「食育」の学び        講師  岩手県食文化研究会 副代表
              宮本 義孝 先生
 みなさん、こんにちは。最近、食育ということが良く言われるようになりましたけど、
食育には、三つの視点があるんです。一つは今盛んに問題になっていますが、食の安全・
安心です. 二つ目は、最近の食はグローバル化し、そこから色々な問題が起こっている。
三つ目は、食というのは、我々の命をつなぎ健康を維持するために必要なものですが、同
時に食というのは人の人格を作る意味でも大きい関わり方を持つ。この三つがあります。
今日はこの三つの事について限られた時間ではありますが、お話をしていきたいと思います。
 まず最初に、食の安全・安心の問題です。皆さんテレビのコマーシャル映像で、猿が気 持ち良さそうに温泉につかっている映像を見たことはありませんか。最近は、あまり見ら れなくなりましたが、以前はしょっちゅう出てきました。あれは、長野県の野沢温泉とい う所があるのですが、そこから少し奥に入りますと地獄谷という所があるんです。そこに 居る野生の猿なんです。高知の猿は、芋を海水で洗って食べる文化を持っているのですが、 この猿は、温泉につかる文化を持っているんです。そこで地元の人達は、観光用に使えた らいいと餌付けをしたんです。ちょうど昭和38年(1963年)、この餌付けに成功し たんです。翌年が東京オリンピックがあった年です。四人の係員が、80数頭いるんです けど、その猿に一日二回餌を与えています。ところが、この猿に異常な事件が起こったん です。昭和45年、餌を与え始めて7年位経ってからです。その年、12頭の獲が生まれ たんですが、そのうちの半分6頭に奇形が生まれたんです。その前後にNHKのテレビで は、サリドマイド児のような、両腕がない獲を一年間取材し、記録した映像があるんです が、そういう奇形の壊が生まれたんです。少し前から様子が変だなあということがあった んですが、突然半分の猿に奇形が生まれたので、周りはびっくりしたんです。色々な方に 意見を聞いて、食べ物に原因があるのではということで食べ物を調べたんです。三つ与え ているんです。一つは、小麦、もう一つは長野県はりんごの産地なので、りんご。それか ら大豆かすを与えていました。それを調べたんです。そしたら、小麦・大豆には問題はな かったんです。問題はりんごなんです。そのりんごというのは、今は農薬がかなり意識さ れ徹底していますので、できるだけ、農薬を使わないようにしていますが、当時はさほど でもなかったんです。青森県のりんご試験場が出している指導要領では、りんごを作って 市場に出荷するまでに29回消毒する。消毒薬をかけるんです。そう指示があるんです。 私たちが食べる楊合には、皮をむいたり、洗ったりします。ところが、獲にいちいちそん なことはしません。屑りんごを四つに割ってまき散らすわけです。付いている農薬を猿は、 そのまま食べる。それで壊のお母さんの身体の中にたまったんです。それで奇形の壊が生 まれたんです。  ところが、実はその頃、猿ばかりではなく人間社会にも異常なことが起こったんです。 私位の年齢の人間だとその当時の事件は、思い起こせるかと思うのですが、ちょうど昭和 30年というのは、高度成長の時でした。もはや戦後ではなく、どんどん工業化していき ました。それに合わせて、ご存じのように、九州では水俣病がでました。富山県の押通川 流域では、イタイタイ病がでました。それから、水俣病のような症状は、新潟県にも出て いますし、カネミ油の問題、それから、先程言いましたサリドマイド児。レイチェルカー ソンのサイレントスプリングという本の中で警告したように、つまり田んぼから全く生き 物がいなくなりました。そういうことが続いて起こりました。先ほど紹介ありましたけど、 今ここで私は食育の話をしていますが、実は私は国語の教師なんです。40年近く東京と 盛岡で、国語の教師をしていました。それなのに、なぜ食育の話になるんだろうというこ とになるんですが、ちょうどその頃結婚して子供が生まれました。その時に考えたんです。 つくづく考えたんです。生まれてきた子供はどうしようもない、けれど親の無知で子供に 危険な物を食べさせて、そして、その子供にハンディを負わすことになったら、私は大変 だと思いました。親の責任として子供に食べさせる物は、もっときちんと考えなければい けないと。それで少し勉強するようになって、現在こんなふうになりました。今話したの は昭和30年代のことですけれども、日本はその後、大変な負の経験をしました。マイナ スの経験をして、今はそういうことがなくなりました。農薬も随分控えるようにしていま す。工場でも工場内で使った水は、それを飲んでも危験でないように処理をして、海や川 に流すようになりました。このように私たちの意識、あるいは経営者の意識もその事件を 通して、少しずつ、少しずつ良くなってきたんです。では、それが今本当に良くなったの かというと、実はそうではないのです。ちょうど私が危険だと感じているようなことが、 今も起こっています。滋賀県に止揚学園という重度の障害者を受容している施設がありま す。そこに私の勤めていた学校と郷妹関係がありまして、その職員の人達が盛岡に来た時 はよく学校に寄ってくれました。今から10年位前ですけど、理事長の福井光子さんとい う方が盛岡に来た時に、うちの学校に寄って生徒に一時問程話をしてくれました。その時 に福井光子さんは、生徒に「皆さん、ここに400人位いるけれど、その中からどのくら いの確率で障害を持った子が生まれると思いますか」と聞いたんです。100人かりに子 供が生まれたとしたら、その子供の中にどれくらい障害を持った子が生まれるでしょうと 聞いたんです。生徒はそんなことは全然勉強をしていないので、「一人かな、二人かな。 いやもっと少ないんじやない‥・」とか言っていました。どのくらいかというと、福井 光子さんの話によると、3人から7人は障害を持った子が生まれるとというんです。ちょ つと幅がありますよねn これは障害という意識がちょっと違うからなんです。誰が見ても 障害を持った子は、3人位はいるんです。ところが、一見障害を持っているように見えな いけれども、内臓疾患があったり、アレルギー、喘息とかそういうのを入れると7人位い るということなんです。わたしの教え子でも、そばアレルギーの子がいまして、そばを食 べると命に関わるんですよ。そばだけでなく、そば粉が入った饅頭なども知らないで食べ ると命に関わるという子がいるんです。そういうような者を入れるとそれくらいになる。 光子先生の話によると、減っていないと言うんです。前の統計から比べるとこの数は増え ていると言うんです。色々な事件を通して、私たちは食に対する公害の問題に対してかな り敏感になり、知識を持ったはずなのに、なぜこんなことになるのでしょうか。それには、 いくつかの原因があるんです。 その前に、最近ショッキングな話を聞いたので、そのお話をし圭す。最近といっても5 年位前なんですけども、福島県の郡山で高等学校の全国教育研究大会みたいなものがあり、 私が勤めていた学校も研究発表するということで、校長だった私も一緒に出ていました。 その時、小泉武夫という方の講演を聞く機会を得ました。この小泉武夫は東京農業大学の 先生で、発酵学が専門なんですけど、現在、食に関して一番発言しているのがこの人です。 著書も80冊ほどありまして、この間もNHKの番組に出て意見を述べたりしていました。 この小泉武夫先生の話はどういうことかというと、九州の北にある大きな都市のコンビニ エンスストアのことです。今コンビニにはサンドイッチとか、おにぎりとか、スパゲッテ ィとか、生野菜とか、お惣菜とかすぐ食べられるものが置いてあります。これらの食べ物 には賞味期限というのがあり、一日に2回くらい取り替えるんです。廃棄するんです。そ ぅいう廃棄された量はものすごいです。その廃棄された物はどういうふうに処理されるか というと、業者に引き渡されて焼却処分されます。ところが、その業者の社長さんが私と 同じくらいの世代で戦後の大変な食糧弊の時期を知っているんですね。食べる物が全くな かった時期を知っているんです。それが、どんどん食べ物が出てきて捨てられるんです。 そのうちに、とてももったいなくて耐えられなくなったんです。試しにそれを食べてみた んです。そしたら美味しいんですね。味は全然変わらない。期限が過ぎて、その食べ物が 急にそこで悪くなるとは考えられません。結構、美味しく食べられるわけです。それで、 初めのうちは従業員に持ち帰らせていましたが、そんなことではとても処理が追いつきま せん。その時、はっと思いついたのは養隊業者の友人です。私が子どもの時、豚というの は残飯で育てていました。学較に行く途中、リヤカーに大きい樽を積んだおじさんとよく 出会うんです。各家を回って残飯を集めます。それを豚に食べさせたんです。昔はそうや って隊を育てたんです。だからその残飯を豚に食べさせれば効率がいいんじやないかと。 養豚業者の方も飼料代も浮くし、もったいなくないということで、それで友達の業者の所 へ持って行ったんです。そしたらそれでやってみようということになりました。ただ、今 は昔と違って肉質の検査が厳しく、そういう残飯で育てて仮に肉質に変化が起こつては困 るので、実験的に錮料の隊とは別に分けて育てました。そして、大きくして売るわけです けど、出荷するときに養豚業者の人達は子豚をとるんです。また、それを育てるんですけ ど、実はそのコンビニの残飯で育てた豚に奇形が続いたというんです。本来は、何頭生ま れてその内の何頭に奇形があったのかということが話になるべきなんですが、質問する時 間がなかったので話はそれっきりになってしまいました。このコンビニのあった都市の地 元の新聞が特集を組んで報道したほどですから、かなりのものだったのでしょう。なぜ、 残飯で奇形が生まれてくるのかということなんです。これは、今でも行われていることで すが、二つあるんです。一つは、添加物の問題。もう一つは、今私たちが食べている食品 のうち本当に自給できているものは39%で、あとの残りは外国からきているということ です。そこから出てくる色々な問題があるんです。それが原因になっています。添加物は 一時随分掻がれましたから、食べ物に添加物は入っていないんじやないかと思うかもしれ ませんが、そうじやないんです。  お米が主食で、パンなんかは準主食のようなものですが、パンで話をしまずとずいぶん 添加物が入っているんです。パンというのは、作った方はお分かりだと思いますが、鉄板 に油をひいてイースト菌を膨らませた生地をオーブンで焼きますよね。そうすると、でき たパンは、鉄板にくっついています。だからスクレーパ←で削ぎ落とします。これがふつ うのパンなんです。一日に何十万個とパンを作る会社では、窯から出てきたパンを何十・ 何千個といちいちそんなことをやっていたらとても手間がかかる、不経済なわけです。そ れで、パンが鉄板につかないように流動パラフィンのようなものが使われます。それから 大きいパン会社などでは、可愛い女の子が出てきますね。木村佳乃や松たか子とかが出て きてニツコリと微笑みながらパンを見せる。見るとパンは真っ白できれいでしょ。可愛い 女の子がニツコリと笑うものだから「ふうーっ」となっちやうんだけど、真っ白なパンは ないんですよ。小麦は元々、茶色がかった色なんです。あれは小麦を漂白しているからな んです。漂泊というのはどういうことかというと小麦粉に塩素を吹きかけるんです。そう すると、色素が壊れるんです。壊れるから、白くなるんです。きれいに、あるいは清潔に 見せるために、パンにいろんなものが入ってくるわけです。塩素は、漂白作用があるから、 色々なところに使われています。トイレでも汚れがこびついていればそれを洗浄する薬が ありますねc。これは、みな塩素系のものが入っているわけです。後ろの使用注意にかいて あるでしょ。メガネをしてください。それからゴム手袋をはめてください。そういうふう になるわけです。それから、今日作って今日売るというパンは、問題がないんです。とこ ろが、パンというのは、必ずしもそうではなくて、例えば、東北で卸されている大きいパ ン屋さんですと、仙台で作られるんです。24時間稼働で作るわけです。それを岩手県な らば盛岡に持ってくるんですけども、盛岡で細かく仕分けされて各市町村に行くわけです。 ここで1〜2日経ちます。ところが、パンというのは、1日置くと固くなります。盛岡で は正食会という所があって、国産で素性の知れたものでしかものを作らないというところ があるんです。私が勤めていた学校もそこのパンをつかっていたんです。余ってもらって 帰ると次の日は固くなっています。カチカチになっています。 それから、ちょっと湿気 の多い所に置くとすぐカビが生えてくるんです。もともとパンはそういうものなのです。 ところが大きい会社で作られたパンは、1週間置いてもカビは生えないです。柔らかいん ですね。それはどういうことかというと、盛岡の場合は、人口が多いから物は流れて行き ますけど、その他の地域、田舎に行くと人口が少ないので2日でも3日でも店の中に置か れるわけです。カビが生えたり、硬くなったりしては商売にならないんです。だから、多 分1週間や10日経ってもカビが生えないように防腐剤とか入れるんです。このように私 たちが、食べる食べ物の中には、いろんな所で添加物が入っているんです。地産地消とい うのがなぜ大事なのかというと、そういうことをする必要がない。ただ、だから安全とい うわけでもないんです。地産地消であっても農薬を使っている所は結構ありますからね。 そういう問題が一つあります。もう一つは、外国から食材が今どんどん入ってきます。今 度の農薬入りの餃子の事件でびっくりするほど私たちが日常食べている食べ物の中に中国 を始め、外国のものが入り込んでいる。改めて知って、少しは勉強しているつもりではい ましたけど、びっくりするほど色々なものが入っているんです。  色々なものが外国から入ってくるとどうなるかというと、抽象的に話をしても面白くな いから、具体的にエビでお話をします。なんでエビかというと、私たち日本人はエビが好 きなんです。一人平均1年間で70匹くらいは食べているんです。そのうち9割は外国産 なんです。日本の周りで獲れるのは1割もないんです。あとはみんな外国からくるんです が、その外国からくるのも世界各国いろんなところ、北欧・オーストラリアからもそれか ら台湾・中国からもインド・インドネシアからも入って来るんです。ひとつの例としては、 台湾に高雄という所があります。高雄は台北に次いで大きい都市ですけども、高堆の沖合 はエビの漁場なんです。昔からよくエビが獲れる所なんです。ところが、今行けばわかり ますが、高雄は工業化してとにかく経済的な力をつけるようということで、大きい工場が どんどん建っています。そこから出る工場排水が海を汚しています。昭和30年代に水俣 病、神通川流域のイタイタイ病など、事件のような公害の歴史があるから、日本では排水 はきちんと処理して排水するようになりました。排水をきちんと管理しないで事故を起こ した湯合、会社は倒産するんです。そのくらい厳しくなったんです。だから、お金をかけ ても排水を処理する設備をしっかりし、安全にして流すんですが、東南アジア、中国、台 湾、インドなどは必ずしもそうではないんです。ちょうど日本の昭和30年代と同じ状況 なんです。そこで育てられたエビは危険なんです。そういうエビが世界の至る所から輸入 されてきます。例えば、インドネシアから日本に入ってくるには結構距離がありますね。 そのまま持ってきたら時間が経つと白いエビが黒ずんできます。それを店に並べても買い 手がつかないです。それでどうするのかというと、洗って処理する水に塩素剤を添加する んです。実際、そういうのが入っていて黒く変わるのを防いでいるんです。これはエビを あげましたけど、エビだけではないんです。昔からバナナも野菜などもそう言われていま す。遠いところから運ぶ場合には、処理をしないと腐ったり、変色したりして市場に出回 れなくなります。だから添加物を入れるんです。私たちが食べ物を買う場合に第一に考え るには、安全ですね。家族に食べさせるもの、調理するもの、その食材を買う時は第一に 安全・安心。ところが業者が考えるのは、安全・安心ではないんです。これは、コストを いかに下げるか、コスト(価格)を下げる競争が、今スーパーでも外食産業でも行われて いるんですよね。そうするとどうなるのかというと、できるだけ安い食材を買い入れるわ けですよ。安い食材は人件費が安かったり、いろんな意味でコストが安かったりするわけ です。それがスーパーとか外食産業で使われる食材の原料になるわけです。食材そのもの は、どこでとれたか、どこで作られたかを表示しなければならないわけです。スーパーの ちらしにもそういうことが書かれています。この問うちの近くのスーパーのチラシをみた ら18カ国書いてありました。ところがその材料を使って料理をしたり、食品加工したり、 冷凍食品を作ったりする場合には表示しなくてもよいんですね。豆腐だって大豆はほとん ど輸入だと言われています。日本の伝統あるそばでも、そば粉そのものは外層からの輸入 だったりするわけですよ。だから私たちは食の安全・安心を考えたとき無知ではいけない のです。この「つけ」がみんな次の世代の子ども達にいくんですね。だからそういうこと で食の安全・安心ということを改め直してみる、考え直してみる必要があるのではないか と思います。これをきっかけにして食について関心をもっていただきたいと思います。今 度の餃子の事件はミステリックでわかりません。基本的には今言ったような外国からくる 食材や食品、地産地消でないものには、そういう宿命的なものがあるんだということを分 かっておかなければなりません。これがまず第1です。食育の令の安全安心に関すること
です。
 もうひとつは、先ほどの研究発表の場合で食をとりあげて、令と子供の健康管理のよう なものを発表されました。確かに食べ物というのは私たちの命をつなぐものであるし、健 康を管理するものではあるんですが、私はもっと重要と思うんです。食は人間の心を育む、 人格をつくる上で大きな役割を果たす、そういう力を持っていると思うんです。食という と台所の問題とか、ただ健康を案ずるとか、体を安全にというふうな次元で話し合われる ことが多いので、その問題についてお話します。先ほど紹介にありましたように、私は4 0年近く教師をやりましたけれど、そのうちの後半は校艮だったんですね。校長というの は、直接生徒とは関わらないんです。生徒の教育に直接は問わらないんです。ただ、どの 学校もそうかはわからないんですが、私が勤めていた学校では、問題を抱えている生徒、 担任の手に負えなくなった生徒はよく校長室に連れて来られることがあるんです。「校長 先生の指導を受けたら後はないんだぞ」と言いながら置いていくんですよ。そういう時に 生徒と日常接しているわけではない、直接教育で接していないのでどうしても一方的にな るわけですよ。ただのお説教では生徒は全然聞いていない。わかるんですよ。神妙にはし ていても、心の耳はちやんと閉ざしているんですよ。どうするかというと私の場合はいろ いろお喋りするんですよ。生徒が答えられそうな質問をして、それを繰り返し、繰り返し 言葉のキャッチボールをしながら、なんとなく一緒に過ごすんですよ。そうすると見えて くるんですね。「昨日何時に寝たの」「10時頃です」「それまで何してたの、勉強してた わけじやないだろう」「テレビ見てました」「テレビ、おもしろい番組あったのか」「いや なんとなく見てたんです」というそんな話になるんです。そんな話の中にいろいろ質問を し、食のことも少し交えて聞くんです。例えば「君の家では朝ご飯はちゃんと食べてるの」 とか、「夕ご飯の時には家族揃って食べるの」とかね。本を読みましたという子がいたら、 「どんな本読んだ」とか、そんな話をしているうちに、だいたい生徒の育ち方、生活の仕 方が見えてくるんですね。その時にアドバイスするわけですよ。「そんな事を私も同じ時 期に考えたんだよ」そして「私はこういうふうにして解決したよ」とか事例なんかをあげ ながらお話しするんですよ。私は学者じやないから、数字を上げて、その因果関係を引き 出してくるということはしませんし、また、そういうことにあまり興味もないんです。た だ40年近く教師をやった経験から確実に言えることは、問題を抱えている生徒は日常の 食に問題があるんですね。家庭に問題があるんですよ。先ほどの発表にありましたように、 朝ご飯を抜いているとかね、晩ご飯を一緒に食べていないだとかね、孤食だとかというよ うな問題を抱えているんですよ。ある時期家庭における食というものが、子供の成長にど んな常わり方をするのか考えたことがあるんですよ。自分が育った家庭、自分がしている 子育て、先生方の中にも下手な先生がいるんです。子育てに失敗する先生もいます。とこ ろが、意外と上手に子供を育てている、共稼ぎでありながら上手に育てている家庭もある んですよ。できるだけ注意して、そのような事例を引き出して考えてみて、そうかなるほ どそういうことなんだなあと思ったことがあるんですよ。  私が育った家庭の話をしますとね、昭和30年代で、今映画で「ALWAYS」が上映され ていてちょうどあの頃の世相が映画の材料になっているんですけどね。あの時期は今と比 べて食べるものがずっと少なかったです。貧しかったんです。ところが、不思議に家族一 緒に食事をしていたんです。思えば変だなと思うんですが、どの家にも足を折りたたむ丸 い食台があるんですよね。普段は折りたたんで置きますけど、ごはん時は足を起こして台 所からできたものを並べて、丸くなって食べるんですよね。テレビはありませんでしたか ら、ただ食べるんですが、然々と食べることはないんですよ。テレビが無くってごはんを 食べる時はお喋りをするんですよ。けっこう喋るんです。父親に「黙って食え、うるさい」 と怒られたりしながら、喋るんですよ。喋るだけではなく時々注意されるんですよ。何で 怒られるか不思議に思ったこともあるんです。私の母親はあん去り細かいことを言う人で はなかったんですが、びしっと怒るところはあるんですよね。3つあるんですよ。1つは 食べ物を汚く食べる時です。魚なんかもきれいに食べないと怒るんですよ。それから、い い加減な食べ方をすると怒られるんですよ。人は生きる上で物を食べないといけないんだ けれど、人が食べる食べ物はかつて命があったものなんですね。お肉も魚も野菜もちゃん と生きていたんですよ。土に根を下ろして生きてたんです。つまり、その命をいただかな ければ自分は生きられないんですよ。だから、命を粗末にしないということが母親の言い たいことなんですね。「いただきます」と言うのも、そういう感謝の気持ちで食べ物に接 するということなんですね。もう1つは、「私はたいして料理は上手じやないけれど、作 っている時はおいしいものを食べてもらいたいと思いながら作っているんだよ」というよ うなことを母親は言うんですね。つまり、作った人に感謝しなければいけないということ なんです。つまり、食べ物を粗末にする、いい加減にするということは、そういう気持ち をないがしろにすることだということなんですよね。もう1つは、お米にしたって野菜に したって、お百姓さんが汗を流して苦労して作ったものなんですよ。それを私たちはいた だくんだから、それは粗末にはできないんだよ。ということを言いたいようなんです。 だ から「いただきます」なんですよ。  この間花巻の小学較で講横を依頼されて行ってきました。先生方とお話をしてたんです。 そしたらちょっと困りましたという話がありました。聞いてみたら、給食で「いただきま す」つて食べるんだけども、それはおかしいんじやないかと言う保護者が出てきたんだそ うです。ちやんと給食費を払っている、いただいているんじやないということのようです。 全然いただく意味が違うんですよ。そういうことではなくて、私たちが生きるために他の 命をもらっているんですということなんです。あまりぴんとこないかもしれないけれど、 宮沢賢治の童話を読むともっと切実にわかるんですよね。宮沢賢治の代表作は、みな食べ 物と関連あるんですね。「よだかの星」なんかもそうなんですね。鷹っていう名前がつい ているから、鷹に怒られて、名前を変えろと、変えなかったら殺すぞ言われます。よだか は自分が死に直面したときに感じるんですね。自分が生きるために羽虫とかカブトムシを 食べている。その羽虫やカブトムシにも生きる悲しさというものがあるんだ。それをなん とも思っていなかったけれども、自分はそれを感じるようになる。そして食べるのをやめ よう、そして星になろうと言って、星になる。それがよだかの星のテーマなんですよね。 「なめとこ山の熊」もそうなんですよ。熊が熊討ちの小十郎に言うんですよ。なんで俺を 殺すんだって言うんですよ。そしたら小十郎は、憎くて殺すんじやないんだ、自分が生き ていくための畑もないし、何もないんだ。お前を殺すしかないんだ。毛皮をとっても、熊 の身をとったって、たいした金にもならないけど、俺が生きていくためには仕方がないん だと言うんですよね。そして、結局最後は小十郎は誤って熊にうたれて死ぬんですが、小 十郎の頻は星や月の光の中に笑っているように見えたというお話なんです。人間というの は生きるために命をいただかなければならない、そういう業があるんですね。その業とい うのを正面からきちんと、受け止めれたのは賢治なんです。賢治はこればかりでなく、お 父さんが古着商なんですね。古着商は今で言う高利貸しなんです。お百姓さんが飢饉の時 に来年の種籾を買えない。田んぼや畑なんかを抵当にして、賢治のお父さんから借りるん ですね。うまくいけばお金を返せるんだけど、飢饉が続くと返せないんです。そしてお百 姓さんは田んぼや畑なんかを取られちやうんです。賢治はその事がいやだったんですね。 そういう人を犠牲にしたうえで自分が大学に行く、高等農林に行くのがものすごく辛かっ たらしいんですね。そういうことと一緒に、今言ったように命に対する問題、これが賢治 の文学のテーマになっているんですよ。私たちはあまりそういうことを感じなくなってし まいました。昔の人はもっと切実に命をいただくことを感じていたんだろうと思うんです。 そんなことを小さいとき、物心ついた時から言われますから、次第にそういうことが当た り前になってくるんです。だから、私はいっでも生徒達には笑われるぐらい、例えば、ご はん茶碗にごはんが2粒3粒残っていてもダメなんですね。母親はちゃんと食べなさい、 粗末に食べてはいけない。どうしても食べられない場合、嫌いな物があったり、お腹がい つぱいで食べられないときは、人が手をつけてもいいようにきちっと残しなさい。そうい うことを子供の時から教わりますと、自然と食べ物に対する感謝というものが身に付いて くるんですね。ただ、これは高校生になってからではダメです。たぶん中学生になってか らでもダメだと思います。やっばり物心ついた時からなんですよ。これが大事なんですよ。 これは家庭ではできるんです。学校ではできないんです。生きているものに対する敬虔な 気持ち、謙虚な気持ちを持つことっていうことは、家庭で親が教えることができるんです。 もう一つうるさく言われたのは箸の持ち方なんです。それについては省略します。そうい うふうにご飯を獲べる、そして、ある時はお喋りして父親からうるさい静かに食べろと怒 られるくらい、いろんなことを喋ったりして食事をしました。肘をついて食べたり、くち やくちやして食べたりすると、ぴしっと怒られる。それが家庭教育の基本になると思いま す。
 今、教育の機関というものが3つあって、学校と家庭と地域があります。ところが、地 域と家庭は教育する力を完全に失ったと言われています。それは家庭における食文化が無 くなったということです。食べることはあるんですが、その文化が無くなっているんです。 食文化というのは、命をいただくことを感じるとか、食べている人を不愉快にしない、作 法をきちんと守るということが文化ですが、そういうことが無くなってしまった。さきほ どの統計で見ると、朝ご飯を食べたり、家族と一緒に食べたりすることは、宮古では多分 高いと思います。でも、都会なんかは驚くほど大変なんですよ。今から10年ぐらい前に、 広島県の教職員組合の先生方が、公立の小学校5年から中学校3年の1万2千人に余りの 食の調査をしたんです。朝食を食べていない子どもは約20%いたそうです。孤食、家族 が揃っていない、極端に言うとたった1人で食べている子どもが31.4%。3人に1_ 人はいるということなんです。このアンケートでは家庭に対しての意識も調査しているん です。孤食である子供の回答のほとんどが自分の家庭はつまらないと答えているんです。 つまり、自分1人で食べていて面白いはずはないんですよ。この孤食が増えると親が子ど もに思いを伝えられませんでしょう。親が子どもの思いや気持ちをくみとれないでしょう。 食事というものを通してお喋りをするところから、子どもが何を考えているか、何に興味 を持っているか、今どんなことで悩んでいるかを感じ取れるんです。それから、子供に対 してそうしちやいけないとか、それおかしいよとか、作法ばかりではなく、考え方、親の 思い、大人の思いを伝えていくことが、孤食ではできないんですよ。だから、孤食になる ということは単に健康だけの問題ではなくて、大きな問題を抱えるんですね。心の成長の 上では。もちろん山に一緒にいく場合、一緒に釣りでもする場合でもいいんですよ。いろ んなお喋りをすると思うんです。でも、毎日山に行ったり、毎日釣りはできませんでしょ う。食事は、心がけさえすれば一緒に食べることができるんです。毎日できるんです。そ して小さいうちからやらなければいけないんです。  エリクソンというアメリカの心理学者がいます。「児童と社会」という有名な本を書い ています。エリクソンは、ほとんどの子どもの人格は3歳で決まると言っています。知識 は、いついかなる時でも、いついかなるやり方でもつくけれど、その子どもが人生を肯定 的に考えるか、人を愛することを基本に見るかどうかは3歳で決まると言っています。お 母さんの胸が子どもの心を癒すゆりかごのようであり、子どもに危害を加える外敵から守 る砦のようである時、子どもは安心して人を愛することができるし、安心して社会に巣立 っことができると言っています。このことから、親と子で一一緒に食事をしたり、一緒にも のを作ることが大事になります。親子で一緒に食事をする時には、親の思いを子どもに伝 えたり、子どもの考えを受け止めることができると思います。私の家でも、台所と居間は アコーディオンカーテンで仕切っているだけなので、食事を作るときに母親と子どもたち の会話が聞こえてきますじ はじめのうちは、「鍋のふたを取って」とか「火を少しゆるめ て」という会話なのですが、だんだん料理が進んでくると「今日、カツコウが鳴いていた から寒さは後戻りしないよ」とか「最近学校でいじめがあるようだけど、あなたのクラス ではどうなの」などの話になっていきます。料理作りを除いて、テーブルで向かい合って 同じような会話をしても子どもは答えないと思います。普段の生活の中で何気なく言葉を 交わしていくことが大切です。このことを上手に実践したのが吉田松陰です。吉田松陰に は30〜40人の塾生がいました。松下村塾という塾ですが、明治維新を作り上げた人た ちは、この塾から出た人が多いです。久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文、高杉晋作などとい うそうそうたるメンバーがこの塾から出ました。ものすごい教育をやっているのかと思っ たらそうではないようです。ある時期、吉田松陰のことを調べてわかったことがあります。 今はお米は白米で保存していますが、昔は玄米で保存して令べる分だけバッタリでついて いました。バッタリで30〜40人分をつくので交代します‘。みんなが集まってきた作業 場で、松陰が本の読み方、歴史の話や今置かれている日本の有り様を喋って塾生に聞かせ ていたようです。夜食を作る時も、畑の草むしりをする時もそのように喋って聞かせてい たようです。そこから塾生達が啓発されていったようです。吉田松陰が言うには、共に汗 を流す時に心がもっとも通い合う。相労役といふうに言っています。吉田松陰はそのよう な教育を実践し、塾生達に影響を与えていったのだと思いました。こういうことが各家庭 でも必要だと思います。その一番の実践例は、食を共にしたり、食を作ったりすることだ と思います。
 もう一つ食を通しての働きについてお話しします。何年か前、わたしたちがアパートに 住んでいた時のことです。子どもが生まれた時、職場の先生方がお金を出し合ってお祝い をしてくれました。それで妻はオーブンを買いました。自分が子どもに与えるおやつ類は 自分の手を通したものを金べさせたい。だから、パンを作ったりクッキーを作ったりジュ ースなども全部家で作りました。買ったものはありませんでした。ある時クッキーを作っ た時のことです。うちの子どもがそれを持って公園に行き食ペていたら、同じアパートの 5年生くらいの男の子がじっとこちらを見ていたので分けてあげたそうです。砂糖は控え てありましたが、手作りのおいしさがありました。どこで買ったか教えてほしいと言うの で、家のお母さんが作ったことを教えると、家へ帰ってから母親に自分にも作ってほしい と強く訴えたそうです。そのお母さんが作り方を教えてほしいと家へ来たそうです。同じ 作るなら近所の人たちに声をかけて皆でやりませんかということになりましたe そこで、 子ども達4〜5人とお母さん方が集まってクッキー作りをしました。そのときのクッキー 作りは動物園をテーマにして、自分の思い思いの動物を作りました。オーブンで焼き上が つたクツキーを、写真で撮ってアルバムに挟んで参加した子どもたちに渡してあげました。 そのとき、5年生の男の子はかにを作ったのですが、びっくりするほど上手にできました。 男の子は家へ持ち帰り仏壇に上げて1週間そのままにしていたそうです。最後にはカビが 生えて、結局は捨ててしまったそうです。それからアパートの奥様方が仲良くなりました。 子どもと母親だけでなく、父親も仲良くなりました。我が家には車がなかったので、一緒 に車で出かけようと誘ってくれました。そのことをきっかけにして、アパートの住人同士 がものすごく仲良くなりました。食というのは、こんな働きがあるのだな、コミュニケー ションを育むきっかけになるんだなと思いました。食というのは人と人との付き合い、子 どもと親との付き合いに役に立ちます。食そのものが役に立つのかどうかはわかりません が、食を通すことによってずいぶん役に立ち、家庭の教育力が育っていきます。そのよう な家庭で育たなくとも、子どもは大きくなり小学校や中学校に入ってきます。そして、一 人の人間ができあがっていきますので、なかなか言うことを聞かなくなります。ここで本 気になって考えていく必要があると思います。  みなさんにどうしても伝えたい大事なことがあります。食がグローバル化してそこから いろいろな問題が起こってきています。わたしたちの生き方として考えなければならない 問題があります。今、世界では63億人ぐらいの人間がいますが、8億5千万人が食べる ものがなくて飢餓に直面しています。これは、人間が増えて食べるものが少なくなったの だと思われて、そのように教えていますが、違うのではないかということが一つです。ど ういうことかと言いますと、わたしたちと家畜の関係は非常にうまくできています。人間 が食べるものは家畜にはむきません。牛、馬、ひつじ、やぎは人間が食べられない消化で きないもの、草などを食べて成長します。そして、その家畜を人間がつぶして食べるとい う関係です。人間が食べてどうしても残る残飯は、犬、猫が食べます。犬は人間が狩りを するときの伴侶ですし、人間にとって、とても害のあるネズミを捕るのが猫でした。とて も大事な関係でした。そのような関係であればよいのですが、文明が発達し人間が贅沢に なったため、よりおいしいものを食べたくなりました。牛は草を食べて育てましたが、す じ肉が多く硬くて着込み料理ばかりでした。わたしたちが子どもの頃は豚肉がとてもおい しかったのですが、人間が贅沢になりおいしい肉を食べたくなったため、牛に穀物を食べ させるようになりました。穀物は、大豆やトウモロコシなどです。トウモロコシのことで 話しますと、世界でトウモロコシは6億トンとれます。トルビンジャやタポスなどで人間 の主食として2億トンが使われています。残りの4億トンは、おいしい肉を採るための家 畜の餌にされています。大豆やトウモロコシを食べた牛は、栄養が行き漬って成人病にな ります。つまり油が肉質にまでにじんでいくわけです。わたしたちはそれを霜降りといっ ていますが、あれは病気の肉なのです。油がにじみますから香りがよく柔らかくて、おい しくなってきます。そういうふうにして食べるのです。どのくらいの穀物を使うかという と、1頭の牛にその体重の8倍の穀物が使われます。人間が食料として食べられる穀物で す。極端な話をしますと、牛肉はすじ肉でよいので草で育てるというのであれば問題あり ません。ところがそうやって育てるので、人間に穀物がまわらなくなるのです。つまり、 それらの穀物が裕福な人の食べる肉のために使われて、飢餓に直面するような人たちには いかなくなるのです。そのトウモロコシの10%を人間に支わせば、飢えはほぼ解決でき ると言われています。わたしたちが贅沢であるために、おいしいものを食べたいために、 8億5千万人を犠牲にしています。これは牛ばかりではありません。ハマチも養殖される ようになりましたが、イワシやアジなどがハマチの10倍の量を餉として使われています。 これはやめられないのです。肉で育った人間は肉をやめることができません。おいしい肉 で育った人間は、おいしい肉をやめることができません。例えば、マクドナルドがわずか 10年の間に世界各国に浸透しました。なぜかというと、中に挟むハンバレグを全部10 0%おいしい牛肉にしたからです。マクドナルドのモットーはマクドナルドの製品を12 歳までに徹底して食べさせるということだそうです。そうすると、その子どもは生涯マク ドナルドの味から逃げられなくなります。「お袋の味」になってしまうのです。私は今で も母親の作ったたくあんや味噌汁の味は覚えています。他で同じものを食べた時、その味 と比べておいしいかおいしくないかを決めてい去す。だから、わたしたちはいったん贅沢 になるとやめられなくなります。そのことが、飢餓の人たちを犠牲にすることになってい ます。その上での贅沢です。
 もう一つは、日本で出される残飯は1千億トンです。日本には全国でコンビニが5万店 あります。先ほども言ったように廃薬時間があり、都会のコンビニでは1日に3回取り替 えられますc食べられるものでも売れなければ捨てられています。回転寿司でも、まわっ ているものが20分手を付けられないと捨てられています。家庭から出るゴミや、外食産 業でハンバーグの横に山のようについてくるレタスもほとんど食べられないで捨てられま す。少なくすればよいのですが、見栄えが悪くなるのでできません。そのようにして捨て られるものが1千万トンあるといいます。タイの国民が1年間に食べる量が5百万トンで すから、その2倍の量を捨てています。食べものの2割は捨てていることになります。お 金を出して買ったから良いのではないかという感覚になりますが、8億5千万人の飢えて いる人たちがいるのに、それでいいのでしょうか。わたしたちの次の世代の子ども達は世 界の人たちと一緒に生活していくことになりますから、そのときに、この考えで通用する のかどうかを教えていかなくてはならないと思います。  今日の話をきっかけにして、ぜひ考えていただきたいと思いますく。また、レジメに参考 になる本が書いてありますので、教育の実践に生かして命の問題、生き方の問題を考える 授業を組み立てていただきたいし、親として子ども達を指導していただきたいと思います。 どうもありがとうございました。


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