歌舞伎「源平布引滝 義賢最期」
歌舞伎400年初春大歌舞伎公演が大阪の松竹座で行われた。
ここ大阪で演じるのは今回が最後だろうと本人が言う、
片岡仁左衛門の「源平布引滝 義賢最期」を見た。
この演物を前回見たのは、昭和61年10月歌舞伎座で17年前。
戸襖を使った立ち回りや階段での仏倒れが見所と共に体力がいる舞台だ。
仁左衛門演じる義賢は、静と動の芝居をめりはりつけて見せてくれた。
舞台の中での一つ一つの感情表現、身のこなし、立ち姿と、
歌舞伎役者にとっては教科書のような舞台だと感じた。

昭和52年3月京都南座の「桜姫東文章」で
片岡孝夫が演じる権助を見たのが初めての舞台である。
26年前だ。
昭和57年には同じく南座で清玄と権助の二役を演じている。
この頃から親から子への芸の継承ということには熱心であった。
舞台での演技、集中力も大したもので、台詞は心で言えばいいと話していた。
折平が義賢の書状を持ち帰り、書状の封が切られているところに気付く演技、
折平を蔵人行綱と見抜くところ、縁先の松を引き抜いて庭の手水鉢の角を打ち据え、
水の陰、木の陽になぞらえ、源氏を忘れていない心の中を明かすところ、
潔白なら兄義朝の首を足蹴にしろというところで、
密かに頭に手を合わせた途端に上使に気付かれたかと誤魔化す仕草、
寺子屋の首実検の場面とよく似ている。
そして最後は戸襖倒しと、思いきり客を引き付けての仏倒れと、
その空間を動かして空気を動かしての芝居は、まさに仁左衛門の真骨頂だ。
重厚で見事の一言に尽きる。
本当に歌舞伎役者が好きなんだろうと思った。
一つ一つがきりりと型にはまり、表情の変化も見事で、
台詞回しと共に変わらぬ爽やかな演技を見せてくれて
歌舞伎の醍醐味を感じさせるところは貴重な歌舞伎役者だ。

小万を秀太郎が演じ、手慣れた芝居を見せるが、
もう少し大きい芝居が欲しいと感じた。
その他は時代が変わり、62年の時には友右衛門が演じた葵御前を扇雀が、
八十助の蔵人行綱が梅玉に、芝雀の待宵姫が孝太郎にと若返りしているだけに、
仁左衛門の舞台での重厚な動きが支えきれていないのが残念。
やはり今の若手は体で芸を覚える前に
頭で考えてするという芸になりがちなのに気付いていない。
それに台詞がわかりにくい人がいた。

昭和52年から見続けてきただけに、孝夫の時代から仁左衛門になっても
演技の底流は媚びもなく変わりなく確実なもので、ひいきめかもしれないが
仁左衛門の芝居を若手は密かに見習ってほしい。
今回出演の女形の演技、形に色気としなやかさが不足しているように思えた。
ただ、残念なのは歌舞伎の欠点なのだが、源平布引滝全五段の人形浄瑠璃の二段で、
物語としては通しで演じて観客の理解度を深めてほしい。
特に、水の陰、木の陽とかのなぞらえが、今の人には知識が欠如しているだけに
これは演出の問題であるが、わかるようにしてくれると助かる。
こうした点は歌舞伎公演の今後の問題であろう。

   2003年1月14日 大阪松竹座 ちゅ−太

<付録>
26年前、片岡孝夫は最年長(?)で、
勘九郎、八十助、児太郎、橋之助、智太郎が続いていた。
大阪中座の船乗り込みでもわいわいがやがやとしていた時代。
でも芸に対しては皆貪欲であった。
密かに人の芸に注目していたというより、芸に遅れをとってはいけないと、
さらに自分の芸を磨いていたように感じた。
昭和57年の「東文章」の公演のとき、片岡孝夫は
「与えられた仕事を苦しいけれどできるだけ気持ちよくやるというだけです」と話していた。
南座顔見世で「慶喜命乞」のときは、ぼちぼち責任がある年代ではという質問に
「僕責任なんてないんです。無責任みたいだけど、とにかく舞台を一生懸命務める、
お客様に喜んでいただく、この積み重ねが将来の歌舞伎の発展に繋がっていくと思います」
と話していた。
その後、京都南座で「義賢最期」を演じたとき、楽屋でのインタビューにこう答えていた。
「台詞一つにしても七五調で言っているのではなく、
間をくずしてもその心理を大事に表していかないといけない。
昔の言葉も出てくるが、耳慣れない人には何を言っているかわからない。
心理の表現がで出来ていれば、言葉がわからなくても意味がわかり、
外人さんが賛同されるのもそこにある。
見せ場と言えば、源氏の武将が武と親子の情の絡み合い、
葛藤が表現出来れば、立ち回り、戸襖倒し、仏倒しですね」
普段の話も芝居のときも、その心は変わらないのが素晴らしいと思った。

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