賢者のお城
のっぺりした曇り空。
濃淡がない。何処までも白灰色。気持ち悪い。
眩暈を覚えてターメルーメは、露台から室内へ引っ込んだ。
「…何してんですか?」
セルテルティウスが怪訝そうに尋ねる。片手にバケツ、片手に雑巾。
こんな曇り空の日によく掃除をする気になれるものだと感心しながら、ターメルーメは何でもないと首を横に振った。
「じゃそこ退いて下さい。手擦り拭きますんで」
「…働き者だね」
「セリがやんなきゃ誰がやるんです?」
至極もっともな返答だった。
ターメルーメは不可思議な力を行使できる。それは己の学究にのみ向けられている。
彼は目下、球状における界面活性剤の重力による影響力を研究している。…つまりシャボン玉を如何に長時間シャボン玉たらしめておけるか。
終日、露台からシャボン玉を飛ばし、その様を飽きずに眺めている。
暇人なのかとセルテルティウスは思う。現在の収入源は、そのシャボン玉。麓の村の駄菓子屋に納めていて、よく弾んで割れないと子供達に大人気。売れ行き上々。
もう癖になっている、耳朶の青玉のピアスを弄る。ターメルーメの使い魔の証。これを付けられた時からセルテルティウスはターメルーメを主人と仰ぐ。
手擦りの、つい先程までターメルーメが触っていた辺りを指でなぞる。
特に汚れてはおらず拭く必要はなかった。主が触れた物を同じように触れてみたかった。主の見た景色を、同じように見たかっただけ。
この思いは、使い魔としての枷故だろうか。
掃除は任せ――役に立たない事を、よく心得ている――ターメルーメはその場を離れる。
手に持つ試験管を軽く振って粘力を確かめる。中身は合成したシャボン玉用の原液。なかなかの出来栄え。
研究室へ戻る途中で足を止める。気配。
間髪置かず、セルテルティウスの大声が。
今来た廊下を引き返している途中で、飛行するズブ濡れの塊と遭遇した。どうやらセルテルティウスにバケツの水をぶっ掛けられたらしい。
一瞥して誰かの使い魔と知れた。黒い羽に黒髪、黒い服。身長1mくらい。華奢な子供のような姿。
つまり喧嘩を売られた。
盗られて困る研究物は特にない。けれど売られたからには買うのだ。
その背後にセルテルティウスが追いついた。
「窓閉めようと思ったら…。すみません、侵入を許しました」
「大丈夫」
小悪魔が動くよりも速く呪文を紡ぐ。
「我は命ずる。捕獲せよ」
試験管から粘着質の液体が飛ぶ。魔力を加えて小悪魔を濡らす水と攪拌。
指を鳴らす。
高さ2mばかりの宙に浮かぶ、七色に輝く透明の大きな球体。
「御主人様、これは?」
「檻」
「シャボン玉ですよね?」
「研究の成果を見て欲しいな」
満足げなターメルーメに、不審げなセルテルティウス。
球体の内部で小悪魔が何度も拳を繰り出す。どんなに突いても膜は衝撃を吸収して柔軟に伸びるばかりで、厚みなどなさそうなのに割れる様子は全くなかった。
「凄いです!」
己の使い魔から拍手喝采を浴びる。
腕を組んで、ターメルーメは球体の前に立つ。
「特別製だから破れないよ」
小悪魔はターメルーメの言に嘘は無いと悟ったか、暴れ回るのを止める。それ程間抜けではないらしい。球体の中で胡座を掻き、腕を組み、上目遣いにターメルーメを睨めつける。
「さて。何の御用かな? 誰のお使い?」
無言。
捕らえられても使い魔としてのプライドは崩さない。
「じゃあちょっと可哀想だけど」
ちっとも可哀想とは思っていない口調で言って、ターメルーメは指を鳴らす。
途端に球体が縮み始めた。丸は小さくなり、中で座る小悪魔の座高と同じ直径になると、今度は小悪魔の外型に合わせて縮む。
やがてペッタリと小悪魔の全身に張り付いた。表面はてらてらと輝き、飴細工のようだ。
小悪魔は眉を顰める。
外界からエネルギーを摂取できない。
羽も閉じられ身動きもままならず、じわじわと締め付けられる。
苦しい。
「死ぬよ?」
朗らかに宣言された。
笑顔が怖い。
本気だ。
渋々小悪魔は口を割る。
「西のトゥル・ギ…」
「…ああ。ああ、そう」
「御主人様、ご存知なんですか?」
「ちょっとね」
溜め息を吐く。
変にライバル心を持たれて、いい迷惑。こんな子を寄越して嫌がらせのつもりか。また指を鳴らして、元の球体に戻す。
「名は?」
小悪魔は顔を背ける。
「いや。お前に名はないな。それほど大層なレベルじゃない。そうだろう?」
「そんな事ない!」
真っ赤になって小悪魔は抗議した。
「俺は」
「では上書きしよう。お前は今から『ユーシュルカ』だ」
隠棲の賢者はニヤリと笑う。
「…え」
「我が名はターメルーメ。ユーシュルカ、我が為に奉仕せよ」
パキンと枯れ木が折れるような音がして球体は割れた。小悪魔――ユーシュルカは落下する。寸前にターメルーメは拳を握って落下を止め、床に下ろす。
「セリはセリだよー」
近づいたセルテルティウスが能天気に自己紹介する。
「お揃い♪」
髪を掻き揚げて、己のピアスを見せびらかす。
ユーシュルカはその言葉に思わず手をやる。耳朶に異物。痛みもなく突然出現したそれ。
展開に置いてかれそうだ。もう――今までの主は主ではなく、この目の前の底意地悪そうな笑みを湛えた男が、主。
以前の契約を破棄もせずに新たに書き換えてみせた。
ユーシュルカは戦いて実行者を見上げる。
前の主は愚挙を仕掛けたのだと知った。
そして己が使い捨てにされた事も。
「セリ、品物はこれ。よろしく。ルカ、暴れないでね」
「行ってきまぁす」
「なァ買い食いして良いか?」
「駄目」
にべも無く却下。唇を尖らせてターメルーメを上目遣いに睨む。
「お土産にして。一緒に食べよう?」
聞いてユーシュルカはパッと顔を輝かせ、先を行くセルテルティウスを追いかける。
枝葉の隙間から、漂うシャボン玉が垣間見える。作っているのは使い魔達の主。
人の手の入らぬ深き森の奥の、古びた建物。
其は賢者のお城。