黒金のまろうど 5

 祭りで流される血は一滴残らずヌートに捧げなければならない。
ファルカとハーディーは舞台から広場へと降りた。
深夜になって気温が一段と下がり、人々の足跡が残る雪の一部は氷に変化している。
頬の皮が引っ張られるような凛とした冷たい空気の夜だった。
 人々は広場を囲んで壁のようにひしめき合いながら事態を注視する。
渦中の人となったレティシアも長い裾をひきずり、決闘の場へと足を運んだ。
(兄さんとハーディーが戦うなんて……一体どういうつもりなの、あいつ。もう、どうしよう)
彼女は視界が悪くなる頭の飾りを外し、両手に握り締めた。
 ハーディーは背中の剣を鞘から抜いた。
相手は盲目だというのに、隙も無く激烈な殺気が立ち上って近寄りがたい。
ハーディーは顔色一つ変えないファルカの穏やかな面の下に隠れた、自分への激しい憎悪を察した。
 長の婚礼に介入する不届き者は未だかつていなかった。
人々は座興の一つと思いながら好奇な目を向けている。
長の名を連呼し、少年に身の程を知らしめるよう声を嗄らして応援する年寄りもいた。
レティシアはハーディーの勝利により兄との婚姻から逃れられるが、若年の旅人に敗れることは部族の長としての威信に関わる問題となる。
しかし、兄が勝利すれば事態は振り出しに戻ってしまうのだ。
(私がいけないのよ、舞台の上で皆にはっきり言えばこんなことには)
一族の掟は彼女を何処までも追いかけ、苦しませる。戦いを見届ける役目を、彼女は放棄したかった。
 戦いの銅鑼が鳴らされ、ファルカは目を閉じた。彼の持つ力は第二の目でもある。
二人の男は雪を蹴って踏み込み、一気に間合いを詰めた。
幅広の剣を振り回すハーディーは軽い身のこなしでファルカの剣を回避する。
ファルカから発せられている殺気が見間違いではないとすれば、ハーディーは手を抜かれている事になる。
ハーディーにとって本気で挑んでいる相手に弄される戦いは不本意だった。
「あんた手を抜いてるだろ、本気出せよ」
暢気なハーディーは己が危殆に瀕することを楽しんで、更に威嚇した。
(ばっばか、兄さんが本気出したら一瞬で終わっちゃうわよ)
レティシアは気を揉んで冠を胸元で握りしめた。
 ファルカが何事か呟くと、ハーディーの動きがぎこちなくなった。
彼の足は長靴の中に鉛を流し込まれたような、見えない枷を嵌められた。
ファルカはハーディーを見ずに、感じるままヌートの力が導くままに足を動かして剣を振った。
鋭く切り込むファルカの剣を寸での所でかわしたつもりのハーディーだったが、追い討ちをかけた風が刃となって 襲い掛かる。
脇腹から鮮血が散った。
「いってぇな、妙な術を使いやがって」
脇腹を押さえたハーディーが体勢を立て直す前に、再びファルカが襲い掛かった。
 術によって動きが鈍くなっても、元来俊敏なハーディーがファルカをかわす事は容易だった。
ハーディーは横へ飛び退って懐から棒状の暗器を立て続けに二本投げる。
飛来する短剣をファルカが剣で薙ぎ払った所に、移動したハーディーの剣が腹部を裂いた。
雪に血が滴り、苦痛でファルカの顔が歪む。
「兄さんっ」
レティシアの手から冠が落ちた。
驚きの余り針で刺されたような痛みが全身に走り、彼女は片手で口元を覆った。
 ファルカは剣を支えにして片膝をつき、血の滲む腹部を抑えた。
掌から光が漏れると、何事も無かったかのように彼は立ち上がる。
服は裂けたままだが、薄っすらと裂けた線が残っているだけで止血されていた。
 ハーディーは舌打ちした。彼の服は裂けてはだけ、露出した皮膚から血が流れて布を赤く染めていた。
治療しながら戦えるファルカの方が、ハーディーよりも有利だった。
 ハーディーがどんなにファルカを切り付けても傷は癒え、動き回るハーディーから流れる血の量は増える一方だった。
白い雪の上に、赤い斑点が広がった。振るった剣からも血が振り落とされる。
レティシアの視界は揺れていた。先日倒れた時のような冷たい汗が背中を流れている。
激しい剣戟が彼女の頭の中で鐘のように響いていた。意識は朦朧として、視界は月の暈のように朧だった。
「もう、もうやめて」
息が途切れて呻き声を上げながら彼女は訴えたが、か細い声は周囲の声援にかき消された。
 戦いは一方が気絶か降参するまで終わせてはならないことになっていたが、二人の様子ではどちらか一方が息絶えるまで続ける気迫がある。
ハーディーの息は荒く、顔の色も失い始めていた。
受けた傷はファルカの方が多いが、ハーディーは治療する事が出来ない為に持久戦で勝つ見込みは無い。
ファルカはふらついたハーディーに向かって掌を向け、空気を圧縮した衝撃の波を放った。
ハーディーは剣を前にかざして受け止めたが、氷の上では踏み留まる事が出来なかった。
背中を地面に打って倒れた彼の喉元に、ファルカは剣を押し込んだ。
「兄さんっ」
耳を劈くような轟音が響き、一筋の光が空と地上を結びつけた。
 広場を中心として円形に設置された篝火は全て消し飛び、鼻を突く臭いが辺りに充満した。
村人が振り返ると、舞台の両側に立てられている精霊を模した木の彫刻が燃えていた。
灯りが全て消えた暗闇を唯一照らす光源は、地面に打ち立てられたヌートの神像を燃やす炎だった。
「ヌートの彫刻が燃えてるぞ」
「お告げだ」
「ヌート様がこの戦いにお怒りなのだ」
村人は畏れてどよめいた。
自然の法則に逆らって雲ひとつ無い群青色の夜空から落ちた雷に、当然人々は畏怖した。
その場に居た者たちの敵意が、儀式を邪魔した客人に降り注いだ。
 伝染しやすい集団心理を押さえ込む為、レティシアはいち早く進み出て叫んだ。
「いいえ、これは神託です。この争いが無意味だという思し召し」
不可思議な状況の理由を与えられて、人々は安堵の溜息を漏らした。
ヌートの力を受け継ぐ家系の者の言葉は絶対で、巫女の発言を疑う者はいなかった。
村人達は黙諾して二人の男を見た。
 雷の衝撃で手元が狂った剣先はハーディーの喉下を逸れて雪に刺さっていた。
ファルカは土混じりの雪から剣を引き抜いた。
失望し蔑んでいるようにも見える兄の視線を、レティシアは正面から受け止めなければならなかった。
嫌悪されてしまえば彼女の気も楽だが、一つの選択が十数年にも及ぶ想いを打ち砕くほどファルカの愛は軽く無い 。
それを解っていていながら兄の想いを踏みにじる自分こそ明き盲なのだと、彼女は自嘲した。
(兄さんごめんなさい、こうしないともう止められない)
悲哀に満ちた空虚な紫の瞳を見つめ返す己の双眸を閉じることすら罪に思える。
だがレティシアは耐え切れずに兄の視線から逃れ、唇を噛んだ。
 ハーディーが起き上がり、思い出したように息を吐ききった。
剣を突きつけられた時に命は無いと思っていたのだろう。喉元を触って穴が空いていないことを確かめている。
ファルカは剣を鞘へ収めて言った。
「巫女の言うとおり、神託が下った。ヌートは黒金のまれ人の参加を歓迎されなかった。我が婚礼は来春の儀に持 ち越す」
ファルカはそう言うと、恭しく頭を下げながら道を開ける村人の間を割って入った。
燃え盛る柱の横を通って天幕の中へ入って行くその背部に、長たる威厳は無かった。

 近年の祭りの中で最も重要であった儀式は、長の退場によって幕を下ろした。
若い夫婦はひやかしを浴びながら新居へ入っていく。
広場では相手の居ない者や結婚を断られてしまった男達が、長く淋しい夜を酒で飲み明かそうと騒ぎ始めた。
 長と側近達は天幕の中でヴォルフ族の使者をもてなし、相手が居ない為に舞台に立つ事も出来なかった年頃の男女の見合い相手を協議している。
山の際が白み始めていたが、温かい布団で寝息をたてているのは子供だけだ。
焦げて黒くなってしまった精霊の彫刻には、まだ火が燻っていた。
 レティシアは帯を緩め、広場の端で膝を抱えるようにして座っていた。
隣にサリタが立ったことにも気付かず、彼女は気抜けした顔で広場の真ん中に設置された焚き木を眺めていた。
「レティシア、春まで延びちゃって残念ね。……大丈夫?」
レティシアは話しかけられて始めてサリタに気付き、無意識に作り笑いを浮かべた。
「あぁ、サリタ。平気よ。それよりもおめでとう」
「ありがとう」
緑色の繻子を着たサリタはヴォルフ族の夫の腕に手を絡めて礼を言うと、赤く染まった頬を隠すようにして足早に立ち去った。
幸せそうな友人を見たレティシアの空虚な心は幾分か宥められ、満たされた。
 今頃はレティシア自身も祝福され、夢にまで見た幸福の絶頂期にいた筈だった。
兄を傷つけ掟を破り、ヌートをも畏れぬ嘘をついた事の方が夢のようである。
だが村人から腫れ物に触るように気を使われ避けられる度に、現実に引き戻されるのだ。
男達が飲んでいる酒が空になっていることに気付いたレティシアは、壷を抱えて貯蔵庫の方へ走った。
 酒樽が並んでいる簡易天幕の中に入った途端、レティシアの気が緩んで涙が溢れ出た。
「あの雷はお前の仕業だろ。神託ってのはハッタリだな」
レティシアは驚き、思わず壷を持つ手を緩めて落としそうになる。
絨毯も惹かれていない剥き出しの地面の上で、胡坐をかいていた者がいたのだ。
「ここで何してんのよ」
彼女は涙を拭いながら言った。
ハーディーの口には長細い干し芋が咥えられていた。
 五本の柱に布を被せただけの天幕は、宴の肴として作られた食事と酒を保存しておく貯蔵所だ。
決闘の後で空腹を感じたハーディーはここで食い散らかしていたのだろう、大皿の上には付け合せの野菜しか残さ れていなかった。
 ハーディーは食べながらしきりに脇腹を押さえていた。破れた布の間から包帯が見える。
レティシアの視線に気付いたハーディーが言った。
「全身ぐるぐる巻きの婆さんが治療してくれたよ。ファルカと同じ力を持っているようだったけど」
「婆は薬師よ。私の遠い親戚だから、少しヌートの力を使えるみたい」
彼女は薬師が全身を覆っている理由を考えた事がなかったが、今では本人に聞くまでも無い。
外見に出た奇形を隠す為に、顔以外を晒せないのだ。
 レティシアの曇った顔を見たハーディーは、彼女が持っていた壷を取り上げた。
腕の中の重みが無くなり、彼女は我に返った。
「何するのよ」
レティシアは壷を取り返し、三つ並んでいる樽の真ん中の上蓋を外した。
 濁り酒の濃厚な匂いが立ち上り、レティシアは顔をしかめた。
「何であんなことしたの。しきたりに口うるさい年寄りはあんたが儀式を邪魔したから精霊がお怒りになったって 思ってるよ。身の危険ぐらい感じてよね。あんたよそ者でしょ」
レティシアは文句を並べ立てながら長い柄のついた玉杓子で酒樽から乳白色の酒を掬い、壷に流し込む。
口で言うほど彼の無鉄砲な行動に腹が立たなかったのは、そのおかげで彼女自身が救われたからである。
「単に邪魔したかっただけだよ。言っただろ、掟ってやつが嫌いなんだよ。まあ、仮にオレが勝ったとしてもちゃ んと責任はとるつもりだったけどさ」
「馬鹿じゃないの」
「お前こそ何であんな嘘ついたんだよ。オレのことを怒ってるなら、精霊はオレを認めなかったって言えば兄貴と 一緒になれたのに」
ハーディーはレティシアの顔を横から覗き込みながら、わざとらしく続ける。
「まさかあんなに熱々だった兄貴と結婚するのが嫌に」
「兄さんのことは愛してる。でもダメなの」
レティシアはハーディーの言葉を遮った。
 黙したレティシアを見ながら、ハーディーは伝えようとする言葉を吟味して考えを巡らした。
「ファルカは、お前のことを本当に想っていると思うよ」
レティシアは手を滑らせて杓子を樽の中へ落とした。慌てて拾おうとするが底の方へ沈んで手が届かない。
樽の淵に手をかけ、彼女は底に沈んでいる杓子を見つめた。
(お互い想い合っていてもどうにもならないのよ)
手を伸ばせば届きそうにも見えるが、彼女はそうしなかった。
 ハーディーがレティシアの傍に立ち、杓子を掬い上げた。
そのまま酒を飲み、顎に流れた酒を腕で拭う。満足そうに屈託の無い笑顔を見せた。
それが、不器用な彼が出来る精一杯の励ましだった。
「あーあ、あいつらがオレの周りにたかってたのは物珍しいからだけだったんだよな。一緒に来てくれって言った らゴメンナサイだ」
レティシアは堪えきれず噴出した。
嫁探しの旅をする異国の少年に興味をそそられはしたが、生まれ育った村を出て遠い国に嫁ぐ話とは別だ。
ハーディーは年上の娘にからかわれたのだ。
 レティシアが樽の蓋を閉めると、ハーディーはその上に杓子を置いた。
彼女は尚も笑い続け、腹部が痛むほどだった。
「笑うなよ」
「だって必死なんだもん、嫁を連れて帰らないと大人になれないんでしょ」
胸に刺さっていた棘はいつの間にか抜け落ち、レティシアはハーディーの愉快な失恋を楽しんでいた。
「残念だったね、他の村で探してちょうだい」
レティシアはそう言い、壷を抱えて天幕から出ようとした。
「ダメか?」
「え、何が」
彼女が振り向くと、ハーディーはうつむいて視線を泳がせていた。
やがて彼女を一瞬だけ見て、あの無神経な言い草を放った。
「残り者同士ってことで、どうよ」
残り者同士。
その意味をようやく理解したレティシアはハーディーの頬に平手を叩きつけて怒鳴った。
「何ですってっ」
どう見ても不誠実で無分別を極めたようなこの少年に、一瞬たりとも頼もしさを感じたことをレティシアは歯軋り するほど悔やんだ。

 月は役目を終えたかのように山の背後へと隠れ、藍色の寒空は柔らかな藤色に変化していた。
明け方になっても騒ぐ人々の声は止まず、天幕の中では朝まで愛が語られていた。
村の門番は酒を飲んで体を温めながらうたた寝を決め込んでいる。
普段から危機管理に乏しい人々の警戒心が更に薄くなる時間であった。
 ファルカは天幕の中に居ながら、ヌートの力で村の中を見渡していた。
結界に異常も無く、人々は喧嘩しながらも浮かれ騒いで楽しんでる。
近隣の村人との仲も、それほど悪くは無いようだ。
しかしヌートよりもたらされた特別な目は、馬小屋の異変を見出した。
柱に繋ぎとめておく綱を残して、妹の愛馬が消えていたのだ。
 ファルカは人体を侵す毒のような力に守られて暮らす村人への愛と、妹への愛に挟まれていた。
しかし小麦色の肌をした少年を救助して以来予感していた未来を現実のものとする為に、ファルカは出来るだけの計らいで二人の進む道を整えたつもりだった。
呪を断ち切ろうとする者と、流れに逆らう者。
異なる国に生まれ育ったというのに、彼の妹と少年は似過ぎていたのだ。
 感情に反して想いを殺し、妹を突き放して兄を演じることもあれば、抑えきれない想いを破裂させて激しい悔悟の念にも捕らわれた。
その苦しみが終わろうとしているのに、彼の心には悲しみも残らず達成感も無かった。
「長、どうされましたか、ご気分でも」
側近に話しかけられ、ファルカは眼の焦点を手元の杯に戻した。
「いいえ、なんでもありません」
側近は長の杯に酒を足した。
「あのまろうどめ、ファルカ様とレティシア様の間に入るとは! 長は人が良すぎるのです。私はもう顔も見たく ありません、朝には出て行って頂きましょう」
彼はそう言いながら干し肉を口に咥え、恨みを晴らすように思い切り引っ張って噛み切った。
ヴォルフの使者が白髭を撫でながら賛同した。
「同感ですな、白銀の。我がヴォルフの族長ならばあの小僧の首を切り落としているところです」
冷静なファルカとは裏腹に、取り巻きは憤慨していた。
 話題は残った男女の引き合わせ方から始まり、ハーディーの処分に及ぼうとしている。
もはや少年の味方をする者はいない。彼はただの遭難者でいられぬほど派手な行動をとりすぎたのだ。
ファルカは苦笑した。
「そうですね、すっかり座が白けてしまいました。即興でよろしければ最後に私が歌でも詠みましょう」
ファルカは微笑んで席を立つ。
彼らの準備が整った事を知ったファルカは、周囲の目を惹きつける役目を自ら請け負った。
 各々くつろげる場所に散開していた人々は、天幕から出てきた長を見て再び広場に集まった。
楽師が弦を弾くと、天幕の中にいた新郎新婦が乱れた服装を整えながら外に出た。
子供達は親に抱えられながら眠たい目を擦っていたが、鳥の囀りを聞いて清々しい朝の訪れを知った。
 朝日は海原に照り返す光のように雪を煌かせながら顔を出した。
ファルカが陽光を背中に浴びながら両腕を広げると、彼自身から光輝が照射されているようだった。

我が紅は毒 不浄の花

 深みのあるその美声は、裏門にいた旅装の少女の耳にも届いていた。
(兄さんが歌を)
彼女は震える手で荷物を馬の背中に縛り付ける。三日間野宿する分だけの、最低限の荷物だ。

幼き日の小さき手に誓いて
我が麗しき乙女には 清き流れを
呪縛を解き放つは くろがねの
くろがねのまろうど


ゆっくりと歌を詠むファルカの目は、黒馬と男女が裏の門から出て行く様をとらえていた。
 長の歌に魅了されていた人々は、何者かが許可を得ずに村を出て行ったことに気付かなかった。
“ヌートの口”を過ぎるまで静かに歩いた後、少年は少女の手をとって馬に乗せた。
後に始まるであろう騒ぎを覚悟して、行ける所まで馬を走らせなければならない。
食料が尽きるまでに村と村を中継する市場まで辿り着かねば、命の保障は無いのだ。
 日が昇るに連れて雪は銀色から眩しい金色へと変化し、兄と誓いを立てたあの日の朝と同じ色をしていた。
胸には最後に聞いた兄の歌が響いていた。
(兄さん、まさか)
懐かしい情景に、レティシアは目を見開いた。
 歌に詠まれた真意を理解していると兄に告げるには遅過ぎる。
レティシアは遠ざかる村を振り向こうとした。
「振り向くな、捕まってろ」
彼女の迷いを断ち切るように、ハーディーが叫んだ。
 村で数日を過ごしただけの少年ですら、ファルカの情愛は痛いほど身に染みていた。
妹に対する行動に秘められた深い想いを同じ男として察してはいても、それに対して同情という安易な言葉は当てはまらない。
ハーディーはファルカの崇高な精神に惹かれたからこそ、彼から託されたものの重みを感じながら手綱を握ってい るのだった。
 濃い虹色の朝陽に染まりつつある冬天の下、若い男女を乗せた黒馬が黄金の雪原を疾走している。
幼年の誓いを成し遂げる為の兄妹の想い、そして固く結ばれた絆は離れていても永久に寄り添う。
レティシアは振り落とされないように旅人の腰にしっかりとしがみついた。
馬の蹄に蹴られた白雪は風に乗って飛散し、朝日に煌いていた。

【完】


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