北村薫『六の宮の姫君』に挑戦する
2002/06/14

ある人からミステリーファンとしてはこれは読むべしと指摘があって、本屋で手に取ったところ表紙挿し絵がインテリお嬢さん風な青春劇画ものだから、いい歳の大人が読むものではないなと気恥ずかしい思いでためらいつつ買ったものだ。冒頭から三好達治、坂口安吾に始まりチェーホフの文章作法をめぐる斯界の評論とまるで私の無知を嘲笑うがごとき蘊蓄を山のように積み上げている。どうやら芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」にまつわるナゾを推理小説の手法で解き明かそうとする試みと気がつく。

芥川の作品群など幼いころからまともに読んだことはない、ひけめを痛感します。敬意を表してまず芥川の「六の宮の姫君」を読む。陰陰滅滅として名調子でもある。若くして自殺する天才であるから仏教説話ももっともらしく説得力があります。ところが最後のオチがまるで理解できない。これを解き明かすお話なのかと、ウンザリしながらもこんどは覚悟して読む。

才気煥発の女子大学生が主人公であるが、明るく嬉しそうに飛び跳ねながら、やたらに文学知識をひけらかし、芥川論をぶつのである。文学論だけではない、演劇論から落語論までその博覧強記ぶりにむしろ読者は痛く劣等感を刺激される。北村薫という若い鼻持ちならないオンナめ、芥川をめぐるありとあらゆる他人の評論をつまみ食いしながらこれを小説風に仕立てているだけではないか、オリジナルの観点を持ち合わせていないと断定し、不快感を持ちながら読みすすめることになった。だいたい、小説において蘊蓄は調味料のようなもので素材そのもので勝負すべきであるなどとも思う。蘊蓄だけならはるかに丸谷才一の雑文のほうが読む価値があるというものである。仏教世界の極致など若いオンナになにがわかるかと人生を長く生きているオジサンとしてはますます不機嫌になっていく。

後半の菊池寛と芥川の交流あたりまですすむと、趣が変わって、あまり主人公が飛んだり跳ねたりしない。女子学生の友人との女の子らしい饒舌がなくなる。ここから主人公の視線なのか作家の思考なのかがあいまいになって実に生真面目に菊池・芥川の友情について感動している。むしろここはいいなと思いながら、しかしプロの小説ではないとケチをつける。パソコンにデータを詰め込んで精一杯この材料をつかって組み立てているだけである。私はこんなことまで知っているんだぞと鼻をヒクヒク高くしているだけではないか。

ところがこの「小説」の終わったあと巻末にある佐藤夕子の「解説」。なるほどここに仕掛けがあった。この「解説」と一体になってこの「小説」はミステリーとして完成するのだった。「解説」にどんでん返しがある。「解説」に北村薫が男であったというのはどうでもいいが、この『六の宮の姫君』はまさしく彼が早稲田文学部を卒業する時の卒業論文そのものだったという驚愕の事実を述べる。なるほどねぇ。卒論であるならばこれは優秀な論文だったに違いない。個性的な表現力、資料を丹念に収集している学究的姿勢、巧みな自己PR、すなおに感心します。
さらに、これを読みなさいとすすめてくれた匿名さんはなかなか洒脱な大人の方なのだろうと想像できます。

京極夏彦 『嗤う伊右衛門』
この京極流四谷怪談、時代設定はあの四谷怪談でありますが、明日の見えない現代の不安とそこで生きるもののこころの歪みをあな恐ろしく描写しています。
2003/11/26
四谷怪談と申しますと、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』であり芝居の世界である。寄席の人情噺にしても舞台にからくりが仕掛けられ、あやし系の音曲をくわえ、噺家も照明や幽霊装束でおどろかしたりする、いわば視聴覚に生理的恐怖感をかきたてるものであって読み物ではない。この『嗤う伊右衛門』は京極夏彦がこの四谷怪談を換骨奪胎した全く異質の幽霊の出現しない現代的怪談小説といって差し支えない。一読して文章を構成する一つ一つの言葉がひどく病的に暗澹としていることに気づく。ぬめぬめと粘りついて、異様な臭気まで漂うような言葉にあふれていてそれだけで充分薄気味悪いのであり、さらに登場人物のすべてがどこか心を病んでいてそれぞれの「狂気の沙汰」が披露される。
『東海道四谷怪談』が描いた封建社会崩壊期に生きる下層社会の鬱積した心理ではなくむしろ現代人の複雑に屈折した精神であると理解すれば、恐怖感は真に迫って、「怪談」として成功しています。

伊右衛門、彼にとって部屋に吊った蚊帳の中でこそ自分を確信できるが、その外は闇であって決して真実は見えない世界であり、そこではおのれという自覚は消滅し、ただ道を踏み外さず、しかしなすところなくいたずらに生きる人物と描かれる。一方、疱瘡の結果であろうか醜怪に変貌した武家娘・岩(四谷怪談のお岩さまよりはるかにおぞましい)、彼女はおのれの潔しとする所を確信し、家柄、格式、世間体を疎ましいと我を貫いて、夫・伊右衛門とは反対の極にある。個性的であり存在感があって当初はその生き方に共鳴するところがあるが、読み進むにつれ、その行動は見かけのうえでは道理はずれの過激でありむしろ醜いものと感じるようになります。そしてこの両極端の夫婦に会話は途絶え、周囲の雑音、誹謗中傷と邪悪な意図もあって、口論と暴力の悲劇的な生活が続くことになる。

全編を通じて虚と実が入り交じり何が真相であったかをヒントは提示するが明確にせずむしろ読む人の想像に委ねる話法はミステリアスな昨今の世情そのものをイメージさせて魅力的である。この夫婦の周辺にある人物群であるが、この男はサディストであろうか、それらは道を踏み外した親子・兄妹であろうか、老骨になっても母親コンプレックスから抜けられない老人、その老人が見せる娘に対する異常な偏愛はなにをもたらしたのかなど、ぼんやりとしたままに そこに共通してある、歪んだ性衝動が陰画的に描かれる。それはは今大きな社会問題化した異常な性犯罪にかかわる精神構造の縮図であって、まさに現代怪談と呼ぶにふさわしいのだ。

この夫婦、最終章でそれこそ身の毛もよだつ凄惨な死を迎える。しかし、虚と実は裏返る。この逆転描写はみごとである。まさに本格ミステリーである。複雑であるが丹念に描かれるこの周辺の人物像こそ醜悪な化け物であったと作者は言いたかったのだろう、逆説的に実は二人の夫婦愛、終着の美しさが光ってくるのである。



京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕』
ミステリーにおける饒舌の効用と瑕について考察する。
2003/09/23
小説にはときに本筋とは逸れた閑談が一体として作品の価値を高める役割を果たすことがある。その著者の深い経験や培われた見識から生まれた人生観・世界観を直接に語りかける「蘊蓄」にも魅力的なものがある。

京極夏彦を始めて読んだのが『鉄鼠の檻』であった。ホラー小説的要素を濃厚にしつつ、実はそうではなく、彼の妖怪談義にある人知では解明できない奇怪現象をその時代、地方の生活文化に結びつける民俗学的合理性の視点におおいに好感を持った。相当のボリュームで披露された禅宗を中心とした宗教論でも著者の博識ぶりにすなおに感心し、さらにこれが殺人事件の背景として融合されている組み立ての妙、衆生済度のための仏教が形骸化した現状に対する作者の批判的姿勢など、単なる謎解きミステリーを超えた魅力に著者の力量を感じた。肝心な謎解きとしても、謎の提起から緊張したプロセス、そして鮮やかな解決と申し分ないミステリー傑作であった。次に読んだ『姑獲鳥の夏』も二度と使えないひとを食ったトリックではあったが記憶に残る作品といえる。以降、古書店の主人京極堂とその友人たちを探偵とするこのシリーズものを新刊が出るたびに読みつづけることになったが、一般的にシリーズものの良さは二作目、三作目あたりがピークなのである。

その先入観どおりにこの最新作は退屈なだけのボリューム大作であった。
白樺湖畔の大邸宅「鳥の城」の主・伯爵は過去4度の新婚初夜に花嫁が殺害された経歴の持ち主で、今回の5度目の婚礼にあたり、京極堂の友人である二人の探偵役にその護衛を依頼する。もちろん京極堂が登場し、他に優秀な刑事までも探偵役になる。

読み進むのだが肝心の事件がいつまでたっても発生しない。本筋とは逸れた「閑談」「雑談」「蘊蓄」のたぐいが延々と叙述される。病的な奇矯の持ち主である伯爵と躁鬱性で幻覚・幻聴におびやかされる探偵役のあいだで形而上的装いを借りた認識論やら死生観やら存在論やらの抽象議論をさらに抽象化した退屈な談義と精神分析的内省プロセスである。これに輪をかけての長広舌として今回は京極堂の論語講義を聞かされるのであるが、これとても色あせたドライフラワーのように味気なく、よく読まないせいかもしれないが、意味不明であった。

抽象的な論理を組み立てる能力のピークは、20から25歳と聞いたことがあるが、若い世代にはこの手の叙述に惹かれるところがあるのでしょうか。現実への直視と経験に基づく哲理なら若い者には負けぬと居直って、老獪な古狸のオヤジといたしましては、たとえこの饒舌の中に重要な謎解きのヒントが隠されているとしても、読むに値しないと割り切ることになります。 

めくるページも残り少なくなって殺人事件が発生し瞬く間に解決しますが、たくさん登場した探偵役が全員不在であったらもっとわかりやすく事件は解決したという印象のミステリーであって、読むに値しないとおもわれた大部分をとばし読みしたのは正しい判断であったと確信したのである。これはミステリーとしても致命的な「瑕」でありましょう。