黒金のまろうど 1

 少年の足の感覚はすでに無かった。
(本当に誰かこんなところに住んでいるのかよ)
初めて知る雪の冷たさ、この寒さに彼は舌打ちした。
薄い日よけの外套一枚で耐え切れる気温ではない。体温を逃さないように汗腺は縮まり、筋肉も強張っている。
あたり一面銀色に輝いて眩しく、目が熱砂に当てられたように痛くなっていた。
彼が住んでいた温かい地域から山を一つ二つ越えただけだというのに、そこは人が住めるような所には見えなかっ た。
 細雪が混じった風が強くなり、目指していた山の形が霞んできた。
太陽の位置は雲に隠され、最後に休憩をとってからどれくらい時間が経ったのか解らない。
無理やり動かしていた足も言う事を聞かなくなってきていた。
(怒ってんのか、ヌート。地割れなんか起こさないでくれよ)
彼は北の大地を支配するという精霊に祈った。
 岩山の間を通り抜ける風が恐ろしい轟音を奏でている。
ヌートの叫び声を絶え間なく聞いているうちに、少年は眠気を感じ始めていた。

 自然には精霊が宿っており、人々はその力に守られていると信じていた時代があった。
時に猛吹雪を起こして荒れ狂う風、雪崩れる山、凍る大地。空から降り注ぐ雪は精霊のいたずらとされた。
カストヴァール大陸北部の降雪量は少ないが、これから半年の間に寒さは一層厳しくなる。
大地の精霊ヌートの冷たい懐で育つ芋類は数少ない収穫物の一つであり、白銀部族の人々は彼女の機嫌を損ねることの無いよ う最も敬うと共に畏れていた。
 村落に点在する円形の天幕は中心にある二本の柱を基盤とし、屋根の中心から放射状に木を組んで毛織の布を被せ ている。
天幕の屋根部分から部屋の中央に置かれた炉の煙突が外に出ており、絶えない煙は冬の風物詩であった。
 吐く息が白くなり岩山の頂上付近に雪が積もり始める頃、ある一定の年齢に達した娘達は共有の住居に篭りがちになる。
歩いて半日の距離にある隣の部族の市場で買い求めた布に、想いを込めた刺繍をするのだ。
来月の祭りで着る晴れ着であった。
 五人の娘達が一族に伝わる歌を口ずさみながら、天幕の中で縫い物をしていた。

蒼天を切り裂く閃光
孤高の頂に天下るは 母たるヌート
銀に咲く 紅の守護者は誰ぞ
そはしろがねの しろがねの御子


「あの人、私のこと覚えていてくれてるかしら」
焚き木の一番近くに座っている少女がそばかすのある顔を上げ、うっとりとしながら言った。
どうやら歌を聴きながら妄想していたようだ。
「どのヴォルフ族の男?」
隣に座る少女がそう言って応えるが、手元から目を離さない。
「ほら、銀髪で長くて、ちょっとうちの長に似た品のある人」
「でもあんまり品が良くても私達とつり合わないわよねぇ」
手鏡を覗き込みながら化粧の練習をする少女が言った。
「どうしよう、緊張してきた。ねぇ、この間言ってた香水、手に入れたんだけどさ」
陽気な村娘たちは和やかに談笑しながら各々刺繍を続ける。
何時間縫い続けても飽きないのは、それだけ着物に込める想いが強いからである。
ヌートの祭りで花嫁の晴れ着を着る事が、幼い頃よりの少女達の憧れだったのだ。
 春と冬に行われるヌートの祭りは人と精霊の絆を確かめ合うと同時に、男女の結合を祝福する。
長より参加を許された男女が一年の内で唯一婚姻を許される、神聖視な日でもあった。
夫婦の固い結びつきは自然の均衡を保っている精霊たちに精を与えると、村人は信じていた。
準備に費やされる一ヶ月の間、娘達は付き合いのある相手から申し込まれる結婚を心待ちにし、更に意中の相手以 外の男性からも伴侶として求められることを夢見ている。
 この祭りには売れ残りが全く無いという事実も、祭りが盛り上がる理由の一つだ。
必ず祭りの後で部族間での話し合いがあり、それぞれの長が独身のままでいる者同士を引き合わせることになって いた。
彼らの先祖がアヴァス大陸より移り住んで五世代も経ておらず、隣のヴォルフ族、ヴレード族に別れて居住しても 遠い親戚も同然である。
一族の繁栄にはまず人口を増やさねばならず、こうしてヌートの祭りは交際相手のいない少女でも期待せずにはい られない日となっていったのである。
 藍色の服を着た銀髪の少女が、無言で縫っていた着物を突然放り投げた。
彼女が朱色の生地に縫い付けた金の丸十字模様が炎に照らされて光っている。
一族の長の直系だけが身に纏う事を許された丸十字と羽模様の豪奢な刺繍は、立体的に浮き上がって見事だ。
「もうだめ休憩っ」
彼女は後ろ髪を残して両耳の上側だけ三つ編みにしている。その三つ編みに結び付けてある鈴が揺れて鳴った。
彼女が着る服には幾何学模様が刺繍され、左前合わせの立て襟だ。裾の長さは膝上で、下穿きに革の長靴を履いて いる。それが十代の娘の衣装と決まっていた。
 少女の背後から背の高い娘が覗き込んだ。
「あとは袖の刺繍だけじゃない。レティシアどうしたのよ、何時間でも縫い物する子が」
「無心で縫えればいいけど、いろいろ考えちゃって」
レティシアは目の周りをもみ始めた。目が疲れる作業だ。
針を小さな木箱にしまいこみ、彼女は放り投げた着物を丁寧に畳んだ。
「いいわよね、レティシアは。着飾らなくたって相手は決まってるし」
「嫌味言わないでよ、サリタ。爺達に期待され過ぎて気が重いの」
そう言いながらレティシアは柱にかけておいた上着をとった。襟と袖に貴重な羽毛をあしらった茶色い外套だ。
「爺にはもう時間がありません、早く御子を、お世継ぎを……」
サリタが爺の掠れた声と震える手を真似ながらわざとらしく言うと、娘達は声を上げて笑った。
レティシアが祭りに参加することを公表して以来、年老いた者と顔を合わせば言われてしまう口癖だった。
「やめてよ、もうっ」
いつものからかいに手をひらつかせて難なくかわし、レティシアは天幕を出た。

 温室のような天幕から出ると寒さがいっそう身に染みる。
レティシアは上着の前を合わせ、耳まで隠れる帽子を被った。
 木を削る音や金槌で叩く音が響く中で青年達は地面に突き立てる木の彫刻を作り、求婚をする舞台を組んでいた。
花嫁を迎えられた時の為に、新居の天幕に布を重ねて入念な防寒を施している者もいる。
これは防音も兼ねると言って豪快に笑い合う様を見れば、この祭りを楽しみにしている者が女性に限らない事が解 る。
威勢のいい声と共に丸太と重い毛皮がそりに乗って運ばれ、まるで村造りのような活力に溢れていた。
 レティシアが通ると村人は手を休め、巫女様、巫女様と言いながら手を振った。
「ご苦労様」
レティシアが一人一人に声をかけてまわることによって青年達の作業がはかどる。
村人への声かけと長の作り出した目に見えない防壁の状態を確認することが、この部族を束ねる地位に最も近い彼 女の仕事であった。
 父親たちは焚き木の傍で酒を飲みながら息子の働きを見ている。
祭りの準備は参加する青年だけが行うもので、経験者は指示することを義務付けられていた。
その間、彼らの母親は大きな鍋で料理をこしらえるのが常だ。
祭りに縁の無い子供達は迷い込んだ小動物を追いかけて遊んでいる。耳と尻尾が長いその動物は素早く走り回って 子供たちを撹乱していた。
 なんて平和で暖かい村だろうとレティシアは思った。村全体が一つに繋がった家族のような一体感がある。
吹雪を遮る岩山は時として雪崩を起こすが、長が張った結界は部落の壁となり邪悪な獣の侵入をも防いでいる。
この村を守る長を支えること自体が、村人を守ることへと繋がるのだ。
彼女にとって変わらない平安を存続させる使命は重荷ではなく、すすんで担いたい喜びだった。
 レティシアが自分の天幕へ戻ろうとした時、村の入り口の方で人だかりが出来ていた。
何人かの男達が何か叫んでいる。
(喧嘩かしら)
喧嘩はよくあるが、憎しみにまみれたいがみ合いにまで発展する事は無い。
大抵が酒の飲みすぎで引き起こされる乱痴気騒ぎなのだ。
 人ごみのなかから銀髪の三つ編みを腰まで垂らした青年が歩いてくると、担架を運ぶ男達が後に続いた。
誰かが運ばれている。喧嘩よりも緊迫した状態を察したのか、外にいた男達は仕事の手を止め、女達は天幕から顔 を覗かせた。
「どうしたの」
レティシアは小走りで銀髪の青年に近寄って話しかけ、遅れをとらないように同じ速さで隣を歩く。
紫の双眸が彼女を見た。
 透き通るような象牙の肌に、知性を感じさせる額。一日に何度も顔を合わせるのに、その度に見とれてしまう。
同じ銀髪でもどうして自分とはこんなにも輝きが違うのか、彼女には不思議だった。
「“ヌートの口”付近で少年が倒れていた」
彼が言った。その低い声を出さなければ背の高い女に見える中性的な美しさだった。
ヌートの口と呼ばれる大地の裂け目の前で倒れていた少年は、浅黒い肌をした黒髪だった。年齢はレティシアと同 じか、年下にも見える。
「この容姿……何処の国の者なの、私見たことがない」
少年の髪と服についていた雪を払ってレティシアが言った。
 この地方の寒さを知らない者であることは誰が見ても解る。薄地の布を纏った軽装備で雪原を行くのは自殺行為だ。
担架に付き添う男が少年の首筋に指を当てて言った。
「ファルカ様、脈が弱いし足の凍傷も酷い」
「私の天幕へ」
ファルカという一族の長は、真っ直ぐ自分の天幕へ進んだ。
 二人の門衛が入り口の布を左右に引き、担架を運んだ家臣が座卓を端へ避けた。
垂れ絹の奥に湯と薬が運び込まれる。呪術的な方陣模様が織り込まれた絨毯の上に、毛布に包まれた少年が寝かせ られた。
薪が次々に火の中にくべられ、部屋の温度が高くなっていった。
「皆、外へ。巫女だけでいい」
ファルカがそう命じると、3人の側臣が一礼して外に出た。
 少年の薄い服を脱がし、ファルカは自らも毛皮の上着を脱ぎ始めた。
ファルカは赤い刺青が彫られている少年の胸を己の白い素肌に重ねた。氷の冷たさで顔が一瞬強張る。
レティシアは丸い鉢で薬を混ぜていたが、ファルカが毛布の中に入って少年を正面から抱きかかえたのを見て甲高 い声を出した。
「やだっ何でそんなやり方をするのっ。いつもみたいに手をかざせばいいじゃない」
「そこの布をお湯に浸して彼の足を包んで」
ファルカは口付けをするような体勢で意識の無い少年の呼吸を確かめながら、レティシアに指示を出す。
「もうーっ」
顔を真っ赤にして不平不満を言いつつも、レティシアは彼に言われた通りにした。長には逆らえない。
 相手が少年でも悔しく思えるのは、滑らかな肌を自分以外の者が占有しているからだった。
(もう……もうっ、嫌だ私)
ましてや未だ自分が触れたことも無い場所であれば尚更で、嫉妬している自分が小さく思える。
「心臓を温めれば血液も温まるでしょ」
レティシアは手っ取り早く終わらせて欲しいが為に、ファルカの手を取って少年の胸へ誘導した。
ファルカはふてくされるレティシアに微笑んだ。
 二人の間に流れる時間の早さが異なるように思えるほど、ファルカは穏やかに構えていた。
「わかったよ」
彼は目を閉じてゆっくりと息を吸い、細く長く吐いた。そして唇が微かに震えると、ファルカの体内から光が溢れ 出た。
彼の内側から発せられる月光のような煌きは皮膚の下にある組織を浮き上がらせる。
レティシアは力の流れを調整する為に、彼の肩に手を置く。二人の中を流れるヌートの力が発現した瞬間だった。
ファルカはその力を人に与えたヌートと一体になり、少年の壊死した細胞を蘇らせる為に肉体の修復能力を活性化 させた。これが代々の長の直系に伝わる力だった。
(いつ見ても綺麗)
微風が吹いて少年の黒髪とファルカの銀髪が動く。瀕死の少年を忘れて、レティシアは長に魅入った。
ヌートの力を行使する時の長は、畏敬の念を抱かずには居られないほどの神々しさを放つのだ。
 青黒く変色していた少年の足はすでに赤みを帯び、頬が上気していた。
ファルカが目を開けると光と風は止んで、炎の茶褐色の灯りが天幕の中を照らしていた。
「治療するには私の体に直接触れるのが一番早い」
「私が怪我した時は手をかざすだけじゃない。昔みたいに抱きしめてもくれない」
レティシアはファルカに背中を向け、火の中に木を放り込む。木の皮が弾けて火の粉が飛んだ。
「私の気持ちを知っているのに、何故いつもひねくれる」
「解らない」
ファルカは手を伸ばし、レティシアの腕を掴んで引き寄せた。
中腰だった彼女は重心を失ってファルカの脇に倒れ込んだ
 鼻筋、目元、唇、頬の曲線。ファルカはレティシアを確かめるように長い指でなぞる。
彼の指が触れる度に胸が締め付けられ、レティシアの体が高揚感に支配される。まるで体の芯を撫でられているよ うな、むず痒い感覚だ。
「私達はまだ兄と妹だ。ヌートの祭りで君を妻として迎えるまでは何もしたくないと言ったよ」
ファルカは少年を自分の胸にうずめたまま、レティシアの腰に手を当てて引き寄せた。
「兄さん……」
レティシアはファルカの首に腕を巻きつけ、甘えたように紫の目を見つめる。
「本当に困った妹です」
兄は昔と同じように妹をあやすような笑みを浮かべ、抱擁する。
レティシアは自分が物欲しそうにしているように見られたような気がして恥ずかしくなり、顔をそむけて隠した。
 二人が結ばれるよう運命付けられたのは、レティシアが生まれた時であった。
それが長の子として生まれた二人の使命であり、村を守る力を子に残す代々の風習である。
だが人目がある所でしか妹でいられなくなっていたのは、二人きりになると息が苦しくなるほどの想いが溢れて、 どうしていいか解らなくなってからのことだ。
成長しても接し方が何も変わらない兄に比べると自分だけが募る想いに我慢しているようにしか思えず、不公平に 思えた。
友人から恋人との時間の過ごし方を聞くと、自分だけ損している気がしてしまうのだ。
(もうすぐ祭りだけど、本当にこのまま夫婦になれるのかな)
彼の目に映る女性はいつでも自分だと解っていても、恋人のように接した事も無い。
兄の優しい眼差しに包まれている間は、いつまでも自分が妹でしかいられないような気がしていた。
 ファルカの顔がレティシアにゆっくりと近づき、唇が合わさる前に額をこつんと合わせて微笑を浮かべる。
想い合っていても、唇を交わしたことは今まで一度もない。あくまで、まだ兄と妹なのだ。
二人の禁欲的な雰囲気に耐え切れなくなった少年は、これ以上機会を逃すと気まずくなりそうな予感がして上半身 を起こした。
「あのー、それって犯罪じゃ?」
「きゃっ」
突然起き上がった少年に驚いたレティシアは背後の柱に後頭部をぶつけ、尻餅をついた。
少年は顔をひきつらせ、訝しげに兄と妹を見比べた。


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