香りがする。
噎せ返るような芳香。
春の沈丁花。夏の梔子に並ぶこの香りは…。
「あぁ。やっぱり」
つるべ落としの日も落ちて。
時刻はまだまだ早いのに、辺りはすっかり暗くなる。
アカデミーの子たちも、とおに家路に着いたろう。
久し振りに早く帰れた日は、少し遠回りするのが日課になっていて。
思いつくまま小路を入ってしまう。
そんな折に鼻腔を擽った甘い芳香。
その甘さに釣られるように歩みを進めていて出合った一対の樹。
橙黄色の小さな花を無数につける、この樹は…。
「丹桂って、言うんですよ」
え?
不意にかけられた声に慌てて振り向く。
そこには。
降る花の下に、気配もなく佇んでいる人。
「あ…」
「この樹はね。元は月に生えていたんですよ」
くつり。
緩く上がる口元に目を奪われる。
花の芳香に当てられて、恰かも幻術の中に居るような錯覚をしてしまう。
目の前の幽玄に心が捕らわれる。
「…あぁ」
ぼんやりと見詰めていると、何かに気付いたように目を細められる。
「月の花を浴びたアナタは…」
柔らかい声と共に音もなく近づかれる。
それに、魅入られたように立ち竦んでしまう。
「とても、美味しそうだね」
甘い囁きを耳許に聞いたのを最後に意識が途切れた。
「ふぁ…」
「なんだよ、寝不足?」
「ん。んー…」
噛み殺した欠伸を指摘されて良い淀む。
風邪こそひかなかったものの、昨夜は散々だった。
折角早い時間に帰宅出来た筈なのに、気がついたら知らない場所で眠っていたのだ。
いや。
記憶はある。
道すがら、心惹かれた香りを辿っていたのだ。
そして、行き着いた場所。
そこで…。
「こんにちは。イルカ先生」
「あ、こ、こんにちは、カカシ先生」
思考に沈み始めた刹那、上から声をかけられる。
反射的に顔を上げると、今、一番逢いたくなかった人。
そして、一番逢いたかった人。
「報告書良いですか?」
「は、はい」
ゆったりと笑われて、慌てて目の前の書類に目を通す。
丁寧に書かれたそれに、ミスはない。ぽんぽんと捺印すると、相手へ向き直る。
「受理します。お疲れ様でした」
「はい。どーも。──────── …あれ?イルカ先生」
ふ…、と顔を近づけられて、何かに気付いたような声を上げられる。
ぎくりと身体を硬くすると、吐息混じりに笑われる。
「…いい匂い」
金木犀ですね。
潜められた甘い声に昨夜の花の芳香が蘇る気がして。
くらりと眩暈を起こしたような気がした。
「かなり散ってる」
香りも薄れ、花の減った樹を見上げて呟く。
それでも。
一番初めの印象が強過ぎたのだろうか。
時間が空く度に通ってしまう。
あれ以来、何かあった訳ではないけれど。
ただ、ただ、花の下で時間が過ぎ行くのを待ってしまうだけだけれど。
どうしても足が向く。
香りが躯に染む程に花を浴び、日々形を変える月を眺める。
無臭が基本の忍にはあるまじき行為なのは、誰より解っている筈なのに。
自分でも訳の判らない衝動に突き動かされて。
足繁く通ってしまうのだ。
「でも、もう終わり、だ」
安堵の息を漏らしながら、呟く。
花が落ち、香りも消えれば、もう、ここへは来ない。
そうすれば────────────
「…丹桂も、もう、終わりですね」
ふわりと。
少し離れた位置から漏らされた声に視線を向ける。
月明かりの所為で明確には表情は読めない。
ただ、穏やかに笑っているだけかもしれない。
けれど。
何故か背筋にぞくりとしたモノが走る。
ついに、見つかってしまった。
やっと、見つけてもらえた。
相反する感情が内側で鬩ぎ合う。
「…えぇ。折角いい香りだったのに」
散る花が惜しいのは本当。だから、自然とそんな言葉が出た。
「…なら、月の里にご招待、しましょうか」
まさか、そんな返事が戻るとは思わなくて。
声の主を見詰めてしまう。
「あの時、ここで約したでしょう?」
つい、と手を伸ばして花の落ちた枝に触れる、優雅な所作。
知らず、見入ってしまう。
「『次は、桂花の下で』」
「あ…」
まるで、暗示を解く鍵のような言葉に、固まってしまう。
「ねぇ、イルカ先生?」
そんな自分に気付かない振りのまま、彼の人はゆるりと、振り向いてくる。
「どうですか?」
吐息に乗せて愉悦の声が届く。
「この樹の下と同じようにして欲しいんでしょう?」
甘い響きが脳に染みる。
「待っていて、くれたんでしょう?」
過日の酩酊感が身の内に戻ってくる。
「もう、良いでしょう?」
全ての音が消えていき、彼の人の甘く低い囁きだけが耳を支配していく。
他の事は何一つ、判らなくなっていく。
全神経が集中していく。
甘い芳香に惑わされる。
そして。
「おいで」
桂花の褥で抱いてあげる。
そう続けられれば、抗う術はない。
酔わされたまま、差し伸べられた手を取ってしまう。
魅入られて。
捕らわれる。
この。
月の恩寵を受けた桂花の使いに。
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