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茶房ドラマを書く/作品紹介


小説

ケランチムと真家

西牟田希



 羽田空港から届いたスーツケースのロックを外すと弾けるように開いた。
 リビングの床の上にお店が開く。ソウルの市場やスーパーの食材。
 キムチの匂いがする。
 空港の手荷物液体持込規制のため、スーツケースに一切合財詰め込んだ。2月の寒波のため、税関を伏し目がちに通る食品群も安心だ。
 スーツケース宅配を午前中指定便にしておいてよかった。すぐに冷蔵庫にしまえる。
 キムチが破裂していないか気になっていた。市場で買った大玉の白菜キムチ。韓国で食べつけると、日本で買うキムチが食せなくなる。ソウルにいる夫に会いに行くたびに買ってきて冷凍している。重量制限が手間で、今度、ソウルで食材を仕入れ、キムチをつけてみようと思う。
 単身赴任している理(さとし)は会社の同僚たちと毎日キムチを食べているだろう。単身赴任が終わり、帰国してから理(さとし)に同じ味を出してやれるかもしれない。とかく要求の無い理(さとし)に、健康でおいしくめずらしい食事を用意することが真家(まか)のたのしみだった。何を作っても喜んでくれる―結婚当初はさすが4つ年上の理が気を遣っていると思ったが、結婚後6年そのままだった―ので、気をよくしてどんどん研究がすすむのだった。

 真家は10年勤めた大手通信会社を辞め、ちょっと「すきなことをして(みつけて)」ゆっくりした後、子供でも、といったときに理の単身赴任が決まった。広告システムを提供するコンサルタント会社でデザイナーとコーディネーターをしている。韓国の大手パソコンメーカーから受注し、半年のはずが1年半になる。真家の同期や同級生は、子育てや仕事に追われている。どちらにも追われていない真家はもてあます活力を韓国料理の研究にあてていた。凝り性と雑さをあわせもつ真家には韓国料理は楽しくて仕方がない。
 理に会いに行く口実でソウルを訪れて食べ歩く。食材の研究もしている。
 特に、定番のキムチを漬けることが難しいとわかった。さまざまな食材をあわせて漬けるし、ヤンニョム(漬けだれ)の按配も各家庭で違うらしい。ソウルで有名な食材市場「京(キョン)東市場(ドンシジャン)」でおいしいとされる店のキムチを買い、味を見て、ネットで調べてキムチの研究をしようと思い、スーツケースに仕込んできたのだった。
 漬けだれが漏れないよう、一番大きいジプロックでぐるぐる巻きになっている。白菜一玉の大きさの包みを立ててみる。どこからも液漏れしていなかった。食材の緩衝材にした下着や寝巻きを抜き取る。向こうで使った布バッグもいっしょに集め洗うことにする。洗濯機の水量を最小に設定していると、リビングのほうで破裂音がした。
 奥を見ると、スーツケースの中に屹立した白菜キムチが傾いでいる。ジプロックの口が開いている。発酵ガスだろう。早々に切り分けて冷凍してしまおう。キムチを取ろうとすると、袋が倒れてきた。

 のちゃり

 白菜一株ぶんのキムチが出てきた。赤黒いヤンニョム(漬けだれ)が流れ出す。
 「あー、やだやだ、大変大変」真家はキッチンペーパーと大皿をとりにキッチンに走った。
 いそいでリビングに入るところで左の足小指をぶつけた。声にならない声を発してうずくまった。リビングのフローリングにヤンニョムがたまりだしている。白い毛足のながいラグ―洗濯機で洗ってすぐふかふかになる昼寝の友―に染みかけないよう、キッチンペーパーのかたまりをサイドスローで投げた。白い紙が赤黒く染まっていく。

 のくり

 キムチ玉が、屹立した。
 根元を上にして縮れた葉先がだらりとさがっている。
 青菜の下から、細長い白いひかりが二つともった。玉がふるる、とふるえた。
 キムチ玉の両脇から細い木の小枝みたいなものがつきでている。でかいものの発酵ガスってこんなに勢いがある?
 虫?
 ひと?
 寄生虫?
 白菜にマンドラゴラ?
 税関て?

 ―すぅいません。
 ―あのー、ちょっといいですかぁ。
 頭の内側にだみ声が響いた。
 「え。」

 キムチ玉のわきに細い棒のようなものが掲げられている。
 ―聞ぃてますぅ。あっ聞いてないね。聞いてないのに『聞いてる』ってきいてるんでしょ。
 キムチ玉はよじれて揺れた。

 玉の上のほうで、ふたすじの白い線があらわれた。黒い点が真ん中にあった。目、のようだった。
 真家は旅行先の牧場で豚と目があったときを思い出した。
 ゴキジェット? 虫?
 新聞紙? 新聞紙より強そう。
 包丁? 
 捨てる? どうやって。
 警察? 何ていうの。
 近所の人? そんなこと頼まれてくれるのかしら。
 理。そうだ、理に電話。勤務中だけど、どうしよう。

 ―あのさぁ、見てわかんない? わかんない? わかんないね。教えてやろうか。
 ごきぶりとか、でかいクモのとき、どうしていたっけ。
 蓋だ! スーツケースの蓋を閉めて、スーツケースごと捨てる。
 どこに? 燃えないごみ?
 捨てるとなると、まだスーツケースから出していない包みが惜しまれた。
 あちこちで手が千切れそうになって買い集めた食材。おまけしてくれた市場のアジュンマ(おばさん)のまるい手。

 ―お湯とタオル。あたしだけヤンニョムまみれでさ。不公平だと思わない。そういうことできないひと?

 キムチ玉に視界の焦点をあわそうとすると、眠くなるように目がそれてしまう。
 腕が冷たく重くなった。まぶたがおちてしまう。真家は目をあけていようと腿をつねった。かすかな痛みで目があく。目の端が暗くなってきた。

 ―じゃ、いいよ、自分でやるから。

 何呼吸か眠っていたかもしれない。顔をあげると、フローリングに赤黒い点がつづいている。
 ぺちゃぺちゃという音が遠ざかる。
 水音がし始めた。
 真家は立ち上がろうとし、首のうしろにずきんという痛みが走ってソファに倒れた。

 真家が目をあけると視界がうす茶色に染まっていた。
 目の奥がずきずきする。はっきりと目が開かない。のどがひりつく。
 ガラステーブルの上に昨日開けて一杯飲んでコルク栓をした白ワインボトルがあった。コルクをはずして一口流し込んだ。

 ―何? 現実逃避?

 真家は声にならない息を出した。ボトルを胸にきつくあてた。
 タオルを長く引きずりながらキムチ玉が出てきた。真家は目をこらした。
 ぼんやりとしてくる目に意識を集中し、キムチ玉をにらむ。

 「…キ、キムチのくせに。」真家の腹のそこからふるえ声が出た。

 ―はあ? なにそれ。キムチがしゃべるわけないじゃん。
 ―しかもキムチって名前じゃないし。見たまんまを言ってるだけじゃん。
 ―昼間から酒のんでさあ。いかにもすることない専業主婦って感じ?
 ―だんなの金で韓国行ってさあ。

 韓国がハンクックと、聞える。ひとくちの白ワインがからだをめぐる音がする。
 「あんた、何? いつ、いつから私のスーツケースに入ったわけ?」声がひよひよとふるえて床に落ちた。
 キムチ玉はいそいで背後上空に何かをさがすふうにし、「シーーーッ」という音をだした。
 韓国の地下鉄の切符売り場でよく聞いた音だった。
 「キムチじゃないなら何なの? 早く韓国に帰りなよ。その前に出てってよ。」意識して腹に力をいれないと声がでない。
 キムチ玉は、横を向いて、シーーーッといった。ちいさいいびつな黒い歯が見えた。

 ―知りたい? 知りたい? じゃあ教えてやろうか。
 ―ケランチム。

 「へぇらんちむ?」

 ―ケランチム。キムチ、じゃない。
 白い目の切れ込みをひろげて目玉をむきだした。
 ケランチムが床を見て言う。
 ―あれ、ないの。
 「あれ? えっ…。生理?」
 シーーーーッ。
 ―生理になるわけないじゃん。
 ケランチムが揺れるとタオルが落ちた。
 二頭身の頭部からちぢれた毛がまばらに落ちている。
 赤黒い肌。
 細長い目に、小さいめがね(ソウルで今年の流行と店員が言っていたモデル)。
 だんご鼻に、横に広い口。
 ちいさいフリルのついたベージュのブラウスに、足首までのスカートをはいている。
 スカートの下に黒い靴下と大きい靴が見えた。斜めにかけたポシェットをゆすり、
 ―風呂あがりはあれだ。メクチュ(ビール)。
 「ああ、ビール。」真家は足にちからをこめて立ち上がった。
 床から浮いている気がする。冷蔵庫からビールを出す。ソファの前のガラステーブルに置く。
 真家はソファに腰をおろしてから驚いた。胃のあたりが動悸をうつ。もう何かいわれても動くまいと手足を固くする。
 ―いわれなきゃわかんない? わかんないね、
 ケランチムが鼻にしわをよせ、広い口をゆがめた。
 黒い粒の歯がみえる。
 ―何、見てんの? おかしい、このひと。おかしいよ。ねえ?
 ケランチムは空中にあいづちをもとめた。
 真家が必死であいづちをうった先を目で追うと、ケランチムがシロウッと言った。
 ―わかんないかなあ、わかんない? 教えてやろうか。言わなきゃわかんないひとだから。
 真家が見返すと、シィーーーッ、と何かを床にはきすてた。
 ――メクチュ(ビール)、大きい。
 「大きい?」
 ケランチムの小枝のような腕で350ミリのビール缶がひとかかえあった。
 人間にしたら、身長の半分のドラム缶というサイズ比になる。
 切子のぐい飲みを出し、注いでやる。
 少し考えて、生成りのランチョンマットをラグに敷き、その上にぐい飲みを置く。
 ケランチムは口はへの字のまま、ぐい飲みを抱えて舐め始めた。

 真家はソファにもどってから自分のからだを切り刻みたいと思った。
 ケランチムが動かなくなった。
 切り子の模様が透けている。
 いつの間に飲み終わったようだ。あごでビール缶をしゃくる。真家はビールを注いだ。
 ケランチムが動き出した。舐め始める。

 真家は音を立てないように白ワインのボトルを置いた。
 どうするか。どうする? 夢? 夢だったらこのままでいいの? 夢で殺されそうになっても「大丈夫、絶対に大丈夫、夢だから。」と語りかけ、ハッピーエンドに書き換える。その手筈と同じ、なんだろうか。

真 家は必死でどうするか考えをめぐらせた。
 真家の尊敬するかつての上司を思い出した。上司のコトの納め方を紙芝居に感心する子供のように見、同時に子供でしかない自分をつたなく憎らしく思ったことがつきあげた。

 さ、どうする。
 その前にどうしたい?
 どうもっていきたい?

 呼吸を意識する。
 意識がとぎれるとどんどん視界が暗くなる。
 自分が何に怒っていて、つまりはどうしたいか。
 怒り、つまり損。
 ビール158円。金額に損を感じない。
 カーペットのヤンニョム。洗えば落ちる。
 スーツケースのヤンニョム。面倒だが徹底的に洗えば落ちる。

 私の時間。食材をまとめたり、作る計画の楽しみ。
 ではこいつを無視して作業の続きをしたらいいのか? と考えると、的からずれている感じがする。

 こいつに都合の良いように使われた自分。
 ビールやぐいのみを優雅にさしだした自分の手つき。
 視界がしっかりしてくる。
 だみ声がした。
 ―思ったより酔った。
 赤黒い色が濃くなって、細い目が閉じかけている。
 半開きの唇から黒いとがった歯が見えた。
 ランチョンマットに投げ出したスカートのすそから、とぐろをまいた剛毛のすね毛がみえた。靴下にすいこまれている。
 
 「あの、韓国に、」真家は意識して声をしぼりだした。

 ぐぶぅ

 ぐぶぅ

 ケランチムの腹が大きく上下している。
 真家は立ち上がった。頭が重い。しゃがみこみたい。
 ベランダの戸を開けた。
 カーテンをふくらませて、午後の風が入ってくる。
 陽があたっていた床からあたたかさがかえってくる。
 しばらく風と陽にあたり、きつく目をつぶった。
 ふりかえると、赤黒いものが大の字になっていた。

 キッチンにいき、おぼつかない手でチコリ茶を入れる。
 苦味と甘みで腹腔がみたされていく。
 もうどうしようもないかに見えるヤンニョムの染みが目にはいった。
 買ってきた生ものを冷蔵庫にしまう。
 がたん、とか、ばたん、とかしないようにする自分を憎みながら。


 日が落ち暗くなるまで(ラグをごしごしやろうとも)ケランチムは起きなかった。
 冷蔵庫の野菜とソウルで買ってきたコチュジャン(辛味噌)でチゲ(辛い汁物)を作った。新大久保で買ったチゲ用の鉄鍋だ。冷凍しておいたご飯をあたためて汁の中へ。たらの干物をあえたパンチャン(定番の惣菜のひとつ)もそえる。

 ―ああ、もうそんな時間か。
 だみ声がした。ケランチムが鍋をみている。
 ―具はいらないんだよねえ。具は。オンマ(お母さん)が『あんたには具も汁もいらないじゃない』って言ってて。
 「へえ、お母さんが、」居るんだ。
 ―オンマ(お母さん)が『あんたコチュジャンしか食べないじゃない。』って。チング(友達)も『ケランチムはコチュジャンが好きだね。』って。あたし、チング(に言ってやった、『あんたもサムジャン(野菜につける甘い味噌)しか食べてない。』って。あたし見てたんだから、って言ってやった。

 ケランチムがちぢれた髪の下から黒目を据えている。

 「―だから、何?」
 ケランチムがうつむくと、髪がぞろぞろと従った。
 ―たまに汁が飲みたくなる。そういうときがある。
 ケランチムが遠くを見る。天井の梁のあたりを見ていた。
 ―おかしい? おかしいでしょう? ひととして。
 「……人、ではないんじゃないかな。」
 言いながら、しょうゆ小皿にコチュジャンを盛り、引き出しにあったハーゲンダッツのスプーンをそえて、ランチョンマットの上に置く。
 ケランチムをあごをかるくしゃくった。スプーンでコチュジャンをすくって舐め始めた。
 いただきます、とか無いのかよ、と思ったが、韓国でどう言うのかもわからなかった。ソウルで理(さとし)と会社の友人の韓国人たちと食事をしたときは「乾杯(コンベーイ)!」で始まっていた。
 のろのろとチゲをあたため直す。
 ご飯が汁を吸っていい味になっていたが、1さじで食べられなくなった。
理 ならうそのように喜ぶだろう。ソウルに会社が借りてくれたマンションのキッチン。
 一日1回メールをし、たまに電話をする。これまで帰国した次の日は電話して声をきいていた。理に言うには途方も無い気がする。「ごきぶりが出たので帰国して」という33歳の専業主婦になってしまう。
 それに、たいていのホラー映画では、いわくつきの家から外部の人間に助けをもとめた瞬間にもっとひどい事態を招くのだ。自分の年齢や、10年仕事をしてそれなりの評価を得たことはいまのところ助けてくれない。33歳にして、「どうすればよい」ということを考えることになるとは新入社員のころは考えもしなかった。
 ケランチムはしつこくコチュジャンの皿をなめている。スプーンは使わずにしょうゆ小皿を両手で持ってなめている。なめているのをずっと待っているのも嫌になり、ケランチムを視界に入れないように、スーツケースから出したおみやげの食品群を仕分けする。

 真家は大量のおみやげを仕分けする手をとめた。おみやげは食品に限ると思っている。もちろんキモチのものなんだけれど。
 これまでの経験から、飾り物やキーホルダーは行った人の思い出の一部で、もらったひとに関係ない。もらったひとが「こういうものがあるんだってよ。」とちょっとした食卓の話題になるといい、という品目にしている。何回も行っているので、重ならないように、ひとによって品物を換えたりする。
 「ありがたいと思え」抜きで、韓国に思い入れがあるのは自分だけで、相手が関心があるわけではない、と言い聞 かせつつも、流れ作業でしまわれると少しがっかりする。
 でも、韓国のおいしいものの食材紹介と思っている。
 頭の回転がすばやくやさしい人は、品物をどう思うか(味とか自分の好き嫌いより)より、そこをみつけて「真家さんは、韓国商店だね」と返ってくる。
 くすぐられたような嬉しさがある。
 同時にこの人を喜ばせるために何ができるだろう、と思ってしまう。
 ただ、喜ばれて自分が喜ぶのは、自分が「さみしい」からかもしれない。「人に喜ばれたかどうか」耳に手をあてて、必死であつめてゆがむ顔を見たことがある。ひとつなにかをあげて、何度も有難うと言わせたり、感想を何度も言わせたりするのだ。そして、聞いて満足するならともかく、つぎなる不満の怒りを灯している。なぜそうなるのか真剣に考えた時期があったが、すぐさま回答はみつからなかった。
 生ものを冷蔵庫にしまい、すぐ痛まない乾物や調味料、菓子類はあとまわしにする。

 食器を洗う。
 ケランチムがラグに座り、じっと見ていた。
 ―チング(友達)が『ケランチム、あんたは夜ソジュ(焼酎)をいつも飲む』って言ってて、
 「焼酎はありません。で?」真家は水を止め、手をふいてケランチムを見下ろした。「いつ帰るの? ここは私の家なんだけど。」
 ―『私の家』っていうかあ。あんたが稼いでるの?
 小枝のような指で真家を指さしている。
 「それはどうでもいい。歩いて出て行くでも成仏でもしてよ。」
 ―はあ? 成仏っていうかあ。韓国では仏教って言うより儒教とキリスト教なんだけど。そんなことも知らないの? はあ? それで?
 ケランチムを中心に視界が黒く狭くなってくる。
 ケランチムの目がとひらく。
 ―オンニー(お姉さん)が、『あんた、宗教には興味ない』って言ってて、
 「家族があんたのことどう言うかは私に関係ない。
 私の場所に、あんたが、いらないの。」
 ふきんをケランチムに叩きつける。
 自分から出たけもののような声。
 ふきんは平らにゆかにひろがっている。
 ケランチムは消えていた。


 「朝は、あれだ。」
 だみ声が夢のなかにはいってきた。
 真家はよりかかっていたソファからからだを起こした。白ワインのボトルが空いていた。
 テレビが朝を盛りたてている。蛍光灯もついたまま、カーテンを透いて陽光が明るい。
 電灯リモコンで蛍光灯を消した。エアコンと床暖房を消す。テレビリモコンで電源を落とそうとし、やめてデータ連動ボタンを押す。今日の最高気温と降水確率をたしかめた。週間天気予報で雨の曜日を覚える。スーツケースを洗って干さなくては。あと、旅行で使ったものを全部洗って干して。それと実家と友人におみやげと。理(さとし)にメールと、何か送るものと。
 晴れの日にがんばることはいっぱいだ。今週は今日と明日、二日しか晴れない。
 真家はソファからからだを離した。背中が重い。あくびの吐息からワインが揮発した。真家はソファに横になった。丸洗いしてふかふかのはずの白い毛足のラグに赤いしみが転々としている。ワインボトルを見ると、白ワインのラベルである。鼻と口、足元もさわってみるが、血が流れた感じはしない。
 「だぁからあ、」だみ声が這い登ってきた。「朝はさ、あれだっつってんだろ。」
 白いラグの上に赤黒いかたまりがあった。ひひくくとふるえている。
 「わかんない? わかんない? 教えてやろうか。教えてやろうか。」
 赤黒いかたまりからだみ声がする。
 ―なに、だれ、ゆめ?
 白い亀裂が走り、ちいさい目が真家を見た。
 「朝はさあ、っていうかさ、昨日からメクチュ(ビール)しか呑んでない。」
 部屋の中にごま油の香りが強くなった。広げたスーツケースのまわりからする。韓国でさまざまに買ってきた包みがやぶけてひろがっている。
 キンパ(海苔巻き)が入っていたアルミホイルがやぶかれ、飯粒が床に散乱していた。中の具だけ抜き取られているのがみえた。
 白菜キムチの断片がそこらじゅうにある。鳥のような足跡が点々と広がっている。ところどころ赤く染まった白いタオルが落ちていた。
 「昨日から、」塊はひかりのない黒瞳をむきだした。白目がいっそうひろがる。
 「ケランチム、メクチュ(ビール)しか、呑んでいない。」
 「―メク、チュ、」真家の腹のそこがくすくすふるえた。
 「はあ? 聞こえないんですけどう、」塊からほそい棒がもちあがった。『手』を『耳』にかざしているらしかった。
 「発音ちがうし。昨日この話したよね。ええ? 聞いてないんだ、聞けないんだよ、人の話。聞けない人。」塊はふるえた。『からだ』をふたつおりにしている。笑っているらしい。
 急に目をあけていられないほどの眠気が来た。胸のうちに危機感をしぼりだして目をひらこうとする。真家は羽田空港から終電で帰った後の記憶をたぐった。そのあとが思い出せない。シンクの食器かわき台に、鉄鍋と2,3の食器がたてかけてある。韓国に行く前は出していない。なにかおそろしいことをしてしまったようにもされたようにも思える。断片が思い出された。キムチからケランチムと名乗る「何か」が出現、あたりを汚され、視界が暗くなり、なにか思い出したくないことがある。とかく眠い。
 とにかく―
 「韓国ではあれだ。」だみ声で思考が中断される。
 「あれって?」閉じようとする目にさからって意味にしがみつく。
 足元からモーターの音がした。
 「朝は、あれだ。」
 うなる音がする。
 「あれだ。そんなこともわからないのか。」ケランチムは歯をむきだし、足を踏み鳴らした。
 踏み鳴らすとモーターの音が揺れた。
 「もしかして、おなかがすいたっていうこと。」
 ケランチムはしいっと下を向いた。
真 家はケランチムを見下ろした。ケランチムは動かない。真家は見下ろすのもなんだと思いソファに座った。
真家はソファ座ってケランチムを待った。頭頂部の地肌が透けている。肩口にソバージュ? が広がっているので上が薄いとは気づかなかった。
 真家は台所に行って湯をわかした。じっとしていないで、手や足をうごかすと、眠気がまぎれる。あと、意味も無くしゃべらなくては。
 「私はコーヒーと果物とヨーグルトにするけど。」
 「朝はあれだ。韓国では。」
 「韓国の朝食? キンパ(韓国海苔の海苔巻き)とかトストゥ(ホットサンド)とかのこと?」どちらも勤め人が出勤前に屋台でさっと食べている。地下鉄の駅の周りに湯気をたてている屋台が何件かあり、人気のところは人数が多い。または店舗ののりまき屋にさっと入り、銀紙につつんだのりまきの一本を100円くらいでさっと買っていく。
 キンパは私も好きだけど、巻いて切った後分解してきちゃうし、難しいんだよねぇ、とケランチムを見た。ケランチムは「いま誰かが私を呼んでいるので、聞いている場合じゃないんです」ということを表現した。トストゥもいまパンが無いなあ、とつづけると、「え? 私がいかなきゃいけない?」というふうにからだを横に向けた。
 「お構いもできませんで。」背をむけ湯を沸かしてコーヒードリップの用意をする。
 「わからない? わからない? 教えてやろうか。」背後から声がした。
 「おかしい、このひと。おかしいよ。オンマ(お母さん)なら、『ケランチム、そんなことでも教えてあげなくちゃいけないよ。かわいそうなひとなんだから。』って言うけどさあ。おかしいから。あんた。」しいっという音がした。


 「毎日毎日あれだ、ひまだ。」
 ケランチムはシロウッといった。「することが、ない。」真家の目をのぞきこむ。
 「じゃあさ、韓国に、」
 「すきなことでもやろうかなあ。」
 「はたらいて韓国に、」
 「すきなこと、刺繍、絵、あとビーズかあ。あと、映画も、いい。」指を折っている。
 「帰るお金を、」
 「はあ? きこえませーん。」ケランチムは手を耳にかざした。「何にもいえないひと? 言ったほうがいいよ。私は言う。いつも言う。言える人。」
 「だから、言った、言わないじゃなくて、」
 「ああああ、もうどうでもいいよ、その話。」ケランチムはリビングのガラステーブルにあったノートPCの電源をいれた。
 「ちょっと、ちょっと、それ使わないでくれる、ていうか使えるの?」
 「はあ? いまどきPCも使えないひと、いるのぅ?」
 「そうじゃなくて、」人間じゃないものも使えるんですカー、と言いたい。
 「ああ、ほんといらつく。人にものを言った経験がないからだ。言えないひと。ケランチムは言える。すきなことをできる。イニスフリー……」ケランチムは遠くをながめた。黒い細長い舌で唇を舐めた。
 真家は息をついだ。
 「そう、じゃなくて、それは、私の、パソコンなんですけどッ」真家から大声が出た。
 ケランチムは、信じられない、といったふうに目と両手をひらいてシュラッグした。
 「ちょっと、信じられない。減るもんじゃないのに、使うなとか言うなんて。おかしいよ。あんた。バチがあたるよ。ほら、あれだ、守護霊がいないんだ。」きたないものをみた、といったふうに手で払った。
 「だから、あんたにそんなことを言われる筋合いは、」
 「はあ? あんたって何? 失礼だろうッ。ケランチムに『あんた』なんていえるレベルの人間?」 
 「だから、」
 「オンマが言ってた、『ケランチム、あなたはビーズが上手ね、明洞(ソウルの原宿、ショッピングの街)で売ったら』って言われる。」
 「じゃあ、売ればいいじゃん。」
 「ケランチムはWebサイトを立ち上げ、すばやく検索した画面を見せた。ピンクと白のスワロフスキーを駆使した精巧なデザインの指輪だった。
 「こんなに難しくて手間のかかるものも、ケランチム作れる。」
 「作れるったって、作ったことあるの?」
 「あたしは5年前からビーズをやっている。ずっとやっている。ビーズのBBSのなかでは先生ってよばれている。あんたのせいで日本にきて、みんな心配している。『ケランチム先生、大丈夫?』とか。あんたのせいでケランチム、オンマにもあえない。」ケランチムは涙をながしながら床をけりつけた。でも、とケランチムはつづけた。
 「あんたはそういうクラス? の人間。この指輪はベトナム人の女の子がつくった。図面がみんなひけないから、目で見て作れるのはケランチムだけだ。ビーズもやってないの? あんた。」
 「ちょっとはやったことあるけど、」
 「ケランチム、5年前からやっている、あとから入ったくせにッ。あとから入ったくせにッ。」ケランチムは目をむきだし、口から泡をふいた。
 真家が黙って見下ろすと、ケランチムはいそいで横を向いた。真家はため息をついて、天袋から買ってほとんど使っていないビーズ一式の箱をだし、ケランチムの前に投げた。
 ケランチムは目をみひらいてとびのいた。
 真家は「ビーズでもなんでもさ、やりゃあいいじゃん。ネットで売って、その金で韓国に帰りな。私はお金ださないからね。食事も出しません。」腰に手をあてて宣言した。
 「お金、おっかねださないって何? 自分の金じゃないじゃん。専業主婦じゃん。寄生虫じゃん。ひまでさびしいから文句つけているだけじゃん。」
 「じゃあ、寄生虫の家にいるあんたって何?」ケランチムは海難事故の連絡が入ったとばかりにいそいで駆け出した。

 真家がビーズ一式を買ったとき、ビーズを始めたばかりの友人のつきそいついでだった。熱心な友人と店内を見て回るうちにあれこれ買ってしまった。店内のほかのお客さんが天然石やスワロフスキーの光るガラス壜を検分していた。スワロフスキーの詰まったガラス壜が並んでいる。一色ずつ横一列並んでいて淡いものから濃いものまでグラディエーションを描いている。作りたいもののイメージにあわせコーディネートして買う。石選びから製作は始まっているのだ。
 真家は初心者向けのビーズの作品例の写真集を片手に、それらしきビーズをかごに入れていった。十作品に充分な材料を買った。
 友人はいまや大作をつぎつぎと作り出している。ケースの端にイソギンチャクのようにしわんだものがあった。友人に習ったときの作りかけの指輪だった。

 真家は自分で言ってよい考えだと思った。ビーズでかせいでもらって自腹で韓国にかえってもらうのだ。
普段もビーズに集中すれば静かだろうし、真家のせいで日本にきたことになっているが、韓国に帰りたい様子であることがわかった。成仏というより、輸送手段の問題なんだろう。
 むしろ宅急便でおくったほうがいいのだろうか。犬や猫はよその土地にやっても帰って来るかもしれないが、ケランチムにもどってくる義理はない。真家のことをすきでもなんでもないのだから。

 ケランチムは箱をあけ、中を物色している。テグスと、ビーズを追い詰めるちいさなちりとりはケランチムの手に合った。ケランチムはテグスをにぎりしめ、ビーズをつつきだした。真家はケランチムの気をひきたてようときいろい声をだした。
 「あ、スワロフスキーとか、天然石とかいっぱいあるー。結構買ったんだな。ビーズが壜のなかに入っているのを見ると、つい集めたくなって。」
 「うへへうへへ、」
 「あの難しい指輪、つくれるなんてすごいじゃん。」
 「すごくない。すごいなんていっていない。」ケランチムは目を見ひらいて声をふるわせた。
 「だってさあ、」真家は自分の大根芝居に笑い出さないように口元にちからをいれた。「5年もつづけているんでしょう?」
 「5年もやってない。そんなこと言っていない。」ケランチムの手先がふるえた。テグスからでたらめな色や形のビーズがぬけおちた。赤い丸だま、、緑の丸だま、緑の棒、黒い石、紫のスワロフスキー。
ケ ランチムは突然箱にテグスをつっこんだ。
 「ピンクッ、」ケランチムは叫んだ。
 「ピンクッ、」宙に向かって目をむき出している。テグスの先端に淡い桜色のスワロフスキーがぶらぶら揺れている。
 「ピンクッ、」口許から黒いあわがでてきた。ケランチムは目をむいたまま真家を見た。
 「ピンクがお好きですかぁ?」ケランチムの口が横に裂けた。黒い小さな歯が並んだ。
 「いや、特に材料の、」
 「私は、きらいでえす、」テグスからピンクの玉を弾き飛ばした。玉はカーペットの毛足の中に消えた。

 液晶テレビが届いた。

 リビングの前のテレビがこわれ、修理代の見積もりをきいてから納得のいく値段までネットや店頭で探したものだ。40インチのダンボールは派手に大きかった。持ち上げるとたった10キロというだけあって軽い。
 狭い廊下をリビングまで運ぶ。梱包をほどくと、頑丈な発泡スチロールのかげからパネルが見えた。テレビ台から映らなくなった25インチのブラウン管と交代させるのだ。25インチのケーブル類をはずすと、こまかいほこりが舞った。
 咳き込む音がした。ひらきかけの梱包のかげにケランチムのちいさい目があった。
 配送業者が来たときは姿が見えなかった。午前中の日ざしにちいさくほこりが泳いでいる。ケランチムは顔をしかめた。
 25インチを抱きかかえ、持ち上げてみる。
 見た目と違い、重い。持ちづらい。パネル部分が四角く、後ろが半球状になっている。
 抱きかかえるようにしてもちあげると重心がぐらりと傾く。中身が妙なところにあるらしい。倒れそうになって一度置く。テレビ台に傷がついたような音がした。
 「うわー、これ、あぶないな。」
 「だからさ、」ケランチムが梱包のかげから出てきた。
 「だからさ、ちゃんとさ、腰を入れて持てばいいんだよ。」
 「そうじゃなくて、持つと、中身のせいかぐらってくるの。重心がちがうんじゃないかなあ。」
 「だからさ、私、チング(友達)に言ってやったんだ、『お前、腰が入ってない』って。『ほらほら、あぶないよ』って。いつもそう。いつでもそう。後ろから見てて、車に注意してやってる。」
 真家は息をととのえた。テレビ台から足元に(自分の足の上に直撃しないように)おろすことだけを考える。つかみどころのいまひとつ決まらないディスプレイに手をかけ、一気に持ち上げた。ケランチムが目を剥いて走り出てきた。
 「私にもできる。私にもできる。」口元から泡を吹いて叫んでいる。
 「どいて、」ケランチムがとびのいたところに半ば落とした。フローリングにいやな音がした。
 「何で前にでてくるの? あぶないって言ったでしょう?」
 ケランチムは突然誰かによばれたように、めくれた唇をとがらせ、背を向けた。
 新しいテレビをダンボールから引き出す。発泡スチロールをまとめて、テレビにかかっていた大きいビニールに入れる。上から割って小さくする。発泡スチロールがこすれてきしんだ音をたてた。
 「シィッ。」
 リビングのドアの陰から、ケランチムが舌打ちした。

 飛び散った発砲スチロールのかけらに掃除機をかける。ドアのかげから、ケランチムがでてきた。掃除機のヘッドの近くへ行き、何かをし始めた。
 そこ、と指差し、ここ、と指差している。
 「何、なにしてるの。」
 「ああ?」ケランチムは鼻にしわをよせた。「言われなきゃわかんない?」
 「どうでもいいけど、じゃまなんだけど。」
 ケランチムは目をむきだした。
 「ああそうですか、」といって掃除機のヘッドからとびのいた。
 「本当、すぅいません。本当、お邪魔ですよね。」猪首をせいいっぱいつきだしている。
 「本当、知ったようなこと言ってすぅいません。」
 「邪魔っていうか、もう、居なくなってくれてもいいんだけど。」
 ケランチムは「居なくなって」くらいで身をひるがえして物陰にかくれた。

 明け方、真家はのどがかわいて起きた。寝室からキッチンへ水をとりに行く。
 リビングにノートPCのパネルライトがついている。真家の使うボリュームはパスワードロックがかけてあるが、きもちのよいものではない。
 真家が声をかけようとすると、ケランチムのつぶやきが聞こえてきた。
 真家はやめさせようと思い、とどまった。もっと里心がつけば、いっそクロネコヤマトででも帰ってくれるかもしれない。
 インターネットの掲示板で会話し、それについてぶつぶつ言っている。
 「―だから言ってやったんだ、」
 「―なんだ、こいつ、自分の思い込みでしかしゃべれないのか、気味が悪い、」
 「―なんだ、こいつ、『井の中の蛙』ってこういうことだな、本当にはずかしいやつだ、」
 「そうか、こいつは子供の話ばかりしている。こいつが気になるってことはつまり、ケランチムが『母性愛』がある、ということか?」
 「―だから言ってやったんだ、」

 いっぺん直接おしえてやんなきゃな、というつぶやきがきこえた。


 インターホンが鳴った。メインエントランスモニタに誰も映っていない。
 鳴った。
 モニタは玄関ゲートを映している。
 鳴った。
 「はい。」
 「あ、開けて。」
 「どちらさまですか?」
 「あたし。」「おれ、なーんちゃって。」
 「はい?」
 「開けて。」
 「どちら様ですか? 何号室お尋ねですか?」
 「503、春日井。」
 「えーと、どちらさま? 春日井のお知り合いですか?」
 「もう、めんどくさーい。なんで説明しなくちゃならないの? 主婦ってこれだから。」
 黄色いものが横から差し込まれた。
 「ああ、勝手に入って。」だみ声が足下からのぼってくる。
 ケランチムがふとんたたきの黄色い棒でインターホンの開錠ボタンを押していた。
 「入ってって何? 誰?」
 「ああ、あれだ、」ケランチムは鼻にしわをよせ、手で払った。
 「あれって何。」玄関チャイムが鳴った。ケランチムが玄関に駆け出す。
 「おじゃましまーす。」
 「おじゃまかな、じゃまにならない、なーんちゃって。」
 玄関に3歳児ほどの3人が立っていた。
 一人がミニサイズのパンプスをぬいであがってきた。きついまとめ髪の根元に複雑な髪飾りがある。プロがメークする番組そのままの化粧が隙間なく施されていた。お歳暮でもらったものだから、湿気ていると思う、うちにあった煎餅、とETROの紙袋を渡された。
 となりから小さい手が差し込まれた。これ、と新聞紙の包みを渡された。
 「焼きいもで、焼きいもち、焼き餅、なーんちゃって、なーんちゃって。」
 頭部がとうもろこし状に長くのびている。ミニサイズのポロシャツをきた中年男の顔をしていた。
 「どうぞ、」と恥ずかしそうに、ざんばら髪をゴムでとめ、顔にあわないサイズの眼鏡をしたおとなしそうな小女がつつみをわたした。なにやらずっしり重い。
 「…すいません、お気遣いいただいて。」真家がもごもごと言うと、す、と一礼して小女があがった。

 「ほらほら、あがって、ほらほら、」ケランチムがリビングで手招きしている。
 リビングのガラステーブルに4人が座している。真家をみている。
 「お茶っていただけるのかしら?」髪飾りをゆすって化粧ばっちり小女が言った。
  真家がキッチンに入ると、「急かしちゃったみたーい」と声が追いかけてきた。
 「ぜんぜん気がきかないやつでー、メシルオンニー(メシル姉さん)、ほんと、すういません。」
 「えらいよね、ケランチム。こんな、こんなっていっちゃいけないか、」メシルは小さく舌を出した。「こんなところでさあ、」メシルは天井から突き出たコンクリートの梁にそって首をめぐらせた。「暮らせてるんだから。」
 ケランチムは目をほそめた。細長い舌で唇をなめる。
 「ほんと、きたないところで、すういません。」きたない、という声をキッチンの奥に投げてきた。
 「わたし、わたし、」小男が頭部を回転させた。あとの3人は顔を伏せた。
 ケランチムのだみ声と、メシルのかなきり声によると、ざんばらまとめ髪がサリ、小男がプンオッパンとよばれている。しきりと、あんた、おかしいよ、と交互にいわれている。
 「ねえ、ケランチム、何なのー、日本人てえ。ねええ。」
 真家は訂正したくなった。「日本人ですけど、日本人に限らず、人間、なんですけど、」
 メシルが大きい目をいっそう見開いた。
 「何なの! おかしい! このひと。こういうところにいる、」メシルは天井の梁にそって首をめぐらせた。「ひとってー、おかしいと思う。必ず何か、あったひと。」メシルは真家の目をのぞきこんだ。「何かあった人以外、こんなところ、」首をぐるり。
 「すむ人いない。」
 メシルは手をつきだした。
 「それ、もらってもいいのかしら、」メシルが、真家が手に持ったままのトレイにあるエスプレッソカップをあごで示した。真家がコーヒーを手渡すと、
 「あら、すいません、急かせちゃったみたいでえ。」と横目でみた。
 エスプレッソカップをみて、メシルはあら、お上品―すぐ飲んじゃうわ、と叫んだ。からだのサイズを考えてちいさいカップにいれたのに、と真家は思った。
 真家は白い菓子用レースペーパーをしいた菓子皿にミニタルトを数種飾り付けた。お取り寄せで昨日届いたもので、今日の午後の楽しみだった。真家の祖母から、母から、受け継がれたものが真家を急かせていた。家にきてくれたお客さんに、一番よいものを(大盛りで)出し、帰りにお土産を持たせる。真家はさらに「おいしい!」という驚きを届けたいと思っている。韓国から買い出しているくらいだ。韓国の人(妖精?)が一番おいしいと思い、かつ新鮮な驚きが得られるものにしては、タルトって普通すぎるかもしれない、内心悔しい思いをしながら、笑顔を押し上げた。
 「よろしかったらどうぞ。」
 サリが皿を受け取ろうとほそい手を伸ばした。皿をそっとのせると、細いうでがぶるぶるふるえている。いっしょに手をそえる感じでテーブルに置いた。
 エスプレッソカップを両手でつかみ、小男が顔をつけて飲んでいる。
 サリのカップが空だったので、真家はキッチンに立った。
 こんなところ、こんなところ、とメシルが繰り返す。真家は静かに言った。
 「ここは日本でもごく一般的な作りのマンションですよ。建ててから2年しか経ってないし。それでいて『こんなところ』ってどちらのお屋敷からいらしたんですか。」
 メシルは目をむきだした。
 「言ってない、そんなこと。言ってない。」
 「言ったじゃないですか。」
 「韓国の幽鬼(オウガ)って、言ったことを『言わない』なんて言わないよね。」メシルがケランチムに唇をつきだした。
 「そうそう。」ケランチムがうなづいた。
 目を真円にみひらいて成り行きをみていたサリも一緒にうなづいている。真家と目があうと、はずかしそうに乱杭歯をみせて顔を伏せた。
 小男のプンオッパンはテレビのリモコンに書かれたボタン名を読んでいる。「地上デジタル、地上でじたる、地上で痔たる、なーんちゃって。」
 「韓国を馬鹿にしている、馬鹿にしているよッ、」メシルの声が玄関のほうまでひびいた。
 「韓国と関係ないんじゃないですか。日本とも関係ないし。私の、」真家がメシルをのぞきこむ。メシルは顔をしかめてそむけた。
 「私の、家なんですけど、ということなんですけど。」
 メシルはいそいで横を向いた。「私日本の文化と韓国の文化の違いを言っていたのにー、無駄におわったみたい。」
 「そうですか、」真家は感心してみせた。「それはおっしゃるとおりでしょう。」
 「そうよ。」メシルは皮のトートバッグから、すばやくコンパクトを取り出しのぞきこんだ。
 「ねえ、マスカラがダマになっていない?」と真家の瞳を覗き込む。
 メシルが空中に向かって言った。
 「本当、おかしーい。BBSの、ビーズなんかのオフ会に集まる人間は、おかしいひと。さみしいひと。」
 ケランチムがコーヒーを、ず、とすすった。サリはうつむいて手先をいじっている。プンオッパンはテレビ台の下のDVDのタイトルを小声で読み上げている。
 サリが急に顔をあげた。「私、この間、急に左手の小指がかゆくなって・・・」
 「ねえ、サリ、本当におかしいと思わない。」
 「メシルオンニー(姉さん)、しょうがないですよ。」
 ケランチムがこいつ、とあごの先で真家を示した。「働いてないですから。」
 「働いてない?」メシルの目が真円になった。はっとして目尻を指先で押さえる。コンパクトをとりだし、目尻をパフでこまかく叩いた。
 「ちょっと、これにお水を入れて。」ちいさな霧吹きを渡される。
 キッチンに立つと「まさか、水道の水じゃないでしょうね?」

 振り返ると、メシルが大きい目をいっそうひらいて見ていた。
 「信じられない。日本でもめったにお目にかかれない『ロウアー』だわ。」
 真家は、ちいさな霧吹きを音をたててガラステーブルにおいた。
 「信じられない。ふつう『水』って言ったらミネラルウォーターでしょ。」メシルはガラステーブルの脇にあるティッシュケースから5枚ぬきとり、霧吹きを5度拭いてティッシュを床に捨てた。
 「信じられない。私さぁ、『水』って言ったら、『ミネラルウォーター』だと思った。」甘い声をだしてサリにもたれかかった。サリは目を細めてメシルをささえてやる。
 「それにさ、働いてない、だなんて。」メシルは真家に向かって叫んだ。「働いている人に謝りなよッ。」
 真家は立ったまま、メシルを見下ろして黙った。
 メシルは、エステにいかなければ、と急いで携帯電話で時間を確認し、席をたった。あとのふたりもついてゆく。


 キッチンで半額で買ったパウンドケーキを分厚く切り、ケーキ皿にひときれずつ載せる。コーヒーメーカーからコーヒーを淹れる。ケランチムのビーズ作品群が高値で売れたらしい。インターネット銀行と、郵送のやりとりで売買できてしまう。ビーズをもらうひとは、こういう存在がつくったものを「きれーい」と感じられるのだろうか。ともあれ、現金になったことは確かなので、お祝いをかねてお茶にする。このまま気をよくしてお別れ会になってほしい。生活力がついてネットワークがつけば自分で出て行くだろう。むしろ成仏かなんかしてほしい。
 エスプレッソ用のカップに濃いコーヒーを注ぐ。ガラステーブルの前に鎮座したケランチムの前にカップとケーキを置く。キッチンに戻り自分用のマグカップにコーヒーを注ぐ。
 「売ってやった」とはしゃいでいたのに、おとなしく座っている。真家は意味も無いことをはなしかけた。
 「この輸入食品のあるスーパーがさあ、神奈川県は全部閉店するんだって。」
 「私は食べる。」
 「どうぞ、食べてて。」サーバーからこぼれたコーヒーを拭く。
 「珍しいものが50円とか100円とかでお値打ちコーナーに出るし。野菜も新鮮で腐らないし。『パツパツ』っていうの? 他で買ったら高いし、古く感じちゃうよ。」
 「私は食べる。」
 「魚も安いし。値下げシールを景気良く貼るんだよね。それが楽しみでさ。」
 「私は食べる。」
 「それにさ、牛乳105円で買っていたのが、いまさら他のスーパーで215円なんかで買えないよ、もう。」
 「私は食べる。」
 「ダンナが帰ってきたらさ、単身赴任の今よりは支出が減るけど。食費を抑えてたのに、これじゃあ、やり直しだよ。」
 「私は食べる。」
 「…ああ、どうぞ?」
 「私は、食べる。」
 「どうぞ、」
 「私は、食べる。」
 「え?」
 ケランチムは、右手にフォークを構え、左手にエスプレッソ・カップを握っている。
 真家は、マグカップと自分用のケーキを持ってきて座る。
 ケーキを大きく切って口に入れる。
 「私は、食べる。」
 「だから、どうぞって。食べていいんだよ。」
 「私は、食べる、ひとだから。」
 「ひと?」
 「私は、食べる、ひとだから。」
 「ケーキを食べていいし、食べたくなければそのままにしていいし。もっと食べたければまだあるよ。」
 「私は、『食べるひと』、なんでー。」
 「…そうなんだ。」
 ケランチムは大きくうなづいた。にぎったカップからコーヒーがしたたる。
 「私は、食べる。メシルが、『ケランチム、あなた、それだけしか食べないの?』って言ってー。」
 「またメシル…。」
 「メシルが『もっと食べなよ』って言ってくれてー。『ケランチム、これじゃ痩せちゃうよ。これ以上きれいになってどうするの?』って言ってくれてー。」
 「ひときれじゃ足りないって言いたいわけね。」
 「メシルが、『あの日本人の出す菓子は食べれたもんじゃない』って言ってた。」
 「じゃあ、二度と来なきゃいいじゃん。」
 「メシルは、いつも残さない。いつも来る。必ず来る。」
 「じゃあ、食べなきゃいいじゃん。来なきゃいいじゃん。全然来なくていいんだけど。」
 「メシル、『ケランチムが心配だから、来るようにしていたんだけど、あの日本人の家の食べものは食べられたもんじゃない』って言っててー。」
 「それ、味とか量以前の問題って気づかない?」
 「あの日本人の菓子は嫌いでー。『菓子』っていうものは、『ひとをなごませる』ものだ。」
 「何が食べたいのか分からないし。私がコンセプトを持って作ったわけでもないし。」
 「ただ、『甘いだけ』っていうのは嫌いでー。ただ『甘いだけ』っていうなら、誰にでもできるし、ずるい、と思っている。一般大衆を刺激するから。ひとに強烈な刺激をもたらす。それは一般大衆も悪いんだよね。一般大衆が、『甘いだけ』を求めるからなんだ。まったく、愚民どもが。」ケランチムはシィッと音をたてた。
 「じゃあ、甘いだけじゃないものを出してよ、作ってよ、ネットで買いなよ。そこまで言うなら。」
 ケランチムは鼻を鳴らした。
 「心外もいいとこなんだけど。」ケランチムをにらみつけると、ケランチムはシィッといって横を向いた。
 「結局、味が不満なの? 量が不満なの? 私が不満なの? 日本が不満なの? 人間が不満なわけ? 何が言いたいのかわからないよ。はっきり言いなよ。どれでもいいけど、それでも居座っているのはあんたなんだからね。メシルも文句言いながら今後あがりこむなって言っとけ。」
 ケランチムは中空を見据え、「私はいまなにもきいていません」ということを表現した。
 「じゃ、そんなにお口に合わないケーキはさげさせていただきまーす。」
 手を伸ばすと、ケランチムの赤黒い指が皿を押さえた。
 「ああ、分かった。あんたは、味について批評されたことがないからだ。」ケランチムは首を振る。「知らないんだ、そういうの。経験ないんだよ。」
 「全然関係ないでしょう? 批評以前の問題でしょう? そんなに嫌なら出て行けばいいっていう話。」
 「知らないんだ、そうなんだ、じゃ、しょうがないよ。」
 ケランチムはケーキを一飲みで消した。
 真家は冷めた自分のコーヒーを捨て、サーバとカップを洗い始める。
 「ねぇ。正直に言って。」ケランチムの声がついてきた。
 「…は?」
 「フォークは左手で持つべきだった、そうだよね?」



 マンションを逃げるように出る。となりの駅まで続く遊歩道がある。ところどころシーソーやベンチがある。やや日陰の遊具で子供を遊ばせている髪の毛の細った男性がいた。
 向かいから歩いてくる人が目を開いて足を止めた。
 真家が驚いて見返すと、真家の顔をしきりにのぞきこみながらすれ違う。さり気なく振返ると何度も真家を振りかえっている。歩き出すと次に会う人も同じ動きをした。真家はぞっとした。自分が怪異になってしまったのだろうか。あんな生活をつづけて、いつか出て行くだろうという「待ち」に期待したばかりに。
 しだいに真家は向かう人向かう人が同じ表情ができることにむしろ感心した。同じことを繰返すうち真家は犬連れのひとの注意をそらすことに成功した。犬を真っ先に見て、「かわいいわねえ、でも家飼えなくて・・・」という笑みと伏し目を同時にみせる。飼い主はリードをひっぱったりする。
 真家の容姿が不気味でも華麗でも半透明でもないのにぎょっとされる。いつのまにかこうなっていた。いまに始まったことではないような気がしてきた。
 専業主婦になってから強く感じる。仕事をしているときは気にならなかった。前回、理に会いにいったとき聞いたことがあった。(その帰りにすばらしきおみやげがあろうとは!)韓国の薄い布団のなかでお互いの近況を話した。真家の即興の作り話(自分探しの旅に出た綿棒の話、あのアナウンサーはCGだ、)に興じて、笑い疲れてまどろみかかったころ真家は聞いてみた。どうでもいいことかもしれないが、と真家はことわった。私に何かひとがぎょっとするようなことはあるかと尋ねると、ながく一緒にいるので初対面の印象はわからない、ただきれいだからだと思う、と言った。真家は、きれいでは無いし、なにかしら「異様な兆候」があるのではないか、気になると続けると、理は考えすぎではないか、と笑いかけた。真家の目がわずかにすぼまるのをみて―ながく怒られる前兆―何か変だと思ったら必ず言う、と口を結んだ。韓国に半年の出張のはずがもうすぐ二年になる、さびしくさせてごめんね、と言い終える前に夫のえくぼに指先をねじりこんだ。夫が痛いイタイとほほを押さえる。
 もとからもっていたものが、異常な生活をつづけるうちにもっとおかしくなってしまったのかもしれない。
 このままではまずい、と真家は思った。

 Googleでためしに「韓国 お払い 新大久保」で検索する。新大久保に有名なムーダン(霊能者)が来日しているらしい。しばらく日本で開業しているそうだ。そこへ行った人の体験談がいくつかあったが、要領を得ない。自分の気分の変動が記されるのみで、専門的(?)であるかどうかがよくわからない。ただ、値段も一万円と手ごろだし、ソウルで雲をつかむようにお祓いのできるひとをもとめてさすらうよりは、ひとつの手がかりになるかもしれない。


 新大久保に着く。
 韓国料理屋の赤や緑や茶の看板が連なっている。夕飯にはまだ早いのに、結構お客さんが入っている。焼き物や汁物の匂い、お客さんの熱気がもれてくる。

 新大久保駅からガム工場のほうへ向かう。
 ムーダンの店は、飲食店の合間の半地下にあった。
 韓国食材の店と見まごうそっけない看板の戸をあけると、中は広い座敷になっている。
 あらゆる明るい色のふさふさした飾りで埋められている。
 祭壇らしき台に、果物が上辺を切って積み上げられている。
 造花や生花やお札のようなものがある。
 いやらしくないぎりぎりまで色という色があふれている。

 「アニョハセヨー。」響く声がして、二十代とも五十代とも思える女性が出てきた。
 座敷に上がって座るように示される。靴を脱いで座卓の前に座る。女性はお盆におおぶりの茶器を載せ、戻ってきた。一人しかいないようだし、この人がムーダンらしかった。
 すすめられるままに口をつける。
 「甘ッ。」といいそうになりあわてて口を閉じる。

 松の実や何かの果物をきざんだような歯ごたえのあるものが表面いっぱいに浮いている。ソウルの喫茶店で伝統茶を飲んだが、それに比べ、味が濃くて具沢山だ。ぼりぼりやっていると、ムーダンが座卓の前についた。
 「今日は、何か。」
 ネットによると、韓国人の女性で、韓国から縁あって日本で開業しているらしい。日本語は不十分だが通じるとのこと。言いよどんでいると、生年月日と名前を聞かれた。金飾のちいさな器からさいころのようなものを取り出して転がし、手首の数珠を繰りながら揺れ始めた。
 「結婚している?」
 「あ、はい。」
 目をつぶってムーダンは続ける。
 「だんなさん、弱い。世の中。それが世の中。」理(さとし)のことで困っているわけではなく、弱い?
 ケランチムのことを話す。ソウルから帰ってきたらキムチからケランチムと名乗る物体がでてきたこと。コチュジャンやビールを飲み、いちいちあげ足下げ足をとってきてしゃくにさわること。どうも居座っている気配なこと。
 出て行けと言ったのに出て行かないこと。さらに仲間を呼んであがりこんだりすること。
 なぜか自分が世話してしまったのが憎らしいこと。

 ムーダンは揺れながらうなづいている。
 あるいは日本語の意味が通じなかったのかもしれない。もっと韓国語を勉強していればよかった。

 ムーダンは揺れながら言った。
 「世の中にあるもの。それは悪いもの。それを無くそうと思っても無くならない。」
 戦っても、といって、ムーダンは首を振った。
 「それは、人間じゃない。」
  真家の体の右半分がしびれた。
 「でも、何で、私とかかわりがあるのかがわからないんです。」
 ムーダンは
 「それは、自分。自分とかかわりの無いものはない。世の中。決まっている。」
 「自分? 私は、人にあんなことを、しないと思います。」しない、といった途端、本当だろうか? と思った。
 ムーダンは首を振った。
 日本語が伝わらないのか、私に伝わらないのか、伝わっていない感じを確認しているようだった。

 「どうしたらいいかわからない。自分の、生活にしたい。あれを捨てたいんです。」
 「そうすればいい。占いで訊くことじゃない。」
 ムーダンは揺れるのを止めた。

 ムーダンは真家の様子を見やって、祭壇の横にあった小引き出しから何かを出した。
 小さい麻の巾着と、黄色い札と赤い札が1枚ずつ。
 黄色い札を麻袋にはると、閉じ込めることができ、赤い札を貼って捨てると縁が切れるらしい。

 ムーダンはどこで買ったキムチか聞くと、銅製の器具を使って方角を調べた。
 ソウルの鐘閣駅を北にいった、タルトンネと呼ばれる路地に捨てると良い、と言った。

 一万円をお布施箱に入れ、お礼を述べると、
 「きれいなもの、花、鳥、魚、いい人、みてきて。どこにでもいい人、いる。」
 ムーダンは微笑をひろげた。


 何かが進んだような、進まないような消化不良のまま、新大久保の韓国街を歩く。
 ネットで見かけた韓国食材のスーパーをのぞく。コチュジャンが安い。でも安いからって、あいつに食べさせるために買って重い思いをして持って帰るのだろうか。店を見ながらムーダンの言葉がまわる。
占いで訊くことじゃない。
 ふと、在職中、「どうしていいかわからない」とつきあっていた理に訴えている自分の様子を思い出した。言われたことしかできない、という意味ではなく、今で言う「無理」になってきたとき、すくんでしまった。それでも、さんざん理に励まされ、気持ちがたちあがった後は解決してきたし、努力は惜しまず成果になった。
 感受性が強いといわれればそのままだが、プロジェクト管理には向かない気質だった。
 個人のがんばりと周囲の助けで乗り切ってきたが、自分で自分がいやになり、「すきなことをする」「ゆっくりする」というマジックワードで自分をごまかし10年勤めた会社を退職したのだった。当時を思い出すと、自分に怒りがこみあげてきた。何で自分で考えて考えて考える前にたれ流してしまったのだろう。垂れ流しても相手をないがしろにするだけで解決しないのに。今回の件を理に言わなかったのは、きっと「もうタレ流して理をゴミ箱にしてはいけない」と口を閉じたからだと思う。
 理が日本に帰ってきて、二人の生活が始まったら、自分がどうしたこうしたということは一層口を閉じよう、と思った。理が興味があるような、楽しいことだけを提供すればいい。


 コチュジャンを買う(買わされる)べきか、迷ったまま店をめぐる。即、ソウルにとんでいきたいが、今日食べることをしなくてはならない。どんなに相手が憎らしく思っても今日の食事を食卓に出す母や妻や娘は本当に修行者だと思う。

 食材の店は数件あり、お店によって結構値段が違う。韓国のスーパーや市場で買った値段を思い出すと悔しい。日本に住む韓国の人はどうやって暮らしているのだろう。
 すこしは許せる値段の店があった。あと2件職安通りの韓国スーパーを見てから買うことにする。職安通りに出ると、韓国料理屋、韓流スターグッズ店でにぎわう。韓国で買ったほうが安く、韓国で買ってこようか、と思った瞬間、あれのために鐘路に行くことを思い出した。人にぶつかりそうになる。

 人が並んでいる列の先には、ホットック(黒蜜をはさんだ薄いパンケーキ)の屋台があった。200円とあり、韓国の4倍だが、ひとつがぶあつくて、良い匂いがする。
 列の最後につく。買った後、列をはずれて、店員と笑顔で韓国語を話す女性がいる。
 自分の番がきて、指を1本たて、「はちみつ。」という。
 はちみつ、あんこ、チーズと書いてあり、はちみつというのが現地で定番の黒蜜のことと思われた。
 お兄さんが二個袋につめはじめた。
 「ハナ、チュセヨ(一個ください)」と声を張ってみるが、手を止めない。
 左腕がバン、とたたかれた。
 「こっちが先だよ。」
 気の張った服を着ているが、目と首筋がしわついているオールバックの男だった。
 横目で真家を睨んでいる。男の後ろにプロっぽい女の人が二人いた。
 その三人が居なくなると、店員さんがはっきりと声を張ってきた。
 「すみません、こっちから、へんな受け方しちゃって。」
 右並びだったのに、左から横入りしてきたようだった。
 男の顔を思い浮かべた。店員のひとことが胸にひろがった。こういうときに気のきいた韓国語を言えるようにしよう、と思いつつ、大丈理よ、ありがとうの笑顔をこめてうけとる。
 ホットックはぶあつく、かりっと油がしみてて、黒蜜がでてきた。
 かじりながら歩くと、ビルとビルの隙間でさきほどの一行がホットックをかじっていた。
 男は白目をむきだしたように見えたが、ホットックのあまい熱気が消した。


 マンションのドアを開ける。
 外廊下の電灯がさあっと部屋の中に入っていく。
 玄関の電気をつける。
 リビングは暗く何も見えない。
 リビングの電気をつけると、何もいなかった。
 ダイニングの電気をつけ、買ってきた食材をしまう。やかんに火をかけ、コーン茶のしたくをする。
 「コチュジャン、もらってないんですけどー」リビングにケランチム座っていた
 「もらってないんだけど。言わなきゃわかんない?」
 「もらってないじゃなくて、」
 ケランチムは身をひるがえした。どこかにかくれた。隠れたほうにむかって真家は声をはりあげた。バッグの上から ムーダンにもらった一式をたしかめる。
 「『ください』なんじゃないの? 敬語も使えないなんて、本当に韓国からきたわけ? 『コチュジャン、チュセヨ』だよ。」
 ケランチムは雑誌たてによりかかり、鼻にしわをよせていた。
 「勘弁してよ。こっちは腹減ってるんだからさ。こんな夜遅くまでさ。」
 ケランチムは小枝の腕で真家を払うような仕草をしている。
 バッグから麻の巾着と黄色い札を音がしないよう取り出す。
 麻の口紐に黄色い札をはさみ、投げつけた。
 ケランチムの目が真円までひらき、黒い歯をむき出しながら消える。

 巾着がやや膨らんでいる。
 菜箸でつつくと、ジェルのような感触が押し返してきた。
 菜箸で紐をつりあげ、ビジネス用キャリーケースに入れ、南京錠をかけた。何度も深い息をくりかえす。PCをたちあげ検索する。今日の最終便、あと3時間で羽田空港発の便がとれた。旅行で一度泊まったことのある理のマンションにほど近い民宿を一泊予約する。
 現金さえあればどうにかなる、との思いで、下着とパスポートと貴重品だけ持って出た。

 ソウルの民宿にチェックインした後、部屋のソファに座る。
 理のマンションにあれを持ち込みたくないので、今回来ることは理に告げていない。
 さっと捨ててさっと帰りたい。部屋の外廊下にだしていたいくらいだ。
 あと数時間で夜が明ける。
 キャリーケースを見ていたが、中から何か出てくる気配は無い。出たら出たでこの民宿において出てしまえばいい。
 窓の外が薄明るくなってきた。

 ホテルを出てオフィス街を奥へ奥へ入っていく。
 息が白い。
 24時間営業の食堂で、アルミホイルに包んだキンパ(のりまき)だけ買っていくひとがいる。一日のはじまりの食事。パンではないことがすばらしい。
 ムーダンに言われたソウル中心部の地下鉄駅で降りる。駅を過ぎてしばらく歩くと、次第に坂道になり、道が細くなる。飲食店のネオンワイヤーの五色が白ちゃけている。
 さかんに湯気を噴いている店先もある。朝食用のクッパを出すところかもしれない。
 蒸れた獣肉の匂い。野菜のはじける香りがする。
 アスファルトをひきずるキャスターからの振動で右手の先が痒くなってきた。
 上り坂がさらに細くなってきた。
 小さな商店や、どこからどこまでが一軒か分からない家並みが続く。
 灰色のトタンを適当につなぎ合わせ、漆喰で塗ってドアをはめ込んだような家々。
 この花冷えをどうしているのだろう。


 枯れ草のある空き地が見えてきた。
 電柱の根元に黒や半透明のビニール袋がかたまっている。
 ごみ収集所らしかった。袋からあふれたゴミが散乱している。
 白いものが散らばっている。近づくと、オデンの汁を入れるカップだった。
 夕方にオデンの屋台が出るのだろうか。寒いせいか臭いがない。
 キャリーケースから巾着を出す。
 巾着の口を、落ちていた竹串でひらく。
 あれが灰色でぐんにゃりとしている。
 小さくなっているようだ。
 そのまま、神奈川県指定の半透明のごみ袋にあける。

 のちゃり

 あれはびくりとも動かない。
 ゴミ袋の口をしばり、赤いお札をセロテープで貼る。
 ビニールに、ちぢれ毛と、めくれあがった唇がうつった。
 オレンジに染まり始めた坂道を下る。


 民宿に戻る。
 荷物を適当にパッキングし、チェックアウトする。
 夜の飛行機まで時間がある。
 理のマンションに向かった。その日は出勤していることをさりげなくメールで確認していた。地下鉄を乗り換えて、理の借りている高層マンションに着く。
 長いはしご車が窓にとりついている。
 火事かと思うと、はしごの先に箪笥のようなものをぶらさげている。
 窓から人が箪笥を押さえ、中に入れた。
 引越しをはしご車でやっているらしかった。
 はしご車のボディに中途半端なキャラクターの広告があった。
 エレベーターで22階まで上がり、理の部屋につく。
 ドアの横に、出前の盆が出ている。皿数が多いが、箸が一膳だった。
 鍵をそっと開け、中に入る。
 もし理が居たら、「来ちゃった。」と、とりつくろうための笑顔を消す。
 そっとフローリングの床を歩く。いつもどおり床やいすに物がない。
 歯ブラシが2本ある。

 日本語が書いてあり、真家が自分で置いていったものだった。
 昼間の明るい陽射しのなかで足音をしのばせて物色する自分がみじめに思えた。
 椅子に腰を下ろす。理に居てほしかった。
 居なくて良かった。
 一緒に暮らしていたときの自分だったらこうしていたかもしれない。
キムチから得体の知れないものが出て、新大久保のムーダンにしたがって捨てるためだけにソウルに来た、そして、頭の中でぐるぐる回るそいつの言葉を連ね、
 何もかもいやだ、
 自分がいやだ、
 どうしていいかわからない、
 と訴え続けるのだ。
 そして、その一連のお金も理が働いたものであり、理には理の一日の出来事があったという事実が抜けているのだ。
 ベッドに横になったりして、ぐずぐずしている間に帰ってくればいい、と意地汚く思っていた。
 いそいでマンションを出ようとするとサイドテーブルの上の袋をひっかけた。
 中身が落ちる。
 本が2冊とラッピングされた小さい箱だった。
 本は、先日理にメールで話した、テレビで特集していた韓国の小説だった。
 今度本屋で捜そうと思う、と書いた本を買っておいてくれたらしい。

 一緒に暮らしていたとき、けんかしたり、真家が煮詰まると、真家が自然にみつける場所に小さいプレゼントが用意されていた。コートを取ろうとしたときや、かばんの底に、ひそかに待っていてくれる贈り物。木で作った小鳥のちいさな家の置物や、きれいな帆布のブックカバー。真鍮の万華鏡。
 真家は包みの位置をもどし、跡がのこっていないか確かめてマンションを出た。

 帰りの大韓航空は、平日の午後便にもかかわらず満席だった。真家はふたりがけの通路側だった。窓側に細くて色の白い女性が座っていた。目礼して座る。
 機内食の辛いいかのいためものに彼女がむせたのをきっかけに微笑をかわした。
 「韓国は初めてですか?」低く思春期の女の子にしか出せないいような微妙な声だった。
 「いえ、よくきます、ほとんど食品の買い出しに。」真家はにかっとわらってみせた。何度もきかれ、何度も応える台詞である。
 「それは、作ってもらえる人がうれしいですね。」切れ長の瞳のはしが青白く底光りしている。
 真家のぽつりとしたことばにぽつりとした声がかえって来る。意味が真家を満たしてくれた。おなかがあたたかくなった。羽田についたらあれを食べよう、これを食べよう、と考えていた気持ちがとけていった。
 到着準備のためのシートベルトサインがなった。
 きっと、ここでふつうのひとはメールアドレスをきいて、自分のことをつまびらかにするだろう。
 もしそうしたら、彼女は、さみしいひとのように相手にくい込むことなく、ほしいことばを言ってくれるだろう。相手のことばやできごとの表面にひっかけて、自分の話を開陳することもないだろう。
 飛行機が是非JALに見習って欲しい優雅さで着陸した。シートベルトサインがはずれ、期の早い人が立ち上がって荷物を下ろし始めた。
 彼女はうつむいてじっとしていた。
 自分の荷物を相手に持たせないがゆえに相手の荷物を持ってこられるひと特有のにこごりが感じられた。
 「じゃあまた、韓国で。」真家は声が出ない分、冗談ですよ、と目で笑いかけた。
 彼女は少し目を上げ、少し笑って会釈した。
 「また。」
 列が動き出した。真家は「帰りにお茶でも」と言いかけた。もっと話したい。そうそうそれ、私の言いたいことはそれ。きいてほしい、と思った瞬間、きかせてはいけないことだと思った。自分が破裂しても相手に押し入ってはいけない。破裂ったって、どうだ、今、何も起きてはいない。そんな気がするだけだ。はらのなかで、わたしのからだのなかだけで、いくらでも爆発するがいい。外へなんか、煙ひとつ出してやらない。ましてや他の人を害させるものか。
 彼女はうつむいてじっとしていた。
 ひとがまばらになってきた。
 彼女は頭上のハッチをあけ、ちいさなキャリーケースを出した。す、と頭を下げ、ほとんどひとのいない通路を歩いて行く。今立つと、税関やなんかでいっしょになり、彼女に「ほら見たことが、」と思わせてしまう、と思い、降りる客がひとりふたりになるまで待った。真家がスーツケースのターンテーブルを待っている間に率なく空港を出てくれるだろう。最後のひとりのうしろにつづくように席を立つ。大韓航空の「はやくしろ」といういらだちが1グラムも感じられない健康的な笑顔で送り出された。

 真家がマンションに着いたのはまだ明るかった。
 真家は各部屋をしらべた。服をすべて脱ぎ捨て、洗濯機に入れる。シャワーを浴び、髪を何度も洗った。着替えた真家は掃除機を丁寧にかけはじめた。うつむいてごしごしやると横髪がおちてくる。真家はジュエリーボックスからピンをだした。
 ピンの横に、ピンクのスワロフスキーを駆使して編み上げた精巧な指輪があった。ちいさな指輪ケースに鎮座している。真家は指輪を床に落とし、掃除機で吸った。