良美展について、本人による感想
日常にて芸術が不用の我が国

良 美


1996年11月の個展が終わってから半年が経ち、ようやく落ち込みから立ち直った。 毎回個展の終わった後のこの空しさは、日本の中で創作活動をしている限りなくならないであろう。私だけの事ではなく、日本の中で開催される現代美術の展覧会を見た後の悲しさ。作品の中で暴露する自我や、社会に対する痛烈な批判、それらをいくら喚き散らしても作品を鑑賞する人達が少なくてはマスターベーションで終わってしまう。理解しようと近づいてくれる人がいて、はじめて絵は艶めいてくる。     
日本は、日常にて芸術が不用の国である。人々は部屋に絵を飾る習慣がない。たまたま、普通以上の生活を手にいれ、壁に空間があってはじめて絵を飾る事を思いつく。でも、好きな作家がいない。いるわけがない、見る目をもつほど絵を見たことがないのだから。また、過剰にお金を手にした人は投資として絵を手にいれる。ひどい事にそのような目的で買われた絵は飾られる事はない。「文化レベルが低い」といってしまったら、後はなにも語ることがなくなってしまうのでやめておこう。      
日本の中で絵で生きていくには、日本画を選び掛軸でもかいていかなくては生活していけない。残念ながら、私はそれをする事ができない。日本の中の浜松という地で創作活動をしている私。女として妻としてのわずらわしい日常に使う時間を惜しく思う時もある。生活のために働く。絵を続けることはお金も時間もかかるから、生活の中で色々な制限を受ける。そして理解する人が少い。だったらやめればいい。でもそれをしないのは、なぜだろう。誰かに誉められたくて描いている?奇跡的に有名になるかもしれないから?色々と考え巡らしても理由はみつからない。ないのかもしれない。
描きたくなる、絵で表現したくなる、そして作品がたまる。犬や猫相手でも展覧会をしたくなってしまう。そして、その犬や猫達が抽象画を理解する能力がなかった事に落胆する。それが何年も繰り返されている。いつまで続くのだろう。でも、懲りずに 2年後にまた展覧会を開きたいと思う。そして「売るためだけの絵を並べるたくはないな」などと思ってしまうのである。                     
私の個展のために、オープニングにてマイムを演じてくれた細川紘未さん、応援にかけつけてくれた多くの友人、素敵な記事を書いてくれた竜二君、そして理解ある配偶者に感謝します。                              

                                  1997.5月

 

 
  Exhibiton Top Next