熱視線


躯が熱い。
喉が渇く。
心拍数が上がる。



ただ、擦れ違い様に視線を投げられただけで。



別に、言葉を交わす訳じゃない。
過去、何かを言われた訳じゃない。

ただ、見られるだけ。
ほんの一瞬、目が揺らぐだけ。

誰に気付かれる事もない。


なのに。


息が上がる。
躯が震える。
立っていられなくなる。

気配が消えた瞬間、
何度、座り込んだかしれない。
何度、自分を抱き締めたか判らない。

逃げても追う、月のように。
脳に、躯に絡みつく、あの、視線。

居ても、居なくても。
感じても、感じなくても。
寝ても、覚めても


日に日に自分を侵食していく。


あるのはただの恐怖。
それだけ。
それだけの、筈。







深夜。
臥待の、夜。
アカデミーにも人気はなくなり、たった一人残っていた、晩。
明日の分までの仕事まで片を付け、気分良く門を潜る。
夜も更ければ流石に空気は冷え、いつの間にか季節が移っていたのを感じてうっそりと笑う。
時間に追われる日々の中、それでもまだ、自分の中にも残っている情緒を噛み締めて。
今日は随分と遅くなって、いつものラーメン屋にも行く気はしない。
だからと言って常夜の店に行く気も起きなくて、ゆっくりと歩く。

こういう日は、何も考えないで歩くのが気持ち良い。

久しぶりの穏やかな気分に、つい、気を緩めた瞬間、だった。


ざわりと感じる慣れた気配。
ぞわぞわと背筋を走る何か。


無意識に震え始める躯をなんとか叱咤して足を進める。
ここで止まる訳にはいかない。
なんとしてでもこの場から逃げなければ、と脳裏が忠告を始める。
でも、遅々として足は進まず。
気ばかりが焦る。
あるのは恐怖。
怖いだけ。






「イルカ先生」




聞くな!!
頭の中で警告が響く。

聞くな。
止まるな。
振り向くな。

脳の片隅でガンガン警告が響く。
理性が悲鳴を上げる。

危険だと。
早く逃げろと。

ああ。なのに。

理性と裏腹に躯は止まる。
意識に逆らって後ろを振り返る。
声の主に視線を重ねる。


居たのは、月の化身。
臥待の月を背に佇む銀の魔物。
いつも斜めになっている封印も
顔の半分覆っている口布もなくした、秀麗な素顔を晒している銀の獣。

視線を外すことも叶わず、ぼんやりと見つめていると、緩やかな動きで手を伸べられる。
右手を軽く持ち上げ、誘う様に。
少し、笑んだ表情と余裕のある仕草に目を奪われて。
身動き一つ出来なくなる。


「イルカ先生」


再度呼ばれる。
甘く、低く、歌うように。
蠱惑の眼差し。
魅惑の表情。
そして。


「イルカ先生」


なにより強い、魅了の声。
脳を蕩かし、判断力を低下させ、人を支配する。
人外の持ち物。

この声を聞いてはいけない。
視線を合わせてはいけない。
そう、理性は告げているのに。









「おいで」









ただ、一言。
それだけで、全てが終わる。
警告を無視して踏み出す足が。
悲鳴に耳塞いで伸ばす手が。
それが、全て。

ふらりふらりと近寄っていく。
熱に浮かされて。
中を溶かして。
縋る様に手を取ってしまう。



「イイコだね」
甘い声で褒められて、鈍った思考が消えていく。
「熱い、です」
ふわりと閉じ込められた腕の中、どこか遠くに自分の声を聞く。
「ご褒美に、もっとアツクしてあげますよ」
くすりと耳許に囁く声が沁みてきて。
甘い言葉に身を震わせる。

もう、逃げられない。
怖かったのに。
魔物だと、獣だと思っていたのに。
もう、違う。


たった今から。




この存在は。







俺を甘く支配する。









たった一人の絶対者。




粗品。宜しかったら。

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