HOME紙屑TOPお題TOP


 三角ルビー

 迫り来るは炎。慟哭。叫喚。喘鳴。
 踏み躙られた旗。
 王国の滅亡。

「走って!」
 侍女の手を引いて、アスランは裏通りを駆ける。
 セラはお仕着せのドレスの裾をたくし上げ、必死についてくる。1つ年上の乳姉弟は運動はからきしで、走れば必ず転ぶという特技の持ち主だ。護衛としての技術も仕込まれたがモノにはならなかった。
 …とは言え、もし使えたとしても、10万の軍勢が相手では勝ち目は無い。
「アス、ラン様…っ」
「頑張って!」
 吹き付ける風が熱い。焦げ臭い匂いが辺りに充満している。街全体が燃えていた。夜空が赤い。
 城の最上階から見下ろす街は、美しかった。石造りの古い街。通りの頭上には幾本も紐が渡され洗濯物が翻る。青空。建ち並ぶ露店。バザール。市井の人々は皆優しかった。
 今は過日の面影もなく。

 アスランは13歳になったばかりで、生まれて初めての、そして最大の危機に陥っていた。
 宰相の反乱――父王の弑逆。
 数多の命を犠牲に、城を落ちた。
 市街地をひた走る。
 護衛達の姿はない。世継ぎの王子を護る為に残り、誰一人として追いついては来ない。
 唇を噛み締める。
 腰に佩いた太刀が重い。

 市街地を抜け、2人は郊外へ来ていた。訪れた事は無くても知らない地ではない。物心ついた時から教え込まれてきた。
「アスラン様、ここは…」
 息を弾ませながら頷く。
 始祖の霊を祀る聖廟だ。
「あの、ここに何が?」
 セラが動悸を静めるように胸を抑え、不安げに周囲を見回す。不安――畏れ。
 周囲は静寂に包まれていた。街の騒擾もここへ届いては来ないかのように。
 流石に禁域を襲おうと考える者はいなかったのか。
「ここに、『聖石』がある。イリヤに取られる訳にはいかないから」
 それは戴冠式の時にしか表に出されない、聖なる石。安置場所を知る者はごく僅か。王と大僧正は口を割らずに死んだ。
 アスランは本殿前で拝礼する。
 自分がここへ実際に訪れるのは、まだ先の筈だった。
 外廊に沿ってぐるりと巡る。廟堂の裏、石壁の彫刻に紛れるように扉があった。装飾のように取り付けられている連環を引く。
 誰何もなく扉は開かれた。

 現れたのは、小柄なセラよりも小さな、1人の尼僧だった。ランタンを持つ枯木のような手。頭巾に隠されて表情は窺えない。
 真夜中の訪問者を素早く招き入れ、尼僧は扉に鍵をかける。閉めてしまうと、明かりはランタンのみ。狭い踊り場の先に段があり、階下は黒に塗り潰されて見透かせない。
「お待ち申し上げておりました」
「え?」
「訪れを星が告げておりました故」
 向日葵の油の匂いのするランタンを掲げ、尼僧は先頭に立って降り始める。アスランとセラも続く。
 指先に当たる、石壁の感触。こんな人の目に触れないような処にも、精緻に紋様が彫り刻まれている。
 細く急な階段の突き当たりには扉があるようだった。その向こうには小部屋。正面に小さな祭壇。数え切れない程の蝋燭が、溢れるように室内を橙色の明かりで埋めている。
「拝礼堂?」
 さながら異界に迷い込んでしまったかのようだ。
 尼僧が、古い小箱をアスランに捧げる。
「王太子殿下、始祖の御名において、護りの石を授けます」
 中には、指輪が1つ納められていた。輝く紅い石。石は三角形にカットされている。三角形は王家の紋、盾の意匠。
 それはアスランの右手の中指に、ぴったりと収まった。
 驚いて尼僧を見ると、彼女は安心させるように頷く。そういう『物』だと。
「あらゆる危険や災難から貴方様を護りましょう。どうぞいつ如何なる時でも御身より離さぬよう…」
「ありがとう」
「礼には及びませぬ。次なる王にお渡しするのがわたくしの役目なれば」
 年経た尼僧の口元が、はんなりと笑んだ。

 ――鈍い振動が伝わる。
 音源は、階上から。
 尼僧は手早く小箱を祭壇に仕舞う。
 壁際で何やら操作する。壁の一部分に亀裂が入った。人一人がやっと通り抜けられるような、小さな長方形。奥へと更に続く扉だった。
 次の間は拝礼堂よりも狭かった。明かりはない。殆ど闇の中に、簡素な暖炉、片隅には藁の塊、敷布、数冊の教典、草臥れた行李。――尼僧の居室か。
 暖炉の奥の煉瓦を外すと、屈まなければ進めない程の細い隧道が口を開けた。
「市門の外、ミシュナ大河の辺に出られます。お急ぎを」
「え…でも」
「わたくしは御霊にお仕えする身。ここを離れるわけには参りませぬ」
「でも…っ」
 まさか霊廟内で流血沙汰は起こさないだろうが、指輪を王太子に渡し、逃がしたとあってはただでは済むまい。
 拷問にかけられ殺されると解っている者を、残してはおけなかった。
「尼殿!」
「お行きなさい。生き延びて、御父君の仇を。我が君に御加護のあらん事を…」
 頭巾の下の双眸は、刻まれた皺に埋もれて解らなかった。
「アスラン様」
 セラが急かすように呼ぶ。
 音は足音と解るまでに近づいていた。
 泣きそうな顔でアスランは盲いた尼僧を見る。ぎゅっと目を瞑り、振り切るように踵を返す。

 トンネルの中はとても寒く、冷えて、街を焼く炎火は伝わっては来ない。
 しばらく行くと、立てるくらいの高さになった。走る。
 右手に嵌められた指輪と、握るセラの手だけが、熱い。


Fin

あとがきモドキの言い訳へ

HOME紙屑TOPお題TOP