早朝、目が覚めると、腕と足の紐は外されていて、枕元には、新しいメイド服が置いてあった。 ご主人様・・・。 手首を見ると、真っ赤に痕が残っている。 アンジェリークは、涙ぐみながらそれを見つめ、その部分をなぞった。 昨日のご主人様、凄く怖かった・・・。 だけど、私は、嫌じゃなかった・・・。 大好きだから、彼の温もりに包まれたいから・・・。 ドアが開く音がして、アンジェリークはそれに注目をした。 入って来たのはアリオス。 白いシャツと黒のスラックスのシンプルな装いが、とても艶やかである。 「コレット」 冷酷すぎる声だった。 アンジェリークはその声に戦慄を覚える。 しかも今まではファーストネームだったものが、他人行儀なファミリーネームになっている。 「ご主人様・・・」 まるで傷ついた小動物のように、アンジェリークは、大きく潤んだ瞳をアリオスに向けた。 「とっとと着替えて部屋に帰れ! いつまでもそこにいられると迷惑だ!」 キツイ論旨の彼に、彼女はおののき、哀しくなる。 大きな瞳から大粒の涙を零しながら何とか頷いて、そばにあるメイド服に袖を通した。 アンジェリークにとって、アリオスにキツク冷たく当たられるのは、何よりも辛い。 ご主人様、きっと私に飽きたんだ・・・。 アリオスは、アンジェリークを見ようとしなかった。 そうすれば、華奢ではかない体を抱き締めてしまうから。 着替え終わり、アンジェリークはベッドから出て、アリオスに一礼をした。 「コレット、おまえはクビだ。とっととランディと一緒になって、ここから出ていけ」 胸に鋭い剣が突き刺さった。傷口から血が滴り落ちている。 もう何も考えられなかった。 「判りました・・・。今すぐ出ていきます・・・。ランディと私は何もありませんから、彼はクビにしないで下さい」 震えた声だったが、今までで一番冷たい声だった。 アリオスもまた、心がちくりと痛む。 彼女がランディを庇うのも許せなかった。 「俺の前から消えろ!」 アンジェリークは、頭を深々と一度だけ下げる。 「お世話になりました」 震える声で、凛として一度だけ言うと、彼女は静かに部屋から出ていった。 アンジェリークは、小さな部屋に戻ると、荷物をすぐに詰め込み始めた。 来てあまり経っていないせいか、荷物も余りなく、荷造りはすぐに済む。 深いエンジのワンピースに紺色のコートに着替え、部屋を手早く片付けた。 そうしているうちに、朝6時になり、部屋を出て挨拶のために詰所に向かう。 今日付けで辞める旨を伝えて、メイド頭に挨拶をする。 「今までお世話になりました!」 「本当に残念だわ。プロのメイドの方は少ないので、あなたの存在は本当に助かったわ」 メイド頭は好意的に、心からアンジェリークのことを残念がってくれたが、他の若いメイドは違った。 誰もが、次のご主人様の担当は誰かと、色めいている。 形だけの挨拶をした後、アンジェリークは詰所を後にした。 「アンジェリーク!」 勝手口に向かって歩いていると、ランディは慌てて追いかけてくる。 「辞めるんだって!?」 慌てて来たのか、彼の息は乱れている。 「・・・ええ。田舎に帰ります」 ややあって、アンジェリークは答えた。 「昨日は何も言ってなかったじゃないか!」 「ごめんなさい。今朝急に決まったから」 さらりと彼女は笑って言うと、そのまま勝手口に突き進む。 「待ってくれ、ひょっとして、ご主人様と何か」 その言葉に、アンジェリークは僅かに反応すると、歩みを止めた。 「言わないでそれは・・・」 その表情に、ランディははっとする。 余りにも大人びて美しい表情であった。 「アンジェリーク・・・。君が好きなのは、ご主人様じゃ・・・」 流石のランディでも、その表情を見れば、気がつく。 しばらくアンジェリークは黙っていたが、やがて優しい笑みを浮かべてランディを見た。 「有り難う、ランディ、楽しかったわ。お元気で」 それだけ言うと、彼女は勝手口から静かに出ていった。 冬の朝の空気は白くて冷たい。 澄んだ空気の中を、アンジェリークは、駅に向かうバスに乗る為に、バス停へと向かった。 さよなら、大好きな人・・・。 アリオスは、部屋で落ち着けないでいた。 思い浮かぶは、栗色の髪をした、従順な彼の天使。 クソッ! 今更どんなつらで謝れば良いんだ… 何度か、彼女の部屋に足が向くが、そのまま踏み止どまる。 朝食の時間となった。 いつもならアンジェリークがよびに来てくれる。 少しだけ期待をして、アリオスはノックをした人物を招き入れた。 「入れ!」 「はいっ」 その声はランディ。 アリオスは、彼の姿に不機嫌そうに眉根を寄せた。 「何だ」 その声と、不機嫌な態度に、ランディはほんの少したじろいで部屋に入った。 「失礼します。今日は俺がアンジェリークの代わりにきました」 「アンジェは…」 アリオスは低い声で尋ねる。 だがその視線は、宙を彷徨ってランディを見ようとはしない。 「今朝早く、ここを出ました…」 「・…!!!!」 自分がそう仕向けたとはいえ、アリオスは胸が抉られるような気分に苛まれる。 心から血が流れているのが判る。 「・・おまえは一緒に行かねえのか?」 「あ、俺ですか? 昨日見事に振られましたよ、アンジェリークに」 アリオスがさっと振り向くと、ランディは笑っていた。 彼はアリオスの態度で総てを読む。 「-----好きな人がいると、言っていました。 それは、ご主人様のことだと俺は思います!」 きっぱりとした口調だった。 アンジェ…!!! その一言で、アリオスは決心が付いた。 アリオスはすぐさま部屋にあるジャケットと車の鍵を手に取る。 「朝飯はいらねえ。 アンジェがどこに行ったか判るか!?」 「恐らく、駅に向ったと思います。田舎に帰るといっていたので」 「サンキュ!」 アリオスはそれだけを言うと、慌てて部屋を出て行く。 ガレージから自分の車を出し、アリオスは猛スピードで駅へ向う。 あれから直ぐに出たのか…。 間に合えばいいが…。 いや、間に合ってくれ!! 彼の思いを乗せて、車は冬の道を突っ走っていた。 そろそろ時間ね… 故郷までの汽車の切符も買い、アンジェリークは暫くの間、待合室でぼんやりとしていた。 当分は働く気が起こらないから、家でぼっとしよう…。 その後は、また頑張れば良いから… 「ホワイトエンジェルフェルトの汽車がまもなく入線いたします。ご利用のお客様は、ホームへとお急ぎください」 アナウンスがかかり、アンジェリークは立ち上がる。 アリオスは急いで駅の駐車場に車を停め、そのまま広い駅を見渡す。 履歴書で、彼女の故郷は知っていた。 彼は、“ホワイトエンジェルフェルト”行きの汽車が何番ホームか、必死になって探す。 ”特急・天使1号”23番ホーム---- それだけを頼りに、アリオスは走っていく。 そして----- アンジェリーク!!! 改札に入ろうとする、アンジェリークの後姿を見つけた。 「アンジェ!!!!!」 今、アンジェリークにとっては一番聴きたい声だった。 彼女は一瞬身体をびくりとさせる。 「アンジェ!!」 再び声が聞こえる。 胸が一気に甘い苦しさに支配される。 ゆっくりと、彼女は振り返った。 そこには、銀の髪を振り乱し、息までもを乱しているアリオスがいた。 ご主人様!!! アンジェリークは涙がこぼれるのがわかる。 それを必死に耐えて、彼女は深々と頭を垂れた。 そして、挨拶を終えると、振り切るように、改札へと入ろうとした。 「アンジェ!!!」 息を飲んだときにはもう遅かった。 改札の直前で、アンジェリークは背後から力強く抱きすくめられていた。 「…行くな…!」 それは心から絞り出された声であった。 「ご主人様…」 「もう俺はおまえのご主人様なんかじゃねえ! アリオスと呼んでくれねえか?」 「アリオス…」 小さなささやき。 だがそこには愛情がたくさん詰まっている。 「俺のそばにいてくれ…」 「いいの?」 「一生な…」 その瞬間。 アンジェリークは大きな瞳から涙を流しながら、彼に頷く。 「帰ろう」 アリオスはアンジェリークへ抱擁を一端とくと、彼女の荷物を持ってやり、あいたほうの手で彼女の小さな手を握り締めた。 「はい・・・」 二人はそのまま、アリオスの車が停めてある駐車場に向い、車に乗り込む。 「アリオス?」 「何だ?」 「あれってプロポーズ?」 「ああ、そういうことだ。 これから毎晩“調教”してやるからな? 覚悟しろよ?」 アリオスは深い微笑をアンジェリークに投げかけ、その華奢な身体を包み込むように抱きしめた。 3ヵ月後。 アンジェリークは、アリオスの妻となった。 メイドから公爵夫人へ。 そのお伽話に誰もが、憧憬の眼差しを送ったと言う----- |