島田雅彦 『退廃姉妹』

日本人にとって夏は追憶の季節なのかもしれない。お盆が全国民的行事で多くの人が休暇をとって帰郷し、亡き人を偲ぶ。ついでに自分の来し方を振り返る。そしてあの戦争が終わった。その流れに乗ったわけではないのだが、朱川湊人『花まんま』に続いてこの島田雅彦『退廃姉妹』を手に取った。

2005/09/14

東京大空襲、死の恐怖に直面し、焼け野原で命拾いした父と二人の姉妹。多額の負債だけが残された中流階級の家族、
「過酷な戦後を生きる美しき姉妹の愛と運命は?」
を流麗な筆致で描いている。

下町の庶民ではなく、さりとて爵位を誇る上流階級ではない。あの当時の東京、いわゆる山の手の住人、生活に困ることなく、教育水準も高いちょっとした家庭とはこんなものだったのだろうと娘たちの洗練された会話が伝えてくれる。戦意昂揚の国策映画事業で稼いでいた父親が進駐軍専用の慰安所へ女を斡旋するヤバイ商売に鞍替えして、ひょんな誤解から戦犯にされる。なに不自由なく暮らしていた家族の転落、そんなまさかの連続に読み手の興味は引きつけられる。百鬼夜行がうごめく闇市の喧噪模様も力の入った描写だ。

特攻隊の生き残り男が部隊幹部から受ける残酷なしっぺ返しに精神の傷を深くする過程、あとの人生は死に向かっておちていく姿もなかなかひきつけられる。登場する人物像ではいちばんわかりやすい。理知的で美しいお嬢様育ちの姉がこの虚無的で病的な男に溺れていくデカダンス調もいつか古いメロドラマ映画で見たような懐かしさを伴って読み進む。

妹の美人お嬢様が冒険的に娼婦になるもうひとつのストーリーも刺激的に見えた。途中までは喜劇的で楽しめた。ところが戦後の闇の中から
「東京はアメリカに占領されたけれど、あたいたちはアメリカ人の心と財布を占領するのだ」
といかにもこの作品のメインテーマのごとくに装幀には目立つコピーがあるのだが、幕切れはこれとは無関係のようだから、読了後の違和感が残ったままになる。これからは女の戦争が始まるのだとへらずぐちながらも、したかかに立ち上がる女性への賛歌かと思えば、脇役で登場する娼婦希望のズウズウ弁のネエチャンやパンパンの先輩(この二人は光っています)がそうであっても、肝心のお嬢さんが自殺をはかる動機ともなれば、所詮旧弊を断ち切れなかった女だという印象は免れない。姉は「退廃」そのものなのだがこの妹も「退廃」なのだろうかとの私は首をひねった。なお彼女たちの母親の死にも「退廃」という共通した含みをもたせているようだ。

彼女たちの生き方を通して「戦後60年の日本人」に著者島田雅彦が何かを語りかけようとする話題作のはずだった。無差別大量死=戦争という無限の切り口がある重いテーマについて著者の個性を活かして独自の断面を見せてくれるものと期待していた。ところが唐突に終わる。後味が悪いということではなくあっけなさにとりのこされる。

このように著者として伝えたいメッセージがいくつかあるように思われる。ところがその糸口がみえるだけでなにも伝わってこない。そもそもなぜ「退廃」をタイトルとしているのだろうか。そこにある妖・美の語感が通用しなくなった現代にあえて「これぞ退廃を描く小説だ」と挑戦したつもりかなと前向きに考えるのだが、釈然としていない。

著者は最後に詠嘆調でこう締めくくる。

敗戦から60年が経過した。姉妹の孫たちは、60年前、日本がアメリカに占領されていたことなど知りはしない。(目黒の家で祖母たち=主人公の姉妹が)よもや自分たちと同じようなことをしていたなどと考えたこともない。………優雅なあばずれ娘たちの歴史は繰り返される。時に悲劇として、時に喜劇として。そんな日本へようこそ。いつの時代も退廃姉妹がお相手します
と。
ここにも重要なメッセージがあるはずだ。が、なにも伝わってこないのでは戦後という体験すらない著者が才覚だけで筆が滑った蛇足としか言えないではないか。

ところで、終戦時の庶民の困窮、空襲、敗戦、進駐軍の占領と文化の相克、そして抵抗精神をもったパンパン・オンリーなどこの作品と非常に似た環境を描いた傑作に井上ひさし『東京セブンローズ』があります。どうしてもこれと比較することになって、よけいに物足りなさを感じた。


恩田陸 『夜のピクニック』

千人を超える全校生徒が一昼夜かけて80キロを歩き通す。これが北高校の伝統行事である「歩行祭」だ。長距離歩行競争のスポーツ性と修学旅行のエキサイティングなところを合体したようなところがある。とくに三年生にとってはここでなにかいい思い出をつくっておきたい、新しい自分を発見したい、友情を確認しておきたいなど若者らしいセンチメンタルな気分の高揚から全員が全行程踏破の意欲に燃えている。朝から翌日の朝までの歩行あるからタイトルの「夜の」だけではないのだが、あえてそうしたのは普段ならありえない夜の団体行動のちょっと妖しそうな雰囲気を強調したからだろう。

2005/09/17

作品は、お互い気になる存在である融と貴子がいて、気のあった高三仲間同士が交わす屈託のないおしゃべりがあって、この二人が見たまま聞いたままと自分の微妙に揺れる内心の自己分析が加わっている。とてもシンプルな構成だ。特段の事件も起こらない。この会話と二人の気持ちを叙述しながら、あえて言えば、恋と友情にシンボリックされた「現代の青春」を甘く切なくほろ苦く、そして限りなく美しく描きあげている。たとえこれが絵空事だと思う読者であっても「あぁ、すばらしい青春とはこういう世界を指すのだろう」と感嘆を誘う語り上手のバーチャルリアリティーだ。
いやバーチャルなどというのは年寄りのヒガミがもたらす誤解なのかもしれないがここに描かれた青春が本当に現代の青春を象徴しているのか私にはわからない。また、私のすごした青春とはまるで異質だとの思いが強いものだから懐旧の情がわくこともなかった。どちらかといえば猛々しいもの、生臭いものが欠落しているとの印象を受ける。
昼と夜だけでなく、たった今、いろいろなものの境界線にいるような気がした。大人と子供、日常と非日常、現実と虚構。歩行祭は、そういう境界線のうえを落ちないように歩いていく行事だ。ここから落ちると、厳しい現実の世界に戻るだけ。高校生という虚構の、最後のファンタジーを無事演じ切れるかどうかは、今夜で決まる

このようないまにも壊れそうな現在の自分を見つめる青い感傷が若い読者をひきつるのだろうか。ただ高校生あるいは学生を卒業したばかりのお子さんを持つ親御さんの年代であれば、また違った受け止め方があるはずの大切なテーマをこまやかにひらいて見せた佳作だと思う。

ここで表現されたような「現代の青春」にほとんど関心がない私が実は退屈せずに読み終えたのだ。それはバーチャルではないそれこそ本物のリアリティがあふれるところがあってその迫力にのめり込んでしまったから、若者たちの他愛ないおしゃべりにつきあえたのだろう。朝に始まり夜を過ごしまた朝に戻る24時間の時の流れ、移りゆく風景の光と陰、心身の昂揚と疲労がくりかえされるリズムある変化と主人公たちの心身の移ろい、心象風景が絶妙にマッチしているのだ。まるで一緒に歩いているような臨場感がある。そしてこの著者である恩田は語り手としては限りなく透明になっていて若者たちだけでドラマが語られている。まるで恩田の若返った分身がこの行事に参加して一緒にはしゃいでいる感がある。実はこのリアル感のため、これは恩田自身が体験しなければ絶対に書けない小説だ、とそこが不思議だった。

昨日のことですが絶妙のタイミングとはあるものですね。
私は茨城県の生まれだから、水戸一高の卒業生も友達にはいる。その一人と小学校の同窓会について相談をしていたときだ。なんと「水戸一高歩く会」という行事があるのだそうだ。
立派な「目的」を掲げたまさに伝統行事なのだ。
歩く会は強健なる体力を培うとともに、集団行動を通して、『全』における『個』の自覚にもとづき、規律ある態度と相互理解の心性を育成し、もって不撓不屈にして質実剛健なる精神の確立を期するものである

なるほど作中にアメリカ育ちの少年が「日本人の集団主義プラス精神主義?」と皮肉をのたまうシーンがあるがこれのことかと納得。
小説とおなじように65キロのコースを団体歩行と自由歩行に分けてある。今年は57回で10月8日〜9日に催されるという。さらにこの作品は映画化が進んでいてすでに当校での撮影もあったとか。今年は沿道が観客でごった返すだろうとズウズウ弁で話してくれた。
ところであんたはこの小説を読んだかとたずねると
「それはよんだっぺよ。んでもわがんながったな。いぐらなんでも、水戸にゃあんなアンチャン、ネエチャンはいめえべぇ」
だとさ。
これで作品のイメージがこわれました。
恩田陸が仙台出身とまでは知っていたのですが、まさか水戸一高の卒業生だとは彼の話を聞くまで存じ上げませんでした。

北村薫 『盤上の敵』

ミステリー好きのメル友から北村薫の作品を推薦いただきました。北村薫はエラリー・クイーンへの思い入れがたいへん深い作家だそうです。今年がエラリー・クイーンの生誕百年にあたることから上梓した『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件簿』はEQファンでなくてもミステリ好きには楽しめること請け合いというおすすめでした。そして北村の過去の作品『盤上の敵』にふれて、これもEQ作『盤面の敵』を意識したものらしいのですが、北村薫ミステリのベストだとのコメントがついていました。

2005/09/22

私は『六の宮の姫君』 だけを読んでいて、蘊蓄いっぱいの作品のはいかにも若者らしいみずみずしい文体に気後れがし、きらきらした才能が年寄りにはちょっとまぶしすぎる印象があった程度の記憶しかありません。

とりあえず『盤上の敵』を読んだのですが、これはコメント通り私もこのジャンルの傑作だと思います。

「このジャンル」というのは一人称の複数の語り手からなる叙述で小説が構成され、読者を徹底的にミスディレクションし、混迷の淵に落とし込み、その渦中で実は全く別のストーリーがあったことを唐突にしめして呆然とさせる、奇抜な工夫で楽しませてくれるミステリーの手法です。ただこの手の作品で成功しているものは限られているような気がします。多くは奇抜にするための奇抜さに力点が置かれているため仕掛けが複雑になり、現実性は希薄化し、人間が描けていないからです。

それらの凡作とは異なり、『盤上の敵』は冷酷、邪悪な意図により壊されていく人生の悲しみ、憤りと再生への勇気、夫婦愛が一方の縦軸になっていて、このストーリーにはひかれるところがありました。このテーマがメインであるなら、おそらくよくあるステレオタイプな小説にとどまるところですが、後を受ける仕掛けと抜群にマッチしているところで成功しています。

作者の仕掛けは見事に決まっています。しかも非常にシンプルな騙しでした。久しぶりに欺かれる快感を堪能しました。そしてミステリーマニアはともかく一般のミステリー好きに読み応えを感じさせる仕上がりになっていました。
また『六の宮の姫君』を書いた著者らしい「しりとりゲーム必勝法」的な言葉遊びの蘊蓄もあってとても軽妙な味わいもあります。

「盤上」とはチェスゲームのことです。
我が家に猟銃を持った殺人犯(黒のキング)が立てこもり、妻・友貴子(語り手の一人・白のクイーン)が人質にされた。警察とワイドショウのカメラに包囲されたマイホーム!末永純一(語り手の一人・白のキング)は妻を無事に救出するため、警察を出し抜き犯人と交渉を始める。はたして純一は犯人に王手(チェックメイト)をかけることができるだろうか?

とこれがもう一つの縦軸です。

殺人犯対夫婦を黒と白のチェスゲームに見立てているのです。読み終えたときに、EQ作『盤面の敵』もチェスのイメージがある作品のようですが、それだけであればあまり意味のない見立てだなと思いました。
ところが、ここにたいへん粋な、これが北村薫の絶妙の洒落かと思わせる含みがあったことに気がついて、この作品ますます気に入る結果とになりました。

チェスをよく知らなかったのでちょっと調べてみたのです。
ネット百科の「ウィキペディア」の「チェス(クイーン)>「クイーンの価値」にこんな紹介があった。
1 チェスの駒6種類のうち最強であり、キングを除いた駒のうちもっとも価値が高い。
2 キングとクイーン1つで相手のキングをチェックメイトできるため大駒といわれる。
3 クイーンの価値はポーン9つ分とされる。ただしこの評価は絶対的なものでなく、局面によって駒の価値が変わる。

この紹介はまるで「『盤上の敵』を二倍楽しむために」書かれたような、3項目そのままに「クイーンの価値」が作品に表現されているのですから。
完璧でしたね。