「大丈夫だ。何も心配するな」
「うん…」
アンジェリークの両親に会うために、彼女と二人、彼女の自宅へと向かっていた。
本当は緊張するのは彼の方なのに、アンジェリークの方が、すっかり緊張してしまっている。
アリオス右手を彼女の手に絡め、落ち着かせるように配慮する。
実のところ担任として、夏に彼女の母親にはアリオスは逢ったことがあった。
その時はまだ付き合い始めて間もなく、愛し合ってはいたが、お互いに将来のことを特に意識はしていなかった。
だが今日は違う。
アンジェリークにプロポーズしたアリオスが、正式に彼女の両親に挨拶に行くのだ。
アリオスのBMWが、アンジェリークの自宅に着いたのは、彼のマンションを出て1僅か10分後だった。
「もう、着いたの?」
緊張の余りうろたえる彼女に、アリオスはぽんと肩を叩く。
「アリオス…」
「行くぜ?」
彼の、優しく包んでくれるような微笑は、彼女にとっては、何よりも緊張を癒す特効薬となった。
「うん」
促されるように頷いて、彼に続いて、彼女も車から降りた。
いつも見慣れている家が、今日はまるで別の場所のように思える。
アンジェリークは、ちらりと横にいる彼を見やる。
今日のアリオスは、いつもにも増して、とても素敵で艶やかだと、彼女は思う。
シンプルな黒のスーツはとてもよく似合っているし、引き締まった横顔は堪らなく素敵だ。
彼女は思わず見惚れ、眩しいほど素敵な彼に果たして自分などが釣り合わないのではないかと密かに思ってしまう。
こんなに素敵なアリオスのお嫁さんが私なんて、本当にいいのかな・・・。
「何だ?」
少し不安げな視線に気が付き、アリオスは彼女を覗き見る。
「何でもない…」
「俺にとって、おまえ以上の女なんていねえんだからな」
「うん…」
玄関先に来て、いよいよインターフォンが押される。
『はい』
「あ、お母さん…、アリオス…先生連れてきた」
『じゃあ上がって頂いて。リヴィングでお父さんと待っているから』
「うん…」
娘の声が緊張で震えていたのは判ったが、何故震えていたかを、母は理解することは出来なかった。
インターフォンでの親子のやり取りを聞きながら、アリオスは少し嫌な予感がして眉根を寄せる。
「な、おまえ、俺が挨拶に行くことを、なんて言って話した?」
「え・・・、アリオス先生を連れてくるから、是非二人に逢って欲しい…、って」
「やっぱりな」
サラっと瞳にかかる銀糸をかきあげ、彼は呆れたように言い切った。
「え!?」
「おまえのご両親、きっと家庭訪問だと思ってるぞ…」
「やだ、うそ」
指摘されて、彼女はそうかもしれないと思う。
確かに先ほどの母親の態度は、プロポーズの挨拶を受ける親の態度ではない。
「もっと、”大事な人に逢わせたいから”とか、言えなかったのかよ?」
「ご…、ごめんなさい」
「そこがおまえの可愛いとこでもあるんだけどな」
クシャリと栗色の髪を撫でられ、甘く囁かれ、彼女は嬉しさと恥ずかしさで、そっと俯いた。
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いよいよリヴィングに通され、そこには、アンジェリークの両親がソファの前に立って、アリオスを出迎えてくれた。
「失礼します」
「先生、いつも娘がお世話になっております」
彼女の父が深々と礼をし、彼もそれに応えて一礼をする。
全く堂々として物怖じしないアリオスに、アンジェリークは心の底から誇りを感じた。
横に立つ彼に、そっと信頼の眼差しを送ると、力強い眼差しが返って来る。
"俺を信用しろ"と----
噛み締めるように彼女は頷くと、彼だけにわかるようにそっと微笑みかけた。
「さあ、先生、コーヒーが入りましたから、おかけください。アンジェリークもかけなさい」
「失礼します」
父に促されて、二人はソファに腰を下ろした。
ほどなくして母親もリヴィングに戻り、挨拶をする環境は整った。
「娘は、どうですか、先生?」
「コレットさん、彼女は良くやっています。----実は今日ここに来たのは、別の用事です」
「別の?」
彼女の父は怪訝そうに眉根を寄せる。
「俺は、彼女と、アンジェリークと、今、お付き合いをさせてもらっています」
アリオスの率直な言葉に、母は息を飲み、父の顔はみるみるうちに険しくなってゆく。
「それで、何が言いたい?」
先ほどまではソフトだった父親の態度が一変して、横柄なものとなる。
彼は男親独特の直感で、次に何が来るかを十二分に判っていた。
その想いがアリオスにも伝わり、二人を囲む空気は一気に緊張感を帯びる。
アリオスはそんな中でも、表情一つ変えることはない。
「だったら率直に言わせて頂きます。
----今すぐに、アンジェリークを俺に下さい!!」
刺すような視線を彼女の父から向けられたが、彼は父の目を見つめたまま微動だにしない。
母親はただおろおろして、アリオスと父親の交互に視線を這わせ、アンジェリークも固唾を飲んで見守っている。
「アンジェリークは海外に連れてゆく!! 貴様などには渡さん!! 大体17なんかで結婚したら、後の人生はどうなるんだ!!」
テーブルを強く叩き、眉間に皺を寄せながら、父は激昂する。
「ヤダ!! お父さん!! 私はアリオスと一緒にいたい!! 海外なんかに行きたくない!!」
今度はアンジェリークが激昂する番だった。普段は、決して親に口答えをするタイプではない穏やかな彼女が、初めては向かった瞬間だった。
「アンジェリーク…」
彼女の激昂する姿に、両親は暫し言葉を失う。
「私は、ずっと、彼の傍にいたい・・・。それだけが生涯の望みだもん、夢だもん…」
彼女の大きな瞳からは、それこそ大粒の涙がとめどなく溢れ、自然と横にいるアリオスの胸に顔をう埋める。
彼も彼女をあやすように、なれた手つきで栗色の髪を撫でてやる。
二人のその姿は、まるでしっくりと来た絵画のようだった。
どちらが欠けてもダメなような、そんな感じだった。
「…とにかく、認めるわけにはいかん」
アリオスの申し出がショックだったのか、娘の態度がショックだったのか、彼女の父親は、吐き捨てるように呟くと、そのまま足早に自室に篭ってしまった。
「----アリオスさん、主人もああゆう状態ですし、とにかく今日のところはこれで…」
「はい、判りました」
アリオスが直ぐに提案を受け入れたことは、母親にとって好ましいことだった。
彼は静かに立ち上がり、リヴィングを後にする。
「アリオス…」
縋るような眼差しで彼を捉えながら、アンジェリークは彼についてゆく。
ふと彼は立ち止まり、彼女の肩をそっと抱く。
「心配するな。俺は絶対に諦めねえから」
睫にかかる彼女の涙をついっと優しく拭ってやり、甘さと慈しみが滲んだ微笑を彼女に向ける。
恐ろしいほど魅力的で、アンジェリークははにかむように微笑んだ。
アリオスを見送る娘の姿を影から見つめながら、彼女の母は軽い溜め息を吐いた。
あれでは、もう離れようがないわね…
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その夜、アンジェリークの家では、当然の如く家族会議が持たれた。
しかし、何時までたっても、アンジェリークと父親の意見は平行線を辿っていた。
「何が何でもダメなものはダメだ!! おまえは私たちと海外に行く!!!」
「お父さんの判らずや!! 私はアリオスと一緒にいたいの!!」
涙を流して訴えるアンジェリークと頑固な父親の壮絶なやり取りは際限なく続けられる。
「言うことが訊けないのか!」
「お父さんなんて、大嫌いよ!!」
アンジェリークは啖呵を切ると、そのまま家を飛び出してゆく。
「こら、待ちなさい!! アンジェリーク!!」
父親の制止も振り切り、彼女は夜の街を駆け抜ける。
行き先は、もちろん、アリオスのところだ----
「きっと、アリオスさんの所よ」
「おまえ…」
先ほどから傍観していた母が、父の向かって微笑みかける。
「あなたも昼間の二人を見たでしょう? あれじゃあ、誰も二人の絆を断ち切ることは出来ないわ。あなたも判っているんじゃなくて?」
「・……」
「いいかげんに折れたら? きっとあのこのとっては、生涯でたった一度の恋だろうから…」
父親は感慨深げに妻を見つめると、大きな溜め息をひとつ吐いた。
アリオスは、ひとりで夜空を見ながら、ウォッカを飲んでいた。
やはりひとりきりの酒は酔えない。
心地よく酔えるのは、傍にあの笑顔があるときだけ。
ふいに、ドアの鍵を開ける音がし、玄関先に出て見ると、そこにはアンジェリークが泣きながら立っていた。
「アンジェ!!」
「アリオス…」
アリオスの顔を見た瞬間、アンジェリークは緊張が緩んだのか、涙をぽろぽろと流して、体を彼の胸に預けた。
「お父さん、全然わかってくれない!!」
「アンジェ…」
宥めるように、あやすようにアリオスは彼女を優しく抱きしめ、髪を撫でてやる。
ただそれだけでも、彼女の心は落ち着いてくる。
「私…、決めたの!!」
「何を?」
「アリオスと一緒に住むって。ここで篭城するって」
肩を引き攣らせながら、子供のように拗ねて呟く彼女が、狂おしいほど愛しい。
彼女と一緒に暮らしたいのは山々だが、それは正式に認められてからにしたい。
アリオスは、そっと彼女から抱擁を解くと、その華奢な肩にやさしく手を乗せる。
「----今日はとりあえず帰れ。送ってゆくから」
「どうして!?」
「ご両親を心配させるな」
端正な顔を上げ、彼は彼女の瞳を覗き込むように見た。
視線は愛に溢れていて、彼女は頷くことしか出来なかった。
「よしいいこだ」
言って、彼女の額に優しく口づけた。
「心配すんな。俺はおまえの両親を絶対に説得して見せるから」
「…ん…、信じてる、アリオス」
アリオスはアンジェリークの手を引いて、駐車場へと連れてゆく。
そこで愛車に載せて、彼女を家まで送るのだ。
それは、彼にとって、彼女の両親への最上級の礼儀でもあった。
家の前で、車の止まる音がして、アンジェリークの父と母は、一斉に立ち上がると、玄関へと急いだ。
二人が首を長くして待ちわびる中、アリオスに付き添われたアンジェリークが入ってきた。
「何故…?」
姿を見るなり、彼女の父はアリオスに語りかける。
「最低限の礼儀は弁えてるつもりです」
父親は寂しそうにフッと笑うと、視線を宙に彷徨わせる。
「----海外には娘は連れて行かない。…アンジェリークを宜しく頼む」
「お父さん!!!」
最も欲しかった言葉が思いも書けづ降りてきて、アンジェリークは大好きな父親に抱きつく。
「----幸せにします。あなたよりも、誰よりも。俺はあなたを超えることが出来る男だから」
真摯だが、どこか温かみのある眼差しを、アリオスは彼に向ける。
「言うな?」
「当然。アンジェリークは俺の命だから」
父親はやさしく微笑むと、ゆっくりとアンジェリークの腕を外し、彼女をアリオスの元に連れてゆく。
「ほら、おまえの飛び込む腕は、今日からあっちだ」
「有難う…、お父さん」
泣き笑いの顔を父親に向けると、彼女は彼の胸に飛び込み、彼も受け止める。
三人のやり取りを見つめながら、アンジェリークの母親も涙ぐむ。
「----だが、ひとつだけ条件があるのだが…」
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桜が盛りを迎え、子猫の寝息のようなそよ風でも散ってしまいそうな日だった。
昨日までの花曇が嘘のように、春の柔らかな陽射しが降り注いでいる。
町のはずれの小さな教会では、今、幸せな二人の結婚式が行われようとしていた。
「ねえ、レイチェル、おかしくない?」
白いシルク・オーガンジーの生地に、ラウンドカラーの襟、七分丈のパフスリーヴ、ウエストにギャザーが入ったスカート部分はバイアスカットが施されている。
アンジェリークのために、アリオスが選んだウェディングドレスは、どんなドレスよりも彼女に似合っていた。
伸び始めた栗色の髪を少し毛先を巻いてポニーテールをし、その周りを白い薔薇で飾っている。
「ホントに、今までで一番綺麗だよ!!」
彼女のブライズメイドであるレイチェルも、その余りにもの美しさに息を飲む。
「ありがと」
はにかむ彼女も、何時にも増して綺麗だ。
「アリオス先生、きっと喜ぶよ〜」
「もう、恥ずかしいじゃない」
----アンジェリークの父親がアリオスに出した条件は、たった一つだった。4月の中旬には海外に戻るから、それまでに彼女の花嫁姿を見たいと。
アリオスはその条件を満たすべく、奔走し、今日という日を迎えたのだ。
「さあ、アンジェリーク行くぞ。私の最後の仕事だからな」
「ええ、お父さん」
控え室に迎えに来た父親の腕を取って、二人で教会へと向かった。
パイプオルガンの高らかな演奏と共に、アンジェリークと父は、腕を組んでヴァージンロードを歩き出す。
その先には、グレーの燕尾服に身を包んだアリオスが、優しい眼差しを湛えて、彼女を待っている。
アリオスの横まで歩いてゆくと、父親から、アンジェリークがアリオスに渡される。
「頼んだ」
「はい」
短いやり取りの後、アンジェリークの腕に、アリオスの腕が絡まりあった。
「もう、離さねえからな」
「うん…、離さないで…」
二人は今、髪の前に進み出た。
永遠の愛を誓うために----
二人は、今まさに生きることを始めた。
まだまだ長い道程も、二人だったら乗り越えてゆける。
二人だったら、夢を育む場所を見つけられるのだ----
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コメント
「高校教師」の完結編でございます。
少し消化不良気味ですので、エピローグを書く予定でございます。
二人の、間のエピソードが読みたいな〜という、奇特な方がいらっしゃいましたら、BBSまでどうぞ。
作中の、アンジェのウエディングドレスは、オードリー・ヘプバーンが来たものをモチイフしています。
ここまで読んでくださった方、及び、リレーリクエストをしてくださいました、優様、ヒナ様、ゆら様、どうもありがとうございました。
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