満員電車の苦痛を紛らわすために、少女は車窓をぼんやりと眺めていた。
桜は咲いたとはいえ、昨日までは、“花冷え“と言われる肌寒さが忍び寄るようだったのに、今朝は、いきなり春の盛りを迎えたような誇らしげな光と、温かさがあった。
誰もがくすんだ色のコートを脱ぎ捨て、華やかな装いになる、心がときめく季節。
少女も例外ではなかった。
学生の彼女にとって、春は新たな一年のスタートでもあり、ときめかずにはいられない季節だ。
その気持ちが手伝って、今日はいつもより30分も早い電車に乗り込んでいた。
ふふ。今年もレイチェルと同じクラスになれるといいな。
少女は、春のときめきに、思わず微笑んでしまう。
電車は住宅の密集する駅に着き、大量の人々が乗って来る。
いつもの光景なのに、長い休み明けのせいか、少女の体は上手く対応することが出来なかった。
華奢な少女は、そのまま車両の端に追いやられる。
体が圧迫されて、上手く息が出来ない。
瞬く間に気分が悪くなり、彼女は思わず口を抑えた。
顔色は瞬く間に紙のように白くなり、唇は蒼ざめる。
ど…しよ…、気分が…、助けて欲しい…
倒れこみそうになったところを、逞しい腕に支えられる。
「おい、大丈夫か?」
低い魅力的な声が上から降りてきて、彼女は思わず見上げた。
そこには、翡翠と金の不思議な瞳があり、激しさと孤独が交差して深い影を落としている。
少女は、その瞳に吸い寄せられるように見入り、息を飲む。
青年も同時に息を飲んだことを、少女は気づかなかった。
「どこで降りる?」
青年の癖のない銀色の前髪が目の上に零れ落ちて、不思議な瞳に凛とした影を落とした。少女は思わず、見惚れてしまう。
「あ…、スモルニィ学院前」
「次か…。俺もどうせそこで降りるから、駅のベンチで少し休め。そこまでは連れてってやる」
「す…、すみません…」
切れるような眼差しで見つめられ、少女はすっかり萎縮してしまった。
「まあ、いい。ほら駅だ。降りるぞ」
「はい」
豊かな身長を持つ青年に支えられるようにして、少女は何とか電車から降りた。
そのまま空いてるベンチまで連れて行ってもらい、少女はベンチに座り、ゆっくり息を吐く。
彼女の顔色はまだ少し青白い。
「待ってろ」
「はい…」
青年は言葉を置き去りにして、そのままどこかへと歩いて行った。
彼の精悍な背中を見送りながら、彼女は気分が悪いのにもかかわらず、思わず見入ってしまう。
素敵な人だな・・・。
次に彼が戻って来たときには、手に缶紅茶を手にしていた。
「ほら…、これでも飲め。少しは落ち着くだろう」
さりげなく差し出された缶紅茶を受け取ると、少女はほんのりと頬を赤く染め上げる。
「有難うございます…」
青年は僅かに口角を上げ、寂しそうな笑顔を浮かべた。
少女は紅茶缶に口をつける。
体よりも、心がじんわりと満たされてゆくような気がする。
これは目の前の彼のせいなのだろうと、彼女は思う。
「おまえさん…」
「え?」
少女が青年の視線を追ってゆくと、彼女のラケットを見つめているのが判った。
「----テニスをするみてーだが、テニスは好きか?」
青年の深い冷たい影を宿した視線が、ゆっくりと少女を捕らえ、離さない。
それに導かれるように、彼女はゆっくりと頷いた。
「そうか」
低く魅惑的な声で囁くと、見逃してしまうような僅かな甘さの含んだ微笑を浮かべる。
だが少女はそれを見逃さなかった。
その瞬間を、まるで心の中に閉じ込めるように、大切に、大切にしまいこんだ。
「おい」
青年がふいに自分の顔を覗き込むものだから、少女は心臓が飛び出るかと思った。
こんな整った顔の青年に見つめられると、世間ずれしている彼女などは一溜りもない。
恥ずかしくて堪らなくて、耳まで赤くなり、彼女はやっとのことで彼を見る。
「顔色、戻ってきたみてーだな」
「おかげさまで、有難うございます」
少女はようやく、太陽のような微笑を青年に向けた。
彼は虚をつかれたかと思った。
少女の眩しいほどの笑顔は、“光”となって、彼の心の中にまっすぐ入っていった。
何故そんな、穢れのない瞳で俺を見つめる----
「もうだいじょうぶか?」
「ええ、平気です。もう少し休んでいれば、学校にも行けると思います」
彼女の顔色も幾分かは良くなりつつあり、それを青年は確認する。
「じゃあ、俺は先に行くぜ? 今日は遅刻できねえから」
言われて、慌てて少女は礼を言うために立ち上がろうとしたが、青年に制止された。
「もう少し休んでおけ。礼なんていいからよ」
「で、でも」
「いいから」
青年は、少女の栗色の髪をクシャりと撫でると、そのまま踵をかえて歩いてゆく。
「あ、有難うございました」
彼に語りかけるように、少女は感謝を込めて、その精悍な背中に向けて呟く。
それが判ったのか、雑踏のまぎれつつあった青年が、彼女に向かって手を上げてくれた。
彼が長身のせいか、遠くに行ってもその存在感が判る。
少女は見えなくなるまで青年を目で追っていた。
素敵な人だった・・・。
だけど、どこかであったことがあるような、そんな気がする…。
青年もまた、自分の心に振り落ちてきた天使の事を、考えていた。
考えないようにしても、考えてしまう。
スモルニィのテニス部の生徒か・・・
俺は…、あの少女の前で上手く振舞えるんだろうか…
二人は、こうして出会った----
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「アンジェ!! 遅かったじゃない!!」
クラス替えの発表がある職員室の前で、アンジェ----本当はアンジェリークと言うのだが----と呼ばれた少女の親友、レイチェルが手招きをしていた。
「ごめんね。電車で気分が悪くなちゃったから、駅で休んでたの」
「大丈夫?」
「ん・・・」
心配げに見つめてくれる親友に、なぜか、アンジェリークは今朝であった青年のことを言えなかった。
それがどうしてか、彼女には判らなかった。
「ね、あんまり無理しちゃダメだよ!! ワタシの大事なアンジェリークなんだからね!!」
「ふふ、ありがと、レイチェル」
アンジェリークは穏やかな華のような笑顔をレイチェルに向け、彼女を益々嬉しくさせる。
「で、クラスはどうなったの?」
「私たち、また一緒のクラスなの〜!!」
レイチェルに抱きつかれて、アンジェリークは楽しげに笑う。
また一年、この大好きな彼女と一緒に入れると思うと、嬉しくて堪らない。
「よかった!! 私もレイチェルと一緒で嬉しい〜」
二人は楽しげにじゃれあいながら、朝礼のため講堂へと向かう。
「あのね、私たちのクラスを受け持つのは、新任の先生なんだって。アリオスとかいう若い男の先生らしいよ〜」
嬉しげに、楽しげに話す親友の言葉に、アンジェリークは何故だかドキリとした。
若い、男の先生・・・。
「どうしたのアンジェ? アナタも嬉しいんじゃないの〜」
「そ、そんなことはないわよ・・・」
はにかんで俯いてしまうアンジェリークが可愛くて、レイチェルはその華奢な肩を抱く。
「アンジェも気になるんだ〜」
「そんなことないもん・・・」
「またまた〜。でね、その先生は、テニス部の顧問にも就任するんだよっ!」
「えっ」
アンジェリークのお起きの瞳が更に大きくなる。
「とにかく、どんな専制化、お手並み拝見!! 講堂に行こう!!」
アンジェリークの手をぐいと掴むと、そのまま引っ張るように、レイチェルは講堂に向かって駈けて行った。
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朝礼はいつものように長かった。
学院長の話は手短なのだが、説教好きの教頭ジュリアスの生活指導についての長話と、去年まではアンジェリークの担任だった学年主任のルヴァ先生の話が長引き、ようやく新任教師の挨拶の時間となった。
新任教師たちが演壇に登場したとき、アンジェリークは思わず声にならない声を上げた。
あの人、今朝の・・・!
そこには、今朝アンジェリークを助けてくれた、銀色の髪をしたあの魅力的な青年がいた。
演台にいる彼は、どこか厭世的な雰囲気を持っている。
アンジェリークは彼から視線を離せないでいる。
「ねえ、ねえ、あの人がアリオス先生だったらいいよね〜」
後ろからレイチェルに囁かれて、アンジェリークははっとする。
「----きっと…、そうよ…」
不思議とアンジェリークは確信をもっていた。
挨拶は銀の髪をした青年の番になる。
壇上に上がった彼が最初に捉えたのは、やはりアンジェリークの姿だった。
クラスまで同じか・・・。神様も酷なことをしやがるぜ・・・。
あんなにあいつに似ている少女を、俺の前に現せるなんてな・・・
日にくげな笑みを口元に浮かべ、、彼は自己紹介を始める。
「アリオスだ。担当教科は数学。よろしく」
必要事項しか言わないシンプルな自己紹介と、銀色の髪、金と翡翠の不思議な瞳、整った精悍な感じがする容姿と、年頃の少女たちの心を掴むには充分だった。
講堂中に、うっとりとした溜め息と、口々に囁かれる、アリオスへの行為の数々。
彼はその雰囲気だけで、魅了してしまったのだ。
「すっご〜い!! あの先生が担任で、クラブ顧問だなんて、私たち絶対ついてるよ〜」
何時になく興奮気味のレイチェルが、嬉しそうに飛び跳ねている。
あの人が…、担任の先生で、クラブの先生…
アンジェリークは、アリオスの魅力に捉えられて、動くことが出来ずにいた----
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やはり、担任は、あの銀の髪の優しい青年だった。
どの生徒も、彼のクラスになれたことへの興奮を隠せないでいる。
教室にアリオスが入ってきた瞬間、部屋の空気が変質する。
先ほどまで楽しそうに笑っていた女生徒が、ピタリとしおらしくなる。
「俺の自己紹介はもう、朝礼で済んだ。あとは、おまえたちひとりずつの自己紹介だ。端から順にいけ」
教卓に立ちながら、彼は自己紹介する生徒に顔をじっと見てゆく。
あれだけの容姿のものに見つめられれば、赤面する生徒も少なくはない。
「レイチェル・ハート。テニス部です。前はルヴァ先生のクラスにいました。宜しくお願いします」
レイチェルの番が終わり、いよいよアンジェリークだ。
「アンジェリーク・コレットです。テニス部です。私も一年の時はルヴァ先生のクラスにいました。宜しくお願いします」
俯き加減で話していて。アンジェリークはふと顔を上げた。
するとアリオスが真摯な眼差しで、彼女を刺すように見つめている。
その視線が痛くて、席についた後も、彼女は逃れるように、ずっと俯いてしまっていた----
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自己紹介と同様に、アリオスのHRも短く、あっという間に一日目の予定は総て終了した。
アンジェリークとレイチェルも、放課後、、クラブに参加するために部室へと向かっていた。
「ほら、アンジェ、とっとと行くわよ!」
「待ってよ、レイチェル!!」
二人は素早くテニスウェアに着替え、コートへと駈けてゆく。
このスモルニィ女学院は、テニスの名門校としても全国に知られており、コートなどの施設も充実している。
レイチェルは一年生からレギュラー選手でその恩恵を受けていたが、アンジェリークは補欠部員のせいかその恩恵は余り関係なく、無縁といっても良かった。
「レイチェル、今年はインターハイねらえるかもね」
「でも、練習厳しいのはイヤだな〜」
アンジェリークとレイチェルは、いつものようにおしゃべりをしながら、ストレッチをしていた。
ここまではいつも通りだった。
「お見えになったわ」
テニス部のエースであるロザリアが、キャプテンである金髪のアンジェリークに声をかけると、場の雰囲気が引き締まる。
「全員整列!!」
生徒会長でもあり、名門テニス部のキャプテンアンジェリーク・リモージュの号令の元、全員が整列する。
そこに、トレーニングウェア姿のアリオスが現れ、空気が硬質なものに変わる----
彼は、やはり、直にアンジェリークを見つけ、切れるような憂いのある視線を彼女に向ける。
彼女は、微動だに出来なかった----
TO BE CONTINUED
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コメント
「異間人館・愛の劇場」第二弾。
「担任でありテニスのコーチでもあるアリオスと生徒でありテニスの教え子でもあるアンジェリーク」の恋物語です。
私は常に、アリオスとアンジェリークの間には、男女の愛を超えたものがあると思っています。今回はそれを追求した物語にしていければいいなと、思っております。
切なく、だけど心が満たされる物語にしたいですが、少し技術が伴わないかもしれません。
頑張ってかいてゆきますので、宜しくお願いします。
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