65 大崎の神の小浜は狭けども百船人も過ぐとはなくに
神が鎮座する大崎の小浜は(三方が山に囲まれ)狭いけれども多くの船頭達は直ぐに過ぎて行かないで
立ち寄って行くのに 
(6-1023) (石上乙麻呂)
この歌は石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろまへつみき)土佐国に配流されるときの歌三首(6ー1019
1020-1021、1022)の反歌です。「流人である自分だけはあわただしく船出しなければいけない」と
いう心境が裏にあります。大崎港の外海は紀伊水道の潮の流れが速い荒海、その上この付近台風銀座、
従って北、東、西三方 山に囲まれた静かな入江である大崎港は避難場所として重宝がられ、信仰心も
厚く
神の住む浜としてあがめられたものと思います。入江には弁天島という小さな島があり、近くには
悪天候、おおしけの海を江戸に
みかんを運んだ紀伊国屋文左衛門船出の石碑が立っています。
橋本編、No.13でも記述しましたがそのわけをもう少し詳しく述べておきます。
続日本書紀によると「石上乙麻呂、久米連若売(くめわらじわかめ)奸する罪に坐(あた)リて土佐国に配流(なが)さる。若売は下総国に配さる。武門の誉高い名門物部氏の直系で風貌よく当代有数の文人、石上乙麻呂と当代切っての実力者藤原宇合(うまかい)の未亡人で当時宮中に奉仕していたとみられる久米若売との恋愛事件は、都人の間で格好の話題となり、帝の怒りに触れ配流の身となりました。但し、二年後、大赦で無事帰還しました。 (紀伊国万葉歌碑散歩;佐々木政一著、下津町教育委員会資料より)

天平11年(739)、石上乙麻呂卿が土佐に流された理由
大崎の荒磯の辺りに延び広がり這う葛のように私の恋は行方も定まらず恋し悩み続けて行くことだろう (12-3072) (読人不詳)
66 大崎の荒磯の渡り延(は)ふ葛の行方も無くや恋ひ渡りなむ
みかん畑より大崎漁港を撮影 01/10/26
大崎漁港と集落 01/10/26
大崎漁港近影 01/10/25
「大崎の荒磯・・・」の歌碑の立つ場所、和歌ノ浦、双子島、加太,淡路島一望 01/10/26
「大崎の荒磯の渡」について
『古義名処考』によると「紀伊国海部郡にありて、よき港なり。浜に人家ありて、遊女なども居り、往来の船、大方この港に
つく。今も土佐の船の往来に常に泊まる所なり。古も土佐にかよふには、かならず此の大崎を通りしならむ」と記されている。(「下津町万葉歌碑めぐり」より) 現在,道路が整備され大崎に行くには便利になりましたが今から40年頃前まで陸の孤島といわれ、通勤や通学のための連絡船(ぽんぽん船)が大崎港から下津港に就航していました。
40年ぶりに大崎を訪れた感想

とにかく大崎、塩津周辺の景色は美しい!!、快晴の10月25日、ワイフと散策してみたがあまりに素晴らしいので、もう一度翌26日、一人でカメラと双眼鏡を持って行ってきました.。但し一部弁天島後方の岬の山が削られて石油備蓄タンクが設けられ景観が非常に悪くなっていた。どうしてあのような場所に莫大な資金を投じて備蓄タンクを作ったのかその理由をききたい。わざわざ開発しなくとも付近に石油製油所跡の広大な遊休地があるのに残念だ。とにかく和歌山というところは無茶苦茶だ、水軒の浜や海南の黒江、名高の浜、冷水の浦を埋め立てしまうし、又その後それらの土地が有効に活用されていれば文句の付けようもないが十分生かされていないし、一部の企業は和歌山から撤退する話もでているし、一体どうなっているの。
『大崎の荒磯・・・』の歌碑のそばのベンチでおむすびを食べました。付近にはたばこの吸い殻や空き缶がありましたのでできるだけゴミを拾い持ち帰りました。ちなみにやっちゃんはタバコは吸わない。