劇団四季公演 劇評
劇団四季の2公演を見て今劇団四季に感じる事」
「マンマミーア京都公演・The Bridge~歌の架け橋~」大阪公演
アヌイ・ジロドウの作品で当時新劇と言われた舞台を打破して新しい演劇を
浅利慶太・藤野節子・日下武史らが目指して創設した劇団四季は、ある時代から
ブロードウエイ・ミュージカル、ロンドン ミュージカルも舞台に乗せて時代に迎合
劇団四季と言えば独特の母音を大切にしたセリフ回しで演劇の世界で一目置かれる
ように成長してきた。
いつしか劇団四季はミュージカル劇団と言われるようになり、当時創立メンバーの
藤野節子が市村正親が成長したので彼が後を継承してくれる、気が掛かりは創作劇を
作り出す事と言いつつ彼女遺言の様になり創立メンバーも世を去っていった。
演出家と言うより事業家の浅利慶太は、劇団を後に任せられるような演出家候補生を
彼の好みでなことを理由に劇団に別れを告げさせて行った。
そして今、劇団四季は演出家不在のままミュージカル劇団と言われながら公演を続けている。
歌の架け橋は劇団の70年近い足跡をたどる様な構成で歌とダンスで舞台は作られた。
片やマンマミーアもミュージカル公演発足当時の役者は劇団におらず昔の劇団四季を知らない
若て役者が舞台を務めている。
演目は変わらないが出演者が過去の出演者からの継承も無いまま演じてくる劇団四季の
舞台から感じた独特の舞台の空気、セリフ、芝居が舞台上から消え去ってしまっていた。
忘れられない藤野節子が口にした言葉「私たち舞台で芝居する時、特に日下さんとは、
芝居しながら此処はこうしようよとか、相談しながらしたの、今それがない」
つまり役者同士の相互理解度と意思の疎通が欠けていることだ。
或いは芝居はそうして演技造りをするものだと知らないのかも知れない。
そして、そこに演出家不在 という現状から、かって創立メンバーが目指した新劇でない
新しい演劇をといってきた舞台作りは何処かに消えてしまったのだ。
かって産経ホールの吉鹿社長が劇団四季と宝塚歌劇の行く末を見て死にたいと話していた。
ジャーニーズは創立者が亡くなると塊は一瞬にして溶けてしまった。劇団四季は浅利慶太の
精神論だけが劇団の中に浮いている。宝塚歌劇はトップが去っても必ず次のトップが誕生する
仕組みになっている。小林一三の宝塚歌劇発案の賢い所だろう。
劇団の後につながる人材を手放し劇団の創立精神の継承を失わせたことは浅利慶太の
本心か失態かはわからないが少なくとも劇団四季のもち続けて来た色は変色し始めている。
確かに劇団四季にいれば舞台で歌えて踊れるが現状はそこに必要な芝居心が見当たらない。
それゆえ舞台を見ていても「」「」で「と」の間が無いので、プツンプツンとした舞台で流れゆく
舞台の 雰囲気は感じられないのだ。
歌の架け橋は劇団の足跡を歌と踊りのショウにしたのだろうが、セリフと歌と踊りが流れるように
感じられない。
本来の語りにしても、かってジグフリードを演じた水島 弘のよな低音響きのある声が
語りには欲しかった。振り付けもここの振り付けで繋がりが無い所が舞台の雰囲気が
ショウとまではいかず 物足りなさを感じさせた。
マンマミーアもしかりでフィーリングだけでも若い出演者もアンサンブルも四季の役者だという
雰囲気を 垣間見せてくれたらよかったのだ。
今更の劇団四季のあの雰囲気を継承させろといっても知る人もいない。
浅利慶太の精神は忘れずにと劇団の幹部は言うが、今の劇団四季の役者には無理なテーマだ。
いささか方向性が違う方に向いているのを感じる。
ミュージカルの中で劇団の構成も未来を考え 再構築して1チームは演劇チームを作って公演を、
かってサンケイホールで芝居の公演で来た 藤野節子と影万理江が
「あたし達、歌って踊れないチームなのよ」と公演前劇場ロビーで
ウオーミングアップしなら話してくれた言葉が忘れれない。
2021年5月25日マンマミーア京都劇場The Bridge 6月9日オリックス劇場 ちゅー太
企画制作 ホリプロ ミュージカル「生きる」
渡辺勘治 役 鹿賀丈史
「生きる」は黒沢 明監督で作られた名画だ。それをもとに高橋知伽江さんが
脚本と歌詞を書いた舞台だ。渡辺勘治役は市村正親さんと鹿賀丈史さんとが
演じているが、鹿賀さんの舞台を拝見。二人とも元劇団四季の役者さんだ。
妻を亡くして、しがない役所の市民課長、胃がんで余命いくばくもない渡辺勘治は
若い女性の事務員に勇気づけられ生きる有意義さを見出す。大昔、私が少年時代に
渡辺勘治演じる志村 喬さんを映画で見て、いまだにその演技が目に焼き付いている。
高橋知伽江さんが、どんな舞台に書き上げたのか、楽しみに幕の上がるを待った。
一幕は、舞台下手に渡辺課長の席があり鹿賀演じる渡辺課長が、ぼそぼそとした雰囲気で
座っている。そこに市民のおばさんたちが陳情に、内部は大勢座っている役所の内部の感じは
デスクにコマがついていて、それで一斉に移動、雰囲気を感じられる宮本亜門さんの
演出だ。舞台の進行の狂言回しは小説家を演じる新納慎也さんだ。若い女性小田切とよは
May'sさん。一幕はどちらかというと鹿賀演じる渡辺勘治が定年前のよぼよぼの感じで
癌の病名を知る事になるので、これが一つの伏線として、そうした重い雰囲気にしたのか
若干、間を持て余す舞台、PA の関係か鹿賀のセリフが聞きりにくかった。また、強いて
意識しての演技か、極力映画の志村 喬さんに雰囲気似ようとしているのか、その面を
見ていて感じ、芝居が細かい内心を出そうとしているのか舞台の空気が、いささかどよんだまま
一幕が終わった。
二幕に入ると、鹿賀演じる渡辺勘治は見事に目を覚ました。
断片的に場面が進行していく中で公園つくりに八方手を尽くす市民課長の姿を
演じ、一人の若い溌溂とした女性の言葉から今の自分の生きがいともい物を見つけた
嬉しさを地味な表現の中で演じる鹿賀丈史さんの芝居は一瞬その昔、劇団四季の公演の
カッコウの巣の上でで見せた見事な演技を思い出した。
芝居のつくりとしては戦後の話ゆえガード下の公園はウエストサイドを狂言回しの小説家は
エリザベートのルッキーナ?最後の場面は蜷川芝居の心中を想い起こさすもので、如何に
生きるという事は、一つのきっかけがあると、見違えるものに変わるものだという思いを
舞台から感じた。
黒沢 明の作品をリメイクして上手く和製ミュージカル仕上げた事は見事。
またラストのブランコに乗る場面から
雪の中を去っていく後ろ姿を演じる鹿賀丈史さんは、じっと、ここまでこらえてきて一気に
演じた心中が判る気がした。きらやかなミュージカル舞台ではないが和製ミュージカルとしては
作者が伝えたいテーマが観客に理解される舞台だ。余命いくばくもない渡辺勘治に小田切とよが
与えたものは新しい人生への考え方だコロナ禍の時代共通する。
因みに、こんな言葉を聞いたことがあります。
「先の事を考えるのは止めて、今お互いに出来る事をして、この幸せを大切にしたい」と。
欲を言うと、こんなセリフも舞台から聞きたかった。
観劇 2020年11月13日 兵庫芸文大ホール 12時30分公演 1階E列21番 ちゅー太
「オペラ座の怪人 劇団四季新劇場杮落し公演」
劇団四季のオペラ座の怪人は初演以来観劇した回数は数えきれない程だ。
今回は新たに浜松町のビルの中に出来た劇場での杮落し公演。
プログラムの中に劇団四季の吉田社長が「劇団四季にも世代交代が訪れました。
しかし私には浅利が指摘した日本の現代文化の唯一つの課題は少しずつ形を変え
ながら今も我々の前に横たわっている様に思います」書いている。外国人が自国の言葉で
書いた考え習慣歌踊りを日本語に置き換え日本人が演じる、そこには少なからず無理がある
ことは浅利慶太さんも承知していた。そして今劇団四季の創立メンバーは他界しており
それまでに四季の芸風という物は伝えられてきたが、いつしか自然淘汰され、これも
プログラムの中かに書かれているが「出演経験者が初参加のメンバーにレクチュア―
するのも劇団四季伝統ともいえる風景だ」とあるが演劇の難しさは口で伝えるだけでは
その雰囲気迄伝える事は困難だ。かって藤節子さんが,ねえ日下さん、そこの所こうして
くれない、そうするとやりやすいんだけどと、演じる時のことを話していたが正に、そこから
練れた舞台が生まれてくる。
杮落し公演のオペラ座の怪人で一番に感じた事は歌に集中して感情が抜けていると舞台を
見ていて感じた事だ。クリステイーヌに想いを寄せる怪人と、それを受けるクリステイーヌとの
間の気持ちが行き来していない、歌でつないでいるという風に感じた。全体に流れというか
舞台の雰囲気空気がスムースに流れて行かない、例えばオペラ座の支配人との場、
怪人からのスコアーをみんなで歌う場面、などがまとまりが無いとか、出だしのセリの所から
トーンが違うなあと、過去に見た舞台の流れと空気が違うなと強いて言うと半音ずれてる感じだ。
今劇団四季の舞台を見て感じる事は、劇団四季の、のれをくぐって中に入ると、いわゆる四季の売り?
である四季節のセリフが聞こえてこない事だ。ミュージカルにそれを求めるのは不可能だが
四季の役者が引き継ぐ大切なものは四季節で見せる舞台だろう。歌は歌えるがそれに伴う
芝居が不足しているといえる。ミュージカルでも歌って踊ってばかりではない。大切な芝居が
あることを忘れないで欲しい。そこで四季節ともいえる四季だという舞台を、のれんをくぐってきた
お客に感じさせられる。今回の舞台で、引き締めていたのはマダム・ジリー演じた戸田愛子さん
メグ。ジェリー演じた松尾 優さん、それぞれ場面でまりハリをつけていた。
怪人 佐野正幸 クリステイーヌ 山本紗衣 ラウル メグジェリー 松尾 優
観劇 2020年11月14日13公演 10列13番 四季劇場 春 ちゅー太
「コロナ禍で苦労する中リトルマーメイド大阪公演3年目へ」
コロナウイルス感染発生以来、演劇界はじめ舞台関係の方々は発表の場を
制限され演じて観客に見てもらう事が必要なのに、それが充分に出来ないという
そして、公演が出来ない,あるいは満足な形で舞台が出来ないという事は経営的にも
危機感を覗かしている。HNKのニュースで劇団四季の吉田社長は興行の入りが半分以下
すでに80億超える損失と話していた。でも舞台から伝える事が自分たちの仕事ですと。
大阪公演のリトルマーメイドも2020年10月14日に2年を超えたが客席は、ちどり
一つ置きに空席にしている形でコロナ感染防止をはかっている。
問題は外食店と同じで外出自粛以来、人々は出歩くという雰囲気が薄れて
家庭内で事が済むことをするようになり
特に夜間は外出という雰囲気が遠のいているのが現状だ。
その上、客席がチドリ、一つ置きで 座るとなると家族で来ても、二人ずれで来ても、
離れ離れで座るわで客としても雰囲気が出てこない。
今回舞台を見ていて感じたのは劇団四季の舞台には常に劇団四季の空気が雰囲気が
存在していたのだ。
それは古いメンバーが、かろうじて次代へ舞台を共演しながら継承
していたと思うが、各地で公演しており今回は東京で新作オリジナルの舞台を開けた事もあり
大阪公演の出演者が若い人たちで固められている関係から歌芝居共に劇団四季の舞台から
感じられる、四季の舞台だといものが失せていたことが残念だ。
しかし、この問題も以前から想定されていることで、さらに次世代へ出演者が移り変わっていくと、
四季の空気が
希薄なっていくのを、如何にするかが課題ではないだろうか?
近年、コロナ禍でドーパミンは「快感ホルモン」と言われるように楽しさや
心地よさという感情を生み出す物質です。
これが年齢と共にドーパミンの分泌量が減る為
中高年になると物事のへの感動が薄らぐという事です。
これは今、全体に言える事で社会がマスク、手洗い、3密、人と会う事も減少、
物事をリモートでこなす時代、人との交わり会話が少なくなるという事は
個人的にも喜怒哀楽を感じる場を
失ってきている、ドーパミンを分泌させる場が無い、
という事は喜怒哀楽を表現する舞台にも影響を与えいると考えらえるのです。
楽屋ではメークするまでマスクを、
食事は一人で、あるいは 同じ人ならソーシアルデイスタンス取って食べに行く。
会ってるときは互いにマスク、こちらがマスク外せば相手はマスクとメガネ、いろいろの人と
会えていたのが今はそれが出来ない。年中手洗い、消毒、この雰囲気の中では
大切なドーパミンが分泌できるわけがない、その雰囲気の中で舞台という事になると
いい舞台は生まれてかないと考えられるのだ。
ノルアドレナリンは集中力や積極性に関する物質、セロトニンは気分を調節する物質
これが不足になるとストレスにつながる。このコロナ禍では、こうした物質が潜在的に
大きく影響していると考えられる。舞台作りも公演の仕方と共に俳優の個人個人の
感情のコントロールをデイレクトする人が今や必要なのではないだろうか?
2020年10月14日 観劇 大阪四季劇場 18時40分開演 チュー太
劇団四季 吉田智譽樹社長様
拝啓
見えない敵、新型コロナウイルスが、よもや国が緊急非常事態宣言を発出して日常生活が
止まる状態になるとはパリのアメリカ人を京都劇場で幕を開けた初日には予期しなかったと
思います。
小生は今でいえば三密状態、なんとなく勘がして初日のお招きを当日になり失礼させて頂きました。
思い返せばこの嫌な予感は昨年2019年10月の関東方面の豪雨大災害でした。
東京3劇場5公演、名古屋2公演,佳公演を中止と共にいつでも再開できるようスタンバイするという
吉田智譽樹社長にとっては現職ついてからは最大の自然災害を受けたのでした。
勿論、劇団四季だけが被害受けたわけでなく他の劇団も同じでした。
舞台にだけ生きる劇団四季は,頑張ろう精神で2020年の新しい年に躍進すべく
新劇場開場を目指して亡き浅利慶太さんはじめ10人の創立メンバーが67年前にまいた
種がついに大輪の花を咲かすことになり新劇場のテーマは「伝統と革新」でした。
所が、見えない敵、新型コロナウイルスは、じわじわと広がりを見せていたのです。
あっと言う間もなく劇場は公演中止に全てが動けない状態に追い込まれたのでした。
コロナウイルスは対策の取りようがありません。
大阪でキャッツ公演をやろう。3か月持たなかった劇団四季は解散だと当時浅利代表は
記者会見で言いましたが今回はとんでもない話です。
浅利代表から全てを託された今、いかに舞台にだけ生きる劇団四季に息をさせ続けるかが
大きな問題です。
広げた島は縮小も考えないといけないでしょう。フランスのようにアーチストには生活を
保証するというものは日本にはありません。アベマスクの260億円の一部でも文化に
つぎ込んで欲しいです。
ここで劇団四季が頑張らなければいけないのは、ずーと昔からの創立メンバーの藤野節子さんが
言い続けて来た創作劇です。
劇団四季を知りつくている高橋知伽江さんの構成・台本で劇団四季の荒木美保さんが
演出する「劇団四季The Bridge~歌の架け橋~」が奇しくもJR東日本四季劇場の開場記念
作品になろうとしています。
藤野節子さん、日下武史さんが創作劇と言い続けてきた今、創作であり新作でもあるショウ
多分藤野さんは、やっとやれるのねと舞台が幕を開けた時、天からつぶやくと思います。
コロナウイルスが災い転じて劇団四季の流れに「伝統と革新」のうたい文句に福を与えてくれるかもしれません。
吉田智譽樹社長が言う劇団四季の「これまで」と「これから」という新しい姿を高橋知伽江さんと
荒木美保さんに期待しています。
吉田智譽樹社長とは大阪で毎日放送がキャッツ公演を主催した後、如何にロングラン公演を
成功させるか共に苦労した仲でした。
不思議と言えば「オペラ座の怪人」大阪では近鉄劇場を劇団四季公演劇場に
していましたがここでの初公演がオペラ座の怪人でその後、毎日ホールをリニューアルして
MBS劇場で杮落し公演も、オペラ座の怪人でした。最大の難関、箱根の山の関所を如何に
ぐぐりぬけるか、吉田社長の長年の経験と粘り強さで通り抜ける事期待です。
きっとコロナウイルスもオペラ座の怪人が収束してくれるでしょう。そう吉田社長の為に
祈っています。
最後に折角テレビのザ・リーダーというインタビュー番組に出演され将来の夢を語った
後にコロナが現れ残念でした。
劇団関係者にくれぐれも感染者出さない様お願いします。
最後に一言、徳不孤 必有鄰 御身大切に
2020年6月1日
ちゅー太
「浅利慶太の3つの顔・特集の悲劇喜劇を読んで」
劇団四季の劇評ではないが、演劇雑誌の「悲劇喜劇」が浅利慶太の
3つの顔という見出しで特集したので、その記事の中の
いずれも私自身がサイドから見て来ただけに、記事を読みながら
中味に触れたいと思った。
冒頭は創立メンバ―今はただ一人の吉井澄雄さんと元四季小沢社長
聞き手はジャーナリストの内田洋一さん。吉井さんが鹿賀丈史や
市村正親に触れてるが彼らの本心はストレート芝居がしたかったのだ。
藤野節子さんの言い続けた創作劇をしなくちゃという気持ちに触れて
欲しかった。母音法を完璧に咀嚼したのは三田和代さんだと山本隆則さんから
直接聞いた。
山本隆則さんは浅利さんが母音法を考えたのはすごいというが、ただ
使い方を間違えたと、一音づつ言わせたのでロボットセリフになったと。
小沢さんが観客他の動員に関して話しているが、李香蘭の公演の時は
ある代議士の金の集め方を見習い、5万、10万の単位で寄付をお願いしたと
これを当時本人から聞いた時は、アッ使えるなあと。
経営者のの浅利慶太は、関西風い言えば、せこいの一言だろう。
キャッツ公演の事を話しているが、大阪でキャッツを公演するに当たり
如何に大変だったか一番詳しいはずだ。
浅利慶太さんが小生の所に電話を掛けて来たときから始まるのだ。
1994年、四季の担当は小沢当時常務、毎日放送は私と幹部2名
サポートする会社は当時、事業担当の齋藤守慶常務が手配オーケイ
問題は浅利の出した条件がゴールデンタイムにスポット10本出せと。
齋藤常務は担当外ゆえ四季との取り決め文書に10本なんて書けない。
サンドバックの様に浅利と毎日放送から毎晩パンチの連続。四季小沢に。
見かねた齋藤常務が浅利さんに会って判かってもらおうというわけで
銀座の小料理屋に私がベンツに浅利さんを乗せ連れ出したが途中で
計画がばれて浅利慶太は車から脱出した。
結果は、大阪公演初日を空けて、3か月潰れるどころか公演は486回。
引き続き近鉄劇場を公演の場にして劇団四季ここに有りとテレビスポット
のお蔭で観客動員数が伸びていくのだ。
浅利経営者はテレビスポットの重要性、スポンサーの言い方を
サポートにチケット販売方法をコンピュータオンラインシステムを
取り入れキャッツ・チケットボックスを毎日放送本社他5カ所だけに絞り販売するという
斬新さを取り入れた。
口癖は飢餓状態を作るのだ。
厳しい浅利経営者だがキャッツ大阪公演が軌道に乗った7月に「君の所に
昼夜2公演あげるよ」と、お蔭で全社員一家族3人ずつで観劇ができた。
此の辺りの事は小沢元四季社長が一番詳しい理由は私と共に
汗を流していたからだ。
吉井さんが浅利の演劇遺産と問われた中で李香蘭他三部作をあげているが
浅利慶太の発想の原点は慶応高校に文化団体連盟というのがあって
そこが「以前」という小冊を出していて1950年号で「きけわだつみの声」に応える
という論文を募集、一学生としての反省という題で浅利慶太は
佳作に入選金500円を高校二年生の時だ。あの三部作の原点が、ここにあると言える。
又ジャーナリストの内田さんが、芥川比呂志さんが君たちの芝居は、
最初からアヌイの芝居をやるぞという顔で出て來ると、触れているが、
演劇雑誌四季の1957年3月号で
芥川比呂志と浅利慶太は対談しており芥川比呂志さんは「水島君でも日下君でも
一体にそうだと思うんだけとも、この人物はこういう人物だぞという顔をして
出てくるんだよ,初めから、おれはアヌイの劇中人物だぞという顔で出てくるんだよ」
と話している。
吉井さんが浅利演出の台詞劇ベストをあげているが小沢元四季社長が
ジーグフリードもと言っているが正に水島弘演じるジーグフリードだろう。
野村玲子がミラノの蝶々夫人の触れているが、当時の浅利慶太さん
見てほしいと言われミラノまで、蝶々夫人が死ぬとき白い敷物を引き抜くと
日の丸が出てくる浅利愛国心を感じた。
終演後、借りたアパートの一室で自分で買い集めて来た食料を前に
ごく限られた人たちと懇談したのが今でも頭に浮かぶが一番浅利慶太が
野村玲子を愛しているなあと感じたのは、阪神淡路大震災の現場を
見たいというので案内した時、神戸の通りで野村祥子さんがパンを
買いたいという時、彼女の背負っていたリュクから財布を取り出した時の
浅利慶太の顔だった。
吉田智誉樹社長の「劇団四季」という遺産を読んでいて、思い出すのは
美女と野獣をやる。劇場として閉鎖している堂島の毎日ホールでやりたいと
言ってきた。
当時は、地下に映画館があり所有権でもめていた時代。
でも堂島一体をリニューアルの計画があり日生不動産が管理していた。
何処にも、ばれないように秘かに劇場の鍵を入手して元四季社長の小沢さんと
劇場内に懐中電灯で照らしながら見て回った。
その後、デイズニー十交渉が頓挫、強引浅利慶太はどうしても、あの小屋は
押さえておいてほしいと私に、演目決まらないのにそれは無理というと
「君なら出来る」の浅利特有の殺し文句を。
大阪・東京同時公演が条件だったようで管理してる日生の不動産部長を
無理やりゴルフに招待。劇場名はMBSシアターかMBS劇場かでまたまた
で結果MBSあ劇場に彼曰く、漢字の方がいいの一言。
一人思うに、あの時、毎日ホールを、おさえられなかったらデイズニ―公演は
実現できたのかなあと?
三田和代さんが演出家浅利慶太を語っているが劇団四季がミュージカルはじめた当初は
藤野節子さん、影まりえさん皆寂しそうだった。
「私達、歌も踊りおできないから」と大阪の産経ホールで公演会がある時
ロビーで準備運動しながら、つぶやいていた。
だから三田さんはいち早く自分の居場所を見つけに去ったのだ。、
宮島春彦さんの回想浅利慶太さんは宮島さんの朴訥なものを感じる。
最後の文章が面白い。最近徹底した断捨離して過去の資料を総て処分したので
記憶のみで記したと。正に回想に相応しい文章だ。
10年昔に戻れたら宮島春彦演出の劇団四季の舞台が観たかった。
荻尾瞳さんがミュージカルを日本に定着させた浅利慶太という経営者と
題して書いているが、経営者とは結構冷酷無比な性格で裏での
役者の悲しみがある事は余りご存じない。
大阪キャッツ公演の千秋楽皆出たい、芥川は千秋楽に出れると思いきや
市村に代わってしまった。他にもいる。
ウエストサイド物語でも通し稽古で出ていたバーテン役が初日幕があいたら
違う人だった。
最後に安藤裕康さんが書いてる中で浅利慶太発案のASEAN6か国文化使節団だ。
毎日放送の齋藤守慶社長を彼はじめから一員とすることを決めていたのだ。
突然、浅利だがと電話が、今韓国へ行くとちゅうだ。齋藤さんメンバーに入れたから
秘書に外務省の何々課長と連絡取るようにと、突然に。
安藤さんはこの時の一部をこう書いている。
「…夜は食事しならが熱く語り合う。各界代表する論客の団員を、まとめる役は
いつも浅利さんだが食事をホストした日本の某大使から社交そちのけで
難しい話ばかりするのはいかがなものかと・・」
このくだりを一員だった毎日放送の齋藤守慶社長<当時>は
昭和63年1月1日の社報に、この光景をこう書いている。
「・・・団員には衛藤瀋吉、浅利慶太、高野悦子はじめ文化関係各分野
代表する人々で構成された。論客が多く朝食会から深夜まで、
侃々諤々の議論を展開するなど大変熱心なグループだった。・・・・」と
侃々諤々<かんかんがくがく>という言葉を使う所がさすがだ。
普通の人だと、喧々諤々を使うだろう。
今思うといずれの場にも居合わせたのは不思議だ。勿論裏で。
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ミュージカル
ノートルダムの鐘<劇団四季 凱旋公演・京都劇場>
凱旋公演と銘打った「ノートルダムの鐘」初日2019年7月28日京都劇場で
観劇した。
久々に劇団四季節の台詞回しの片鱗を感じ取れた。
少し?劇団四季の舞台だという事を感じさせてくれる舞台に。
改めて、台詞回しと演技の大切さを見せた舞台だ。
フロロ―役の野中万寿夫さんの舞台は、これ以前にも観たが
今回の舞台は更に前回を意識して台詞回しを研究したのではないだろうか?
そう感じさせた。
大聖堂の聖職者フロロー<野中万寿夫>醜く生まれた弟の子供カジモト
<田中彰孝>祭りの日に来たジプシーの娘エスメラルダ<岡村美南>
大聖堂を守る警備隊長<フィーバス)清水大星、いずれもがエスメラルダに
心を奪われていくのだ。
野中のフロローは冒頭の出から力まずこころ静かな芝居で台詞の
言い回しは、久々にその片鱗を感じさせる劇団四季節だ。
醜いカジモトに対してのフロローは、物静かな風ながら、その中で
激しい怒り心の葛藤を嫌みなく表現していく。エスメラルダに対して
心を奪われていく過程も物静かの中に激しさを瞬時に表現していた。
全体に台詞の言い回しが最後が、しり上がり調になるのが気になる
所もあるが、思い出すのは、ここで引き継いで欲しい台詞の言い回しの
仕方はあの日下武史さんの口調だ。
もう一つは、日下さんが厳しく言っていた「が」と「ガ」の言い方の違いだ。
田中のカジモトは、本来のカジモトも持つ醜さからくる心中にある
ひきこもり的粘っこさが無く、意外にさらっと演じているためエスメラルダから
感じ取る心の優しさの表現が若干失われたのは,残念、台詞がスムースに
流れ過ぎかも台詞・芝居の間をもう少し考えて演じるとカジモトの個性が
強調されたのではないだろうか?
それは、最後の場面で醜いカジモトが明るいカジモトに入れ替わる場が
本来はもっと劇的に行くはずだと思うからだ。
岡本のエスメラルダも以前見たエスメラルダの方がジプシー女の
感じが体から感じさせてくれた。
全てがスムースに行き過ぎているという事は、逆に考えると
段取りが出来過ぎているという事になるかも知れない。
かってブロードウエイのトポル主演の「屋根の上のヴァイオリン弾き」で
トポルにインタヴューした時、トポルは25年間この役を演じてきているが
毎日が初日の気分で舞台に上がると話していたのを思い出した。
清水ノフイーバスも芝居が綺麗に流れすぎを感じた。やはり欲しいのは
役と演じる役者の個性が欲しい。
吉賀陶馬のクロパンは、かって在団していた光枝明彦さんが演じていた
感じを此処で表現出来たらと思った。演技に走り台詞回しが単調に
ここでも一寸した間を入れての台詞回しになると、凄味さ風が出て来たと
感じた。
それでも舞台の空気は途絶えることなく、台詞まわしの感じが
かっての劇団四季調を冒頭からわずかながら感じさせてくれたのは
矢張り野中フロローが舞台の全体を引っ張っていく力だろう。
近年、ミュージカル舞台が多い中で、劇団四季節で演じる舞台が
無いだけにノートルダムの鐘は大阪での公演の実現を期待したい。
参考にプログラムの日本スタッフで日本版演出スパーバイザー
という名称が稽古進行管理に、新たに演出チームが出来た。
観劇 2019年7月28日 京都劇場凱旋公演 席 S-19 <ちゅー太>
補足説明 台詞の言い方母音法について
筆者は、ある時、劇団四季の舞台を観ていてこの台詞の言い方はなんだ?
ロボットみたいだと、書いたことがある。
この台詞の言い方について元劇団四季の山本隆則さんに聞くと次のような
答えを頂いた。かなり以前の事だが、重要な事なのでここに引用します。
日本語は、世界中の言語の中で最も母音が強く子音の弱い言語です。
浅利さんはそれに着目して母音を明確に発音すれば日本語はよく聞き取れる
と考えました。
その考え方には間違いはありません。母音法を最も有効に過激に使いこなしたのが
三田和代です。
彼女は母音の中、つまり音の響きの中にあるあらゆる異なったニュウワンスを
込める事で同じ台詞を様々な異なった表現で語る事が出来ました。
また、下手な役者の台詞は、言葉のフレーズの終わりが、息混じりになる事です。
誰でも日常会話で普通に話している時、語尾をきれいに止める事が出来ます。
これをクリーンカットと言いますが、台詞として喋ると特に感情過多になった時など
息を混ぜて正確な言葉を発することが出来なくなります。
また、宝塚歌劇の台詞の様に日本語を長短アクセントをつけて喋る事で
外国人ぽっくしようとする変な癖を取り除く事も出来ます。
以上が簡単に母音法の優れた点を述べてみました。
ただそれを浅利さん自身がよく認識いていたどうかは疑問です。
何故なら、浅利さんは母音法の表面的な事だけにこだわり
母音を確実に発音させようとして、腹筋で一音節ずつ腹をつくという
発声上、最も愚かな方法をとってしまったんです。
前述のように日本語は元々母音が強い上になおさら一音節ずつ
強調すると音節だけが目立って、その結果、文章のフレージングが
なくjなってしましまいます。
それが四季の台詞のロボット語にしてしまったごく単純な原因です。
あらゆる技術的なルーツは、それの使い方によってはよくもなり
又、害にもなります。<2015-4山本隆則>
An American in Paris パリのアメリカ人<劇団四季>
拝啓 劇団四季様
劇団四季の舞台は「アヌイ」「ジロドウ」作品を公演した、第一回公演から見続けて
きた観客の一人です。
近年は、デイズニ―作品が居並ぶ中、劇団四季俳優の台詞まわしで演じる独特の
台詞回しを、聞ける作品の舞台が無いのが、いささか淋しく劇団四季独特の色合いが
消えてしまうのではないかと憂慮しています。
特に、エンターテイメント部門の満足度1位を劇団四季が占めていたのに、現在は
宝塚歌劇団が3年連続1位の座にあります。
そうした時「パリのアメリカ人」を公演すると聞き、平成から新年号に変わる機会に
新たな劇団四季独特の舞台を生み出すものと感じました。
「パリのアメリカ人」の公演が始まり、観劇する機会に恵まれたので公演している劇場
向かいました。
劇場は東京・渋谷のOrb東急シアターオーブでした。
三層つまり3階席まであり収容人数は1972人1階席で1200席余りある大劇場です。
一抹の不安を覚えたのです。
今回の出演者が、此れほどの大劇場で演じた事があるかという・・・。
プログラムにクリストファー・ウイールドン氏の手による言葉と同じように物語を
雄弁に語る本作のダンスのレベルはあまりにも高く、チャレンジ連続と、そして
この公演が劇団四季の表現力の幅を更に広げ劇団としての成長を遂げるいい機会と
書かれてありました。
舞台装置は近年良く使われ出した最新の映像技術をシンプルな装置と組み合わせて
パリの街中の雰囲気を漂わせていました。
今回の演目はガーシュインの音楽でダンスで言葉を表現していくという従来とは違う
舞台なのです。
稽古場で、そこそこできたからと、舞台に上がると、そこは稽古場とはまったく違う雰囲気
なのです。
良く振付でも衣装を着けて舞台に上がると、不具合が出る事が多々あります。
今回は、主役がオーデイションで入ったクラシックバレーが出来る出演者ですが、こうした
舞台は、初めて、しかも、2000人収容の劇場となると、舞台を支える演技に経験が必要と
なるのです。
今、大きなプロダクションでもミュージカル公演が増えて来ています。それ以外でも
2.5次元ミュージカル刀剣乱舞とかありますが、それぞれが気が付き始めたのは
ダンスや歌のメドッドは充分勉強してきているが、演技が未熟だという事に気がつき
初めているのです。
ダンスで感情を表現するにしてもセリフを理解し観客にイマジネーションを与えられなければ
ダンスで表現も出来ないのではないでしょうか?
演技力が無ければミュージカルは成り立たないと。
ダンスが少々下手でも、イマジネーションを観客に与えられたら演技者として及第で
言えるのではないでしょうか?
今回の舞台、ダンスの振付も良い、装置も映像が雰囲気を観客に伝えるのですが、肝心の
演技者の台詞が伝わらないのです。
聞いていると、過去にも一度、書いた事がありますが、主役三人の台詞が半音ずれた声に
聞こえるのです。
それと、此れほどの大劇場だけに経験がものを言う場所です。
半音ずれた感じという事は、台詞が腑に落ちてないから身体がなってない、という事です。
この舞台を演じるには劇場が大きすぎた事と、この劇場をこなすだけの舞台経験者が
居なかった事です。
どうしても踊る芝居に入る抱き合うが皆、段取りでいってしまうので、物語の三人と一人の
女性との雰囲気、繋がりが舞台に漂わないのです。
芝居で、良く貴婦人を演じてもなかなか演じられないと言うのと同じでしょう。一芸だけ出来ても
舞台は務まらない、総合芸術ですから・・・・。
最後に、大切な老け役も、中心になる俳優とともに温存する必要を感じました。
改めて、まだ先の長い舞台、育ててきた俳優を使い手直しは十分に出来るのですから
新年号からの劇団四季の新たなる旅立ちとしての舞台つくり精進してください。
観劇 2019年1月22日 18時30分公演 Orb東急シアターオーブ <ちゅー太>
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ディズニーミュージカル 「リトルマーメイド」 大阪四季劇場
2013年に東京で初演を迎えて以来、大阪では初めての公演だ。
人魚が人間の愛を受けて人魚から人間へ。
海の中の話だけに、宙つりのワイヤーを上手く使い、海底の感じを表現、また鮮やかな色彩を
巧みに使い舞台を華やかに創り上げている。
劇団四季は創設者の一人浅利慶太がミュージカルのウエストサイド物語をみて
ミュージカルに目覚めて以来、いまや巷間、劇団四季はミュージカル劇団と思われて
いる節が強い。
しかし、もともとはアヌイ、ジロドウのストレート芝居を演じてきた劇団で明瞭な
台詞回しで有名な四季節で知られていた。
今回、この舞台を観ていて感じたのは出演者に舞台経験の豊かな役者
過去に芝居経験がある役者の演技は、一味違うと感じた事だ。
アリエルの三平果歩、エリックの竹内一樹も演じているが、そこに二人の気持が
互いに歩み寄っていくという感情が存在してないのだ。
つまり歌やダンスは皆それなりにこなすが、演技となると互いの
台詞のやり取りに気持ちが入り込んでいないというか、相手の台詞を
受けないままに自分台詞を言うという感じで、観客に、この部分は芝居なのだという
雰囲気を与えないでいる。
つまり歌とダンスの中の繋ぎが芝居のという感じを
改めて感じさせた。
何故ならスカットルを演じた堀米聡の芝居を観ていて感じた事だ。
矢張り、彼の場合は長い舞台経験が体についているだけに台詞全体が
芝居に自然となっているのだ。
トリトンを演じた田島亨祐も過去に芝居の経験をもっているだけに
演じているというものが舞台から感じられた。
グリムスビーの岡崎克哉からもその片鱗を感じる事が出来た。
矢張り、ミュージカルを演じるにも歌、ダンスと共に演技力が大切という事を
あらためて念じて欲しい。
それと同時に、時代の様子も変化し始めて東京五輪にしても
競技種目に変化が生まれてきている。
浅利慶太がミュージカルのウエストサイド物語に着眼したのは
1974年だ。
矢張り、今の劇団四季はミュージカル、創作劇を乗り越えた舞台作品を
生み出さないと、他の演劇集団との差別化がなくなって來る。
今度、新しくIOC委員になった日本人が、来て下さいだけでは誰も来なくなる。
アーバンスポーツ都市型のスポーツが必要だと危機感を述べている。
ホリプロはじめとした他の演劇集団で作り出す舞台は時には劇団四季と
変わりないものがある。
しかも演じている役者が元四季となるとなおさらだ。
先ず、リトルマーメイドにしても演技者がしっかりした技を勉強して演じる事が
最重要課題と考える。それだけで舞台に重厚さが生まれてくる。
劇団四季には今、プロデユーサー、演出家が不在、日下武史というような
演技指導者も不在だ。
2020年の東京オリンピックはその問題点に気が付いて方向転換に
苦慮している。
劇団四季も想定外の発想の転換を図り意外と思われるような舞台を
創りだしてほしい。
観劇 2018年10月21日 午後1時30分公演 大阪四季劇場 <ちゅー太>
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劇団四季の「ミュージカル キャッツ 大井町キャッツシアター公演」
劇団四季のミュージカル キャッツは初演の東京新宿西口のテント劇場、
大阪の大阪駅裏でのテント劇場、大阪難波の大阪球場跡地のキャッツドーム以来の
仮設のキャッツ専用劇場で観劇だ。
1200人収容の雰囲気は1985年の大阪の雰囲気を思い出させる。
今回振付の変更あるという事だ。
おばさんねこの場面でゴキブリタップが変更に。
車のトランクから出てきて踊る泥棒猫の所の曲が一新され、踊りも激しいものにと。
後は、初演を見てないとわからないと思うが喧嘩猫の場面の復活、
上記の場面に手を加えたと。
しかし、こうした変更は以前から見続けてないとわからないし
余り新たにと言われても意味が無いような気がする。
今回、劇場以外のキャッツ専用劇場で、キャッツ初演から35年経つ公演を観て
テーマパークの演目?見せるものから、見るものにと徹して観劇する
ミュージカルかなという疑問をふと感じた。
その意味は、35年前初演の頃のキャッツは舞台の役者から
観客への訴えの力を強く感じたが35年目の今回のキャッツは
舞台の上で観客に見せているという違いを感じたからだ。
初演当時のキャッツ シアターで見て来たものには
おばさんねこの重厚さに不足を感じ、振り付けを変えたゴキブリのタップも
迫力を感じられなかった。
泥棒猫はの分部は、これは踊り手の問題だろうが
ねばっこさというかあくを感じられなく、その激しさもだ。
唯一は、喧嘩猫の復活は舞台全体を引き締めるのに効果的だった。
初めに書いたテーマパークの演目風というのは
芝居で訴えてほしい所が軽い感じになっている事だ。
例えば海賊の所でも「芝居が見たいか」という台詞のところが
舞台前に出ていて客の拍手を呼ぶところとかだ。
ダンスの中でも、芝居どころは芝居でしめて欲しい。
今回は矢張り岡村美南のグリドルボーンが目を引くのと
タントミールの杉野早季のダンスが群舞の中でも個人でも光っていた。
まだ若いだけにこうした人に演技も勉強して
踊れて芝居が出来るという役者に育ってほしい。
35年目のキャッツ、単純に楽しかったで終わったが
矢張り舞台の猫たちはもっと個々に客席に自分たちの主張を訴えてほしい。
観劇 キャッツ シアター<大井町> 2018年10月4日 13時公演 ちゅー太
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「恋におちたシェイクスピア」
台本 リー・ストッパー 翻訳 松岡和子 演出 青木 豪 作曲・指揮・音楽監督 笠松泰洋
美術 高橋知子 衣装 レッラ・デイアッツ 照明 門脇寿志 ファイトデイレクター 新美智士
振付 脇坂真人
出演 上川一哉 山本紗衣 田邊真也 阿久津陽一郎 中野今日子 味方隆司 他
劇団四季のニュースリリースによると2006年の初演の「鹿鳴館」以来の、12年ぶりとなる
劇団四季の新作台詞劇が、創立65年周年を迎える節目の2018年に誕生しますとある。
それが映画「Shakespeare in Love」の舞台化した作品だ。
映画はマーク・ノーマンとトム・ストッパードの脚本、それをベースにリー・ホールが
舞台脚本を手がけ、今回四季の公演ではこの舞台脚本を用いたノンレプリカ公演だ。
劇団四季の台詞劇は、いい意味でも悪い意味でも台詞の言い回しに四季独特の四季節と
言われたものが一つの魅力ともされていた。
水島 弘のジーグフリードでの台詞の言い回し。
日下武史のエクウス、Mバタフライの明快な発声で喋る長台詞。
鹿鳴館での日下武史の新派とも感じさせる四季の舞台の雰囲気。
そして思い出すのはミュージカル公演が中心を占めるようになった頃、
大阪の産経ホールでの四季公演に来た藤野節子と影 万里江が
「私たちは歌えないから…グループなの」と、
その…グループ言い換えると芝居が出来るグループが存在していた。
気が付いたときはミュージカル全盛時代で1985年には大阪公演「キャッツ」が実現。
それでも並行して「テッサ」とか「ブレイキング・ザ・コード」という台詞劇も公演していた。
大阪・東京同時公演の「美女と野獣」からは台詞劇から役者たちが疎遠になり始めていた時代だ。
そして劇団四季の中心俳優の日下武史が「鹿鳴館」京都公演の後、地方公演の赤毛のアンを
最後に体調不調となり舞台から遠ざかる状態となり彼を引き継ぐ舞台俳優と言う人の姿が
亡くなったり去ったりして見えなくなったのだ。
せめてアトリエ公演と銘打ってした「ゴールデンポンドのほとり」をアトリエ公演として続けていたら
台詞劇の俳優が育ったのではないだろうか?今として言えるのは勉強の場として。
こうした背景の中で12年ぶりの台詞劇を外部の演出家に依頼して公演をすることになった。
一番危惧したのは、いかなる台詞劇だろうと本来持つ劇団四季の舞台の雰囲気が
表現出来るかという点だった。
明快な台詞の言い回し、メリハリのついた演技、俳優たちのきりっとした
メリハリの利いた立ち姿だ。
恋におちたシェクスピアの舞台でファンを除いて出演者が馴染の無い人ばかりだけに、
芝居を演じる役者の個性からイマジネーションが湧いてこない事だ。
矢張り舞台には中心的存在感を客に与える役者が欲しい。
今回の公演は舞台上の俳優の処理が不充分だという事だ。
動きながら台詞を言っても良いが、役者同士が互いに台詞を受けて芝居をするという点が
お粗末になっていた。
ここで思い出すのは藤節子さんが話した、日下さんと芝居をしていると楽しいの、
何でかというと、ねえ、日下さん、そこんとこの台詞はこう言う風にいってくれない?
そすると私はこういう芝居が出来るの。互いに芝居の事を言いあいながら、稽古ができたから。
もう一つは装置の問題もあるのではないだろうか?簡略したシンメトリーの装置の方が
表現するのに、し易かったのではないだろうか?
階上のある装置で、しかも装置の移動に当たり黒子か裏方か不明な余計な人間が
芝居してる最中に装置の移動をするというのはいささか論外すぎると思った。
しかも、ゴロゴロと音を場面転換は演出上考えられない。
役者の出入りにしても不自然さが目に付いた。
開幕はいじめの役者の第一声が明確に聞こえなかった。あそこで、劇団四季の四季節で
台詞を発してくれたら全体的に雰囲気が伝わったかもしれない。
無駄な演技、意味不明な芝居、二人のベットシーンとかヴァイオラの服をウイルが中途半端に
脱がしたり、ヴァイオラが一人ロープ姿で下着を脱ぐところはじめ、気になる場面が多々目についた。
物語は作品が書けない、そうこうしているうちに二つの座が対立、女王陛下の前で公演するが
成り行きはままならないうちに、ウイルがヴァイオラに恋をという話なのだから、それぞれの役どころに
メリハリを付け、台詞を明確に互いに受けさせれば、舞台はすっきりしたのではないか?
勿論、装置も再考の余地がある。
いずれにしても軸になる役者がいないとまとまりがつかない舞台に、また、12年間の台詞劇
空白が今回の舞台を作るに当たり、俳優たちが芝居を演技をする方法から遠ざかっていたという事が
改めて現実の結果と言える。
ここで言えることはダンスや歌は呑み込みが早いが、それから先が問題で、AIではないが
ロボットは機能は素晴らしいが感情は持てない、何か共通のものを感じる。
舞台が落ち着くのを待とう。京都公演もあることだし。
補足 この芝居、二階席の方が見やすいかも?
観劇 2018年6月22日 自由劇場<浜松町> 18時30分公演 2階4列8番 <ちゅー太>
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「ソング&ダンス65」
構成・演出・振付 加藤敬二
出演 瀧山久志 芝 清道 笠松哲朗 松島勇気 島村幸大 江畑晶彗 金 友美
劇団四季は創立65年を2018年7月14日に迎える。
SONG&DANCEの構想を聞いたのはかなり昔のことだった。
その後舞台は生まれたが、それから何十年かして初めてショウ形式の舞台を観た。
冒頭に何故か役者が5人並び、今は亡き劇団創立メンバーの日下武史さんを
偲ぶ言葉が並べられた。
これは何か此れから舞台で始まる華々しい雰囲気を嫌に堅苦しいもの
雰囲気を劇場内に漂よわせてしまった見たいと感じた。
強いて言うなら、日下さんが良く演じていた赤毛のアンの台詞を使うか
美女と野獣の森の中の声を上手く使ってくれた方がインパクトがあったのではと。
一幕は、いきなり江畑晶彗さんの歌から始まる。
ショウとして見せる舞台としては、意識的に衣装の色を
黒っぽい感じのもので決めており何かもう一つ盛り上がりが
舞台の雰囲気から感じられない。
それぞれが出てきて歌う、踊る、そういう単純作業の舞台が続いていく。
気が付いたのは、此のショウにはスターが存在していないのだと。
ショウは矢張り、スター的人間を中心に進めていかないと
皆、単に横一列で出てきて歌う、踊るで終わる。
衣装で見せるでなく、3人並んだ時の衣装は一人がイブニング風
一人はパーテイ服、もう一人は普通のワンピースト
まちまちのなのも、しっくり感じない、そんな気分で
不思議な世界の中でお馴染みの舞台が歌と踊りが舞台を
包み込んでいく。
此処で、はたと考えたのは、劇団四季の役者さんたちは
どちらかというと、歌や、踊りに、たけた人ばかり故
此の人たちの別の面を掘り起こして舞台で演じさせて
みるのも、意外にショウの面白さが出てくるではと。
キャッツのメドレーで松島勇気さんが演じるミストフェリーズ
マジック猫、お馴染みの回転猫を演じるが、それで終わってしまうのが
惜しいので15回まわって終わりでなく客席とやり取りがあり
再度、まわるとか、そこから新しい物語が生まれると
次の舞台へのブリッジにもなっていくのではと考えたり
フラメンコの振付は情熱的な踊りが、それ風に見せてくれなかった事が残念。
振付自体も体で表現する何かが感じられない振りだった。
此れは振付の責任だろう。
何となく、大技を求めすぎた結果の振りと感じたが?
金 友美さんのダンスはその場面としては綺麗な踊り、然しながら
どれも単体の舞台という感じを受けショウの中に流れている
物語が無いだけに、懐かしいという思いだけに終始してしまうのは残念。
松島勇気さん、金 友美さんのダンスにしても彼らが持つ得意技を
上手くつなぎ合わせていくことが出来たら、個々の個性をもっと発揮して、
更なる良い舞台になったのではと。
ショウは芸一つでは舞台を華やかな色が出てこない。
繋ぎのショートストッパ―の様な役者が欲しい。
その人がトップ的役割をはたしても良いだろう。
音楽だけでつないでいくと言うのは、ショウとしても無理が生まれる。
ファンは単に懐かしさで満足かもしれないが
本来その華やかさを創り出すのは本来はスターの役割だし
今、四季に必要なのは矢張りスターなのだ。
「あの人、劇団四季の誰それさんね」と言う声が
町中で聞けるぐらいの役者が欲しい時代だ。
唄繋ぎだけでは、ダンス繋ぎだけでは、ショウにはならない。
ショートストッパーがトップスターでもいい。
それ的な役者がいて初めて劇団四季のショウが生まれてくるのだ。
このSONG&DANCEは劇団四季のいろいろのことを考えさせる舞台だった。
観劇 2018年6月17日 大阪劇団四季劇場 13時公演 <ちゅー太>
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[オペラ座の怪人」京都劇場
配役 オペラ座の怪人 佐野正幸 クリステイーヌ 岩城あさみ
ラウル 光田健一 メグ・ジリー松尾 優
京都劇場で公演している「オペラ座の怪人」を23年ぶりに見た。
公演を観る前に偶然1月26日号の週刊ポストの
「役者は言葉でできている」という題の223回で
鹿賀丈史さんが興味深い事を話しており
今の劇団四季に必要な事ではないかと
その文章の一部をここに引用させていただく。
「…ウエストサイドは芝居があって歌があり踊りもある。
それを経験して27歳の時「カッコの巣をこえて」が
初めての本格的なストレート・プレイになりました。
この時はじめて芝居の面白さに目覚めたんだと思います。
略。
ミュージカルは歌や踊りで救われるところがありますが
ストレート・プレイにはそれが全くない。だから人間の心のひだを
深めていく芝居のダイナミズムを感じることが出来たんですよね。
略。
四季で一番大きかったのは舞台数をもの凄く踏めたことです。
あの頃は日生劇場で子供向けのミュージカルをやっていました。
子供は面白くないとすぐ騒ぐ、ですからどうやって面白くするか
こちらも工夫する.そして日下武史さんをはじめとする先輩方と
共演。その芝居を見ながら表現の仕方を覚えました。
稽古場以上に舞台の上が勉強になったんです」
オペラ座の怪人を劇団四季の初演から見て来た者にとっては
この鹿賀丈史さんの話しをまず読んでほしいと舞台を観ながら思った。
記憶では、当時の舞台に出ていて今の舞台に出ているのは
今回オペラ座の怪人役を演じている佐野正幸さんと深見正博さんだけでは
ないだろうか?
当時は佐野さんはラウル役を演じていた。
確かに近年の舞台に出てくる役者ん達の歌や踊りの技量は
以前より数段素晴らしいものになってきている。
しかし、舞台全体から見るとそうした個人芸だけが成長しても
舞台は完成しないのだ。
鹿賀さんが話しているように、舞台の上で先輩の芸を盗んで
初めて成長していくのが、舞台ではないだろうか。
今回のオペラ座の怪人は怪人役の佐野さんが、一生懸命
帆船の帆を風に吹かそうとしているが、なかなかそれが出来ないという
感じを舞台から受けた。
歌い切るのはいいのだが、そこに気持ちが入り込んでこない
感情が浮き上がってこないのだ。
クリステーヌの場合は歌い切っているのはいいのだが
唄と気持ちと芝居が合致してこない,鹿賀さんが言う心のひだを
深めていく芝居、それが今必要なのではないだろうか。
一つの例を挙げればクリステーヌが最後に怪人に指輪を返すところは
哀れみの愛を感じながら返していくという怪人を盛り上げる気持を
もって演じる大切な場面だ。
昔の舞台と比較して悪いが昔のは肉食系で今のは草食系の感じがした。
個々の役者達は一所懸命演じているがそれは個々であって全体から見ると
まとまりがない、よく言う舞台の空気が一つになっていないという事で
矢張り相手の芝居を受けて演じていくとい事が大切なのではないだろうか。
今回の公演で目についたのは佐和由梨さんのマダム・ジリ―役が場面を
メリハリ付けていたのが印象に残った。
ムシュー・アンドレとムシュー・フィルマンの増田守人さんと平良交一さんの場面が
充実した歌声を聞かせてくれた。
時代が変わるとオペラ座の怪人も変わってもらっては困る。
やはり鹿賀丈史さんが言うように舞台の上で先輩の芝居を引き継いでいって欲しい。
観劇 2018年1月17日 京都劇場 13時30分公演 <ちゅー太>
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