千里眼の猫
「…暇だね、御園生くん」
「仕事して下さい、所長」
とある探偵事務所内における、一人の所長と一人の所員による日常の会話である。
「そう言えば先刻、女史が来てたね?」
はぐらかしたな。僕は横目で睨む。当の本人は所長席の後ろの窓の外など見ている。灰色の壁しか見えないのに。
「起きてたんじゃないですか!」
「だって目開けるの面倒だったから。事件?」
「はい。隣のビルに。聞き込みだそうです」
「怪しい人でも居るのかな」
「1階の商社に勤務してる女性が…。確か…カケイさんとか…」
「そんな、部外者にポンポン喋って良いの?」
「所長に助言を乞いに、こっそり来てたんですよ」
狸寝入りしてたくせにこの人は。
――女史から聞いた話はこうだ。
アパートの一室から男の他殺死体が見つかった。
そのアパートに住んでいたのは女性。つまりカケイさん。発見者も彼女。
部屋は5階、ベランダからの進入はちょっと無理。扉の鍵は開いていて、犯人は玄関から侵入したようだ。
季節柄、無人のアパートの気温は朝や夜は氷点下、死亡推定時刻もはっきりしないらしい。
死体はカケイさんの恋人で、何故彼女の部屋に居たのか、理由があった。
カケイさんは何者かに狙われていたのだという。真相を確かめる為に、恋人は彼女の代役でアパートに居たようだ。
そこを襲われた。
「…気づかなかったの?」
犯人は、と続けて、所長は欠伸を噛み殺す。
僕はお茶を淹れようとキッチンへ行く。この所長、見かけは洋風のクセに、中身はとことん和風で珈琲より日本茶を好む。銘柄には拘らないが熱さには煩い。猫舌なのだ。
「そのようですね。一応、彼女のフリをしてたそうですけど」
女装のまま殺されていたらしい。女史はどっちも間抜けだと辛辣に吐いていた。
「カケイさんは、恋人から連絡が来ないので、業を煮やして戻ってきたらしいです」
「そしたら被疑者扱い、と」
「はい」
「…えっと、彼女は何処行ってたの?」
緑茶をなみなみと注いだデカいマグカップを、所長は嬉しそうに受け取る。
「田舎に帰ってたそうです」
「田舎?」
「青森だそうです。えっと下北半島のどの辺か」
「ふうん。遠いね。…カケイさん…どんな人だっけ?」
カップの縁にちょっと口をつけて、まだ熱かったらしく所長は少し顔をしかめた。
「お昼を買いに行くの、よく見かけますよ。髪の長い清楚な雰囲気で」
「ああ、御園生くん好みだね」
「大きなお世話です。とにかく、彼女が帰省して暫くは、恋人は生きてたらしいんですけど」
夜に明かりがついているのを、隣人が帰宅時に確認している。
「警察に訴えれば良かったのにね」
「女史もそう言ってました。犯人と対決するのは恋人だし、彼女に危険はないだろうって思ったらしいです。犯人騙すのに――あ、近所の弁当屋のおばさんにもこぼしてたそうなんですけど、困ってるんで今度捕まえるって――その日はシモキタに出かけるって言って」
「言ったら駄目じゃない?」
「犯人に聞かれていた時の為のカモフラージュだそうです。結構色んな所で言ってたようです。で実際に行って恋人と入れ替わって、本人は青森へ、恋人は彼女のアパートへ」
そして見事に引っかけた。
「間違えられたまま殺されてしまったのでは、最後のツメが甘かったですね」
「誰の受け売り?」
「女史です」
「今度会ったら注意しとこう」
「それで、何か解ったら連絡下さいって言ってました」
「他力本願だなぁ」
「頼りにしてるんですよ」
所長に会う理由付けってのもあると思う。
ずず、と茶を啜る音が事務所内に響く。
「…温まるねぇ」
至極、幸せそうだ。
僕は以前は珈琲派だったけど、所長に付き合ってるうちに今じゃ普段飲むのは殆ど緑茶だ。
「彼女、寒かったろうね」
「…え?」
「御園生くん、お茶、もう一杯くれる?」
* * *
――御園生くん言うところの『髪の長い清楚な雰囲気』のカケイさんはすぐに解った。モデルのように綺麗な歩き方。
「おはようございます」
植え込みの柵に座ったまま挨拶する。吃驚して彼女が立ち止まる。
「…誰?」
「しがない探偵です」
意外な返答だったらしく、彼女は訝しげに尋ねる。
「探偵さんが、どんなご用?」
「ちょっとお話を」
「…悪いけど」
「すぐ済みますよ」
不審者に朝っぱらから話し掛けられ――不審者に特に時間帯は関係してこないだろうが――、あからさまに逃げ腰の彼女を、人懐こい笑みで引き止める。本気で笑った時の効力は充分承知している。
「恋人を亡くされたそうですね」
「…ええ」
「殺したのは、貴女ですね?」
ずばり言われ、彼女は息を呑む様子。それから憤りを露にした。
「ねえ探偵さん? 失礼じゃない? 仮にもそれ、彼を亡くした女へ言う事? 部屋に戻ったら彼氏が死んでたのよ。あたしの代わりに殺されたの。事情をご存知のようだけど、デリカシーのない人ね」
「お気に触りましたら御免なさい。でも事実でしょう?」
「何の根拠があって?」
「風邪、よくなりました?」
数日の間、あまり調子が良くなさそうにしていた。マスクをしていた日もあった。
「貴女が帰省したのは殺した後。その前は恋人のアパートに潜んでいた。寒かったでしょう?」
「風邪くらい、冬でなくても引くと思うけれど?」
「雪国育ちって寒さに強くないんですか?」
「それ、思い込み、と言うより、偏見に近いと思う」
ちょっと呆れたふうに彼女は言う。
「雪には強いかもしれないわね。同級生で風邪ばっかり引いてた子、いたわよ」
「貴女は?」
「あたしは丈夫だったわよ。中学高校と皆勤賞貰ったもの」
「じゃあ寒い場所にいても大丈夫ですね」
「だからどうしてそうなるのよ」
翻弄されているのが解って、彼女は朝の低い気温の所為だけではなく頬を赤くする。
この男に付き合った自分が莫迦だったと、言わんばかりに睨めつけてくる。
「お話は、それだけ?」
彼女は冷静さを失わない。
上気した頬は直ぐに元通りになった。付けられた言い掛かりを許せずに相対しよう、としている。
「本当に遅刻よ、もう」
「それは私も同じです」
きっと御園生くんが怒っている。朝のお茶を、淹れてくれないかもしれない。
「もう少しで終わります」
「…聞くわ」
彼女は諦めたように息を吐く。
「扉の鍵は、開いていたそうですね」
「…捕まえるなら迎え出なければならないでしょう? 閉じ籠っていたのでは解決しないもの」
「玄関で仕留められずに室内に移動したのですね」
アパートの一室で、と聞いた。女史は言い間違えない。御園生くんは聞き間違えないし伝え間違えない。
「…大変だったのだ、と思うわ」
「訪れたのが貴女なら、すんなり部屋の中まで入れたでしょう」
「まさか! 迂闊に戻ったら危ないじゃない!」
「本気で捕まえる気なら、いくらアパートとは言え奥まで入れないと思います。ましてや自分の彼女の部屋です、荒らしたくはないでしょうし」
外へ連れ出すだろう。大立ち回りを演じるつもりなら広い方が良い。
「用事がある振りをして部屋に戻ったのではないのですか?」
「何の為によ」
「勿論、始末する為です」
「だから…」
「貴女は貴女と一見して解らないようにしていたのでしょう? 服装や髪型。キャップを被るなりするだけでも印象は随分変わる」
彼女は不快そうに眉根を寄せる。唇を引き結ぶ。
「暖房まで切ったのは何故です? 単なるストーカならそんな事して逃げないと思います」
部屋を冷やして。
死体を冷やして。
「それから、変装したまま青森行きの切符を買った」
家族に口裏を合わせて貰い――ストーカ云々も話したかもしれない――頃合を見計らって帰って来る。
暫く、彼女は黙っていた。
――ぽつりと、呟く。
「…どうして?」
解ったのかと。
「私は、見なくてよいものまで見えてしまうんです。恋人に不満でもありましたか?」
彼女は溜め息を吐いた。
「恋人じゃないわ。そう思ってた人もいたみたいね。しつっこくて、大嫌い。虫唾が走るわ」
「それはまた辛口な」
「大学の同級生だったの。その頃は楽しかった。卒業してから自然と疎遠になって、まぁサークルも違ったし、学科が同じってだけじゃそんなものかしらね。あたしも就職して忙しかったから連絡しないままだった。それがある日、突然現れたんだわ」
毎日職場や部屋に来るのよ、と彼女は苛ついたように告げた。
「だからストーカをやっつけるってところは本当なの」
「行き過ぎましたね」
「こっちが危なかったんだもの。男の人には解らないかしらね? ――もう、付き纏われる事はないのよ」
彼女は幸せそうに微笑む。冬の朝の冷たい空気が、ほんのり暖かく感じられるような。
「解りますよ。恐怖に男性も女性も関係ありません」
「警察に突き出す?」
「私が貴女を? いいえ。私は、私と私の所員に、火の粉がかからなければどうだって良いんです。全て瑣事ですね」
彼女は驚いたふうに目を丸くし、そして苦笑する。
「怖い人ね」
「普通では?」
「そうね。あたしも、あたしだけが大事だったのかもしれないわ」
「過去形ですか?」
「さあ? ねぇ探偵さん、あたしもお話があるの。前にそう言えば、『千里眼の猫』って聞いた事があるのよ。何でも見通すって評判なんですって。本当ね」
「光栄ですね」
「さよなら、猫さん。もう二度と会う事はないでしょう」
光の中、長い髪を優雅に翻して、彼女は歩き出す。
そして朝の雑踏の中に消えた。
* * *
閉て付けの悪い事務所の扉は、音を立てずに開閉するのは不可能だ。
ホラー映画のような怪音が聞こえるなり、僕は叫んだ。
「所長! 遅刻ですよ!」
「野暮用で」
がっくりと僕は脱力する。そんな言い訳しないで欲しい。
「所長」
「待って待って。温まらせて」
急いで扉は閉めたのに、所長の体から冷気が迸って一気に室温が下がった感じだ。今朝はそんなに寒かっただろうか。普通に歩いて来る分にはさほどでもなかったと思う。
ハロゲンヒータの前に屈みこんで、両手を擦り合わせる姿は本当に寒そうだ。
「…あ、所長、昨日の件。女史の。どうします?」
「ああ、あれね。解決したよ多分」
「ええっ!」
どういう事だろう?
「簡単な事だよ。御園生くん」
所長はしれっと答える。
「カケイさんの出身はシモキタだっけ?」
えっと。そういう言い方をされると…。
「ほら、キミも勘違いしてる。下北沢じゃないでしょ、下北半島。青森の」
「…え、ええ…」
「田舎は青森だって知ってた上で、シモキタって音だけで行き先を聞けば、青森を思い浮かべないかい?」
「そうですね」
「て事は、帰ったと思わせる、事も出来る訳だ」
「…あ」
僕はぽかんと口を開けた。
逆手に取られた。
「所長、それじゃ、見事に思わされた、って事ですか? て言うかえぇっと誰が誰に?」
「被害者が加害者に」
「え、…って…?」
「彼女は事を済ませてから本当に帰ってたみたいだけどね」
シモキタとわざわざ言ったのは、ストーカへのカモフラージュだった筈。
カケイさんから周囲への。
そして、二重のカモフラージュでもあったという事か。
僕は、ヒータの前に屈んだままの背中を見つめる。
この場合そんなのはどうでも良い事だよ、とその背中が伝える。確かにそれで騙されて、損をした人はもう居ない。意味のない言葉遊び。…何かあったんだろうか。
「あのー、彼女、って…、…カケイさん、アリバイは?」
「身内の証言は効力を持たないからね。それに切符の日付やなんかでバレるんじゃないかな」
「それ、女史に…」
所長は首を横に振った。
「女史に任せときなさい」
私達の出る幕ではない、と言外に所長は宣言する。
「そうですね…」
あの人なら確実にカタをつけるだろう。
「――さぁて、私達は私達の仕事をしようか」
所長は立ち上がって伸びをする。
「お茶を淹れてくれるかい、御園生くん」
仕事って。僕はお茶汲みじゃない。…お茶を淹れるのは好きだけど。
「はぁい。…所長は何をするんです?」
「差し当たり、キミのお茶を飲むよ」