なお和歌の浦編48で記載した
   「潮みたばいかにせむとかわたつみの神が門(と)わたるあま処女ども」
は下津町方の歌であるという説もあり、粟島神社の境内に郷土史研究家栗栖安一氏揮毫による歌碑が立っています。近くには紀州徳川家の菩提寺「長保寺」があります。
有田へ越えて行く所に生えている小為手の山の杉の大木よ、しばらく見ないうちに苔が生して来たなぁ。   読人不詳 (7-1214)
海草郡下津町小畑「拝ノ峠」あたりという説と有田郡清水町押手いう説がある。前後の歌、熊野古道から推察して私は前者説を採用、但し清水町は良材の産地で美しい蘭島のタナ田を全国の万葉ファンにお見せしたいので清水町蘭島タナ田の写真を記載しました。安太(アテ)とは紀伊国阿提(アテ)郡のことで大同元年(806年)に平城天皇の諱『安殿(アテ)』をはばかって「在田郡」と改められました。現在の有田市。小為手(サイデ
orオステ)。ま木-まことの木、すぐれた木のことで良質の材木となる木、即ち檜、杉を指す。
67 安太へ行く小為手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり
2001/06/10 有田川上流清水町蘭島(あらぎじま)の棚田 紀子妃殿下曾祖父様の里。
長保寺は長保2年(1000年)、一条天皇の勅願を受けて性空上人(しょうくうしょうにん)により創建されたと伝えられています。一条天皇には定子、彰子の二人の后が居ました。定子皇后のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言で、彰子皇后のお付の女官が「源氏物語」を書いた紫式部です。これらの文学作品は一条天皇の長保時代の宮廷生活を題材として描かれています。長保時代は平安貴族の王朝文化が最も栄えた時代です。長保寺が創建された長保2年に定子皇后がお亡くなりになっています。長保という年号を名乗る寺の建立は一条天皇にとって特別な意味があったに違いありません。
本堂1311年、多宝塔1356年,大門1388年、鎮守堂1295年といったように主要な建物は鎌倉時代に再建されたものです。長保寺は天台宗として創建されましたがその後、法相、天台と変わり、現在あるお堂が再建されたころは真言宗のお寺でした。仁和寺から印玄という僧が来て本堂の再建を指導しています。
寛文6年(1666年)に紀州徳川家初代藩主頼宣(よりのぶ)公により菩提寺に定められました。その時、頼宣と天海僧正の約束により天台宗に改められました。江戸時代に本堂背後の山の斜面に広大な藩主廟所が造られました。周囲が山に囲まれ要害堅固である所から非常時紀州藩の陣地として利用できるよう造営されました。     (長保寺パンフレットより)
長保寺の歴史
国宝 本堂 01/10/25
国宝 多宝塔 01/10/25
長保寺の甍(いらか)
本堂、多宝塔、大門と三つそろって国宝である寺は、奈良の法隆寺と長保寺のみです。
国宝 大門 02/03/39