愛の古典的分類法にエロスとアガペーがあるが、両者の結合対こそ愛の理想的な姿で
ある。
エロスの愛 愛には、要求としての愛と、付与としての愛があるといわれています。
前者は愛の身体的、情緒的な欲求の側面に対応するもので、他人のところにいたい、身体
的な接触をしたい、他人を占有したい、他人から承認されたい、好まれたい、満たされた
いという強い欲求として存在します。これが”エロス”とよばれるものです。
アガペーの愛 後者は”アガペー”という名で知られているもので、母親の子に対す
る愛や神の人間に対する愛だとされています。
両者の違いは別の表現で「愛着」と「心づかい」ということばにも置きかえることがで
きるでしょう。
エロス |
アガペー |
・肉体的、情緒的な愛
・自分中心の愛、愛着
・要求としての愛(奪う愛) |
・精神的、観念的な愛
・神の愛、無私の愛、心遣い
・付与としての愛(与える愛) |
本当の「愛」とは A・マズローは「愛着」を受容と承認に対する人々の「欠乏欲
求」に結び付け、愛情飢餓症は一種の欠乏症であり、それ自体としては愛の未熟な形態で
あることを示唆しています。
つまり、「自己実現」の状態に達した人間は、欠乏的・依存的なD−ラブ(Dは
Deficiency〔欠乏〕のD)から、より自主的で付与的なB−ラブ(BはBeing〔本質〕の
B)の境地に移行しているというのです。
しかし、エロスとアガペーは対立するものではなく、理想的には愛着と心遣いの合体し
たものこそ真実の愛の形だという議論もあります。
エロスなしのアガペーは、道徳法則への服従であり、アガペーなしのエロスはむき出し
の本能となってしまいます。
恋は盲目、冷静な判断力の失われた状態である。人間は飽くことなく美しき誤解を求
める。
「あばたもえくぼ」 愛する者あるいはもっと正確にいえば恋する者、恋に陥った
者は、しばしば冷静な判断力を失う、と古くよりいわれています。”恋は盲目””あばた
もえくぼ”などなど。
恋においては―とりわけその初めの段階においてわれわれは、自己の欲求ゆえに、自分
が捜しているものを最大限にまで見る傾向があります。
心理学用語でいえば、この傾向を「認知的強調」と呼びますが、この「認知的強調」の
特にめざましい例が「理想化」という名で呼ばれているものです。「あばたもえくぼ」と
いうのがまさにこれですが、このメカニズムに乗ると、すっぱいはずのレモンまで甘く感
じられてしまうのです。
王子様と王女様 ある論者は、こういった状態を、皮肉っぽく、次のように書いてい
ます。「恋をしているということは、単に認知的な麻痺状態にあるということである。―
ただの男をギリシア神話に出てくるような神と、あるいは普通の若い女性を女神と間違え
ることである」
恋の錯覚の幸福の中に浸かっている者には、平凡な男女が、それぞれかけがえのない王
子様やら王女様に見えるというわけです。
みんながかかりたがる”病気” 自分の欲求を核にして、相手の中に自分の好むイ
メージを勝手に増殖させていってしまい、一つの理想像を作り上げてしまう作用を、スタ
ンダールは有名な『恋愛論』の中で「結晶作用」と名づけました。
それは、一歩間違えば妄想にもなりかねないものですが、恋をキューピットのいたずら
ととるか、神様が人間に与えてくれた素晴らしいプレゼントととるかは別として、恋ほど
みんながかかりたがる”病気”は他にないでしょう。
恋の炎は障害があるほど激しく燃える。しかし現実の世界では物語ほどロマンチック
には・・・・
恋愛と障害 シェイクスピアの名作、『ロミオとジュリエット』の話の中では、短いが
激しい恋愛事件が、宿恨の二つの名門家庭の全面的な対立という背景のもとで起こりまし
た。両家の成員同士の間の恋愛などというのはもとよりタブーでしたから、劇のいくつか
の場面で、家族同士の争いは恋人達に、第一の忠誠を家族に誓うのか、相手に誓うのかの
決断をせまり、多くの困難と別離を生みます。しかし、これが一方では、このカップルの
相手に対する感情を激しいものにしたこともまた事実です。
各種の神話をはじめ、多くの恋愛物語には、よく、この『ロミオとジュリエット』に見
られるのとまったく同一のテーマが見出されます。つまり、”恋の炎は覆えば覆うほど激
しく燃えさかる”というものです。フロイドも同じ様な文脈の中で、「何らかの障害が、
リビドーを高めるためには必要なのである」といっています。
ロミオとジュリエット効果 親の反対が、カップルのお互いへの愛を直接昂進させ
る可能性を見出した心理学者は、これに「ロミオとジュリエット効果」というそのものず
ばりの名前を与えました。
また別のアメリカの心理学者は、同宗教と異宗教のカップルを比較して、異宗教のカッ
プルの愛情得点が、同宗教のカップルのそれを有意に上回っていることを見出していま
す。しかし、これはデート期間が十八ヶ月以内の新しいカップルにあてはめるもので、現
実の世界では、あまりに強力な外的な圧力があると、愛の炎を燃やし続けることができな
くなってしまうことも多いものです。また親の強い反対を押し切って結婚したカップル
が、以外に早くダメになってしまうことがあります。これは彼らにとって、障害に対抗す
ること自体が自己目的化していたことを示しているのでしょう。
頻繁に接触すれば好きになる確率も高くなる。男女関係にも、「単純接触」の原理が
働く。
単純接触の効果 なじみのないものに初めて出会ったときは、少なからず当惑するの
は自然の反応です。そして、ある物事や出来事に対する最初の当惑した、あるいは中立的
であったり、わずかに肯定的あるいは少し否定的であった反応が、くり返し、それらに身
をさらすことの結果、熱烈な肯定へと変わり得るものです。
ネズミの場合ですら、同じ音楽をくり返し聞かせることによって、特定の音楽に対す
る”好み”をつくり上げることができるという実験もあるほどです。
ある社会心理学者は、この現象の背後にある一般原理を「単純接触」の効果と呼びました。
人間関係にも当てはまる 彼に言わせれば、”ある刺激に対して個人を単にくり返
し接触させることは、その刺激に対する彼の態度の増強にとっての十分条件である”ということになりますが、この「単純接触」の原理は人間関係とりわけ男女関係においてもあ
てはまることなのでしょうか?
あえて単純化をするならこの「単純接触」の原理は、少数の例外を除いては人間関係一
般にあてはまるといっていいのです。顔を見るのもイヤな人間を別にして、普通の人間
は、会えば会うほど好きになるのです。まして男と女の関係はなおさらです。
デートは頻繁に 極端にいえば、男女の親密さは表のような式で表現できるとさえい
えるほどです。そして、女性の場合に、よりこの傾向が強いといえるでしょう。
しつこいくらいの男が成功したり、逆に離れ離れに暮らしている恋人同士の関係が多く
は女性の方からこわれたりするのは、まさにこの理由によるのです。
男と女の対人市場では、美貌は非常に高い交換価値をもつ。しかし、それがすべてで
もない。
美女と野獣と 女性の方は美人で、スタイルもよく、若いが、一方、パートナーの方
はといえば、十五かそこら彼女よりも年上で、頭のハゲたずんぐりむっくりのハラの出た
男、というような見るからに不釣合いなカップルに出くわすことがあります。
こういった場合、彼がとんでもない金持ちであるということがわかればナゾはたちまち
解明します。
つまり、両者はいずれも互いに提供すべき何物かの価値(交換価値)を持っているわけ
です。男性の方は経済的な価値、女性の方は、美的に男性を満足させることができるし、
もっと重要なことは、人々の前で彼の評価を高めることができるからです。
美女は「威信効果」をもつ 実際、ある心理学者たちの実験は、身体的に魅力的な
パートナー(女性)と一緒にいるのを見られることによる「威信効果」を証明していま
す。つまり、同一の男性が美人と一緒にいたときの方が、不美人と一緒のときより第三者
からより交換をもたれ、より親しみ深く、自信に満ちているとみられる傾向を発見したわ
けです。
こうなれば美人と一緒に歩きたがる男がいるのも、無理はないということになります。
また、別の心理学者の調査では、高校時代に美人だと評価された女性達の方が、そうで
ないクラスメートたちよりも、より高い地位の男性と結婚したということが明らかにされ
ました。
経済や名声も交換価値 相撲取りや野球選手の奥さんに美人が多いというのも、今
までの話からうまく説明がつくでしょう。経済力、社会的地位、名声など、いずれも重要
な交換価値となっているのです。
こう書いてくると美人でない人は悲観的にならざるを得ないかというと、そうでもあり
ません。男と女の関係は、経済市場のような単純な交換法則を越えたところにあること
も、また事実だからです。