キリスト教の倫理と合理主義の精神

スタヴローギンの役割こそがおそらく『悪霊』の本質的テーマであろうと思われます。これを理解するには当時のロシアにおけるキリスト教のポジションをもう少し掘り下げておいた方が的確ではないだろうか。
そのためにはユダヤ教とギリシア思想とがまさにエポックメーキングな融合をはたすところに着目することが必要です。

ユダヤ民族が神に対して誓った約束の基本は「十戒」ですが、キリスト教者もこれを生きていくための堅い規範としているところです。
その1から4までは唯一紳、偶像崇拝の禁止など人と神との関係で神を絶対的な存在とするものです。そして5から10には父母を敬うことや殺人、姦淫、盗み、偽証などの禁止など、人と人との関係あるいは人と社会的関係であり、いわば基本的人権にあたる、生命、結婚、自由、名誉、財産を守ることを教えています。宗教的側面だけではなく、道徳律遵守の側面が分離せず、相互関連して一貫していることを教えているのです。これは他の宗教とは全く異質なものです。他の宗教はどうだったでしょうか。偶像崇拝であり、呪術であり、迷信であり、土俗なものであり、体系立てた教義はなく、まして社会的規範を内在させるものではなかったのです。

いっぽう、ギリシアで生まれた思想・哲学は理性的なものであり科学文明を発展させる合理的思考体系でしたが、これがローマ帝国を通じてヨーロッパに広がっていました。また歴史的にもキリスト誕生のころは文化の中心は東方から西方へ移行する大転換期です。すでにユダヤ人たちはイスラエルを離れ、地中海世界、オリエントのいたるところで活発な経済活動を行っていました。このユダヤ人たちは排他的な教義よりも国際社会に通用する普遍的な真理を求めたことでしょう。こうした背景において、キリストはユダヤ教の教義を一民族のための独占からコスモポリタンへと解放したのです。
ユダヤ人はローマ帝国内に唯一神という一貫した原理と倫理社会の形成を求める高度に発達した宗教を持ち込んだ。ローマ人はこれをまさに自分たちの体質にふさわしい宗教として吸収したのです。かくしてギリシアの理性的合理的哲学とユダヤ神学は融合し、強力な新しい宗教が誕生する。このようにキリスト教は誕生以来、合理主義の精神と結合して歴史を動かしてきたのです。そこから生じた歴史的過程は現代でもなおわれられが経験している影響を与えることになったのです。

そして『悪霊』の時代のロシアでは?

2005/10/29
資本の自己増殖に欠かせなかった巨大なインフラ

昨日、東京証券市場がプログラムのミスでシステム障害を起こし午前中の取引ができずマーケットは大混乱しました。これを日経紙のコラムが取り上げています。
十数年前、統制経済からの移行が始まったばかりのロシアで、仲間と民間企業を立ち上げた経営者から、市場経済への愚痴をさんざん聞かされた覚えがある。彼が言うには、会社法制などルールづくりが遅れているので仲間がてんで勝手なことをし、会社の経営が混乱を極めている。こんなはずじゃなかったと。市場は万能ではない。市場が機能するのは法制度や情報システムなどのインフラに支えられているからだ

この現代の悩みと同質のもっともっと大きな混乱が当時のロシアだったのでしょうね。

資本主義というのは合理主義と営利主義の合体した経済活動です。合理主義とはここではある目的の実現のために諸手段を最も効率的に選択し利用する態度であって、営利主義とは利潤のために利潤を追求する営利至上の態度のことです。そして獲得された利潤はさらに大きな利潤を求めて再投下され、資本の自己増殖がはじまり、これが際限なく繰り返される。

この経済合理主義、営利主義が持続的に貫徹するためには巨大なインフラが必要だったのです。私有財産制と自由契約制が守られ,社会の平和と秩序が維持される必要がある。軍事、警察機構はもとより,労働者の生活が維持され,労働への意欲が満たされる必要がある。資本主義の経済活動は,法律体系,道徳規範,政府の活動,生活慣習,価値体系といった全般的な社会の制度装置を前提として行われる。つまりそれはひとことで言えば近代国家の成立を必要としたのです。したがって近代国家成立の過程では経済活動の領域だけではない、政治、法律の領域ばかりか,倫理,芸術,社会生活,宗教等のあらゆる文化領域も含む再構築が行われたのです。

資本の運動が近隣諸国まで及ぶようになれば、このインフラは自国以外の地域でも整備させる必要あったし、そうでなくともロシア帝政内部からすら、この結果がもたらした西側諸国の巨大な富の蓄積を見て、同様のシステムを導入せざるを得なくなる。
しかもこの原理は一神教の原理と不可分にあるまさに普遍の真理としてロシアを席巻したのです。

「ロシア的なるもの」「ロシア人とは」は「この総体として非ロシア的なるもの」の反対極に残った
『奴らはそれで救いのある世界を作ることができたのか。現実は地獄を見ているではないか。』
『そんな原理は普遍的なものじゃない。俺たちには俺たちの原理があるんだ。』
『俺たちロシア人はその原理でもって世界に冠たるロシア国家を作るのだ』
という、しかし、曖昧なままに具体的な対抗手段を持ち合わせないロシア社会全体の焦燥した精神状況を指すのでしょう。

『悪霊』には上流階級から貧民にいたる広範な階層に属する人たちが登場しそれらが濃密な自己主張をするのですが、正直言ってなにがなにやらとわからず、難しいのです。ただ、すべてこの閉塞状況におかれた精神の咆哮だととらえておけば理解は進みやすくなると思われます。

それにしても同じようなことは日本にもあったのでしょう。宗教問題を除けば。明治維新、戦後と。いやぁそれどころじやない、いまがまさにこれですね。情報技術の飛躍的発展で資本主義はマーケット至上主義へと軸足を大きく変えた。アメリカンスタンダードだなどと斜に構えているまもなくそれはグローバルスタンダードであり普遍の神の原理として地球上のあらゆる地域に浸透してきた。それに押し流されながら日本では「失われた十年」が過ぎていった。なにも資産価値だけが失われたのではない。繰り返すようだが
経済活動の領域だけではない、政治、法律の領域ばかりか,倫理,芸術,社会生活等のあらゆる文化領域をふくむ再構築が一方でやりきれぬ喪失感をともないながら進行しつつあるのです。

ドストエフスキーを予言者などと言うつもりはないのです。少なくともロシア革命の悲劇や連合赤軍事件を予言したのではない。いつの世にもあり得る価値観の大混乱を、それはドストエフスキーの内心そのものなのですがロシアの命運を左右する社会的危機として、ドラマチックに描いたとだけははっきりといえます。そして時代をこえて現代に共通するテーマの奥深さに驚かされるのです。


閑話休題
スタヴローギンこそは、この危機的状況の救世主、ロシアを強大な国家に再構築するリーダーとして、ロシア人に生きるための原理を啓示する新しいロシアの神として降臨することが期待されたその象徴なのです。

ただし、靖国神社参拝にこだわる小泉純一郎にこれを期待する粗忽であってはいけません。

2005/11/02

キリスト教にある「非ロシア的なるもの」

先日テレビの報道番組、楽天の三木谷社長とセブン&アイ(イトーヨーカ堂)CEOの鈴木会長たち。突如大株主として登場し、TBSに楽天との持ち株会社設立を強行しようとしている三木谷氏、いっぽう、受けて立つ側はかつて経済界のニューリーダーとして新しい経営スタイルで国際的にも成功してきた日本企業経営のベテラン。
鈴木氏
「しかし、君ねぇ。マックス・ヴェーバーの言う『倫理』ってもんが………」
とこの引き合いに出した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
今年はこの論文発表の百年めにあたるのだそうだが、『悪霊』のテーマにも大いに関わりがある見解が含まれると思われるのです。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はプロテスタントの世俗内禁欲が資本主義を発展させたとする研究論文です。
「カルヴァンの予定説」によりますと神に救済される人間は生まれた時から決められています。だからどんなに善行をつもうがどんなに悪行を重ねようがあらかじめ予定された神の決定は変えられません。そこで、禁欲的労働に励み社会に貢献し、現世に神の栄光をあらわすことによって、自分は神に救われるのだと自分で確信する、それで気持ちが安寧に導かれるのです。労働で得た利益は「禁欲」ですから、浪費されることはない。再投資される。資本が自己増殖を始めることになるのです。(詳細はこちら)

ところが問題は、営利追求自体が目的化して信仰がうすれてしまうところなんです。ヴェーバー研究の日本における第一人者であった大塚久夫先生はイギリス人が金を持ったことから怠惰になり労働をしなくなった、いわゆるイギリス病ですね、その社会現象に警鐘を鳴らして、職業倫理を喪失した資本主義は健全でないとされ、職業倫理の復興を呼びかけられました。

ヨーカ堂の鈴木会長が舌足らずに終わってしまったところの本意はこの大塚先生の危機感と密接するものでしょう。
信仰とは無関係におそらくこんなことをいいたかったのではないでしょうか。
「たしかに日本の経営者はこれまで株主を軽視してきたことで猛省をしなければならない。経済戦争で圧倒的勝者であるアメリカ流の市場経済主義は見習わねばならない。しかし、会社は株主のためにだけ存在するというようなギラギラしたマーケット至上主義をそのまま鵜呑みにしてはならないだろう。経営という実体は株主だけではなく従業員や顧客にとって価値ある存在たらんと社会的使命をおった長期的視座に立つ責任組織なのだ」

もう一歩踏み込んで「それこそが世界に冠たるニッポン企業像なのだ」と民族主義者然と表現すればヴェーバーの以前、『悪霊』の世界、ロシアにあったロシア人のための宗教観、それはローマカトリックに背教するものなのだが、スラブ派と呼ばれる宗教観、その神としてスタヴローギンを待望する当時の精神状況がわかりやすくなります。

どうやら『悪霊』を少しでも理解するためにはこじつけを恐れず、今の日本を同次元で比較していくのが適切なような気がしています。

2005/11/04

ヴェーバーはプロテスタンティズムというキリスト教信仰の生活様式の中に資本増殖の合理性を見いだしたのであるが、同時に富の蓄積運動、営利追求そのものが目的化して、キリスト者にあるべき信仰、禁欲的労働、職業的倫理が喪失しつつある資本主義社会を見詰めていたのです。
ヴェーバーがこの著作を著す半世紀も前からロシアでは同じような視点でローマ・カトリックを批判する思想が生まれていたんですね。プロテスタントではなくカトリックなのですが、同じですね。キリスト教として同質にある合理主義が西欧社会に現出させた混乱に対する危機意識なのです。スラブ派と呼ばれる思想です。


革命思想から転向したシャートフがスタヴローギンに論戦を挑む場面があります。スタヴローギンはかつてシャートフに
「無神論者はロシア人たりえない。無神論者はただちにロシア人たることをやめる」
と言っていることを前提にした論戦です。
あなたは、ローマ・カトリックはもはやキリスト教ではないと信じていたのです。あなたの主張では、ローマが称えたのは、悪魔の第三の誘惑に負けたキリストである。カトリックは、地上の王国なしにはキリストもこの地上に存立しえないと全世界に宣言することによって、反キリストの旗をかかげ、ひいては西欧世界全体を滅ぼしたのだ、ということでした。

初めて読んだ時にはなにが書いてあるのか全く理解できませんでしたが今はわかったと思っています。
ローマ・カトリックが神への本来的信仰を放棄して俗世界で蓄積された富と権力に身をゆだねた。このために西欧は健全な精神世界を喪失してしまったと、こういうことなんでしょう。

シャートフは今ロシアに蔓延しつつある革命思想も所詮西欧から移入された思想であってそれがロシアを本質的に救うものだとは思えなくなった。そこでロシア正教を再建し、新たな救世主として立ち上げるかに見えたスタヴローギンに心酔するところがあったのですね。ところが肝心のスタヴローギンにはその気配がなくなっていることに気がつき、絶望的に弾劾しているわけなんです。

ここでスラブ派の思想について平凡社世界大百科事典から引用しておきます。
スラブ派はロシアと西欧の根本的差異をロシア正教とカトリックとの違いに求め、後者の合理主義・汎論理主義・法治主義が人間理性への過信を許し、個人主義・無神論・物質主義を招来し、その結果、西欧社会は信仰共同体としてのかつての有機的統一性を失い、また神を見失った諸個人は内面的分裂に悩むにいたった、と主張した。他方彼らは理性の専横を排し神への恭順を旨とする正教信仰をロシア精神の本質とみなし、共通の信仰を内的きずなとした共同体的生活原理が、ピョートル大帝の欧化政策にもかかわらず農村共同体の中に保持されていると考え、ピョートル以前のロシアに立ち返ることにより社会の一体性と人格の全一性とを回復するように訴え、ここにロシアの世界史的使命があると説いた。家父長的な人間関係を理想とした彼らは、ツァーリの支配そのものは認めたが、西欧的な官僚支配には批判的であったため、時の政府からは常に迫害を被り、おもな思想家たちも沈黙を強いられた。中世的調和への郷愁を基調とする彼らの思想には、ドイツの保守的ロマン主義と共通点が多く、概して、近代市民社会の暗黒面を目のあたりにした、後発的資本主義国に固有な復古的ユートピアの一種と規定することができる。そのため、農奴解放後のロシアが資本主義への道を本格的に歩みはじめると、この思潮は反資本主義のイデオロギーとしての性格を失い、リベラリズムやパン・スラブ主義へと転化し、他方、スラブ派本来の性格を保持しようとした部分はドストエフスキーらの大地主義や レオンチエフの極端な反動主義へと分岐していった。しかし、反西欧・反合理主義・反近代というスラブ派のモティーフは近代文明の危機が叫ばれる折から、今なお存在理由を失ってはいない。

たいへん長い引用ですが、これでスタヴローギンとはなにか、彼に期待されていたものへの理解がかなり進みました。ドストエフスキーはスラブ派の流れをくむ人なんですね。

作中にツルゲーネフをモデルにした作家・カルマジーノフが重要な道化役を演じるのですが、ツルゲーネフはこのスラブ派とは反対極にある西欧派とよばれた代表的知識人なのです。ドストエフスキーはカルマジーノフを見事に貶しきっています。西欧派は西欧市民社会を理想化し、個人の自由の実現をめざして、ピョートル大帝の改革路線の継承発展を主張していた、大多数は貴族地主階級に属する知識人です。
カルマジーノフが革命家を気取ったピョートルにこんなことを言う。
一般の民衆はなんとかまだロシアの神で持ちこたえられちゃいるけど、そのロシアの神も、最新の情報によると、いたってたよりないものでね、農奴解放の改革にもやっと持ちこたえられたほどだし、少なくとも、だいぶ、土台がぐらつきましたね。そこへ鉄道ができる、きみたちのような人が現れるでね………私はもうロシアの神など頭から信じちゃいませんよ

いやいや、先に「ドスとエフスキーはカルマジーノフを見事に貶している」としましたが、正直、これだけの予備知識がなければ正論として語られているところなのかそうではないのかすら気にも留めずにただ流し読みするにとどまってしまいますね。

『悪霊』はとにかくこのような「思想の氾濫」であって、上っ面でもいいからその知識があれば少しはましな読みかたができると思いました。

2005/11/07