Graduation

5


 ひょっとしてして、アリオス先生は私をずっと待っていてくれたの・・・?
 そんな甘い妄想を抱きたくなっちゃう・・・。
 だって、きっと先生の車に乗るのはこれが最後だろうから・・・。

 アンジェリークは心の奥底で切なく思いながら、前を歩くアリオスの後ろを着いていく。
 彼の背中がとても広く感じる。

 思えば、愚図な私が、進学特殊クラスに着いていけたのは、先生がいつも怒ってくれたから・・・。
 真剣に私を面倒見てくれたからなのね。

 駐車場に着くと、アリオスのシルバーメタリックのスポーツカーが、月光に妖しく照らされていた。
「乗れ」
「はい」
 もう二度とないかもしれないと、アンジェリークはしっかりと空間を心に刻み付けるかのように、助手席に乗り込む。
 アリオスがすぐに乗り込んできて、エンジンが掛けられた。
 車内に籠る煙草の香りも、もう二度と感じることができない。
 何だか、煙草の香りが目に染みてきた。
「明日からは、ゆっくり出来るな」
「先生は逆に忙しくなるんでしょ?」
 くすりと笑った後、アンジェリークは少しだけ俯いた。
「まあな。だが、おまえらみんな優秀だからな。採点するこっちは楽なんだぜ」
「私はみそっかすだから」
「んなことはねえよ」
 綺麗な指先で栗色の髪をくしゃりとされて、胸が甘く苦しい。
「おまえは優秀な生徒だ」
 しみじみと言った後、アリオスはゆっくりと車を駐車場から出した。
 運転をするアリオスを横目で見つめながら、アンジェリークは一生懸命勇気をかき集める。
 どうせ、振られてしまうことは判っている。
 だが、今を逃してしまえば、もうチャンスが無くなる。勇気はなかなか集まらなかった。
「・・・先生、今日は有り難うございました。アルのことで、みんな謝ってくれましたから」
 頭を軽く下げて、アンジェリークはアリオスを見た。
 まだまだ言い足りない。
 だが上手く言葉で表現できない。
「おまえがアルフォンシアを思う気持ちがあいつらに伝わったんだ」
「先生・・・」
 アンジェリークはアリオスの精悍で整った横顔をじっと見つめる。
 胸が甘く震えて痛かった。
 車はどんどん家に近付いている。
 考える時間が、時間の過ぎる速度に追い付いていかず、もどかしい。
 言おうとしても、どうしても言うことが出来なかった。
「・・・腹減らねえか?」
「少し空きました」
「だったら、今日頑張ったおまえへのご褒美だ。美味いメシ屋があるんだ。食べにいこうぜ」
 アリオスからの提案は、手放しで喜びたくなるほど嬉しかった。
 これで勇気をかき集める時間がもてる。
「はいっ!」
 間髪入れずに、アンジェリークは返事をする。
 もう少しだけでも、アリオスのそばにいたかった。
 切なる欲望が満たされ、アンジェリークは心から嬉しい。
 だからこそ、あの一言を言わなければならないと思った。

 アリオスが連れていってくれた店は、小さな古びたちゃんこ屋だった。
 ふたりでつつき合うのには丁度いい大きさの鍋に、野菜や魚介がたっぷり入っている。
「おまえは栄養つけなきゃならねえからな?」
「有り難うございます」
 女の子向けの洒落た店ではなかったが、味は抜群に良い。
 苦手なイワシのつみれも難なく食べられる。
 そして何よりも、横にアリオスがいてくれることが、食べものを美味しくしてくれていた。
「美味しいです〜!!」
「そいつは良かったな。いっぱい食って、体力を養えよ?」
「はいっ!!」
 アリオスにとっても、美味しそうなアンジェリークの顔が、何よりものごちそうになった。
 あまりにも美味しかったせいか、アンジェリークはするすると食べる。
 締めのラーメンの美味しさと言えば、それこそ”頬が落ちる”ほどだった。
「あ〜、もうおなかがいっぱいです!」
 満足な悲鳴を上げながら、アンジェリークはすっかり満足そうに笑った。
「そいつは良かったな。これで栄養付けて、四月からがんばらねえとな?」
「はいっ!!」

 先生・・・。
 先生との想い出の方が、私にはずっとずっと栄養になります。
 心の栄養に・・・。


 夕食をたっぷり食べた後、ふたりは再び車に乗り込む。
 どうして楽しい時間は、こんなに早く過ぎてしまうんだろうか。
 車に乗り込むなり、ふたりはどこか暗い雰囲気になった。
「すまねえな。遅くなっちまった」
「大丈夫です。今日はうちの人たちはいないんです。両親と祖母は温泉旅行中ですから」
 本当にこれこそ幸いだ。最初は、卒業レポートで自分一人が行けないのが悔しかったが、今や、それも喜と転じている。
「そうか。だったら不良ついでに、ドライブするか?」
「はいっ!」
 これにも、アンジェリークは本当に嬉しそうに頷いた。
 もっともっとお互いにそばにいたい----
 その気持ちが、ふたりの中で一致した。
 車は、アンジェリークの家とは別方向に向かって走り出す。
「いい夜景スポットがある」
「楽しみです!!」
 ゆらゆらと揺れるコンパートメントに、心地好く躰を預けて、彼女は飛び去るように動く窓の向こうの景色を見つめた。
「先生・・・」
「何だ?」
「先生って、”女嫌い”って言われいるのを知っていますか?」
 恐る恐る訊いてくるアンジェリークに、アリオスは苦笑した。
「ああ、知ってる」
「それを聞いて、最初は先生がおっかなかったんですよ。実際、先生はきつかったし。筋金入りの女嫌いだって、そう思ってました」
 懐かしそうに、アンジェリークは言い、言葉尻に笑みがこぼれる。
「俺は女嫌いなんかじゃねえよ。ただ、女は、たまにロクデモねえのがいるからな。根性を叩きなおさねえとな」
 アリオスはさばさばと言い、アンジェリークは思わずへの字に口を曲げた。
「おまえやハートはそんな女じゃねえのが判ってる」
 アンジェリークは頬を染めて、少し照れくさそうに俯く。
「有り難うございます」
 一緒に過ごす時間が長いほど、アリオスのことをどんどん好きになっていく。
 それが苦しくて泣きたくなった。
「この先を上がっていけば、夜景が綺麗な場所に着く」
「楽しみです」
 車体が傾き、山道を上がっていくのが判り、わくわくする。
 しばらくして減速して、車はゆっくりと止まった。
「着いたぜ?」
「はいっ!!」
 車から降りると、流石にこの時期はまだまだ寒かった。
 ぶるっと躰を震わせると、アンジェリークの後ろに優しくアリオスが立つ。
「寒いのか?」
「少し・・・」
「これ着るか?」
 革のジャケットを脱ごうとしてくれたので、アンジェリークは慌ててそれを制する。
「先生が風邪を引きます」
「このままだとおまえだって、風邪を引くじゃねえか!?」
 アリオスが逆に押しつけようとすると、アンジェリークは首を振る。
「ったく、頑固ややつだぜ・・・。しょうがねえ、こうするか・・・」

 え・・・。
 一瞬、何が起こったか、良く判らなかった。
 思考が上手く回り出したときには、温かく包まれていた。
 背後からしっかりと包み込むように抱き締められるのが、とても心地好い。
「先生・・・」
「これだったら温かいだろ?」
 温かいどころか、躰がとても熱い。
 芯まで蕩けそうだ。
「はい・・・」
 かすれた声で、アンジェリークは何とか返事をした。
 足が震える。
「なあ、凄く綺麗だろ?」
「あ・・・」
 躰の熱に気を取られていて、目の前にある宝石のような光景には、全く気付いてはいなかった。
 熱で艶やかに潤んだ瞳に、夜景が美しく滲んで写る。
 街の灯は本当に絶景だった。宝石や星屑を散らばめるよりも美しい。
「・・・綺麗・・・」
 感嘆の息を吐けば、アリオスの腕に力が込められた。
「明かりの下には、色々な人生があるから、夜景は綺麗なんだ。命の明かりだ」
「命の明かり・・・」
 アリオスの言葉を噛み締めるように呟いて、アンジェリークは夜景を凝視する。
 明かりが本当に命の明かりに見えるから不思議だ。
「アンジェリーク・・・」
 甘いくぐもった声で、初めて名前が囁かれた。
 名前を呼んでもらっただけなのに、甘く心が乱れる。
「先生・・・」
「アリオスだ、アンジェリーク」
 腕の中で躰を回転され、向かい合わせにさせられる。
 甘いアリオスの声に、脳の芯が甘く痺れてぼうっとした。
「・・・アリ、オス・・・」
 かすれた声で名前を呼ぶと、彼は満足げに笑う。
 そのまま熱い唇が重なり合い、めくるめく情熱に燃え尽くされる。
 三度目のキスは、溺れたくなるほど甘いものだった。

 甘い時間もまた、終わりを迎える。
 深夜近くになったので、家路についた。

 まるでシンデレラの魔法が解けるみたいね・・・。

 助手席に座りながら、アンジェリークは、初めて、シンデレラの惨めな気持ちが判ったような気がする。
 車に揺られ、家に着いたのは、違う日付を刻む実に5分前。
「着いたぜ」
 アリオスの事務的な声にアンジェリークは頷いた。
 -------今しかチャンスはない。
 アンジェリークはぎりぎりになり、ようやく勇気がかき集まった。
 言わないよりも、ここで言った方が後悔しない-----
 それだけを一年に、かの上はゆっくりと口を開いた。
「・・・先生、私ね・・・ずっと先生に恋をしていたの。あなたがいればたとえどんなことでも、頑張れた・・・。今まで、有り難うございました」
 震える声で一生懸命言った後、アンジェリークは一瞬アリオスを見つめてから、静かに車から出る。
 返事は聞きたくはなかった。
 どうせ断られるから。
 惨めになるからと、彼女はアリオスが答える前に、自分を防御するように車から降りたのだ。
 急いで玄関先に走っていき、隙を与えない。
 鍵を開け、少し振り返る。
 車は止まったまま、彼女が家の中に入るのを見守ってくれていた。

 有り難う、先生。

 ドアを閉め鍵をかけたのとほぼ同時に、アリオスの車が走り出すのが聞こえる。
 その音に、アンジェリークはむせび泣いた----



 卒業式の日を、アンジェリークは胸の苦しみと共に向かえた。
 白い清楚なワンピースで清らかなお洒落をして、式に臨む。
 式が挙行されている間は、職員席にいるアリオスを目で追わずにはいられなかった。

 先生、いよいよお別れですね・・・。
 こんなことなら、卒業レポートを思い切り手を抜けば良かったって思っちゃう。
 落第したら、また先生と一緒にいられるのに・・・。

 心の奥底からそう思わずにはいられない。
 卒業の涙に紛れて、アンジェリークは失恋の涙を噛みしめた。

 式が終わり、中庭近くで友達と別れを告げる。
 クラスメイトとまた逢おうとしっかりと約束をして。

 同窓会で今度逢う時は、先生は可愛いお嫁さんがいるかもしれない。
 子供も・・・。

 そう思うと、また涙が滲んでしょうがない。
「アンジェ、帰ろうか?」
「うん」
 レイチェルに言われて頷いた後、涙を拭いながら校門を潜ろうとした。
「あれ、アリオス先生だわ」
 アンジェリークはどきりとして、思わずアリオスの居る方向を向く。
 彼のスーツは少し乱れていて、相変わらず素敵で、胸がきゅんと締まる。
「何、先生、あんなに慌てて…」
 レイチェルは何事とばかりに、不思議そうにしていた。
「コレット…」
 アリオスの息は、服装と同じく少し乱れている。
「先生…、今まで、長い間お世話になりました」
「ああ」
 深々と頭を下げた後、アンジェリークはこれ以上アリオスの顔を見ることが出来ず、直ぐに振り向いた。
 大きな瞳には止めどとなく涙が溢れている。
「行こう、レイチェル」
「うん」
 ふたりが揃って校門をくぐったときだった。
「アンジェリーク!!!」
 名前を呼ばれて、アンジェリークは思わず振り向いた。
「先生…?」
 アリオスもまた校門をくぐり、アンジェリークに近付いていく。
「この間、おまえにちゃんと返事をしなかったからな」
「先生…」
 アリオスは指先で、アンジェリークの円やかでマシュマロのような頬にふれると、ふっと甘く笑った。
「------おまえの夢を俺に叶えさせてくれ」
「アリオス…!!!」
 手を伸ばした瞬間、アンジェリークはアリオスの胸に飛び込んでいく。
 周りにいた誰もが驚いて、ざわついている。
「ワタシも抱きつきたくなったな〜」
 レイチェルは幸せの伝染を受け、大胆にも学校内にいるエルンストのところにわざわざ行き、抱きつきに行く。
「アンジェ…」
「アリオス…」
 アリオスとアンジェリークはと言えば、お互いに見つめ合い、その思いを伝えあった。
「あ〜あ。お嬢ちゃんもとうとう他の男の者になってしまうのか。
 まあ、あの女嫌いのアリオスが、最初に好きになった女だからな。あいつはもうおっさんだから、譲ってやるしかないか…」
 二人を見ながらオスカーは苦笑する。

 アリオス…。
 今日で先生と生徒はさよならね。
 明日からは、私だけのあなただもん…。

 春の日差しを浴びながら、二人はいつまでもお互いを抱きあっていた------

コメント

アリコレの季節的にはぎりぎり「卒業」の物語です。
短く甘い恋物語です。
お楽しみいただけると嬉しいです。

終りました〜!!




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