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マックス・ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

1.ヴェーバーとの出会い
大学で大塚久雄先生の講義を受講していた。『近代欧州経済史序説・上』が教科書であった。この著書は「上」までしかないとご自身でおっしゃられる。風変わりな方だと思った。できのよくない学生には近寄りがたい威風があって、いつも緊張しながら控えめに眺めていたものだ。講義のなかでマックス・ヴェーバーという社会学者が登場していた。眺めていただけであるから感覚的にだが、しかし次のことを直感した。

下部構造が上部構造を規定するという唯物史観と対立する社会分析の手法を考え出した人。

資本主義社会の成立は生産の発展の結果だけではなくキリスト教プロテスタントの思想がおおいにその役割を果たしたと実証した人。

「はじめに言葉ありき」は正しいとする理論のバックボーンになっているらしい。

社会事象を観察するにはまずイデオロギーをいったん抜きにして客観的事実を積み上げるべきこと。

就職試験であなたの尊敬する人はとの問いには「マックス・ヴェーバー」と答えよう。

2.この著書を今読む気になったわけ
ミステリー愛好家のこの程度の知識レベルでこの巨人を云々することは到底かなわぬことと承知の上で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでみる気持ちがわいてきたのにはそれなりの理由がある。それはいわゆる「グローバルスタンダード」とされるアメリカ流の「真理」が全世界的に国家の政治・経済・社会の構造に変革をせまり、これに抵抗する勢力を駆逐していく、その圧倒的力の根源はなんなのであろうか。なぜ日本は経済戦争においてこの力の前に敗走を続けているのか。さらにいえば自他共に認める経済大国にもかかわらず光明を見出せず直面しているあらゆる混乱、それは政治だけではなく一般人の日常生活まで及ぶ混乱、この日本の現状の根本には日本人として共有できる精神的よりどころ、日本民族の「原理」の欠落にあるのではないか。この疑問に対する答えのヒントがこの著にあるような気がしたからである。

3・キリスト教にある合理性
ヴェーバーの示唆をまたずとも、歴史的に見ればキリスト教は発祥のときから合理的思想と融合しやすい教義であった。イエスの生きた時代は人間の文化が東方から西方へ、呪術から合理・理性へと転換する大移行期であった。ギリシアの思想家たち──彼らの影響は、ローマ帝国を通してヨーロッパに広がっていったのだが──は、理性を発達させた。しかし宗教を必要としていた。唯一神を信じ、倫理的な、そして偶像崇拝を否定する高度に発達したユダヤ神学がこのギリシア思想と融合して誕生したのが強力な新宗教キリスト教であったからである。

「みすてりー 『イエスのミステリー 死海文書で謎を解く』参照」

              

4・資本主義のおさらい
さて現代の資本主義的活動の特性は徹底した営利主義と合理主義にある。営利主義とは,利潤のために利潤を追求する営利至上の態度のことである。資本が獲得した利潤は,企業家の特定の欲求を充足するために使われてしまうのではなく(奢侈、享楽のために使われる現実はあるが理念的にはそうであってはならない),ふたたびより多くの利潤を得るために再投下される。資本主義における利潤追求の活動は,このように際限のない貨幣追求の行為である。合理主義とは,ある目的の実現のために諸手段を最も効率的に選択し利用する態度のことである。営利主義と合理主義は合体する。企業経営の観点では利潤の獲得という目的を無限に追求していくためには,一時的な機会に賭けたり,非合理的な手段に訴えるのでなく,効率的な経営を継続的に行わなければならないことになる。

5.近代国家の形成
この資本主義の活動すなわち経済合理主義の貫徹が持続的に行われるためには,私有財産制と自由契約制が守られ,社会の平和と秩序が維持される必要がある。また,労働者の生活が維持され,労働への意欲が満たされる必要がある。資本主義の経済活動は,法律体系,道徳規範,政府の活動,生活慣習,価値体系といった社会の制度装置を前提として行われる。
そして近代国家はこの経済的合理主義という「真理」が安定的に永続的に貫徹するための装置として形成されてきたのである。したがって近代国家成立の過程では経済活動の領域だけではない、政治、法律の領域ばかりか,倫理,芸術,社会生活,宗教等のあらゆる文化領域の再構築が行われたのだ。

6.エートス
ヴェーバーを理解するうえで欠かせない概念に「エートス」がある。大塚久雄先生の解説では「宗教的倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理綱領とか倫理的徳目とかという倫理規範でなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでも言うべきものなのです」広辞苑のほうが理解しやすいかもしれない。「ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気」とある。
ヴェーバーは近代資本主義を生むことになる経済合理主義を徹底していく行動・態度がヨーロッパの特定の地域で発生していること。その地域には特定の倫理的慣習・雰囲気がいきわたっていたこと。具体的にはあらゆる他のことがらへの欲望をすべて抑えて(世俗内禁欲主義)、そのエネルギーのすべてを天職である職業に注ぎ込む(つまり何のために働くかではなく、働くこと自体が目的化している)エートスであり、プロテスタントの倫理観であると指摘した。

7.非合理と合理の合体
私は非合理の象徴とも言うべき宗教に潜む自己目的的勤労の倫理と合理の貫徹にある資本自己増殖の論理との奇妙な暗合に歴史上の奇跡を見る思いで驚くのです。さらにあらためて畏怖の念を抱いたことは、この倫理観の根底にあるカルヴァンのキリスト教義の解釈、唯一神に対する絶対服従が人間の宿命であるとする思想についてでした。これがいわゆる宗教改革の思想であったかと、いままで宗教改革とは教会の形式的権威からの人間の解放なのだろうと、まるで見当はずれの思い込みをしていたことに気づかされたのです。カルヴァンの予定説では神に祝福される人間と神に拒否される人間は生まれながらにして定まっていると説くのである。したがって、高価な免罪符を買おうが、教会に多額の寄付をしようが、聖職者に懺悔をなそうが、祈ろうがこのさだめはいささかも不変なのだとしている。ヴェーバーは次のようにこれを述べている。「神の決断は絶対不変であるがゆえにその恩恵はこれを神から受けたものには喪失不可能であるとともに、これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのだ。この悲愴な非人間性を帯びる教説の結果は何よりも個々人のかつて見ない内面的孤立化の感情だった」
ただし、このままでは敬虔な子羊たちはみな、自分が神に救われる側にいるのか、拒否されるのか、死ぬまでわからず絶望的不安に窒息してしまうであろう。そこでまた驚くべき論理の飛躍が行われるのである。救いについての不安を和らげるためには,神に与えられた使命すなわち職業に禁欲的に専念し,現世における神の栄光を増すよう不断の禁欲的努力をしなければならぬ、そうすることにより、「救いの確信をうる」のだと。しかし、これは単なる確信であって神からの約束ではないのだから、いわば保証のない自己満足でしかない。と、どうしても合理の世界の私には思えてならないのだが、しかしこれが非合理の世界の「真理」なのだ。
かくして「ピュウリタンの天職観念と禁欲的生活態度の促迫が資本主義的生活様式の発展に対して直接に影響を及ぼした」のである。

8.今なぜヴェーバーか
昨年、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』というヴェーバー研究論が発表され話題になった。この内容は知らないのだが、広くには、プロテスタンティズムが存在しなかったら資本主義は誕生しなかったのか?との観点からするヴェーバー批判があるところである。ヴェーバー自身そういう断定は避けているのであって、これは的外れな見解である。むしろ、現時点の国際政治・経済・社会の激動を見れば、ヴェーバーの観察を発展させ、この特異なエートスが血肉となって資本主義を飛躍的に発展させ、グローバル化した資本運動のパワーを増大させていると認識するほうが妥当なのではないだろうか。

9.プロテスタントの国アメリカ
アメリカ人の宗教はキリスト教とくにプロテスタント諸教派の人口が約60%を占める。植民地時代以来ピューリタンをはじめとするプロテスタントがイギリスから続々と移住してきたからである。移民と深い関係にある宗教は人種、言語とともに社会文化の序列を形成し、彼らはカソリックより上位にあり政治的発言力が強いところに位置している。より遅く移住したカソリックが産業労働者と都市住民であったのに対し、早い時期に移住したプロテスタントには農民や企業家が多く、彼らが資本主義の精神の土壌を作り、このプロテスタント精神がアメリカ人全体に深く刻印されたのである。

10.グローバリゼーションの急速な進展とアメリカのエートス
この四半世紀、特に20世紀の最後の10年は装いを新たにした経済的合理主義が国家間を串刺しに貫いたときであった。情報技術の飛躍的進歩によって瞬時に大量に管理された資本の国際間移動が可能となった。国家間を自由に移動して自己増殖する資本の運動こそがボーダレスの経済活動の究極に見えるものである。「神の栄光をあまねく地上に!」これはユダヤ教以来のキリスト教のエートスである。これにプロテスタンティズムの倫理が加わる。この非合理的熱狂に後押しされ経済合理主義の地球規模での貫徹、すなわち他の国家とは比較にならない圧倒的パワーをもった米国の自由な資本の自己増殖運動がグローバルに突き進んだのだ。
                 

11.グローバルスタンダードの役割
経済合理主義の貫徹が安定的に、永続的に保証される装置を構築した国の姿が近代国家であることは前に述べたとおりである。これがボーダレス化すれば国家を超越した国際的制度装置が必要となる。これこそがグローバルスタンダードといわれるものなのだ。
グローバルスタンダードは各国共通の「構造的仕掛け」であるから個々の国家に対して単に経済活動の領域だけでなく、政治、法律の領域,究極には倫理,芸術,社会生活,宗教等のあらゆる文化領域まで含む枠組みの再構築を要求する本性がある。

12.日本の苦悩
最近の日本について言えば、日本はそれまでの国内産経済合理主義の尺度では許容されていた「日本的なるもの」をかなぐり捨てることをよぎなくされた。こうした歴史的大変革は経済活動の平常的機能の中で進むべきものなのだが、今回は短時日で、民間抜きで、政策として進められた。これは「アメリカンスタンダード」ではないかと怨嗟の声が上がる。串刺しされても経済的痛みはなんとか我慢できるだろうが、精神・文化の領域までの変質となれば、うかうかすると日本という国家あるいは民族のレーゾンデートルに及ぶものだけに、この痛みには割り切れぬところ、我慢ならぬところがのこるものだ。ここに抜き差しならなくなった満身創痍のわが国の悲劇がある。さらに複雑に悲劇を深刻にしているのは「合理」では説明できないこの「日本的なるもの」について確固たるなにかがあるのか、ヴェーバー流にいえば日本人のエートスは何なのかという問いに対し、正面きった答えがでてこない、恥ずかしい状況におちいっていることだ。
しかし、本著を読んでもう一歩考察を進めることができる。日本人のエートスすなわち「日本民族にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気」が存在するとして、しかしそれはおそらく経済合理主義を後押しする性格を持ち合わせてはいないのだろう。このエートスを明確にし、涵養すればするほどアメリカとの経済競争に敗退し続けるのではないかと思われるのである。私にはこの二律背反を解きほぐす哲学を持ち合わせていないが、合理の世界に生きてきたものとしてはむしろ今は逆に合理では解決できない問題山積みの現状に憂いを深くするのである。

13.ブッシュの戦争
私はアメリカピューリタンの多くが宗教的に純粋な禁欲的生活態度を堅持しているなどと考えているわけではない。富の増加したところではそれに比例して宗教の実質が減少するものだ。「富が増すとともに、高ぶりや怒りやあらゆる形で現世への愛着も増してくる」。しかし、刻印されたエートスは経済合理主義の貫徹を後押しこそすれ、これを排斥する力にはなりえない。
エートの究極の支えは個人の内面にある。それはときとして狂気に変貌しやすいことは歴史が証明するところである。経済合理主義の地球規模での貫徹は神の摂理と一致する。これを永続的に保障する装置には警察機構、軍事力も含まれる。ブッシュは言葉では表現せずともこの戦争を神の名の下に遂行する。イラク戦争は侵略ではない、国際的資本活動の自由を確保するための行動であり、イラク国民の自由のための戦争なのだと。しかし、イラクに存在する強力なエートスはこれを受け入れることはない。この戦争は文化・文明の戦争であり、宗教戦争でもあるのだ。
God Bless America !
                    終

2003/03/31