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山崎哲 |
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01物干し竿 岩波三樹緒 |
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<短編> キャラメル・エキスパート 西牟田希
60歳の張替政雄は石段で仰向けになったまま、お迎えを待っていた。 岩絵の具を塗りこんだような青空から、亡くなった父母か祖父母が降りてきてくれるのを待った。 きっと、こう言うだろう、 ―結局、ひとに飴玉くれてただけだったんだね。
「すみません、誰か、誰か」 声を出してみる。 石段沿いの食堂やアパートから誰も出てこない。 もっとも普段の胴間声が、かすれた小さな声にしかならなかったからかもしれない。あるいはもう現世からずれた位相の中間的な世界にいるのかもしれない。 猫が倒れている政雄におどろき、飛びのいて逃げていった。石段の端を蟻が5匹一組で自分たちより大きい青虫の子供をかついでのぼっていくのをみたとき、どうもお迎えは来ないのかもしれない、とおもった。 政雄は感覚の無い左の尻の下から携帯を出し、救急車を呼んだ。
政雄が珈琲豆のチェーン店の手伝いをするのは、友人の斉藤に頼まれたからだった。 エンジニアを勤め上げた会社を定年退職して、植木をやったり、絵画を習おうと思っていると、人手がつながるまで、少し手伝って欲しい、と斉藤から電話があった。千駄木から始めた珈琲豆屋はここ数年で12店舗になっていた。 政雄が頼まれた湯島店は、湯島天神の男坂と呼ばれる石段の上り口にあった。間口が狭いながらもお客が途切れない。注文があってその場で焙煎する味の良さと、手ごろな値段が人気らしい。 仕事は、賞味期限の短い生豆の在庫管理と配送注文の荷造り、店頭のお客さんの注文で焙煎、または小さなベンチ二つの喫茶コーナーのために珈琲を淹れる。150円できちんとした珈琲が飲めるとのことで寄ってくれるお客さんもあった。味見すると大抵買って行ってくれる。政雄の、古きよき硬派の俳優めいた容貌、がっちりした体型、胴間声に江戸言葉に、ひっそりと珈琲を買いに来た客は驚くが、翌月、翌々月と豆が切れて買いに来るたびに政雄と話をするのを楽しみになっている風でもあった。 夕方になり、散歩する犬が店先をのぞき、通り過ぎていった。 「すいません」 「はい、いらっしゃい」 学生時代に父の手伝いで競馬場の食堂のアルバイトをしたことがあり、「いらっしゃい」は四十年ぶりになる。最初は言いづらかったが、一声かけないと始まらないことに気づき、胴間声をはりあげるようになった。 「ここ…どうやって買うんですか?」 細い声がして、髪の長い女が店頭に立っていた。初めての客が面食らうのも無理は無い。豆の袋が口をあけて床に直置きでずらりと並び、グラムの値段や味の特徴を書いたPOPが挿してある。好きなブレンドや豆の種類を選んでもらい、20分かけて焙煎し、豆か、そのあと機械でひいて袋詰めして手渡しになる。予約しておけば指定時間までに焙煎しておく旨を伝える。 二十代後半とも三十代にさしかかったかとも見える女はうなずきながら、豆の袋に挿したひとつひとつのPOPを読んでいる。政雄は説明をひとくぎりさせ、ドリップを始めた。 「よかったら」 政雄はソーサーに乗せてカップを差し出した。 「あ、あ、おいくらですか?」 「試飲なのでどうぞ」 「あ、ありがとうございます。」 女はすばやく手を出してソーサーを受け取った。 店内を照らす裸電球がまたたいた。政雄は手を伸ばして電球の具合をたしかめた。根元ではなく電球にさわってしまうが、熱くない。 間口が狭いのと、湯島天神の影にはいるからか、昼間でも薄暗い店内を、裸電球があたたかく照らしている。昨日取り替えたばかりなのに、接触が悪いのだろうか。 「買わないのに、すみません」 「いえいえ、どうぞごゆっくり」 二つほど商品を見、「買わないのにすいません」と言った。 「いえ」 女は髪をゆすって「買わないのに、すいません」と政雄を睨んだ。 女の顔を見ようとすると、焦点があいまいになる。なぜか顔の中央に洞(うろ)があいているようだった。目と目が離れているようにも、つきすぎているようにも見えた。女に声をかけず、見て回るのにまかせる。といっても狭い店内なので視界に入ってしまう。 政雄は老眼鏡を出し、手元の発注端末のディスプレイを覗き込んだ。小さい文字と似たような単語を追っていたら、いつのまに時間が立っていた。女は居なくなっており、カウンターに空の珈琲カップがあった。
翌週、政雄が店先で、隣の畳屋の親父と将棋について話し込んでいると、先日の女がやってきた。ほかの客がいないのを確かめて試飲用の珈琲を入れる。本当は試飲は限られた数だった。でないと有料の珈琲が意味がなくなってしまう。 女に差し出すと、すばやく両手で受け取って口をつけた。喫茶テーブルのPOP『ホット珈琲150円』を見て、「これ、本当は150円なんですね」とつぶやいた。 「あ、それは試飲ですから。かなり苦いやつなんだけどね、どうぞどうぞ」 「お金も払ってないのにすみません」 「いえいえ」 「ずうずうしくも、いつも、無料(ただ)でいただいてすみません」 裸電球がゆっくりと点滅した。 「あ、また外れたかな」 「何も買わないと思わなかったでしょう」 「…お客さんは、珈琲はあっさりと濃いのとどちらがお好みですか?」 「私の…わがまま、で選んでくれるんですね」 「…お好みのブレンドをお作りできますよ」 「では、この湯島ブレンドで」 「また、ついでのときでよろしいですよ、湯島ブレンド飲んでみます?」 「またこいつ無料で飲むって思ったでしょう」 「いえ、全部試飲できますよ」 政雄は、売り物の珈琲クッキーを皿に乗せて出した。 女は皿の上に顔を伏せ、誰かと奪い合うように両手で食べた。 「全部食べると思わなかったでしょう」 「いえ、いえ、試食ですよ」 裸電球が途切れた。店内がふっと暗くなった。 「あ、すみません。」政雄は電球の根元をいじった。 電球がつくと、女はいなくなっていた。
女はたびたび来るようになった。 一番小さい100グラムの焙煎を買うときもあったが、ほとんどは試飲して「買わなくてすみません」を繰り返した。 あるとき女がつぶやいた。 「友達の…話なんですけど」 「おお。ええ」 「友達の…お兄さんが、働かなくて、家にいて。お酒を飲んで家の中のものを壊したりするんです」 「おお」 「家族に…暴力を」 「…俺だったら、働いて家を出るね、それで、外からできることをする」 「その人、高校のときは家に帰らなかったそうですよ」 「今は?」 「え?」 「今は、その人働いているの?」 「え、ええ。シャカイジンです」 「そんなら家を出るな俺だったら。俺のおやじもよ、おやじ、赤坂で料亭やっててよ、もう店閉めて土地をビルに貸しているんだけどよ、仕事やめたあと、酒が止まらなくなって。アルコール依存の会とか入ったり、酒飲んだらショックがおきる薬とか医者にもらったんだけどよ、」 ぱりん、と音がして、闇になった。 「あ、おい、大丈夫かよ? 今、電気つけるから」 電球をさわろうとすると、手先に痛みがはしった。手探りでカウンター下の懐中電灯をつける。女はいなくなっていた。怪我をしていないか、呼びかけたり店の周囲をみまわったが姿がなかった。
これ、と女はコージーコーナーの箱を置いた。 「お客さん、この間怪我しませんでした?」 「この前、怒らせてすみません」 「いえ、そういうんじゃなくて。電球が割れて、怪我したんじゃないかと、」 「この前、怒らせちゃったから」指先で箱を押しやった。 「怒らせた?」 「この間、怒っていたから。」 「俺が? ですか?」 「ええ。家を、」下から掬うように政雄を睨みすえる。 「出ろ、とか」 「…俺、怒ったわけじゃなくてよ、俺のオヤジの」 「結局、自分の話がしたいだけじゃない」 「俺の話は」 女はせせら哂った。政雄にむけたようでも、別の誰かにむけたようでもあった。 政雄はだまった。箱に目を落としているのを見、女は言った。 「たいしたものでなくてすみません。」 政雄はかくれてため息をついた。 女は店内を見回した。 「そういえば、私、ここに何度も来ているけど、たまにしか珈琲豆買っていませんね、いつも買わないのに来てすみません。」 政雄は女が何をしたいのかわからなかった。斉藤の隠し子が俺と斉藤を間違えているのだろうか。あるいは知らなかった俺の子? 息子の愛人? この女が向けてくるものの理由が思い当たらない。 あるいは受験を苦に自殺した霊とか。受験生にしては年がいってるなぁ。霊って飲んだり食ったりするんだっけか。箱の中身は泥団子とか。それにしてもちいさな珈琲豆屋に現れる理由がわからない。 政雄が黙っていると、 「すいませんて言うなら、来なければいい、と思ったでしょう。」と口をゆがめた。 裸電球がゆっくりと暗くなる。 「俺ぁね、来てもらってありがてぇと思っているよ」 ありがてぇ、のところで女は食い入るように顔をちかづけてきた。 「だけどよ、俺はあたまわりぃからよ、教えてくんねぇか」 あたまわりぃ、のところで女は鼻で嗤った。 「俺か、この店をやっている斉藤になんかよぅ、言いてぇことがあるのか。この前からお客さんが言っていることがわかんねぇよ」 「言いたいことがわからなくてすみません」 「えぇ? わからないのは俺だろ?」 「わかってもらおうっていうのは、私のわがままですから」 「だからよ、何が言いたいのかって」 「自分が、悪いんですから」 虫が口に入ったふうに吐き出した。 「えぇ? ますますわからねぇよ。なんで俺が尋ねているのに、『自分が悪い』になるの? 誰に、何を言っているのか、俺、全然わからねぇよ」 女は、何でそんなこともわからないのか、と目を剥いた。 顔は政雄に向けて、目は政雄を通して別の何かをみているように見えた。 店の電話が鳴った。 「ちょっと、待ってて。うまいものでも食いながら話そう」 うまいもの、のところで女はにぃっと口を横にひいた。 電話は斉藤からだった。仕入れの変更日と内容を確認する。電話を切って売り場に戻ると、女はいなかった。
月曜の社員食堂は蒸れた飯と揚げ物の匂いがする。 春奈はいつもと同じく炭水化物単品、ピラフ、パスタ、麺類のいずれかをとる。加絵は、焼き魚を主に和食だ。春奈にぶつかりそうになった男性社員が驚いてよけると、春奈はじいと男性社員の背中を見据えた。加絵は、5台あるお茶の給湯器が、ほかが空いていても春奈のあとについてお茶をとる。前かがみで首をちぢめて歩く短躯の春奈のあとに、身長のある棒立ちの加絵がつづき、空いている2席に割り込んだ。 加絵はぼそぼそと焼き魚に語り始めた。 「最近、珈琲豆屋に買いに行っているんですけど…、そのお店の人が、やたら話しかけてきて…」 「えぇ?」 大声に春奈のうしろの女性社員が振り向いた。女性社員が会話に戻っていったあと、春奈はわきの下をくぐらすように視線をはりつけている。 「いえ、何かしてきたというわけではないんですけど」 春奈はスプーンを握り締める。加絵は春奈の指先の色が変わってくるのを横目で見る。 「やたら、きいてくるんです、私のこと」 「何それ」 「なにか、言いたいことはあるのかとか、俺に興味があるのかとか」 春奈は猪首のあごをいっそうひき、肩をいからせた。 「あたしさ、そのオヤジに言ってやるよ、ちょっかい出すな、おまえがさみしいからだろって」 ピラフをかきこみ、口から出したスプーンをふりまわした。ご飯粒がとんだ隣の男性社員がぎょっとしてトレイをずらした。 「でも…」 「きっとさ、さみしいんだよ。ちっさい珈琲屋に夢持って脱サラ、みたいな。自分の居場所がなくて、それで加絵さんみたいなまじめなおとなしい人をつかまえて説教するの。それが、レジオンデトー、レゾン、なんだっけ、とにかく病気」 「そんな…」 「大丈夫、大丈夫だよ、私がまもってあげるって」 つぶれた笑い声に、何人かが振り返り、すぐ自分たちの会話にもどっていった。 春奈は自分を見たとおぼしき何人かを順番にねめつけている。
政雄が新しい生豆を搬入し、焙煎にかけ、店じまいのため外を掃除して畳屋のおやじと話をし、店にもどると、店先で何か音がした。 振り返ると、昔息子とみたウルトラマンにでてきた『ジャミラ』そっくりの影があった。 ずんぐりとした頭のあたりから、じっとこちらを見据えている。 「いらっしゃい」 政雄は大きい声を出した。 ジャミラはびくり、とふるわせ、「お…」といった音を地面に落とした。 「オールドブレンドですか?」 ジャミラはおおきく痙攣し、そのまま走り去った。
火曜の社員食堂は、薬っぽいしょうゆの匂いがする。 「あたしさ、昨日、言ってやった。言ってやったから」 春奈は高菜チャーハンをスプーンで口にすくっては入れすくっては入れた。ご飯粒が口元からこぼれた。噛まずにのみこむ。 「え?」 「あたしさ、その珈琲屋に行って、おまえ、いいかげんにしろって言ったから。あたし、言ったから」 「それで…、何て?」 加絵は下から掬うように見た。 「そしたら、そうしたら…うつむいて、黙ってたよ」 「…そう、ですか」 「それで、それで…きっとさ、病気なんだよ、依存とか、キョーイゾンとか…とにかく、人に必要とされたい、病気」 「ああ。そういうのって、ありますよね」 春奈は皿にちらばった高菜をかきあつめる。
政雄は湯島天神の境内へつづく男坂を登り始めた。 まばらな高さの石段を登る。手すりにつかまり、60歳を越して重く動きにくくなった体を持ち上げる。 胸のまんなかがすぼんだような痛みがある。 いちだん、いちだん、重い靴、重い足を石段に乗せ、からだを持ち上げる。
不意につまさきがつっかかり、左ひざを強く打ち付けて倒れた。 倒れた拍子に首がヘンな角度で打ち据えられる。政雄はからだを丸めたまま、仰向けにころがった。肩甲骨と石段がぶつかりあった。息がつまって声もでない。声の出ないのどから叫びたかった。自分の荒い息と、左ひざで脈打つ血の音がする。 岩絵の具をにかわで溶かしたような青空がひろがっている。 大学を出てから、37年、通信エンジニアとして働いた。家も建てた。ローンも終わった。二人の息子も結婚した。親も看取った。かあちゃんも働かせずにまずまずの暮らしをできた。酒を飲める友達もいるし、好きな絵も習いたいと思って画材も買った。 定年退職して珈琲屋の手伝いをし、豆の種類や焙煎のこつ、おいしい淹れ方も覚えた。 ―さびしい日に階段を転げて死体になる。 さびしい? 政雄はすぼまってくる呼吸の中で一生懸命考えた。
余計なことだったのか。 役に立った自分を見たかったのか。 必要とされたかったのか。 俺が、さびしかったのか。
どれも、そうともいえるし、そうでないとも言えた。 ただ、政雄がこれまでしてこなかったことと同じく、途中で話を切り替えたり、聞かなかったことにしたり、どうでもいいと思ったりはできないのだった。 上司、部下、息子たち、友達、両親、妹、かあちゃん。上司に煙たがれても、部下のために、 仕事のために、ひととぶちあたってきたし、それしかできなかった。 女の最後の表情が、政雄のからだを地面にピンうちしていた。 手足が動かない。 自分が、相手を良くして、自分が楽をしたかったのか。 ―人を良くしたいという欲― 空は、承認の流れ星を閃かすこともなく、ただ青いだけだった。
金曜の社員食堂はいんちきくさい山椒の匂いがする。うなぎDAYらしかった。 春奈はカレーをとり、加絵は山菜そばといなり寿司をとった。同じ給湯器からお茶をとり、席に着く。 「昨日さ、あたし、あの珈琲屋に行ったんだ」 春奈はカレーにソースをかけ、かきまぜた。 「え? あぁ」 春奈は声をおおきくした。 「あの、珈琲屋だよ、おかしいオヤジのいる。あたしが言ってやった、オヤジ」 「あ、ええ、ええ。」 「あの店に言ったらね、女の人に替わってて。湯島天神の階段で骨折ったらしいよ。」 「へえ。死んだんですか?」 「ううん、骨折して、自分で救急車を呼んだらしいよ。天罰だよ、きっと。加絵さんにちょっかい出したさ」 「きっとそうですね、バチってありますよね。」 「そうだよッ。バチっていうか、私が言ってやったんだけどね」 加絵はおおきくうなづいてみせた。 春奈はみそしるを勢い良くすすって言った。 「大丈夫ッ。私が、まもって、あげるから」 春奈がふりあげたひじがあたった男性社員が身を引くと、春奈は男を睨みすえた。
政雄が入院した整形外科病棟は活気がある。借りた車椅子を力いっぱい漕いだり、松葉杖をついて廊下を何往復もしている。小学生くらいの男の子が歩行器を転がしながら廊下を往復している。動いたほうが回復に早いらしく、政雄も左足の固定がはずれたら歩き回るよう、看護士に通告されていた。 湯島天神の石段で転倒し、立とうとしたらまた転倒し、ふつうに左足が動かないことに気づいた。携帯で自宅や救急車に電話し、女坂のほうへまわりこんでしまった救急車を誘導するために足をひきずって移動したせいで、単純に折れていた骨が複雑に折れてしまったらしい。 気が遠くなるほどの痛みというのはなく、普通に救急隊員と話しながら到着し、手術となった。 全身麻酔から覚めると、ロボットのようなギプスがかぶせられ、左足がつりあげられていた。着替え一式を持って妻の織(おり)江(え)が来た。医者から相談室で一通り説明を受け、病室で政雄から一部始終を聞くと、相部屋患者に申し訳ないくらいに大声で笑った。政雄のテーブル周りや枕元のボードにあっというまに日用品をひろげ、果物やお茶のペットボトルを片手に相部屋患者を回って世間話をしている。笑いながら患者さんの肩をばしんと叩いた。ななめ向かいの木村さんは、転んで肩の骨を骨折し、社交ダンスのようなギブスが昨日はずれたばかりだった。 織江はデパートの大きい紙袋を持ってナースステーションに行ってしまった。 ベッドのわきにある小物を入れるサイドボードに、ティッシュ、耳掻き、つめきり、タバコの買い置き、ライター、ガム、龍角散、アイマスク、買いだめして読んでいなかった小説がきちんと並べられ、政雄の寝室の枕元が出現していた。 冷蔵庫にはペットボトルと水筒があった。政雄が好きな銘柄のお茶と、織江が『健康のために』とやたらに飲ませるお茶だろう。フルーツの寒天ゼリーもタッパーにつめられていた。「ひとくち」とか「小分け」という概念のない織江が作った証拠に、寒天部分から輪切りの半分のままのパイナップルが飛び出している。 織江が病室に戻ってきた。織江は、母の日に、長男の嫁は花、長男の嫁は、次男にマンゴーとおこづかいを言付けてきた、5000円も花もらうより、現金で、好きなものを買えたほうがいいわ、言わないけど、次男の嫁はいいとこ突いてくるわ、とか、スポーツクラブのアクアビクスを始めたらおなかがしまってきた、退院したらお父さんもやんな、結構男の人もがんばってるわよ、とか、柴犬の豆(まめ)花(か)があたしの植えたばっかりのベゴニアを掘り返してあった、きっと手伝っているつもりだ、とか、庭に小学生たちが来てとかげを捕らせてください、とか言って、もっと暑くならないと出ないよ、暑くなったらおいで、って言ったら、『来週ですか』とか言って、暑いっていうのがわかんないみたいでさ、『どれくらいのいますか』って聞くから、去年おばちゃんこんなちいちゃいの出たからふみつぶしてやった、って言ったらうつむいて黙ったの、でも豆花がまちがって食べても困るしさ、とか、ちゃんと『おじゃまします』とか言ったり、家の中通したら『いいんですか?』とか『ありがとうございました』とか、小学生でも、ちゃんとひととの気持ちと気持ちの会話ができるのよ、親御さんの顔が浮かぶわ、もう親で決まっちゃってんのよね、そうじゃないのは、そのまま四十五十六十になるのよ、ありがとうとかすいませんとか、言わなくていいっていうかさ、もう自分が正しいから相手なんか知ったこっちゃないっていうかさ、あ、うちの息子たちはどう見られてたのかしら、とか、そのうち面会終了時間のアナウンスが流れると、好きなお笑いの番組スペシャルだッといって明日来るねぇぇ、と言い、ドアのところで同室の人たちに挨拶し、帰っていった。 下町育ちの政雄以上に織江はよくしゃべり、よく笑い、ついでに人の肩や背中をばんばん叩く。普段なら三分の一は政雄がしゃべり返すが、強い痛み止めのせいか、聞くのが精一杯だった。
歩けるようになると、用事を作って歩き回る。首から下げた、ちいさなリモコン大の痛み止めが頼りだ。ボタンを押すと、背中に刺さったままのチューブを通って痛み止めが送り込まれる。ベッドで体の向きを変え、松葉杖を持って歩き出すまで20分くらいかかっている。明日はもっと早く歩き出せるよう、段取りを考えながら、喫煙室に歩き出す。 病棟は、ロビーを中央に放射状に3病棟がつながっている。政雄のいる整形外科、内科、産 婦人科だ。テレビやソファのあるロビー脇に割りと大きい喫煙室がある。ガラス張りで、中庭にも出ることができた。中二階に中庭が広がり、灰皿スタンドのある喫煙ベンチがある。また、さまざまな植木をめぐるように石畳の小道がつづいている。見舞い客と患者が歩いたり座ったりして日差を受けている。結構な走行距離がある。廊下を往復するより楽しいかもしれない。 喫煙ルームに戻ると、煙で充満しながらも、それぞれさかんに話している。何故入院したか、が自己紹介で、あとは病院生活のちいさな不満を笑い話にアレンジして腕前を披露しているようだ。東海道線のラッシュで押されて気がついたら腕の骨が折れていた政雄と同年代の男が顔の表情をつけて当時を再演してみせる。どっと喫煙室から沸いた笑い声に、外を歩いていた看護士がちらりと目を向けた。 笑った後の余韻を味わっていると、政雄の紹介の番になった。湯島天神の石段で転んだ顛末を江戸前に話してみせるとどっとうけた。 男坂にある石段で転倒したのだが、救急車を呼んだら女坂のほうへ行ってしまい、目印に何か言おうと思ってもよう、『湯島天神の裏の石段』っか言葉がでなくてよぅ、ピザ屋の出前じゃねぇんだからよぅ、とだみ声を張り上げるとまたどっとうけた。 眼鏡をかけた40代半ばくらいの男が湯島天神なら息子の受験のときに家族で行った、帰りに男坂の石段を降りたけど、あれは急で縁もぼろくなっていて、すべって転びそうになった、というと、俺もかあちゃんに脅されて、有給とって娘の受験のときに行った、落ちたけど、絵馬を『そんなのいらねぇよ』って言ったせいかな、と、どっと受けた。そういえば、と点滴スタンドをがたがたいわせて笑っていた丸顔の男がつづけた。 男坂の下にうまい珈琲豆屋があって、かみさんがおいしいって聞いたってんで買ったら、喫茶コーナーみたいのがあって珈琲飲んだらうまかった、豆はかみさんと娘が飲んでしまったがまたあれ飲みたいなぁ、と言った。 政雄は、友人がやっている店で、定年退職した後俺そこでバイトしてたんだよ、というと、口々にうらやましいと言った。珈琲が好きでそれに囲まれて過ごしたい、というのと、早く会社をやめてゆっくりしたい、とか、家にいると濡れ落ち葉とか言われるから何か俺もバイトしようかなぁ、と、定年後の生活の話になった。政雄は、現役のときは早くゆっくりしてぇと思ったけど、ゆっくりしても何するってんでもなく、辞めたら好きなことして、絵でも習おうと思ってたんだけど、どこ行きゃいいのかわかんねぇしよう、というと、眼鏡の男が、神保町の老舗の画材店でアートスクールをやっていて、画材も安く買えるし、内装(なか)がしゃれてて、面白い先生が見てくれて楽しいって聞いた、といった。ああ、あそこなら湯島からでも歩けるよな、と誰かが保証した。政雄が行ってみることを約束し、今度珈琲のみに寄ってよ、というとまた盛り上がった。珈琲から酒を飲みに行く話になっている。
会社の同僚、途中から上司になった二人が見舞いに尋ねてきた。 中島常夫は脳梗塞で倒れつつもプロジェクトをきりまわし、政雄より半年先に定年を迎えた。退院して職場復帰の日に徹夜で麻雀し、また倒れて救急車を呼ばれた。そして『徹夜はやばいな』とすぐに復帰した。直営で一万五千人いる会社の上から数えたほうが早い立場でありながら、子供がかけまわるようなはやさと軽さで、あちこちのプロジェクトの問題の火を消して回った。政雄のように正面からぶっつかるのではなく、いつのまにか、麻雀や酒にからめて飄々とコトを収めてしまうのだった。 渡邊章は3年後輩で現役だ。 章が新入社員研修のときにコーディングを教えてやった茫洋とした青年が、蓬髪の事業部長になり、百億を超えるプロジェクトを動かしている。あらゆるギャンブルに精通しているが、特に競馬を好み、自分の競走馬を持っている。競馬の合間に会社に来ているようなふうでありながら、ものの判断が大胆で速い。つまらなそうに適当な時間に現れ、会議は大抵寝ている割に、大きい問題がおきると四手先まで決めてきてしまう。ふたりがあまりに麻雀が強すぎて負けカモになるのが悔しく、麻雀にはあまり参加しなかったが、人生の大半を共に過ごした二人である。仕事、麻雀、自分の見直し飲み屋と麻雀屋はかなり儲けさせてやったと思う。 す、と中島が見舞いの熨斗袋を二つすべらせた。 「ナカちゃん、いいよう、来てもらったのによう」 「いいよ、俺ん時もハリさん来てもらったしよう」 「ナベちゃんもよ、水くせえよ」 渡邊はふ、と息をもらして答えた。 在職中の『昼飯に行くか』といった暗黙の合図のように、喫煙ルームへ向かう。長身の二人が早足で歩くので、政雄は急いで松葉杖を繰り出した。ガラス戸を抜け中庭に出た。梅雨前にしては日差が強い。皮膚がちりつく。中庭の一角に、木綿のパラソルがあるテーブル群があった。木目のしゃれたテーブルといすがある。腰掛けると、きっちりとお仕着せを来たウェイトレスがやってきて、灰皿と生ビール二つ、アイス珈琲を置いた。病院の一番下の階にテナントで入っている、ホテルの喫茶ルームに頼んだのだろう。政雄があ、という顔をすると、中島が軽く手をあげた。 「ハリさん痛み止め入れてるから珈琲な、じゃいかせていただきます。」 ジョッキとアイス珈琲のグラスががちんとぶつかった。政雄は伝票が来たらとっさに掴もうと思うが、中島のことだからきっと支払いをすませてしまっていることだろう。 中島は空気を吸うように自然にビールを飲み、くつろいだ顔をしている。相手のためにそう見せているだけで、頭の中は高速回転をして『全体』や『相手』の数手先を段度っているのだ。在職中はうらやましくもあり、『馬鹿がつく真面目』『情のある(それで損する)』自分の性向がうとましくもあったが、飄々と接する中島に気持ちを自由にさせてもらったような気がする。 渡邊はいつの間にジョッキを飲み干し、茫とした顔でタバコを吸っている。 たまに競走馬の様子を話すことはあるが、自分自身のことや女の話もしない。一切が謎といってもいいくらいだが、人生の大半を一緒に過ごしたことになる。個人的なことは知らないまでも、仕事の手は横でさんざん見てきた。麻雀と同じで、仕事も打つ手が度肝をぬかれるのだった。 「それで、ハリさんよう、何であんなところで転んだの?」 政雄は、つま先が思ったより上がらなかった、俺も年を感じた、という、喫煙室で何回も繰り返してきた話とは別の言葉が滑り出た。 「俺また余計なことしちまってよう、珈琲屋に来たお客さんなんだけどよう」 政雄は、『身の上』を語る女性客の相談に乗り、自分なりの考えを述べたところ、憎憎しい顔をして去っていった、何が悪かったのだか考えているうちに石段で転んで足を折った、なにがなんだか分からなくて、情けなくて、そのときこのまま死ぬんだと思ったところまで、自分の口をとめられなかった。 中島と渡邊は黙って聞いていた。タバコの灰が長くなって落ちた。 中島はいつもより高い声で言った。 「ハリさん、やさしいからな」 渡邊がふ、と息をついた。 「客だよね?」 渡邊は、デキナイやつの部下がぎゃんぎゃん騒いだときはすぐにとりあわない。部下がデキナイを抜きに仕事を立ち上げ始めたときに抜き打ちでデキナイをとばす。あるいは大義名分を与えた江ノ島のような数人のグループを作り、干す。普通は音をあげるが、デキナイはカンジナイので、一日インターネットをして過ごしたりして月に40万ちかく取る。 実務ラインでデキナイが上司でなくなってからは、実務的な被害が無いため、いかに役付きが一日遊んでいても文句は言われない。そんなデキナイの墓場島ができてしばらくして島ごと別の部署に飛ばしたりする。 中島は、ツカエナイかワカイのに3回くらいチャンスを与える。張替を教育係に付けたり、失敗したときの救済措置を設けておく。失敗して、なぜ失敗したかを本人に考えさせるべく何度も席を設け、考え方を教える。自分の手札も見せる。それで本人が気づかないとさっと縁を切り、もう面倒は見なかった。自分はデキルのを数人かかえており、新しいプロジェクトを立ち上げるたびに自分の傭兵を送り込んで地をならしていった。そして中島が切ったツカエナイは、その後どこへ行ってもやっぱりツカエナイのだった。 中島の最終措置として、ツカエナイ、デキナイ、ワカイが張替のもとに付けられる。 切る、とか、とばす、とか、干す、とかできない政雄は何度も飲みに連れ出し、話を聞き、自分の経験を話し、『ズレ』に気づかせようとした。大抵の場合、ツカエナイシリーズは機動隊の盾のように『自分は悪くない』という論陣を張って、突然辞めたり、病気になってから辞めたりした。部下が辞めたり病気になるたびに政雄は『自分に何ができたか、できなかったか、やらなかったか、やりすぎたか』についておもった。考えが浮かぶ前に『俺は悪くない』という罪悪感と闘わなくてはならなかった。それと向き合うことで精一杯だった。中島や渡邊のように、管理職として最も早く掴まなければならなかった『方法論』や『見切り線』までたどり着かないまま定年というタイムアップとなった。 「ハリさんよ、よく、俺ぁ鬼になるって言ってたけど、俺、ハリさんやさしいな、って思ってたよ」 「でもよぅ、俺、結局何にもならなかったよ。佐藤君とかいまだにあのまんまだろ?」 「俺は鬼にもならなかったよ。仕事は楽しく!って思ってたしな。」 中島は口の端で笑った。「あとは若い人に任す」 中島は笑っているような細い目で政雄を見た。 「ハリさんよ、これからその店やっていくの?」 「ただ俺友達に頼まれたからよ」 中島は軽く手を挙げてさえぎった。 「もうさ、上司でも部下でも無いし、教育の必要ないんだよ。俺もそんなこと言ってさんざん世話になったけどさ」 「世話なんて」 「これから好きなことをすればいいんだよ。もうさ、仕事はおわりおわりー」 中島は大きい問題にケリがついたときによくやった、手をひろげて、「オッケー」のしぐさをした。 風が冷えてきたのを機に帰っていった。帰り際、渡邊は、別会社の扱いになるけど、と新しいプロジェクトに誘って連絡先を置いていった。中島のちょっとした手のしぐさと、渡邊の軽いうなづきで、今日も麻雀大会のようだ。
織江は中島たちとの話を聞くと、そうよ、そうよ、お父さんいっつもそうなんだものと勢い込んだ。ヘンなものばっかり拾ってきちゃってさ、まるで、背中に背負ったかごに、『ろくろッ首』だの『ひとつ目小僧』だの『河童』だの拾って集めちゃってさ、それで始末に困ってさ、そんなのどうしようもないんだから、そんなのそのへんの河原に捨てて来いっていうの、拾って面倒見たって人間になれっこないっていうの。『人間になりたい』なんつッたッて、本当に人間になりたいかどうかもわかんないしさ。妖怪の格好してヨガっているだけかもしれないよ。『人間になりたい』だの『もらってない』だの言って、あんなの他人(ひと)に「それで良い」って言わせるためにタカってるだけだっていうの。 自分の罪悪感を他人の口借りてなぐさめさせたいだけだよ。 お父さん、そんなのをいちいち相手して、飴玉やってさ。余計働かなくなるよ。他人からもらう甘いものの味しめるんだから。結局、面倒見切れなくなるか、ほかの甘いものもらえるところをさがしてトンズラするんだから、そういう手合いはさ。 お父さん、それで、じゅうッッぶん、損してきたんだから、もう、自分で自分のことだけ考えてりゃいいのよ。もうさ、男はあと15年も生きられないんだからさ、もう『死ぬ時間』だよ。そんなヘンなものに時間かけてていいの? 旅行とかさ、お父さんのやりたいって言っていた絵とかさ、来年生まれる孫とかさ。 織江は万国旗のように『損としか思えない政雄の数々』を繰り出していった。 中島や渡邊の変わらない空気のような気遣いと言葉にできない空疎な胸の隙を説明したかったのだが、またそれも新たな国旗列をひきずりだしかねないので黙った。
「張替さん。」 昔、よく聞いたような声が病室の入り口でした。 ―張替さん、今日体調不良で休みます ―張替さん、営業が仕様を寄越しません ―張替さん、今朝定期落としましたので探してから行きますので遅刻します がんばって、がんばり倒れで10年勤めて辞めた女性社員の朝居(あさい)だった。 「ご無沙汰しております」 紙袋と熨斗袋をそっと出す。 「おお、いいのに、気を遣わせて」 「いえ、私の入院のときもお気遣いいただいて」 渡 邊の部下で朝居の同期から張替のことを聞き、訪ねてきたという。 年賀状にちょこちょこと近況を書くぐらいだったが、どうしているかな、とたまに思い出した。政雄の若いころに似ていて、放っておけずによく面倒を見たが、同時に40代のツカエナイを二人抱えていたため、あまり手がまわらなかったかもしれない。 体調を崩してそのまま辞めていったひとりだった。辞める旨相談があったとき、『体が一番だから』と送りだしたが、本当はもっと管理職として変わって欲しかった。変われなかったのが惜しいし、教えられなかった自分自身も悔しかった。本人が、どうしていいか分からないまま居場所が無くなっていったのかとも思った。 朝居は不思議と年をとらない容貌をしていた。 「ダンナはよ、元気?」 朝居は、ふふ、と笑って横へ目線をずらした。 「朝居さん、あれ、どうなってる?」 と聞いた後よくやる顔だった。そしてたいてい何かあるときだった。 「いえ、ご無沙汰していて難なんですけど・・・、この年になって、在職中どれだけ張替さんにお世話になっていたのかがわかって。失礼ながらお見舞いにかこつけて伺ったんです」 朝居は、自分のミスを含めて報告するとき、話し方が巻紙調になった。当時は、「あ…こりゃなんか隠そうとしているな…」と思いつつ、とぼけて会議で庇ったものだった。 朝居の自分自身を睨みつけているような鋭い眼光も健在だ。政雄がふふ、と笑うと、 「あっ…、すみません滔々と、勝手に話しまして。お加減いかがですか?」 「見た目ほど痛くねぇんだよな。これが。転んで骨折るなんてよう。そっちのほうが参った」 朝居は目をひらいて真剣に聞いている。ギプスをしげしげと見ていた。 在職中も、まるで目の前の草っぱに気をとられる子供のようで目を離せなかった。子供のまま、羽化がうまくいかずに死んだのかもしれない。
「自分でも不思議なんですけど、突然、あのときしていただいたことの有難さが分かったんです。どれだけ、面倒みていただいていたのか」 突然、というときの顔が、当時の課金データを吹っ飛ばしたときの顔だった。それに匹敵するような、何かを経験したのだろう。 「会社でお世話になっているときに、もっと早く気づいて、もっと早く変われてたら、仕事を続けられて、結果でお返しできたと思うんですけど。遅くなりましたが、本当にありがとうございます」 『データ直りました』と左の犬歯をみせながら言ったときの顔だった。 朝居が帰ったあと、紙袋をクローゼットに入れようとすると何かが動いた。デパートの包装紙の箱の底に何かがある。手を入れると、キャラメルが一箱でてきた。政雄が不定期に取り組む禁煙時に、キャラメルをよく食べていた。朝居が奮闘する端末の後ろで食べながら見ていたり、朝居が離席中に何粒か置いておいたものだった。朝居は今も『がんばって』いるのだとおもった。
政雄は、退院して、自宅付近をリハビリのため歩き回った。松葉杖が一本になり、次の検査で問題が無ければ松葉杖をはずすことになる。わきの下と手のひらの擦れともお別れになる。 どっ、と左側の杖をつき、怪我足と杖に体重をのせ、右足を前に運ぶ。右足に体重をのせて、杖を前にふりだす。杖をついて、右足を前へ。最初のうちはこわごわだった一本松葉杖も次第になれた。だいだい50%の体重をのせるように、といわれていた左足も来週から100%になる。年齢のせいかと思った骨折も、リハビリをがんばった成果が出て回復がはやかった。 リズムに乗って歩き続けると、織江や中島の言葉がめぐってきた。損したんだ、損したんだ、と言われると悔しいような、そうでもないような、不可解な気持ちになった。 自分がしてきたこと、『損』の逆を考えると、相手の話を聞かない、相手がどうなろうと気にしない、相手のために時間も金も気持ちも使わない、になる。 それが『得』とも思えなかった。自分のしたいことを、自分の時間と金を、自分だけに使う、という大変な限定条件の出口が『得』になるのだろうか。入り口と出口がよくわからないまま、ずっと気になっていた絵画教室に申し込んだ。
神保町のアートスクールで、簡単なデッサンの説明があったあと、『今日は天気がいいので外でスケッチしましょう』となった。自分の画材セットを持ち、御茶ノ水のニコライ堂あたりで解散、2時間後に明治大学前に集合となった。ニコライ堂前で、スタッフから野外用イーゼルとちいさなアルミチェアを渡された。何をどう描いていいのか分からない。が、『2時間後にできたところで講評』と言われると、点でも線でも薄墨でも塗っておきたい。 広い聖橋の隅に寄り、神田川沿いに中央線がカーブインしてくる構図にする。時間が短くとも、電車と川と線路をデッサンし、中央線のオレンジを固形水彩で薄付けすればどうにかなりそうだった。キャンバス地のチェアを広げて置く。座面のちいささが心もとなく、そうっと腰掛けたが、以外に高さを保って体重を支えてくれた。見よう見まねで調整したイーゼルの高さと合う。スケッチブックをひろげ、鉛筆ですうと斜め線を描いた。 「ここ、いいですか」 めがねをかけた髪の黒い、二十代くらいの青年が声をかけてきた。 「おお、どうぞどうぞ」 青 年は自分のイーゼルとチェアをひろげた。鉛筆と紙が激しくこすれあう音がする。 政雄は同じ構図だと差がでちゃうなぁ、と青年のスケッチブックを覗いた。 女性の顔のアップで、、髪が風に逆巻いている。 青年は政雄の視線に気づくと言った。 「これは、僕の、ユニコーンなんです」 政雄は俺の息子だったらぶっとばしてやりてえ、とおもった。
(了)
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