外見的にははっきり違う男性と女性。しかし、心理的に見ると、それは後
天的な違いにすぎない。
身体的な違いとは 男性と女性とは本質的に異なるのでしょうか。少な
くとも、性器の違いは歴然としているように見えますが、これも医学的にはあ
まりあてにはなりません。というのも「半陰陽」といって、卵巣がありながら
一見ペニスのような外性器をしていたり、睾丸がありながら外陰部は女性のよ
うに見える場合があるからです。また、一固体内に男女両性の生殖腺が見られ
ることもあります。
フロイドは、解剖学的、生理学的にいってm、男性と女性はいずれも両性性
をそなえており、ただ一方が他方より多いにすぎない、と述べています。つま
り、厳密な意味では、完全な男性も女性もいないということになります。
また、胎生期の初期には、卵巣とも精巣とも区別がつかない構造をもってい
て、いずれの性にもなりうるといわれています。
性と性別は別 そして、性器的なレベルから、身体的、心理的、社会的な
レベルへと考えを移していくと、男女の違いはますます不分明なものとなってきま
す。「性と性別は別」といわれるように、生物学的なレベルと精神的なレ
ベルとでは、まったく異なっています。
性別は生まれてから一年半ぐらいで自分自身に認知され、三歳ぐらいから、
子供は父親と母親の性の違いに気づきます。こうして、幼児はしだいに、男ら
しさ、女らしさを身につけていくわけです。
したがって、自分を男性とみなすか女性とみなすかは、生まれた後の心理
的、社会的環境の如何に大きく依存しているということができます。
「男らしさ」「おんならしさ」は文化の産物。しつけの中で再生産される
偏見に固執するのは危険。
男性・女性はつくられるもの ボーヴォワールのよく知られた『第二の性』
の中には、「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」という有名
な一節があります。このことばに象徴的に示されているように「女らしさ」=
女性性というものは、生まれながらに先天的にそなわっているものではありま
せん。
もちろん「男らしさ」=男性性についても同じことがいえるわけですが、こ
のことを、文化人類学者のマーガレット・ミードは『三つの未開社会における
性と気質』(1935)の中で、ニューギニアの三つの部族の比較研究の結果か
ら、明瞭な形で示してみせてくれました。
男性的な女性・女性的な男性も その一つ、アラペシュ族は、狩猟と
農業を主な生業とする部族ですが、男も女も温和で物静かです。人と争うこと
は絶対にないし、人と競争することも非常に嫌います。彼らの間では、子ども
たちは母親との全身の接触を通して十分な愛情を受けて育てられるし、他の大
人たちからも大切に扱われます。こうして成長したアラペシュ族の男女の成人
は、文明社会でいう「女性的な」性格を持っています。
それに対し、ムンドゥグモア族の成人は男女ともに凶暴で嫉妬深く、猜疑心
が強く攻撃的です。ここではスパルタ式のきびしいしつけがなされ、男女とも
に荒々しい「男性的」なパーソナリティがつくり上げられるのです。
また第三のチャンブリ族においては、女性が中心的生業をとりしきり、すべ
てにおいて女性が主導的で男性は影の薄い存在です。つまり、ここでは男性
性、女性性が逆転しているわけです。
このように「男らしさ」「女らしさ」は、生業形態に規定される男女の性役
割、育児様式などによって形成されるまさに文化の産物なのです。
ことさらに自分を男らしく見せようとする男性的抗議。その原因は自分に
対する自信のなさ。
バンからの心理学 夏でも分厚いツメえりの学生服に身をかためている
大学の応援団員や、ヘアーをリーゼントで固めた暴走族のお兄さんなど、自分
の「男っぽさ」を強調したスタイルをよく見かけます。このように、男女を問
わず、ことさらに「男らしく」あろうとする態度のことをアドラーは「男性的
抗議」と名づけました。
神経症的傾向の反映 さて、現在の西欧や日本のような男性中心の文化
圏では、男性は大きく、強く、優れたものとみなされ、女性は弱く、劣ったも
のとみなされがちで、皆、子供の時からそういう状況のなかで育てられて
きているわけです。社会全体が男性的なものに価値をおいているといってもい
いでしょう。
これについて、スイスの法制史家バハオーフェンは、人類の原始に母系社会
があり、それに対する、男性側からの「補償」を求める動きが高まった結果、
現在の男性中心社会が制度化されるにいたった、と述べています。
神経症的性格の人は、自らの優越欲求を満たすため、社会全体で共有されて
いるこの価値観を利用することになります。つまり、自分は男性的だと周囲の
人に思わせ、また、自分でもそう思い込むことによって、自分は優れているの
だと、感じることができるというわけです。
ドンファンや非行、スケ番や売春も男性的抗議の現れ。女性性・男性性の
正しい受容を。
非行や犯罪の遠因に 男性的抗議は、男性にも女性にも、さまざまな問題
を引き起こします。
たとえば、男性の場合、劣等感が強く、自分の男性性に自信が持てないとい
うことがあるわけですから、具体的には、性的不能とか、逆に、女性遍歴には
しるといったことも多くみられます。
ドン・ファンの場合なども、自分が十分男性的でないという意識に駆られた
女性遍歴と考えることができるでしょう。あるいは、非行や犯罪にはしること
も多く、非行グループやヤクザ集団のなかで、偽りの男性性を身につけてしま
う・・・ということもあり、こうなるとひとつの悲劇です。
そこでは、暴力やセックスが、男性性を主張する格好の材料になっていると
いえるでしょう。
女性からの男性的抗議 また、女性の場合はもっと複雑で、自らの女性
性を受容できず、男性的な役割を身につけることによって、劣等感を補償し、
自分に価値を見出そうとします。
スケ番とか少女売春、あるいは職業的な売春など、女性の非行、犯罪も多く
ありますが、その場合も実は男性性を確信している女性であってはじめて、自
分を売ることができるからです。
また、神経性食思不振症などの場合も、やせることじたい、女性性の拒否と
男性性の主張であると考えることができます。
社会的な側面でいえば、ウーマンリブなどの運動や、あるいは、いわゆるキ
ャリア・ウーマン的志向などにも、たぶんに、男性的抗議としての、女性の自
己主張が入り込んでいるとみることもできるでしょう。
太りたくないあまりに食事をとらず、衰弱してしまう。”思春期やせ
症”。その原因とは・・・
拒食と過食 太りたくないあまりに食事をとらず、その結果、身体が衰弱
してしまい、命まで縮めてしまう、という記事をよく見かけます。これは未婚
の女性にみられる一種の心身症で、「神経性食思不振症」というものです。従
来は思春期に多くみられ、「思春期やせ症」ともいわれましたが、最近では、
大学生やOLにも多いようです。
食行動の異常としては、極端に食べない拒食、逆に、食べ過ぎる過食、盗み
食いや隠れ食いといったことがあります。食べ過ぎる場合でも、吐くために食
べるという点が特徴的です。
自らの女性性を拒否 その根底には、成熟拒否や女性性の拒否という傾
向があるといわれています。母親の教育程度は高く、どちらかというと男性的
な母親で、本人はそのような母親になりたくないと無意識のうちに感じている
とされます。
食べるということは、そのまま成長、成熟につながるわけですから、食べな
いということは、自らの女性性を受け入れられないという象徴的な意味を担っ
ているわけです。
性格的には、負けず嫌いで、意地っ張りな面があり、競争心が強く、どちら
かというと男性的な印象を受ける人に多いようです。メカに強いとか、理工系
の分野の仕事をしているとか、興味はとかく男性的な領域に傾きがちです。い
わば性的なアイデンティティにおける不調和がみられるわけです。同時に自分
に自信が持てないということから、盲目的に自立感を追求する結果、極端な食
事制限をして、自分は特殊だという意識をもとうとするのです。
本人には治療意欲がない こういう人の場合、自分が異常だとは思って
いないことが多く、当然、治療意欲がないので、周りの人はやきもきするばか
りで、対応に難しい側面があります。
生活に困ってもいないのに、ただ金ほしさだけで行われる現代の売春。そ
の背景は?
性に関する二重基準 近代以降の日本人の性に対する態度は伝統的に、
タテマエとホンネ、オモテとウラの使い分けという二重基準が貫かれていま
す。オモテの性文化においては、いまだにポルノも解禁されていないという
”後進国”でありながら、ウラの性文化は退廃の極みに達しているといってい
いでしょう。
売春の心理 こうした状況では健全な性のモラルなど確立するはずもな
く、「高校生売春」とか「主婦売春」さらには、「愛人バンク」などに象徴さ
れるように、ごく普通の女性たちが、性の裏文化の中に組み込まれているとい
うのが今日の姿です。
かつて、売春といえば”身売り”ということばに示されるように、経済的理
由からやむなくそういう立場に追いやられた者が多かったのですが、いまの売
春は、遊ぶかね欲しさや、単なる好奇心の満足のために行われているものが少
なくありません。こうなると、”性の商品化”反対という正論が通用しなくな
ってしまいます。他人の強制なしに、自分の意志でやって何が悪いということ
になります。
しかし、これは言うまでもなく、本来の自由とは、違うものです。肥大して
しまった物質的欲望と現実の経済レベルとの間のギャップを、安易な方法で埋
めようとするのは、まさに高度経済成長期の悪しき物質至上主義の価値観にす
っかり毒されているということに他ならず、このあたりに今日の売春の社会心
理的な背景があるでしょう。