劇団四季公演 劇評

                 [オペラ座の怪人」
京都劇場

配役 オペラ座の怪人 佐野正幸 クリステイーヌ 岩城あさみ ラウル 光田健一 メグ・ジリー松尾 優

京都劇場で公演している「オペラ座の怪人」を23年ぶりに見た。

公演を観る前に偶然1月26日号の週刊ポストの
「役者は言葉でできている」という題の223回で
鹿賀丈史さんが興味深い事を話しており
今の劇団四季に必要な事ではないかと
その文章の一部をここに引用させていただく。

「…ウエストサイドは芝居があって歌があり踊りもある。
それを経験して27歳の時「カッコの巣をこえて」が
初めての本格的なストレート・プレイになりました。
この時はじめて芝居の面白さに目覚めたんだと思います。
略。ミュージカルは歌や踊りで救われるところがありますが
ストレート・プレイにはそれが全くない。だから人間の心のひだを
深めていく芝居のダイナミズムを感じることが出来たんですよね。
略。四季で一番大きかったのは舞台数をもの凄く踏めたことです。
あの頃は日生劇場で子供向けのミュージカルをやっていました。
子供は面白くないとすぐ騒ぐ、ですからどうやって面白くするか
こちらも工夫する.そして日下武史さんをはじめとする先輩方と
共演。その芝居を見ながら表現の仕方を覚えました。
稽古場以上に舞台の上が勉強になったんです」

オペラ座の怪人を劇団四季の初演から見て来た者にとっては
この鹿賀丈史さんの話しをまず読んでほしいと舞台を観ながら思った。

記憶では、当時の舞台に出ていて今の舞台に出ているのは
今回オペラ座の怪人役を演じている佐野正幸さんと深見正博さんだけでは
ないだろうか?
当時は佐野さんはラウル役を演じていた。

確かに近年の舞台に出てくる役者ん達の歌や踊りの技量は
以前より数段素晴らしいものになってきている。
しかし、舞台全体から見るとそうした個人芸だけが成長しても
舞台は完成しないのだ。

鹿賀さんが話しているように、舞台の上で先輩の芸を盗んで初めて
成長していくのが、舞台ではないだろうか。

今回のオペラ座の怪人は怪人役の佐野さんが、一生懸命
帆船の帆を風に吹かそうとしているが、なかなかそれが出来ないと言う
感じを舞台から受けた。

歌い切るのはいいのだが、そこに気持ちが入り込んでこない
感情が浮き上がってこないのだ。
クリステーヌの場合は歌い切っているのはいいのだが
唄と気持ちと芝居が合致してこない,鹿賀さんが言う心のひだを
深めていく芝居、それが今必要なのではないだろうか。

一つの例を挙げればクリステーヌが最後に怪人に指輪を返すところは
哀れみの愛を感じながら返していくという怪人を盛り上げる気持をもって演じる
大切な場面だ。

昔の舞台と比較して悪いが昔のは肉食系で今のは草食系の感じがした。
個々の役者達は一所懸命演じているがそれは個々であって全体から見ると
まとまりがない、よく言う舞台の空気が一つになっていないという事で
矢張り相手の芝居を受けて演じていくとい事が大切なのではないだろうか。

今回の公演で目についたのは佐和由梨さんのマダム・ジリ―役が場面をメリハリ付けて
いたのが印象に残った。
ムシュー・アンドレとムシュー・フィルマンの増田守人さんと平良交一さんの場面が
充実した歌声を聞かせてくれた。

時代が変わるとオペラ座の怪人も変わってもらっては困る。やはり鹿賀丈史さんが言うように
舞台の上で先輩の芝居を引き継いでいって欲しい。

観劇 2018年1月17日 京都劇場 13時30分公演 <ちゅー太>



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                  SONG & DANCE

                構成。演出。振付4加藤敬二

    出演 瀧山久志 芝 清道 笠松哲朗 松島勇気 島村幸大 江畑晶彗 金 友美



劇団四季は創立65周年を2018年7月14日に迎える。
SONG & DANCEの構想は正直はじめて聞いたのはかなりも昔だ。
それから何十年もたった今、初めてショウ形式の舞台を観劇した。

冒頭に何故か役者が5人並んで今は亡き劇団四季の創立メンバーでもあり
忘れられない名優の日下武史さんを偲んでの言葉があった。

此れは何か突然に此れから舞台で始まる華々しい雰囲気を嫌に
堅苦しいもの雰囲気を劇場内に漂わせてしまったみたいと感じた。

強いてなら、日下さんが良く演じていた赤毛のアンの台詞を使うとか
美女と野獣の森の中での声を上手く使ってくれた方がインパクトがあったのではないか?

一幕はいきなり江畑品彗さんの歌がから始まる。
ショウとして見せる舞台としては、意識的に衣装の色を
黒っぽい感じのもので決めており何かもう一つ盛り上がりが
舞台の雰囲気からは感じられない。

それぞれが出てきて歌う、踊る、そういう単純作業の舞台が続いていく。

気が付いたのは此のショウにはスターが存在していないのだと。
ショウは矢張り、スター的人間を中心に進めていかないと
皆単に横一列で出てきて歌う、踊るで終わる。

衣装的に見せるのでもなく、3人女優が並んだ時も一人はドレスを
一人は裾の短いパーテイドレス?もう一人は普通のワンピースと
まちまちなのも気分が舞台に集中できない。
不思議な気持ちで1幕を見ていた。

二幕は若干雰囲気をミュージカル的感じで幕開けとなる。
それでも各場面は四季ファンなら耳触りのいい、お馴染みの
舞台の音楽が歌と共に舞台を包み込んでいく。

此処で、はたと感じたのは劇団四季の役者たちはどちらかと言うと
唄に秀でて、ダンスに秀でて入団してくる人ばかりだ。
それではショウもこうした人たちの持ち合わせている芸をもっと
形にして舞台を作り上げると更たるショウの舞台に
なったのではないだろうか?

キャッツのメドレーにしても松島勇気さんが演じるミストフェリーズ・マジック猫
お馴染みの回転猫を演じるが、それで終わってしまうのが惜しいので
15回まわって終わりでなく、そこは客席とやりとありで再度回るとか
そこからがもう一つ物語が生まれると次の場面へのブリッジにもなって
行くのではと考えたり。
木琴の場は今ではショウの中には、そ面白さが馴染んでこない。
もう一つ、フラメンコの振付は、情熱的踊りをそれ風に見せてくれなかったのは
残念。振付自体に体で表現する何かが感じられない振りだった。

金 友美さんのダンスは、その場面としては秀逸にと感じながら
どれもが単体の舞台という感じをうけ、ショウの中に流れっている
物語が無いだけに、懐かしいいという思いだけに終始してしまうのは
ある部分演出家の責任ではないだろうか。

松島勇気、金 友美のダンスにしても、彼らが持っている得意技を
上手くつなぎ合させていくことが出来たら、個々の個性がもっと発揮して
更なる良い舞台なったのではないだろうか>
ショウは、矢張り、芸一つだけでは舞台が華やかな彩が出てこない。
繋ぎのショートストッパー的な役者が欲しいし
その人が実はトップスターの役割をしても良い。
役者の出かたがメドレー的でも良いかもしれないが
その間に無いかがあると、舞台はさらに重厚化していくだろう。

その華やかさを創り出すのは、本来はスターなのだ。
ああ、あの人劇団四季の人ねという街中で言われる役者が
欲しい。
その人がスター役が出来るからだ。
こうした舞台で役者個人の個性とあくを見いだす
絶好の舞台と思っている。

宝塚歌劇の場合は、トップスターの周りに下級生がいて
自然トップが盛り上がるようにしているだけなのだ。

観劇 2018年6月17日 開演13時 大阪四季劇場 <ちゅー太>