さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第三部テュニジアの花 2

 隠し神紋の首飾りが奴隷の心をどれだけ救済したのかを表すのに、カールは少女を抱きしめ頬に口付けをしたいほどだった。しかし再会の嬉しさに頬を緩めたカールとは裏腹に、少女は眉をひそめて体を強張らせている。少女は驚きと戸惑いの眼差しでカールを凝視していた。
「セティーヴェ」
父の声で我に返ったセティーヴェは頭を小さく下げ、口元を押さえながら部屋を飛び出して行った。廊下の絨毯を走る靴の音が遠のいていく。シードレスが腕を組んでため息をつくと、もたれた椅子の背がきしんだ。
「16の娘がする立ち居振る舞いとは思えんな」
「セティは敬愛する父親が奴隷を買ったことを恥じているのです」
銀の盆にティーセットを乗せて現れたのは、前髪も一緒に頭上で一括りに纏めた女性だった。
 波打つ金髪を持つ女性の蒼い瞳は、セティーヴェのそれに似て澄んでいた。カールには一目で母子だと解った。
「最近いちいち反抗的だからな。カールヴラット、妻のセティヴェラだ」
シードレスは立ち上がって妻を迎え入れるとカールに紹介した。
一礼してから、カールは言った。
「私のせいかもしれません。お嬢様とは一度、コロッセウムの地下でお会いしています」
そこでカールは口をつぐんだ。その時何があったのかを伝えるには辛すぎたのだ。セティーヴェはレグスの死に直面し、更に茫然自失となったカールを身をもって引き止めた。彼女の平穏な生活にその悲惨な現実が入り込んだとすれば、拒否反応を示して当然だった。
「そうか、地下でな」
シードレスは娘が闘技場内で道に迷った事を思い出した。
 戻ったセティーヴェは蒼白で、父親を嫌悪するように反抗的な態度を示した。
価値の無い者、不要な者を打ち捨てる掃き溜めの存在を知ったとすれば、初めて帝都に赴いた田舎娘には刺激が強すぎた筈だ。
「セティーヴェ様は間近で血を見られたせいか失神しましたが、他にお怪我などはされていません」
カールはそう説明するのが精一杯だった。今も瞼の奥でレグスの最期がちらついているのだ。自分を呼ぶ声、自分を求める手、それらを全て深淵が飲み込んだ。
 白い陶磁器のカップにお茶が注がれた。爽やかな柑橘系の香りが漂うと、カールは血生臭いコロッセウムからシードレスの館へ引き戻された。
「お茶にいたしましょう」
セティヴェラがカールに差し出した陶磁器のカップには、桃色の花びらが浮いたお茶が入っていた。雇い主の妻が奴隷にお茶を入れるものだろうかとカールは一瞬躊躇したが、にっこりと微笑むセティヴェラを見て手を伸ばした。帝都での手痛い扱いとは異なり、奴隷や捕虜以上の扱いだ。
「ありがとうございます」
彼は立ったままカップを啜った。口の中に香りと同様の爽やかさが広がると、胸の中が温かくなった。絡まって硬くなった糸が解き解されていく気分だ。
 夫が飲み干したカップを受け取りながら、セティヴェラが尋ねた。
「お仕事のお話はもう終わりましたの?」
「ああ、彼には村の医療とオロフ爺の手伝いを期待する」
カールはホッと一息ついた。オロフ爺という者の仕事内容は知らないが、治療なら手馴れている。
「お任せください」
頼もしい笑顔を見せたカールに、セティヴェラが言った。
「良かったわ。腰を痛めたオロフさんに力仕事をさせるのは忍びなかったですもの。貴方が来て下さって助かるわ、カールヴラット司祭長」
「は……、い?」
久しく呼ばれていない呼び名を聞いて、カールは耳がむず痒く感じた。
「お前の最初の仕事は主の妻の話し相手というわけだ」
口元をほころばせたシードレスは勝手にしろという目配せを妻に送ってから部屋を出て行った。カールとセティヴェラはシードレスの書斎で2人きりだ。
「話したい事が沢山ありますわ」
セティヴェラは16の娘を持つ母親には見えないような、悪戯っぽい微笑を浮かべた。

 屋敷は中庭を囲むようにして建ち、広間と厨房、廊下から出入りが出来るようになっていた。屋敷の外側は弱くはない海風が常に吹いているが、四方を壁に囲まれた中庭の中では穏やかであった。小さな畑と何本かの果樹から食料を調達することもしばしばある。庭の西側にはテーブルと椅子が置いてあり、雨よけの屋根には小鳥が巣を作っていた。
 庭の木と木に渡された棒に薄翠色のテーブルクロスが干され、微風に煽られながら洗剤の甘い香りを放っている。年老いた庭師は曲がった腰を伸ばして葉の剪定作業に一息つき、池のほとりで座り込んでいるセティーヴェに話しかけた。
「さっき旦那様から新しい使用人が来たって聞きましたが、帝都で買った奴隷らしいですね。どんな人ですかい」
セティーヴェは膝を抱えるようにして座り直した。機嫌が良くないらしく、口を尖らせている。
「ねぇオロフ爺、わたし反対したのよ。村の人を雇った方が、皆にとってはいいでしょ」
もっともらしい理由を言ったが、それだけではなくあの奴隷が来たことに抵抗があるのだった。
 大胆にも母から譲り受けたペンダントを男性の手に握らせてしまった。その彼が、この館へ奴隷として買われて来た。 恐ろしい地下での出来事を思い出す度に息が詰まる。その秘密は今頃青年によって両親に知られてしまっているかもしれない。
(あの人を止めたのもペンダントのことも、体が勝手に動いたのだから後悔も何も無いけど……)
池が波打って、虹色の淡水魚が水面から尾ひれを覗かせる。雲の間から差し込んだ陽光が鱗に当たって煌いた。鋭い輝きは彼の友人を貫いた槍と重なる。
(わたしきっと、彼を見る度にあの地下でのことを思い出すかもしれない)
その度に自分の知らない所では人が理不尽な理由で殺されていること、そして無力で無能な貴族の娘であると知らしめられるのだ。
 使用人は皺が刻まれた顔の汗を拭って豪快に笑った。
「お嬢さんは心配ですかい。旦那様が選んだなら心配ないですよ。俺はこのところ腰にきてますから正直大助かりですし、学もある治癒の力もあるなんてここいらじゃ貴重ですよ」
爺は腰を伸ばし、数回叩いた。
「そうね」
拭い去ることの出来ない不安を抱えたまま、セティーヴェは笑って見せた。
 セティーヴェが立ち上がってドレスの裾に付いた土を払っていると、厨房の勝手口が開いた。
「あっお嬢様!」
中から出て来た黒髪の娘はセティーヴェの姿を見つけるなりそう叫んだ。紺色の服に白いエプロンをしている使用人だ。
 使用人は縮れた黒髪を耳の横で揺らせながら、セティーヴェの方へ走り始めた。
「どうしたのメル、そんなところで走ったらまた」
メイドは砂利に足を滑らせ、尻餅をついた。
「メル!」
セティーヴェは駆け寄り、メルの腕を取って立ち上がらせた。白いエプロンには土と押しつぶされた草の汁が付いて汚れてしまっていた。
「怪我は無いの、大丈夫?」
「大丈夫です! 分厚いお尻だから痛くないですよ。それよりもお嬢様っ」
メルはセティーヴェの両手を強く握り締め、詰め寄った。メルはセティーヴェよりも頭半分くらい背が低い。
「な、何、落ち着きが無いわよ」
「見た見た見ちゃったっ、さっき見ちゃったんですぅ! あの金髪青年、あれが噂の奴隷ですねっ」
鳶色の目を輝かせて興味津々といったメルを見て、セティーヴェはうんざりした面持ちでため息をついた。

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