陽気ぐらしの用材として・・・・・・・・

私達よふぼくは、戴いたおさづけの理を一人でも多くの方に真剣に取り次ぐことが大切であり、教祖を信じるためには、教祖の存在を感じることが必要であり、感じるためには、「おさづけの取り次ぎ」とお聞かせ頂いてます。 何より教祖を身近に感じさせて頂けることと思います。
親神様・教祖の存在を感じると共に、忘れてはいけないのは、親々の徳です。
私は、出会いによって、教祖のお姿はみえないけれど、教祖が一緒に撫でてくださっている。身近に存在を感じること・・・・・多くのことを学ばせていただきました。
また、前会長さんを通して、素晴らしい感動を、出会いを頂きました。昨年11月当教会への月次祭、そして学び会と参拝してくださった80代半ばのご婦人、おぢばへお誘いして、その月25日に初めておぢばへご一緒しました。あの日あの時より、毎朝2キロ半の道のりを自転車で運んで下さるんです。神様に向き合う姿勢に私達は感動を覚えています。勇みもたくさんもらってます。
変わらぬが誠。まさにその通りです。この出会いも、神様が「心を倒さんと頑張るのやで」と私を見守ってくださってるように思えます。
まだ課せられた課題がたくさんあります。

陽気ぐらし世界建設の用材としてお使いいただけますよう心の成人の道を歩ませていただきたく思います。

陽気ぐらしの上に大切なことは、信じきること、凭れきること。

教祖を感じ、親神様、教祖に感謝の心を忘れないことだと思います。
お話に「不足は切る理、たんのうはつなぐ理」とあります。自分はそんなつもりでなくても、不足の言葉がちょっとでも口に出したら、不足の輪が広がってしまう可能性があります。そうなると、おたすけの反対をしてしまっていることになります。不足は決して言葉に出さないことです。私達は、ややもすると朝に結んだ約束も、夜寝る頃までにころころ変わる。反省することばかりです。心定めには勇気と決断と実行が大切です。
「人をたすけて我が身たすかる」「たすける理がたすかる」とも教えられます。救かりたかったら、救けなさい。では、人をたすけるとは、どういうことなのでしょう。
 

「愛想尽かしや、捨て言葉、切り口上は、おくびにも出すやないで」

教祖様三女おはる様逝去のとき、明治5年、梶本宗次郎様夫人はる子様、御死亡相なりしに付、夫宗次郎様、深く悲しみ、御教祖様の前にて、嘆き言くりかへしたりしかば、御教祖様は、御實子にあらせらるゝにも拘らず、更におなげきもなく、「のぞみどほりしてやりたのやで、なげくやないほどに」と言葉をかへして、仰せられしとあります。是は、前年八月十三日の夜、祭禮にて、親族人々をも打招き饕しける時、いささかの間違ひより、夫婦ものいひをなし給ふ。宗次郎様すてことばを放ちて、「鍛冶屋如きが、御地場の娘さんとは、性が合わん。勿体ない事やった。いんでくれ。」と言ひしに、人々中に立ちて、なぐさめすかして、漸く治まりたるなりと。此のすて言葉にもとづきて、望み通りとは、仰せられたるなるべし。「総て愛想づかし、捨て言葉、おくびにもだしてくれるな」と仰せあるは、ここの事なる哉。正文遺韻抄にはこのように書かれてます。
「分からん子供が分からんのやない、親の教えが届かんのや、親の教えが隅々まで届いたなら、子供の成人わかるであろ」(正文遺韻抄)
この正文遺韻の話が現代にもそのままあてはまる出来事と言います。
また、おさしづには、
長くの道すがらなら、照る日もあれば、曇る日もある。雨も降れば風も吹く。どんな日もある。これから聞き分けて心たっぷり大きく持って治めれば治まる(おさしづ明治28.1.14)とお教えいただいております。
未熟ながらも、しっかり信じ切り、凭れきり、感謝の心を込めて、ご恩報じの道を、そして、心の成人をさせていただけますよう、旬々のご用に勤めさせて頂きたいと思います。