杏村(あんずむら)から

もうずいぶん昔のことだが、大学受験に落ちたことがある。
発表を見た帰り、ショックで、帰りのバスを間違えて乗ってしまった。
駅とは違う方向に走るバスの中で、思考回路はほとんど切断されていた。
かろうじてつながっていた心の回路が、ただ漠然と、
(これからどうなるんだろう…)
という信号だけを送り続けていた。

乗客が一人、また一人降りていき、ついに終点のステーションに着いた。
到着するはずだった名鉄本線のにぎやかな街の駅とは違う、高台の静かな住宅地に
あるロータリーだった。
すっかり日も落ちてしまって、高台の高層マンションの灯りだけが青く光っていた。
バスの中には、おいらと運転手だけ。
 やむなく、ふら…と立ち上がり、運転手に近づき、バスに乗り間違えた理由を告げた。

運転手は、しばらく黙っていたが、
 「…運賃はいらんよ。あと10分で出るから、それまで待ってな。
  お前、まだ若いんだから、来年がある…」

…何も言葉にならなかった。ただ黙って頭を下げるだけだった。

翌年、同じ大学・同じ科を受けて合格することができた。
在学中に、もう一度あの運転手に逢いたかったが、その機会がなかったのが心残りだ。


【『Singles』 ほかに収録】

(初稿 2000.04.05)



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