銀月


「あ」
 毎度の事とはいえ、残業をした後の帰り道。
 時間も遅く、流石にどこかに寄る気も起こらない。
 冷蔵庫の中身を思い出しながら歩いていると、自宅の傍の空き地に人が立っていた。
「こんばんは」
 気配を全く感じさせなかったその人は、自分に気がつくと目を弓形に細めて笑う。

 その後ろには、月。

 月を背に、唯立っているその姿があまりにも綺麗な一枚絵に見えて、思わず息を飲む。

 なんて…綺麗なんだろう。

「お疲れ様。残業ですか?」
 うっとりと見蕩れている間にも穏やかな声が続く。
 猫背気味だけど、なんて綺麗な姿。甘く響く声。
 現実感がなくて、夢のような…。
「イールカせんせ?どうしたの?」
「…え。あ!ここここここんばんは、カカシ先生」
「はい、こんばんは。残業?疲れてるみたいですね」
 音もなく、風の揺らぎすら感じさせずに距離をなくされ、目の前に振られた手に我に返る。はっとして振り仰ぐと、すぐ間近に寄せられた瞳と視線が絡む。

 どくり。

 心臓が跳ね、顔が熱くなる。
 絶対、染まってる。
「す、すみません!」
「いーえ。…良い月夜ですね」
「…そうですね」
 くすりと苦笑して空を見上げるのに釣られて顔を上げる。もうすぐ満月だけあって、かなり丸みを帯びてきている月に視線を奪われる。
「…あ、あの。カカシ先生は何で…」
「あぁ。…散歩、です。昔の知り合いがこの近くに住んでいたので。毎年この時期には来るんですよ」
「…はぁ。その方の処に行かれた訳じゃないんですか?」
「えぇ、まぁ。…もう、亡くなってるので。逢うには慰霊碑に行かないとね」
 困ったように笑う横顔に、余計な事を聞いたと胸が痛む。
「すみません」
「気にしないで下さい。知り合い、と言っても父の友人でね。面白い人でしたけど」
「でも」
「…ん〜。じゃあ、昔話でも聞いてくれません?」
「え?」
「その人のね、話」
「あ。俺で良ければ」
 くつりと笑いながら告げられ、慌てて頷く。
「その人ね。この時期に結婚したんですよ。それで当時、親父に一番に報告に来て」
 唐突に始まった昔語りに黙って頷く。
「その時、俺も傍に居たんですけど、その人がね、言うんですよ。『内緒だけどな。多分、子供出来たんだ。来年の春には絶対生まれるから、そうしたらお前の嫁にやるな』って」
「…気が早いですね」
 笑ってしまう。そんな気の早い話、誰が聞いても笑ってしまうだろう。
「でしょ。もうね、まだ妊娠したかも判らないし、ましてや性別なんかも判らないってのに何度も言うんですよ。流石に親父が『生まれる子の意見はどうするんだ』って言ったんですけど」
「カカシ先生の意見も…ですよね」
「ん。まぁ、それはともかくね。そうしたらその人、なんて言ったと思います?」
「さぁ?判りません」
「『俺の娘がお前の子を嫌う訳ないだろう!』て」
 その時のことを思い出されたのか、くすくす笑う。本当に、楽しそうに。
「凄いですね」
「凄いでしょ。それで、男の約束って言うんですよ。まだガキの俺に」
「何か、凄く信頼されてたんですね」
「どうなんでしょうねぇ。でもまぁ、これ、面白いオチがついててね」
「オチですか?」
 懐かしそうに、でも心から楽しそうに笑う姿に首を傾げる。
「切腹騒動になったんですよ」
「はぁ?…て、切腹ですか?」
 聞き返す。どこをどうしたら切腹なんて。
「えぇ。凄いことにちゃんと春に生まれたんですけど、その子、男の子で」
「…あぁ!それで」
 女の子じゃなかったから。約束が反故になるから。
「切腹。まぁ、必死に止めましたけど」
「大変でしたね」
「ね。それでね、あんまりその人が落ち込むんで、一つ約束したんですよ」
「そうなんですか?」
「…お互い、性別なんか気にならない程好きになったら、貰うから、て」
「へぇ…。じゃあ、その方のお子さんとは?」
「…それがね。色々あったんでちゃんと知り合えたのは最近なんですよ」
「え。子供の頃からの知り合い、とかじゃなくて?」
「えぇ」
 驚いた。そんな経緯があったなら、どんな関係であれ子供の頃からの知り合いだと思うのに。
「どんな方なんですか?」
「いつも一所懸命で、元気で、笑顔の可愛い人なんですよ」
「へぇ…」
「だから、口説こうかな、て」
「男の方なんでしょう?」
 男でも女でも。心惹かれるのに性別は関係ないと思いつつも言ってみる。…カカシ先生に口説かれたりしたら、誰でもOKしちゃいそうだけど。
「気にならなくって、ね。…ねぇ、だから口説いて良いですか?」
「え?」
 悪戯っぽい笑顔を向けられて一瞬たじろぐ。…て、今、何て…?
「その人ね、『うみの』って言うんですよ」
「え」
 こちらの疑問を見透かしたように教えてくれるのは、自分の姓。…それは、つまり…。
「今のは、ちょうど26年前の今日。俺の1歳の誕生日の時の話」
「えええええ」
「切腹騒動は253日後のアナタの誕生日の時の話」
「ちょ…ちょっと待ってください!1歳の頃って…」
「結構、記憶してるもんですよ。ねぇ、イルカ先生、良い?口説いても、構わない?」
「あ、あの」
 両手で手を握られ、焦る。いつのまに口布を下ろしたのか、端整な…本当に今まで見た事のないくらいに端整な顔がアップで近付いてくる。顔がまた、急激に熱くなってくのが判る。
「嫌い?見るのも嫌?」
「そ、それはないです!絶対!」
「じゃあ、これから宜しくね?」
「あ。はい。…て、ええええええ?!」
「来春のアナタの誕生日までに口説き落とします。覚悟してね」
 こっちの混乱をよそに、にっこりと宣言したその人は、そのまま鼻先にキスを落とすと、綺麗に掻き消えた。

「…嘘…だろ…」

 月が似合う人。
 ちょっと猫背だけど、とてもとても綺麗で格好良い人。
 思わず見蕩れてしまうくらい。
 そんな人が…口説く…?
 誰を…?


「…あ…。誕生日って言ってたっけ…。おめでとうございますって言っとけば良かった…かな」
 現実逃避気味に呟いた。



平成十七年カカシ先生誕生日記念。
日記に書き散らしたものをほんの少しだけ改訂。

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