初夢スペシャル
第三章 サル耳さまがやってきますな
「俺のネコ耳様に、勝手に名前を付けるなぁぁぁぁぁつ!」
……その瞬間、時が止まった。
トーマスのおしりの震えが静止した。沈黙するナナシ司令と眼鏡
の男。ネコ耳様ですら、まばたきを忘れ、可愛い口を半開きにして
俺のほうをポカーンと見ている。
そして、とまどう俺に対して、ようやくナナシ司令が伝声線ごし
に語りかけてきた。咳払いをしながら。
『……まさか、ネコ耳様の名前を忘れたのかね、カツラギ君』
ネコ耳様の名前だって? それが水の女神ナナハと何の関係があ
るというのだ? 水の…女神?
さらに、どぎまぎする俺に対して、トーマスが叫びのような問い
を発した。むろん、おしりを突き出しながら。
「拙者は水に浮かぶナナハ神さまの伝説を再現しているかと思い、
感動したのですぅぅぅぅぅ」
伝説だって? 水に浮かぶ…水…浮かぶ…シナイ河に…ううっ!
何だ、何なんだ! 俺は記憶の底から何か得体の知れないものが蘇っ
てくるのを感じた。そして…畏れた。
やめろ、やめてくれ!
最後に、急に苦しみだした俺を意に介さないかのように、眼鏡の
男が呟いた。
「ナナハはナナハ。彼女はネコ耳様、ナナハですな」
うぉぉぉぉぉぉおおお、冗談はよしてくれ! 俺が、愛するネコ
耳様の名前を忘れるわけはないだろう! ネコ耳様、ネコ耳様…、
ネコ…耳…様…?
『まさか、この一年間の御護りのあいだ、ずっとネコ耳様の名前を
知らずにいたのではなかろうな、カツラギ君?』
ぐぉぉぉぉぉぉおおお!
俺は錯乱した。脳内を粘液虫スライミーがぬたりと這っているか
のようだ。記憶が…記憶が…。
「貴女(あなた)の名前も知らなかったなんて、とんでもないお兄
ちゃんだな」
トーマスが呆れたように、丸太を抱いて聖水路に浮かぶネコ耳様
に話しかけた。おしりを突き出しながら。
(はうぅ、お兄ちゃん……ナナハのこと忘れちゃったの?)
ネコ耳様の眼がうるうるしている。
やめてくれ! よせ! 俺はキミのことを、愛して…萌えて…、
うぉおおおお!
俺はおしり用の刻印機をふたたび頭上に振り上げた!
「俺のナナハに語りかけるなぁぁぁぁぁあああああっ!」
ネコ耳様は…ナナハは俺のものだっ! カツラギ専用の萌え神さ
まだっ! 目標、ナナハの尻尾の付け根!
いざ……その証を刻印するのだ!
「萌えゆえに…萌えゆえにっ、キミのおしりにコクイン致すっ!」
しかし、まさに刻印機の先端がナナハのおしりを捉えようとした
その刹那!
ドドドドドドドドドドゴゴゴゴゴガガガガガガッッッ!
大地が揺れた。激しく鳴動した!
おしりを突き出したままのトーマスが、バランスをくずして俺の
目の前に現れた。
「トーマスか…!」
そして振り下ろされる刻印機に彼のおしりが…
『カツラギ君、いけないっ……』
ナナシ司令の叫び! しかし回避不能! 彼のおしりが刻印機に
吸い込まれていった!
「はぅぅぅうううううっ!」
おしりを押さえながらエビのように飛び上がり、そしてドボンと
聖水路に落ちてゆくトーマス。
俺は…俺はとりかえしのつかないことをしてしまった。
「お、お、溺れるっ、溺れるっ……ぶくぶく」
トーマスが聖水路を流されてゆく。そして、下流へと消えた。
しかしすぐに下流から波に押し戻され、遡って戻ってきた!
『聖水路の流れが不安定だ』
「……シナイ河岸で戦争が始まったようですな」
『なるほど。この聖水路も源流はシナイの流れ』
「……そのとおり。シナイとツォンナの安定のためには…」
『一刻も早く、干支耳さま交替の儀を遂行しなければ』
ナナシ司令と眼鏡の男が伝声線を介して話しているあいだにも、
またトーマスが今度は上流から下流へと流されてゆく。
……が、何かが変だ。
彼の双眸が、ネコ耳様を萌え愛でる眼でなくなっている。
赤く、赤く、紅蓮のように、まるで怒り、いや千年の憎しみを
湛えたかのように、モエテイル!
「ぶくぶく、ぐぉぉぉおおお。ナナハ……ネコ耳さまのために、
拙者はこの苦難をぉぉぉぉ」
そして俺のネコ耳さまナナハを睨みながらまた流されていった。
「許さないニコフぅぅぅぅぅっ!」
トーマスは口調まで変わってしまっている。ニコフとは何だ?
眼鏡の男が興奮しつつ、自分を抑えるかのような口調で語った。
「……封印した千年の記憶が、シナイ河の聖水に溺れることによっ
て蘇ったようですな」
『いかんっ! 時間がないぞ、カツラギ君』
「どういうことだ、ナナシ司令」
『説明している暇はない! 早くネコ耳さまをお送りするのだ』
「しかしっ!」
『次の干支耳、サル耳さまがやって来るまえにだ、カツラギ君!』
「……ネコ耳さまナナハと、サル耳さまセガヤ…」
『二人の女神を相見え(あいまみえ)させてはならんのだ!』
「なぜだっ、ナナシ司令と眼鏡の男っ?!」
「……言い争っている場合ではなさそうですな…」
眼鏡の男が聖水路を指差した。
「……ナナハを殺しニコフ」
冷たい風が頬にあたった。その風にのってふたたびトーマスが流
れてきた。そして小さく可憐なネコ耳さまと、彼女が縛られている
丸太を包み込んだ。ネコ耳様の姿が薄くなった。
「……ナナハを消しニコフ」
あああぁぁぁぁっ……
と見る間に、トーマスはネコ耳さまが跨っている丸太のもやい綱
を掻き切って、彼女と丸太とともに下流へと流れ去って行ってしまっ
た。
あああぁぁぁぁっ……彼女が行ってしまった!
ネコ耳さま……ネコ耳さま……ネコ耳さまぁっ!
俺の胸に蘇るこの一年間の想い出、彼女の笑顔、泣き顔、怒り顔。
彼女の一挙手、耳、尻尾の動きまでがありありと俺の脳裏を駆け巡っ
た。あぁ、俺はもう生きてはいけない……
『後悔している暇はないぞ、カツラギ君』
「……聖水路のこの波の高まり、サル耳さまがやってきますな」
暗く遙かな上流から、今度は暖かな風が吹いてきた。
『聖家の役目を思い出すのだ。萌えよ、カツラギ君』
萌え、萌え、萌え……それが何だというのだ…。
『時間が迫ってきたぞ、カツラギ君』
「……新年、干支耳さまの交代ですな」
「うぉぉぉおお! サル相手に、どうやって萌えろというのだっ!」
『来るぞっ、カツラギ君!』
「……戦争の影響で波が速い。丸太のスピードが危険ですなっ」
俺の心の叫びをかき消すかのように、上流から聖なる丸太が部屋
に来た……来た……突っ込んで来たっ!
(うき、うき、うききっ。お兄ぃちゃ〜〜ん!)
ドーン!
丸太は聖水路の壁に激しくぶつかり、それに乗っていた明橙色の
髪の女の子がぴょ〜んと飛んで、俺の肩にちょこんと着地した。
そして俺の首をぎゅっと抱きしめた。長い尻尾がぱたぱたと揺れ
て、俺の顔をくすぐった。
『サル耳さま…セガヤさまだ、カツラギ君』
か、可愛いじゃないか……。
ナナシ司令の声もなかば、俺の耳には届いていなかった。
やはり俺には、萌えることで生きている聖なる血族、カツラギの
血が流れているのだろうか……?