「まま〜、あれ取って!」 「ちょっと待ってね!」 娘のエリスにせがまれて、アンジェリークは棚の上を眺めた。 そこには、エリスがお気に入りのおもちゃが置いてある。 余りにも切なそうな表情をするので、アンジェリークは椅子を持ってきて、上がって取ってやることにする。 先週、エリスが酷いいたずらをしたせいで、罰として父親のアリオスにおもちゃを上に置かれてしまったのだ。 それはお気に入りの可愛いお人形。 エリスの宝物といっても過言ではなかった。 「パパはいいって、言ってくれたの?」 「ママがいいって言ったらいいって」 先程、疲れているアリオスに強請りに行っていたのはこのことなのだろうと、合点がいく。 「判ったわ。パパはお仕事で疲れてるから、ママがやってあげるからね」 「うん!」 長身のアリオスなら届くものが、アンジェリークには届かない。 彼女は、可愛い娘の為に、椅子の上に乗って、高いところに置いてある人形を取ってやった。 「はい、エリス。あまりパパを困らせちゃ駄目よ?」 「うん!!」 娘に人形を渡してやり、アンジェリークは椅子から降りようとした、その時。 「きゃっ!」 不意に、バランスを崩してしまい、アンジェリークは、そのまま椅子ごと床に倒れ込んだ。 「ままっ!!」 大きな音が響き渡り、書斎のソファで寛いでいたアリオスも、驚いて部屋から飛び出した。 リビングからきこえるのは幼い娘の泣き声。 「まま〜!!!」 「おねえたん、どうしたの?」 双子の弟レヴィアスも、姉が泣くのを心配して近づいた。 「まま〜!!!」 瑠着の瞬間、レヴィアスもその大合唱に加わる。 ひとりでおとなしく、リビングで絵本を読んでいた息子までが、その合唱に加わるとは、ただ事ではないと、アリオスは急いでリビングに入った。 「まま〜!!」 幼子ふたりの大合唱の現場に着くと、アンジェリークが倒れたままぴくりとも動かないでいた。 椅子も横に転がっていたので、そこから落ちたのが判る。 彼もまた、その光景が余りにもショックで息を呑んだ。 「アンジェ!!!」 アリオスは、すぐに愛しい妻に駆け寄ると、躰を軽く抱き起こして、様子を見る。 「アンジェ? アンジェリーク」 何度もかすれ気味の甘い声で名前を呼んでも、彼女はまったく反応しない。 泣きながら覗き込んでいる幼子たちにも、不安な雰囲気が漂ってくる。 「アンジェ・・・」 子供たちがいなければ、もっと取り乱していたかもしれない。 アリオスはふたりの愛しい”愛の証”たちを見て、何とか辛い気分を踏みとどめると、まずは救急車を呼んだ。 到着までに目を覚まして欲しいと願いながらも、結局は適わなかった。 救急車はすぐに到着し、アンジェリークは担架に乗せられる。 アリオスは何とか、財布を掴んで、戸締まりだけはする。 子供たちがいなければ、ここまで冷静に行動できたかどうか、彼には自信がなかった。 意識を失ったアンジェリークと共に救急車に子供たち一緒に乗り込む。 救急隊員がすぐに処置を施してくれるが、不安でしょうがない。 処置の間も、家族全員でずっとアンジェリークの手を握り締めていた。 病院に入り、事情を説明すると、すぐに脳波の検査とMRIが撮られた。 医師の所見では、頭には全くの異常はなく、軽い脳震盪だということだった。 「脳波、MRIとも異常は見られませんでしたよ? 今晩、一晩、入院するだけで退院出来るでしょう」 「有り難うございます」 医師の言葉に安堵するものの、やはり心配だ。 いまだにベッドで眠っているアンジェリークを、アリオスと子供たちは切なげに見守る。 「あたちが、ままにお人形取ってなんて言わなければよかった・・・」 いつも元気な暴れん坊のエリスはしゅんとしている。 「大丈夫だよ、おねえたん。ままは大丈夫だよ。ねえ」 弟のレウ゛ィアスも姉のエリスを肩を撫でてやった。彼はアンジェリークに似て、細かいところによく気のつく性格だ。 「あんまり気にやむな? ママは許してくれるから」 「うん」 しょんぼりとしている姿は、アンジェリークが小さいときに本当によく似ており、可愛らしく、アリオスは思う。 「んんっ・・・」 アンジェリークの瞼がわずかに動き、アリオスの心の中に、僅かだが光が見える。 「アンジェ?」 名前を呼ぶと、アンジェリークの大きなアクアマリンの瞳がゆっくりと開かれた。 「-----アリオス叔父さん…、私…どうしたの?」 これにはアリオスは耳を疑い、彼は困惑の表情を浮かべる。 アリオス叔父さん------ アンジェリークがそう呼んでいたのは、結婚する前までのこと。 彼は心配そうにアンジェリークの瞳を覗き込んだ。 「どうしたの、叔父さん…」 真っ赤になりながら、アンジェリークはアリオスを恥ずかしそうに見ている。 「まま…」 不安そうにしていた、ふたりの子供が目を開けた母親を心配そうに覗き込んだ。 その愛らしい顔にアンジェリークは微笑んだものの、一瞬、表情を曇らせる。 「アリオス叔父さん…、叔父さんに子供がいたの…?」 大きな瞳には涙がうっすらと浮び上がり、切なそうに見ている。 「何言ってる? こいつらは俺たちの子供じゃねえか? 俺たちは結婚してるんだぞ? 昔みたいに”アリオス叔父さん”なんて呼ぶな。いつも俺のことは”アリオス”って呼んでくれてるだろう?」 「…私が、叔父さんのお嫁さん…? この子達の母親なんだ…」 アンジェリークは噛み締めるようにつぶやくと、少し頬を赤く染める。 いつも初々しい彼の妻であるが、本当に高校生の頃と同じ表情をした。 それは、アリオスが愛してやまなかった、あの小さなアンジェリークがそこにいる。 母親となった彼女も愛しくて堪らない。 だが、今目の前にいるアンジェリークは、母親としての顔はなく、むしろ、高校生の頃の彼女だった。 「ままっ!」 起き上がって微笑んでくれた母親に、ふたりの子供は安心したかのように抱きつき、二人を彼女は優しく抱きとめる 「ふふ、可愛い…」 甘く微笑んだ後、彼女は幼子ふたりを抱きしめた。 柔らかな感触を楽しんでいたようだが、不意に、寂しそうな表情をする。 「ふたりとも、ちょっと、ママ、疲れちゃったみたい…。いいかな?」 「うん!!」 愛しい子供たちは、すっかり母親がよくなったと思い、ニコニコと笑いながら母親の腕から降りる。 だが、アリオスは違っていた。 明らかに妻の異変を感じ取っていた。 アンジェ…。 おまえまさか記憶が抜け落ちているんじゃ…。 「ねえ、アリオス…、少し…、ふたりで話したいの…。子供たちを少しだけ、看護婦さんに見てもらっていていいかな?」 「ああ。判った」 アリオスも話さなければならないと思う。 ふたりだけで。 彼は直ぐにナースステーションに向かい、事情を話すと、看護婦の一人が子守を請け負ってくれることになった。 「なあ、ふたりとも、楽しい絵本がある見て枝から、ちょっと遊んで来ないか?」 「おやつもあるから、いってらっしゃい」 「うん!!!」 双子は母親が何もなかったと思っているのか、嬉しそうに頷く。 絵本作戦は見事に成功し、ふたりの子供を病室から出て遊びに行ってくれた。 その瞬間、アンジェリークの表情が苦しいものに曇る。 「…おまえ、今、いくつだと思ってる?」 「高校2年生…」 そんなことはないとは判っていながらも、アンジェリークは素直に自分が思っていることを呟く。 これにはアリオスは衝撃だった。 躰の全身に震えをきたすのを感じる。 辛いだとか、苦しいだとかという言葉では表せられない、衝撃があった。 よりによって、一番幸せな時期を忘れてしまうなんて…!!!! アンジェ…!!! 彼女と結婚して、これ異常ないほどの幸せな日々を過ごせていたと思っていた。 その思い出が消え去るのは、余りにも切ない。 「…実際は、おまえは俺のふたりの子供の母で、俺の妻だ…」 彼女はコクリと恥かしそうに頷いた。 「------それはすごく嬉しいの…! 私…叔父さんの奥さんなんだって、叔父さんの赤ちゃんを産んだんだって思うと、すごく嬉しい…」 アンジェリークはそこで言葉を切ると、本当に切なさと苦しさがせめぎあいになっているようなものに変わる。 「あの子達に名前、教えて?」 「・・・・でも、大好きで堪らないあなたのお嫁さんになったことや、子供のことも何もかも忘れているなんて…っ!!! そんなの・・・酷い…!!! イヤダッ!」 アンジェリークの声は魂の叫びだった。 それを訊き、本当に辛いのは彼女自身なので後、彼は悟る。 震える華奢な妻の躰をアリオスは包み込むように抱きしめる。 「俺が守ってやるから、アンジェ…。俺が思い出させてやるから・・・、必ず」 「うん、うん」 アリオスの腕に抱かれながら、アンジェリークは何度も泣きながら頷いた。 ようやく落ち着いて、アンジェリークはアリオスの腕の中で寂しそうに囁く。 「あの子達・・・、名前は何って言うの?」 「娘はエリス、息子はレヴィアスだ…。どっちもいい子だ」 「うん、抱きしめたら判ったわ・・・。 でもわが子の名前も忘れて、産んだ事も覚えていないなんて・・・」 アンジェリークはアリオスの腕の中に顔を埋めると、再び切なく泣き始めた。 アリオスはそれを慰めてやることしか出来ない。 「思い出すから、アンジェ・・・。きっと・・・」 「うん、うん・・・」 彼はアンジェリークが落ち着くまで、幼子のように何度も背中を撫で付けてやっていた------ |
コメント 150000番のキリ番を踏まれた、みやび様のリクエストで 「ラブ通」Vol9の表紙のシーンを交えながら、 「Where〜」シリーズの一家の登場です。 アンジェが記憶喪失で登場のべたな展開(笑) 集中UPしていきますので、宜しくお願いします〜。 |