彼らは立ち上がることを知らない。われわれが尖兵になるのだ。先頭になって敵に対する戦いの火蓋を切る。この一点でおこす行動は僚原の火の如く全国を覆い尽くすであろう。流血を覚悟した混乱をおこす。その圧倒的な混乱の中から新たな世界が生まれるのだ。」

ピョートルは絶叫する。
ぼくらは混乱の時代を作り出すんですよ。ぼくらは、いっさいのものが根底からゆるぎだすような混乱時代を現出するんです。
そこで火事を起こすんです。いろんな伝説をふりまくんです。これならどんなやくざな≪集団≫だって役に立ちますよ。そういう集団のなかからですね、どんな銃火にもびくともせず突き進んでいって、しかもそれを名誉と心得て感謝にむせぶような物好きを捜し出してお目にかけますよ。まあ、こうして大混乱がはじまるわけです!これまで世界が見たこともないような大変動が起こるんです。聖なるロシアは霧の中に没して大地は古き神々を慕って泣きだすことでしょう。

恐るべし!!大衆蔑視。一般の人々の犠牲をなんとも思わない狂気。念のためですがこれはイスラムのテロリストたちの発言ではありません。まったく同質でありますがね。

彼はこの町で刺激を求めてギラギラしている若い連中をあおり、いくつかの騒擾を引き起こすのです。当初それは「進歩的文化人」の代表をコケにし、知事夫妻を愚弄し、神に対する冒涜行為をアピールするなどで、今の感覚からすると馬鹿者どものお騒がせ程度のものですが、当時とすれば既成秩序への破壊行為となるのでしょうか。
さらに革命組織の「細胞」である「五人組」を結成し、現状に不満をもっている人たちを糾合しようと試みる。インターナショナルな革命組織と一体になって行動しているようなイメージを作っていく。全国組織が作ったかようなアジビラを投げ込む。

そして内部の結束を固めるために裏切り者をでっちあげこれを殺害する策謀をめぐらすのです。
このシナリオは複雑で何人かの重要人物が関わるものですが、スタヴローギンに見透かされてしまいます。スケープゴートは農奴出身の青年シャートフです。
スタヴローギンは次のように指摘する。
きみはそれ(シャートフの血)を膏薬がわりにしてきみの一味をくっつけあわせようとしている。きみはぼくをそそのかして、千五百の金をレビャートキン(アル中で性格破綻者の大尉)に渡させ、それでフェージカ(脱獄囚)に彼を殺させる機会を作らせようと狙っている。


さらに付け加えれば彼はキリーロフ(自殺を実行することで神になりうると考えている男)に殺人犯は私であると遺書を書かせて自殺していただくつもりがある。とかなり込み入った筋書きだから一読ではなんだかよくわからなくなってしまうのです。

ではピョートルはこの混乱のあとにどのような新秩序を目論んでいたのか?

スタヴローギンがピョートルに問いかける。
そうやって(スタヴローギンに金を出させて暗殺事件に巻き込むこと)犯罪でぼくの手足をしばりつけておいて、きみは、もちろん、ぼくに対して権力を揮おうというわけだ。そうでしょう?なんのためにきみは権力がいるんです?いったいなんでぼくがきみにひつようなんです?


そしてスタヴローギンの役割とは?

2005/10/25

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